朝刊のコラムを読んでいて、ちょっと引っかかる文章に遭遇しました。
「・・・SLも頑張ったけど、整備に当った技術者の熱意があってのロングランだったに違いない。」という文中の「頑張ったけど」と「れ」抜きの文章になっていたことです。以前「ら」抜きの「食べれない」や「食べれる」等の言葉が話題になった時期がありました。最近はすっかり市民権を得た言葉となって若者から年配の人まで使用しまくりの感があります。
最近の投句の中では、十七音にまとめるために「ら」抜きはもちろん、「れ」抜きから果ては「い」抜きも目立つようになりました。
「持っている」→「持ってる」「している」→「してる」のたぐいです。誤用であったり不適切な短縮語であったりしても、日常生活の中で自然に溶け込み、誰もが軽易に使うようになれば、やがて辞書にも用法の一つとして認められ掲載されて市民権を得た言葉として、誰はばかることなく使用できる時がくるのです。ただ抜くと不自然になる例もあるようで、「抜けられない」を五音にして「抜けれない」などとし、音数を合わせたりした句は、上五の取っかかりとしても下五の座りとしても落着きがないように思えます。無理な音数合せの短縮より、字余りを自然に読ませる技のほうに軍配をあげたくなるのですが、いかかでしょう。
原理主義心の幅を狭くする・・・しろ猫
食べれないけどもやっぱり瘦せれない Y
この言葉に関しては
「抜けられない」のほうが「抜けれない」より
抜けられない感じがより強く出ていると感じました。
しかし、こういうのは
作品については
文法というより感覚で用いていいのでは
と思っています。
つまりは、その人の感覚次第で選ぶこと。
しろ猫氏の考察は
問題提起としてとても有効だと思いました。