善福寺から少し進むと、通り沿いにこんな神社がありました。
住宅に挟まれて苦しそうに見えますが、この神社は大和市神社といい、御神体は剥製の大鷲です。
この大鷲は、大正14年(1925)秋、練馬区関町との境にあった一本松に留っているところを、散弾銃で撃たれたといわれています。大鷲は、弾が当たって松から落ちながらも向ってきたため、さらに撃たれて仕留められたそうです。鷲は、あまりの大きさであったことから、剥製として保存されました。翌15年(1926)には、村中の人々が話し合い、この鷲を御神体とするお社を建ててまつり、大和市神社としました。地域や近郷の人々は、大和市神社の講をつくり、現在も、毎年11月の酉の日に、井草八幡宮の神主を招いて祭礼が行われ、神社の前で熊手も売られています。以前は、お社のまわりが空いていたので、祭礼時はさまざまな屋台が出て、芝居や神楽なども行なわれました。とくに、芝居小屋が建つと、どこからこんなに集まったのかと思うほどの人で賑わったそうです。昔は娯楽が少なく、近郷近在の人たちにとっては、とても大きな楽しみだったのでしょう。大和市神社のほかに、大鷲の剥製を御神体とする区内のお社として、下井草1丁目の大鷲(オオトリ)神社があります。昔はなかなかのものだったんですね。
さらに進んで行くとまた神社があり、今度はかなり大きな神社です。
やや小さいながらも格式ある本殿の造りですね。この神社は、竹下稲荷神社といい、練馬区関町南にある稲荷神社です。竹下稲荷神社は、当地周辺の竹下新田が開発(天明四年1784)された頃に創建したと推定されています。明治時代に入り、近隣にあった竹下厳島神社に合祀、さらに竹下厳島神社は天祖若宮八幡宮に合祀されましたが、平成3年に分離して竹下稲荷神社となったといいます。青梅街道との関係について説明があります。青梅街道は、新宿から青梅を経て、甲府の東で甲州街道と合する道で、慶長十一年(1606)江戸城の大改修にあたって、青梅付近より産する石灰を江戸府内に搬入するために開かれたと伝えられています。石灰搬送などの産業道路としてばかりでなく、御嶽山の参詣や、甲州裏街道として、旅人が行き交う街道でもありました。この付近は江戸時代中頃に開発され、竹下新田と呼ばれていました。稲荷神社もその頃の創建と考えられ、「新編武蔵風土記稿」には村民持と記されています。大正二年(1913)以降は旧竹下新田の鎮守となりました。とのことでした。
この稿おわり