蕎麦屋ってのは絶対に喰いっぱぐれないんですよ、天ぷらを肴にして、こう日本酒をクイっていってね、最後の締めにはそばを食べてね、そういう客が絶えないもんだからね。蕎麦屋に入るたびに大学の講義の最中に講師がこんなことを喋っていたのを思い出すのだった。講義の名前は忘れてしまったが、経営とかの授業ではなくて、文学に関する講義だった。文学と蕎麦にいまのところ何の関係も見いだせないので、これはただ単に講師が暇つぶしで話した与太話だったのだと思う。悲しいことに講義の本質がどういうところにあったか忘れてしまったのだけれども、こういう与太話がいつまでも頭の中に住みついて離れない。今日は蕎麦屋で夕ご飯を食べたのだった。
あながち、講師の与太話もまるっきりの与太話というわけではなかったのかもしれない。蕎麦屋に行くと、大抵、日本酒を飲みながらちょびちょびと天ぷらをつまんでいるじじいがいたからだ。今日もそういう客がいた。店を切り盛りしているおばさんと酔っ払って話し込んでいたので、嫌でも会話が耳に入ってきたのだった。
「俺、この連休で11万なくなっちゃったよ…」
いきなり暗い話だった。僕はその時、かつ丼を食べていた。かつ丼をかっ込みながら、なくなっちゃったという言葉から、恐らくパチンコか何かで、すってしまったのだろうということが想像された。なぜなら、例えば買い物で11万のものを買ってしまったのだとしたら、11万は確かになくなるが、その対価として11万相当のものが手に入っている筈であり、その場合、「なくなった」という表現を使うのはあまり適当ではないと思われるからである。恐らく金は対価としてのモノを得ることなく、使われてしまったのだろう。店のおばさんはこう返していた。
「あんた!土曜日は5万なくなったって言ってたじゃない。その6万はどうしたっていうのよ、なんで二日間の間に6万も、増えてるのよ」
いきなり怒鳴り出したんである。不思議と聞き入ってしまった。この11万をとかしてしまったじじいは土曜日にもこの店に来ていたらしい。しかし、この店にとってじじいは客なのであり、店の従業員に怒鳴られてるのが奇妙に思えた。普通じゃないと感じた。
「いや、それはそのあれだよ、昨日もここの店に来て、ちょっと飯食ったらそれで」
「あんたは昨日、この店に来ていないわよ、そんなことも忘れたの?大体あんたはいつも狸蕎麦とかそんなものしか頼まないじゃないの、それで6万円もいくわけがないじゃない」
「あれ?昨日来てなかったっけ?そんな昔の話は忘れちゃったね」
映画カサブランカにこんな場面があったような気がする。だが、ここはカサブランカではないし、ましてや場末のスナックでもない、商店街の中にあるうらぶれた蕎麦屋での話だ。じじいはいつもと同じ狸蕎麦を食べているのだし、僕はかつ丼を食べていた。そこにはムード、というものが決定的に欠如している。それでもこの二人の会話にはどこか引き込まれるものがあった。それは恐らく謎が多いからだった。じじいが溶かした11万がどこに消えてしまったのかは、相変わらずの謎であるし、このじじいと店のおばさんの関係も良く分からなかった。11万とかしてしまうことは長い人生を生きていれば、そういうこともあるだろう。しかし、なぜきまりが悪そうにして、「いや、それはそのあれだよ」なんていう答えにならない返事を吐き出しているのだろう。店のおばさんは喋り続けた。
「まったく、近ごろじゃあたしの周りの人間はみんなおかしくなってくよ、鈴木もこの前、病院の前を一日中うろうろしてんのよ」
もうわけが分からなくなってきてしまった。なぜ病院の前をうろうろしてしまうのだろう。じじいはそれに対してこう喋った。
「今日って何曜日だっけ?」
時間の感覚が恐ろしいまでに欠如している。そろそろかつ丼を食べ終わりそうだった。今日は月曜日で祝日だ。明日から仕事が始まるのだった。憂鬱な一週間がはじまるのだ。自分も日本酒をクイっといって、狸蕎麦をかっ込んでおけばよかったのだと思う。それで、自分で自分に問いかける。「今日って何曜日だったっけ?」。酔っ払って時間の感覚がなくなってくる。もしかしたら今日は土曜日なんじゃないか、と考えながら、日本酒を飲み続ける。もし土曜日に戻れるのなら、6万円がなくなってもいいとすら思いながら。意識は病院の前をうろうろし続けていて、その中でただ一つ明瞭に考えることができたのは蕎麦屋は決して食いっぱぐれない、ということだけだった。
あながち、講師の与太話もまるっきりの与太話というわけではなかったのかもしれない。蕎麦屋に行くと、大抵、日本酒を飲みながらちょびちょびと天ぷらをつまんでいるじじいがいたからだ。今日もそういう客がいた。店を切り盛りしているおばさんと酔っ払って話し込んでいたので、嫌でも会話が耳に入ってきたのだった。
「俺、この連休で11万なくなっちゃったよ…」
いきなり暗い話だった。僕はその時、かつ丼を食べていた。かつ丼をかっ込みながら、なくなっちゃったという言葉から、恐らくパチンコか何かで、すってしまったのだろうということが想像された。なぜなら、例えば買い物で11万のものを買ってしまったのだとしたら、11万は確かになくなるが、その対価として11万相当のものが手に入っている筈であり、その場合、「なくなった」という表現を使うのはあまり適当ではないと思われるからである。恐らく金は対価としてのモノを得ることなく、使われてしまったのだろう。店のおばさんはこう返していた。
「あんた!土曜日は5万なくなったって言ってたじゃない。その6万はどうしたっていうのよ、なんで二日間の間に6万も、増えてるのよ」
いきなり怒鳴り出したんである。不思議と聞き入ってしまった。この11万をとかしてしまったじじいは土曜日にもこの店に来ていたらしい。しかし、この店にとってじじいは客なのであり、店の従業員に怒鳴られてるのが奇妙に思えた。普通じゃないと感じた。
「いや、それはそのあれだよ、昨日もここの店に来て、ちょっと飯食ったらそれで」
「あんたは昨日、この店に来ていないわよ、そんなことも忘れたの?大体あんたはいつも狸蕎麦とかそんなものしか頼まないじゃないの、それで6万円もいくわけがないじゃない」
「あれ?昨日来てなかったっけ?そんな昔の話は忘れちゃったね」
映画カサブランカにこんな場面があったような気がする。だが、ここはカサブランカではないし、ましてや場末のスナックでもない、商店街の中にあるうらぶれた蕎麦屋での話だ。じじいはいつもと同じ狸蕎麦を食べているのだし、僕はかつ丼を食べていた。そこにはムード、というものが決定的に欠如している。それでもこの二人の会話にはどこか引き込まれるものがあった。それは恐らく謎が多いからだった。じじいが溶かした11万がどこに消えてしまったのかは、相変わらずの謎であるし、このじじいと店のおばさんの関係も良く分からなかった。11万とかしてしまうことは長い人生を生きていれば、そういうこともあるだろう。しかし、なぜきまりが悪そうにして、「いや、それはそのあれだよ」なんていう答えにならない返事を吐き出しているのだろう。店のおばさんは喋り続けた。
「まったく、近ごろじゃあたしの周りの人間はみんなおかしくなってくよ、鈴木もこの前、病院の前を一日中うろうろしてんのよ」
もうわけが分からなくなってきてしまった。なぜ病院の前をうろうろしてしまうのだろう。じじいはそれに対してこう喋った。
「今日って何曜日だっけ?」
時間の感覚が恐ろしいまでに欠如している。そろそろかつ丼を食べ終わりそうだった。今日は月曜日で祝日だ。明日から仕事が始まるのだった。憂鬱な一週間がはじまるのだ。自分も日本酒をクイっといって、狸蕎麦をかっ込んでおけばよかったのだと思う。それで、自分で自分に問いかける。「今日って何曜日だったっけ?」。酔っ払って時間の感覚がなくなってくる。もしかしたら今日は土曜日なんじゃないか、と考えながら、日本酒を飲み続ける。もし土曜日に戻れるのなら、6万円がなくなってもいいとすら思いながら。意識は病院の前をうろうろし続けていて、その中でただ一つ明瞭に考えることができたのは蕎麦屋は決して食いっぱぐれない、ということだけだった。