1本のバラの花のために、
あるいは、1本のバラの花の大切さを知ったゆえに
星の王子様は、生まれた星に帰ります。
妻が、最近、バラの花をよく庭に植えます。
庭といっても、猫の額ほどの我が家の土地では、
いたしかたなく、鉢植えなどを楽しんでいるのですが
妻がバラを鑑賞などしなければ、
一本のバラの美しさにも、
気づかなかったかもしれませぬ。
還暦間際になって、
咲いている桜の花が美しいのではなく、
咲いている桜の花を美しいと感じる心が美しいのだと、
初めて理解できました。
ひとは、そんな単純なことに気づくまでに、
人生の大半を費やするのだ。
心の花、眼ある花々、天上の花・・・・。
今年の春は
たくさん、もらいました。
しかも、ゆでてもらって。
うちは、いま、じゅうそうがないので、
お米を入れて、煮ています。
堺にいる娘にもおくりました、黒猫で。
季節の旬の野菜や根菜をいただくのは、
とても、うれしいですね。
感謝しています。
孤独ですが、たけのこをくれる
友人はいます。
ありがたい。
60歳になって、やっと他人に感謝できるようになりました。
ブログの更新がないから、死んでたと思いましたと
道端であった友人が言いました。
昔、映画がありましたが
どっこい、生きてる。
いま、人吉に向かっています。
宮原サービスエリアのPCで打っています。
60歳に近いと常に
死ぬことを考えて生きているのは、
間違いがありません。
この間、散髪に行きました。
あと、何回生きている間に
床屋にくることができるだろうか?とか考えています。
まあ、死生観が固まりつつある、というところでしょう。
また書きます。
吉本が死んだ。
たかが人の死だ。たいしたことはない。しかし、やはり、人は死ぬんだ、ということを
改めて、吉本から学んだのだった。
「廃人の歌」から始まった私の吉本遍歴も、これで終わりだ。
私自身の「固有時」も、あと10年で、火葬場で崩壊する?
親鸞・・・悪人正機説は、いかがなものであろう。
親鸞を「解釈」の世界にひきずりおろすのか、それとも、
親鸞の宗教的センスを信じて甘露の土産に涙するのか?
*悪人正機説の、根本は、親鸞がつきつけた
「あなたは、悪人ですか? 善人ですか?」という問に、
いかに応えることができるか?ということにつきる。
悪人と答えれば、偽善。善人と答えれば、これまた偽善。
往生をばトグルために、「善人」とこたえれば、これまた悪人。
往生をばトグルために「悪人」とこたえれば、これまた善人。
善悪のあわいのただ中にあって、またそのねじれををば、超越できない
ぼんのうぐそくの我らの実存を認識する力、これこそが、親鸞の浄土に向かう
易行である。
堺市に孫と、つれあいと
3人で暮らしている。
アメブロの「aーiーnote」で検索すれば
すぐ、わかります。
その娘が、わがのブログに「開花予想」と、
言葉を挿入したばかりに、アクセス数が、何百倍かになったそうで、
ブログ制作上、気をつけねばならないことが、やっとわかったらしい。
いや、最近、精神的な倦怠と怠惰がいちどきにきて、
このブログもさぼっておりました。
つまり、老後のことを考えていたわけで・・・。
知的インフラの補充を、充填する前に、
わが思想のていたらくが、判明して、下降線をたどっていました。
そして、ノートが膨らんできたので、おりにつれて、
我が未熟な思想を、ご披露したくあります。