山と草花と麺三昧【博多発 森の熊さん】

日々の山歩きと出会う雑草や花と庭いじりとかとかなんでもありで、とても麺好きな博多の熊さんが綴る淡々とした日記です。

【7】舞鶴公園には、こんなもんがあります 東御門跡 ∠(^(エ)^)ゞクマ

2011年01月05日 06時30分26秒 | 公園散策:福岡
第7回目の舞鶴公園にこんなもんありますは、
二の丸東御門跡です。
お花見の時期ともなると、赤坂から歩いてお花見の会場へと急ぐ人たちで賑わう場所です。


【東御門跡】
テニスコートと旧平和台球場の間にある二の丸へ入口、すぐそばには、鴻臚館跡展示場が
あります。

 
【案内板など】

福岡城は初代福岡藩主・黒田長政が、慶長6年(1601年)から7年がかりで築城しま
した。ほぼ現在の舞鶴公園にあたる内城は天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層に分かれ
潮見櫓、多聞櫓、花見櫓をはじめとする47もの櫓があったようです。
この「東御門跡」は、「三の丸」と「二の丸」をつなぐ門で、ここから二の丸、本丸、
天守台へと登っていくメインルートです。三の丸には、藩主を支える家老職の屋敷群が
あったそうです。


★お綱さんばなし★

この門は、「お綱門」とも呼ばれていて、こんな話もあるようです。

昔、この東御門はお綱門と呼ばれていました(扇坂御門をお綱門とする説もある)。
柱に触れただけで熱病に冒されたり、夜中にうなされたりするといわれたその門には、
恐ろしくも哀れな話が語り伝えられています。
 寛永の頃、福岡藩2代藩主・黒田忠之は参勤交代の帰りに大阪で遊び、采女(うねめ)
という芸者を連れ帰りました。しかし、家老にいさめられて、お側役の浅野四郎左衛門に
預けることに。
 浅野にはお綱という妻と幼い2人の子どもがいましたが、采女に心を奪われた浅野は、
妻子を顧みなくなってしまいました。簀子町の本宅に采女を住まわせ、お綱と子どもたち
を箱崎の下屋敷に別居させて、始めはしていた月々の仕送りもだんだんとしなくなりました。
 貧しい生活にやきもきしたお綱は「せめて娘の4歳のひな祭りには何か支度を」と本宅に
下男を送ります。ところが、出てきた采女にけんもほろろに追い返され、下男はお綱に
申し訳ないと思い、箱崎松原で自害しました。
 これを知って、お綱は狂乱します。2人の愛児を刺し殺し、なぎなたを携え浅野家に走り
ますが、夫は登城していて留守。逆に、屋敷にいた浪人の明石彦五郎に切りつけられてしま
いました。それでもせめて一太刀と、お綱は髪を振り乱し、血に染まった体をなぎなたで支
えながら、夫のいるお城へ。しかし、城門にたどり着くと同時に、門に手をかけたまま息絶
えたといいます。
 その門がお綱門と呼ばれ、後に、浅野の本宅跡に建てられた長宮院に移されました。
当院は福岡大空襲で消失し、その跡地は現在、家庭裁判所になっています。

在り処は ココ です。舞鶴公園の鴻臚館跡展示場付近です。

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