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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

またもや壮大な古刹に巡り会う

2019-03-15 17:02:02 | 日記

 また、しばらく進むと壮大な山門が見えて来ました。曹洞宗寺院の龍穏寺というそうです。この龍穏寺山門(越生町指定文化財)は、天保十三年(一八四二)、当寺第五十六世道海大信が再建しました。入母屋造、銅瓦葺きで、階下には仏法を守護する四天王が、階上には観音菩薩、八大神将と十六羅漢が祀られ、格天井は花鳥風月で彩られています。大工棟梁は和田村(現越生町西和田)の石井熊蔵ら、彫刻は上州山之神村(現群馬県太田市)の岸亦八です。山号「長昌山」の扁額は、同時期に再建された表門(総門)の「龍穏寺」と同じく、名筆大乗愚禅の墨跡です。
天保十二年から十五年にかけて、龍穏寺の復興を成し遂げた道海は、大本山永平寺貫主に昇山し、弘化元年(一八四四)に示寂しました。なお、門の正面に掛かる「安禅不必須山水」「滅却心頭火自涼」の揮毫は、当寺に書院を構えていた東宮御所書道御進講、桑原翠邦(一九〇六~九五)によります。

境内には、幕末期に江戸の台場築造工事にも出仕した長沢村(現飯能市長沢)の石工「八徳の三吉」による石積みが残っていますが、左側にある苔むした石がそれです。

長昌山龍穏寺は大同二年(八〇七)の草創で、永享二年(一四三〇)に室町幕府六代将軍足利義政が関東管領上杉持朝に命じて無極慧撤を開山として復興させたと伝えられています。文明四年(一四七二)に太田道真・道灌父子が泰叟妙康を請じて中興し、江戸時代には将軍家の庇護を受けて大寺院へと発展した。慶長十七年(一六一二)には、下総総寧寺(市川市)、下野大中寺(栃木市)とともに幕府から全国の曹洞宗寺院を統括する僧禄司に任じられ、「関三刹(関三箇寺)」と呼ばれていました。龍穏寺は格式十万石で遇せられ、住職は麻布の江戸屋敷から登城していました。幾多の名僧を輩出し、十三人が当寺の住職を経て大本山永平寺の貫主に昇山しています。宝暦二年(一七五二)に伽藍が灰燼に帰した後、天保十二年から十五年(一八四一~四四)に再建されましたが、大正二年(一九一三)に再び本堂、庫裡などを焼失しました。罹災を免れた経蔵、山門、寺鎮守熊野神社は上野山之神村(現太田市)の岸亦八の彫刻で飾られ、内部には酒井抱一一門による壁画天井画が描かれるなど、贅を凝らした建造物です。

太田道灌の銅像も立っていますね。太田道灌は、永享四年(一四三二)、扇谷上杉家の家宰太田道真の嫡男として生まれました。
当時の関東は、関東管領、古河公方、堀越公方などの地方政権が分立する混乱状況にあり、道灌は二十四歳で家督を嗣ぎ、長禄元年(一四五七)に築城した江戸城、河越(川越)城、岩付(岩槻)城を拠点に、各地を転戦して勝利し、関東の安定に尽くしました。しかし、その戦功と高潔な人柄は、かえって主君上杉定正の不興を買い、文明十八年(一四八六)七月、相州糟屋(現神奈川県伊勢原市)の定正邸で謀殺されました。越生の自得軒で悲報に触れた父道真は、明応元年(一四九二)八十一歳で病没、当寺に葬られました。なお、道灌の墓塔は、終焉の地、伊勢原市の大慈寺と洞昌院、太田家の子孫が鎌倉に開基した英勝寺にもあります。

長昌山蓮華院と号し、龍穏寺は、大同2年(807)の草創と伝えられ、永享2年(1430)に室町幕府六代将軍足利義政が関東管領上杉持朝に命じて無極慧撤を開山として復興させたといいます。文明4年(1472)に太田道真・道灌父子が泰叟妙康を請じて中興、下総総寧寺(市川市)、下野大中寺(栃木市)とともに全国の曹洞宗寺院を統括する「関三刹」の一つとして武蔵・上野・紀伊・備後・美作・伊豫・土佐・阿波・讃岐・安藝・周防・長門・信濃・越後・佐渡・豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・淡路・備中等23ヶ国の曹洞宗寺院の觸頭だったといいます。天正18年には豊臣秀吉から寺領100石の朱印状を拝領、徳川家康関東入国後も慶長17年(1612)従来通り寺領100石、関三刹として遇され、住職は麻布の江戸屋敷から登城したそうです。関東百八地蔵霊場102番、武蔵越生七福神の毘沙門天です。

                                             つづく



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