写真は明和2年(1765年)の出版から始まる『柳多留』の廿四篇に掲載されている初代川柳像。ちなみに現在は第十六代目・尾藤川柳さん。
〝川柳〟という名称は柄井川柳(からいせんりゅう)が宝暦7年(1757年)に前句附(まえくづけ)の点者(今でいう選者)としてスタートして「川柳評万句合」(せんりゅうまんくあわせ)と題する摺物を創刊したのに始まります。
宝暦7年は徳川300年の中ごろで、将軍九代家重・十代家治の時期です。江戸時代になって100年ほどで江戸は人口百万を越える世界一の都市になりました。それまでは経済も文化も上方(関西)の支配や影響のもとにありましたが、市民の間に江戸の郷土意識や連帯感も生れて、江戸市民独特の文学がぽつぽつあらわれて来ました。
誹諧は江戸座の作風が人気を集めて、誹諧連句の附句の秀作を集めた『誹諧武玉川』は篇を重ね出版されました。以下は初篇~四篇から。
惚たとは短い事の言にくさ
勘当は蛙に水のかけ納め
吉原にまことが有て運の尽
死に損うて辞世直す
百度参りの乾く唇
女の誉る女すくなし
〈参考文献〉『江戸川柳辞典』浜田義一郎 編 東京堂出版 昭和四八年一〇月一日四版発行