昔の中国の戦乱期の人々の出合い系宿縁

中国戦乱時代。秦楚漢魏呉蜀でのさまざまな出会い、数奇な出合い系宿縁を。

昔の中国の戦乱期の人々の出合い系 from 毛 沢東 part 10

2018-01-21 10:24:05 | みなさまの出合い系英訳
昔の中国の戦乱期の人々の出合い系 from 出会系子

毛 沢東 part 10

アメリカとの出合い系ご縁と日中国交締結


毛沢東(英語で Mao Zedong)が従来の世界革命路線を転向し、アメリカ合衆国と関係を改善したことは世界に大きな衝撃を与えた。

毛沢東が世界に注目された最後の事件は1972年2月18日、北京において行われたアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンとの会談である。
この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していたにもかかわらず、毛沢東はニクソンと握手し、同盟各国の頭越しに首脳会談による関係改善を成し遂げた。
The last event by which Mao Zedong was watched by the world is meeting with American president Richard M. Nixon performed in Beijing on February 18, 1972.
Though health was aggravated so that he also had trouble standing up from a seat already on this day, Mao Zedong shook hands with Nixon and accomplished relation improvement by the summit in disregard of allied each country.
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これに先立つニクソンの訪中予告は全世界の驚愕を呼び起こし、金ドル交換停止とともにニクソン・ショックとも呼ばれた。

ただし、米中が国交を樹立するのは毛沢東の死後、1979年になってからである。
But, it'll be after it'll be Mao Zedong's after death and 1979 that China and U.S. establish diplomatic relations.
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なお、この米中接近は冷戦下でソ連を牽制する必要があるアメリカと、同じく珍宝島事件(ダマンスキー島事件)などでソ連との関係が悪化していた中華人民共和国双方の思惑が一致したものであった。

「将来的に、資本主義国のアメリカは衰退し、社会主義体制によって発展するソ連こそが最大の脅威となるであろう」と毛沢東は予測していた。
Mao Zedong predicted "The United States in a capitalistic country declined in the future, and the Soviet which develops by a socialist system would be the biggest threat."
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その後、1972年にアメリカの同盟国である日本の内閣総理大臣田中角栄もニクソンのあとを追うように訪中して首脳会談を行い、国交を樹立(「正常化」)する。







毛沢東が田中と面会したのはわずかな時間であったが、毛沢東は単に訪中しただけでなく、一気に国交を結ぶまでに進めた田中の決断力を「ニクソン以上のもの」と評価していたといわれる。
It was a little time that Mao Zedong met Tanaka, but Mao Zedong just visited China and says that Tanaka's advanced decisiveness was being estimated with "something beyond Nixon" before a diplomatic relation were established quickly.
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なお中華人民共和国も中華民国も二重承認を認めないため、日本はこれまで国交を結んでいた中華民国との国交を断絶した。

昔の中国の戦乱期の人々の出合い系 from 毛 沢東 part 9 文化大革命

2018-01-03 09:50:36 | みなさまの出合い系英訳
昔の中国の戦乱期の人々の出合い系 from 出会系子

毛 沢東 part 9 文化大革命


大躍進政策の失敗は毛沢東の権威を傷つけた。
1959年4月27日、毛沢東(英語で Mao Zedong)は大躍進政策の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなった。
Mao Zedong took responsibility for a great advance policy and transferred the status of the state chief to Liu Shao-qi on April 27, 1959.
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同年7月から8月にかけて江西省廬山で開催された党中央政治局拡大会議(廬山会議)では、毛(英語で Mao )と同郷であった国防部長(大臣)の彭徳懐から大躍進政策の見直しを迫られた。
毛は彭徳懐とその支持者を「右翼日和見主義反党軍事集団」というレッテルを貼って粛清した。
廬山会議以降、毛はさらに強硬的になって大躍進政策を推進しようとしたが、飢餓が全土に拡大して餓死者がますます増加していき、ついに毛は1962年1月に開催された「七千人大会」において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれた。
この大会を機に政治の実権は劉少奇-鄧小平ラインに移ることとなり、毛沢東の権力は大きく低下した。
劉少奇や鄧小平が経済調整に乗り出し、農業集団化を見直した結果、農村の飢餓状態が改善されると、党・国家機構における毛沢東の威信はますます減退していった。
しかし、彭徳懐に代わって国防部長となった林彪によって1964年に『毛沢東語録』が出版されるなど、大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東は密かに奪権の機会をうかがっていた。
But such as "the Thoughts of Chairman Mao" was published by Lin Biao who became a national defense chief director for houtokufutokoro in 1964, godhood to Mao Zedong to the public was advanced steadily, and Mao Zedong was waiting for an opportunity of datsuken secretly.
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1965年11月、歴史学者で北京市副市長でもあった呉晗が執筆した京劇戯曲『海瑞罷官』を批判した姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」の論文が上海の新聞『文匯報(ぶんわいほう)』に掲載、これが端緒となり、1966年5月、北京大学に反革命批判の大字報(壁新聞)が貼り出され、大学などの教育機関や文化機関を中心に、党・国家機関に対する「造反」が起こった。過激派となった青少年は「紅衛兵」と称して、各地で暴動を引き起こした。
毛沢東(英語で Mao Zedong)は過激派青年たちの暴力行為に対し「造反有理(謀反には理由がある)」として積極的に支持した。
8月5日、毛は「司令部を砲撃せよ ― 私の大字報」と題する指示を『光明日報』に発表し、劉少奇打倒を示唆した。
8月18日には、自ら天安門広場に赴き、100万名の紅衛兵を謁見して彼らを煽動、「四旧打破」のスローガンを打ち立てた。
紅衛兵運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。

このようにして、劉少奇・鄧小平らを実権派(経済政策の調整・柔軟化を唱える党員は、「走資派」というレッテルを貼られた)・修正主義者(「スターリン批判」をきっかけに個人崇拝を厳しく戒め始めた当時のソ連共産党・フルシチョフ路線に倣い、毛沢東に対する個人崇拝の見直しと、代替権力として党官僚の強化を唱えた党員をこう呼称した)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動、すなわち「プロレタリア文化大革命(文革)」への流れが決定付けられた。
この頃個人崇拝の対象に祭り上げられた毛は「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられていた。
Mao flattered by a target of personal worship these days was praised with "great imaum, great leader, great command, great helmsman, cheer, cheer and cheers".
(by オススメ英語会話教材 勉強法)

文化大革命では紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)ら中央指導部、教師ら「知識人」、中国国民党と少しでも関わりのあった者まで及んだ。







彼らの家族までも紅衛兵によって徹底的に迫害された。
また、紅衛兵運動は文化財を破壊するなどの極端な「左」傾偏向主義運動に発展した。
文化大革命による犠牲者の合計数は数百万から数千万とも言われている。
この流れのなか、毛沢東の奪権目標であった劉少奇・鄧小平らの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。
これを受けて1968年、毛沢東(英語で Mao Zedong)は学生たちの農村への下放を指示した。

文化大革命が発動されて以来、毛沢東の下で実権を掌握したのは党副主席兼国防部長の林彪と毛の妻で党中央政治局委員の江青らであった。
とりわけ林彪は毛沢東の後継者とされたが、その後毛と対立し、1971年にクーデターを計画したが失敗。
林彪は亡命しようとしたが、搭乗した空軍機がモンゴル領内で墜落し、死亡した(林彪事件)。
林彪失脚後、毛は人材難から鄧小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えた。
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