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暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

石原氏館跡(熊谷市)

2020-02-17 20:54:16 | 城館跡探訪
先日に引き続き、本日も地元でもほとんど知られていないマイナーな館跡について書きます。

今日は、石原氏館跡です。

石原氏というのは、埼玉県大里郡石原村、つまり現在の熊谷市石原地区を根拠地にしていた中世豪族です。

『吾妻鏡』に登場し、武蔵の国の治水施設の修復工事で奉行を命じられています。

『吾妻鏡』に登場するくらいなのですから、地元でも名前が知られていていいはずなのですが、

現実には、ほぼ無名。地元の古老でも知る人は希です。

館跡についてもつまびらかではありません。ただ、秩父街道沿いの宿と呼ばれる地域が石原村の中心で

あったため、石原の宿に近接する楊井憲春の居館跡である兵部裏屋敷(しょうぶらやしき)、

城和泉守昌茂の屋敷跡である御蔵場(おくらば)が元石原氏の居館跡だったとする説もありました。

わたしも成田氏の開削した成田用水の取水口に祀った赤城神社周辺にあったのではないかと考えていたのですが

結局、有力な根拠を得られませんでした。

そこで、熊谷市の教育委員会に話を伺いに行ったところ、江南町にある埋蔵文化財センターに連絡を取っていただいて、

城和泉守昌茂の開基した東漸寺の墓地付近が館跡、同じく熊谷市内にある松巌寺付近が石原氏陣屋跡であったと

される旨のご教示をいただきました。

そこで、今回は石原氏館跡の方を見てみたいと思います。調査日は2020年01月14日です。

東漸寺は、前述の楊井憲晴春館跡の北、徒歩でも5分かからない近場にあります。

この地域は坪井と呼ばれる地域で、その名の通り湧水があり、その豊かな水を背景に古くから農業が発展した地域です。

この一帯には石原古墳群という小円墳を主体とする古墳群があることからも、豊かな生産力を誇っていたことが

わかります。

下の写真が東漸寺です。





西側に墓地があり、そこに館跡があるといいますが。



墓地に入るといきなり、大型の円墳があり、その墳丘上には歴代住職の墓があります。





おそらく、この円墳は館の一部を構成していたものと考えられます。

楊井憲春館跡も、複数の円墳を巧みに利用したものだったからです。

そう思っていると、墓地内に水路があるのを発見しました。



これは、水堀跡だと直感的に思いました。この堀跡は墓地の背後、北側に向かって伸びていました。

そこで、墓地を出て北側に回ってみました。





墓地の背後は区画整備された水田になっていますが、墓地に接する部分は不整形の水田が残存していました。

幅の広いカギ型に湾曲した水田で、これは平場の館跡でしばしば出くわす堀跡のパターンの一つです。

この南側の小高い荒れ地が館内ということになるでしょう。







では周囲を回ってみましょう。







堀跡とみられる水田や水堀は大変浅いものですが、館跡をぐるりと囲んでいるのがわかります。





墓地内にあった水路跡に続きます。



墓地回りも水路に囲まれています。


東漸寺内には入口の円墳のほかに2基、合計3基の円墳があるそうです。

墓地内について、上述の水路が残るだけですが、墓地北側にはかなり大きく館跡の遺構と思われる地形が残されており、

こういう館跡が好きな人は行って損のない館跡だと思いました。

次回は石原氏陣屋跡について書きたいと思います。

伝、市田太郎館跡(旧大里村)

2020-02-16 11:41:51 | 城館跡探訪
今年の冬は、なかなか思うような城館探訪の時間が取れませんでした。

山城探訪などの大場所にはあまりいけなかったのです。

そこで、多少視点を変えて身近な、しかし忘れられた城館跡を

いくつか見つけ出して訪問してみました。

今回は、埼玉県の旧大里村(現熊谷市)にある伝、市田太郎館跡を取り上げてみました。

調査日は2020年01月19日です。

『大里村かたり草』(1978年)という、旧大里村の口碑伝承をまとめた本があります。

同書によれば、旧大里村の荒川堤外地に「三十間」(さんじゅっけん)と呼ばれる沼地があり、

そこには、市田太郎の館跡があるという伝承が残されているのです。

まず、「三十間」という沼地ですが、それは、現在、旧大里村小泉地区にある「切れ所沼」の

堤防を挟んで反対側にあります。



上の写真は切れ所沼です。この沼は、昭和13年の堤防決壊によって荒川の濁流が掘りこんでできた

比較的新しい沼です。釣りの名場所として知られ、かつては現在よりも水深があり、

多くの湧水も見られたのですが、流れ込む水路の上流に川砂利産業が発展し、

長年、土砂が流れ込んだために、今ではかなり浅くなってしまいました。

この沼では夕刻、日が暮れかけると、大きな鯉が中央付近で大きくジャンプをしたのですが、

これが不気味で、トラウマになってしまったのか、子供のころにはしょっちゅう夢に現れたものでした。

この沼の堤防の反対側が三十間です。三十間は荒川の河川敷内を流れる河道痕の一つと思われる

細長い小川と、それに付随する湿地帯でしたが、昭和40年代初頭までに干上がってしまい、

現在は、かろうじて沼地だった時代をしのばせる低地が残されているのみです。

切れ所沼の堤防を登ると、河川敷に下りる道があります。

これは、荒川の久下渡船場に向かう「船場道」と呼ばれた道です。



この船場道を降りたすぐのところに、コンクリート製の橋が残っていますが、

この辺りから下手(東)が「三十間」です。





以前は魚もとれたそうで、雷魚が取れると寄生虫の危険を顧みず刺身で食べる人もいたそうです。

もちろん大方の人は、煮たり天婦羅にしていたそうです。

三十間の現況は下の写真のような状況です。



さて、この辺りには館の跡をしのばせるものは何もありませんが、上手(西)には小さな森があります。



ここは三十間の上流部にあたる場所です。

細い農道を歩いていきます。







この森の北側を見ると、かぎ型の堀状の構築物があります。

どうやらここが市田太郎館跡と伝承されている場所のようです。





多少ゴミが多いのが気になりますが、昨年の大雨で流れ着いたごみのようです。

正直、堤防にもゴミが多くて足場が悪かったです。





下の写真は、南側から見た館跡の写真です。





北側のカギ型の堀は三十間に流れ込む水路でもあったようです。その名残となっているのが、

館跡の東側にあるコンクリート製の橋です。





現在、市田太郎館跡といえば、対岸の熊谷市久下地区、久下橋のほぼ直下の堤内集落が

それとされ、現在も小高い集落地と周囲を囲むように水堀跡と思われる水路や水田が残されています。

『大里村かたり草』に収録された伝承は、これと真っ向から対立する異説なのかというと

必ずしもそうとはいえないようです。

かつては、この河川敷に屈戸村があったと伝えられていますが、元荒川の締め切り後、

荒川の氾濫が続いて、移村を余儀なくされたということです。

成田氏家臣団を記載した『成田分限帳』には、現在の屈戸地区に多い姓の武士数名が記載されており、

市田太郎がこの土地に館を持っていても不自然ではありません。

久下氏館跡が見る影もないほど土砂に埋もれてしまっているのに対して、

伝市田太郎館跡の現況が良く保存されているのは、久下氏館跡のある場所よりも

当地の方が、比較的高い段丘上にあり、久下氏館よりも水没の難を免れていたせいでしょう。


以上のように、今回は伝承にもとづいて、無名の館跡を訪ねてみました。

なお、ここでは、遺構と思われる構築物を可能な限り積極的に評価する方針で行っています。

遺構が無いことを証明するため、遺構を否定するために城館跡を訪ねることは非生産的ですし、

何より、城館跡訪問の妙味が失われてしまい、虚しさしか残らないですから。