NHK ガッテン!を見ていたら、テレビ会議システムを取り上げて、なにやら……街のアンケート回答によれば、とにかく疲れる、議論が深まらない、盛り上がらない、といった声があるので、それをを紹介して、その原因、は何かを取り上げていた。タイトルは、心をつなぐ○○パワー!ビデオ通話の極意、とあるのだが、
>ビデオ通話が盛り上がらない原因は?
減る「うなずき」と「ジェスチャー」
お悩み解決のポイントは「心からうなずく」担当を置くこと!
うなずきに秘められたパワー「リズム同調」
https://www9.nhk.or.jp/gatten/articles/20201111/index.html
それで、この公式ホームページから引用する。
カメラ目線と画面に出る情報を追う、その位置のずれだという。カメラを見つめてしゃべる人もないだろうが、パソコンカメラはディスプレー上部にあるから、ちょっと見上げて、視界にとらえる、画面に居るのは、その下方の分割画面か共有の提示となったりする、となるので、どうしてもずれる。
さて、だから疲れるのか、という点は、検証がなかった。そして頷きの効用、さらにはラッパーが出てきて、リズムをとることで刺激脳のことを展開したが、だんだんとずれていって、頷きの担当とか、サクラを用意することにもなって、まさにカメラと画面の位置のずれである話題となってしまったようである。
心をつなぐ○○パワー!ビデオ通話の極意
11月11日(水)午後7時30分
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ビデオ通話が盛り上がらない原因は?減る「うなずき」と「ジェスチャー」
ビデオ通話は、パソコンやスマートフォンを使い、離れた人達と映像や音声で簡単につながることができる便利なコミュニケーションの方法です。しかし、なぜか「議論が深まらない」「盛り上がらない」といった声があります。実はその大きな原因の一つが、ビデオ通話を行うパソコンなどの構造にありました。それは「画面」と「カメラ」が違う位置にあること。相手の姿を見ようと「画面」を見ると「カメラ」が見られず、互いの目線があわないのです。このことによって、コミュニケーションにおいて大事な2つのものが失われていることが分かりました。
1つ目は「うなずき」。相手に同意を伝えたり、会話のタイミングをはかる仕草です。目線が合わずアイコンタクトができないと、ビデオ通話ではうなずきの数が大きく減ることが実験でわかりました。2つ目は「ジェスチャー」。私たちが頭の中で言葉を探したり、流暢にしゃべることを助ける力です。これも、相手のジェスチャーが見えなかったり目線が合わなかったりすると、自然と少なくなってしまうのです。
お悩み解決のポイントは「心からうなずく」担当を置くこと!
そんなビデオ通話の弱点を解決するユニークな方法がある大学で行われていました。それは会議や通話の中に、会話をちゃんと聞いて心からうなずく、「うなずき担当」を1人でも設けること。ビデオ通話では、ついついうなずくのを忘れがちですが、1人がきちんとうなずくだけで他の人がうなずくようになったり、会議に参加している全体の人達の一体感が増すように感じられるのだそうです。実際にある会社で試してみると、社内会議の議論の質が深まったり、みんなの参加感が増したりしたという報告が!うなずき担当は、相手の話をちゃんと聞いて、心を込めてうなずくことがポイントです。
うなずきに秘められたパワー「リズム同調」
今回、うなずきが秘めるすごーい力が明らかに!会話をする二人の脳の血流量を測定する実験を、聞き手がうなずいてくれる場合とそうでない場合について行いました。すると、聞き手がうなずいてくれる場合、話し手の血流量の動きが落ち着き、聞き手の血流量とその動きが揃う「リズム同調」が見られ始めました。こうした現象は「引き込み」と呼ばれ、人が互いに共感し合っているときによく見られる現象です。聞き手がうなずいてくれない場合にはこうした現象は見られませんでした。うなずきが、話し手と聞き手の間に共通のリズムを生む「リズム同調」を引き起こし、それが会話に共感や一体感をもたらすと考えられるのです。
「お笑い第七世代」という言葉があるそうですが(よく知りません)、TVアニメーションの世界には、「宇宙戦艦ヤマト」世代と「機動戦士ガンダム」世代と「新世紀ヱヴァンゲリヲン」世代がある、そうです。
そうなると、「二十一世紀に入って二十年近く経っているのに、モニュメンタルなTVアニメーション作品が製作されていないのはなぜか?」みたいな話になってしまって、このブログの趣旨から離れてしまいますので言及はしませんが、来日して日本語を学ぼうという人の中には、それらの過去の三世代のアニメ作品に触れて日本語を学ぼうと思った方も多いのではないかと思われます。
「行脚(あんぎゃ)」「行宮(あんぐう)」「行燈(あんとん)」に比べると、「オン」と「イン」の違いはさほど気にならないのではないか、と思います。「猫」を「マオ」と読むか「ミャオ」と読むか(「苗族」は「びょうぞく」だったり「まおぞく」だったり「みゃおぞく」だったりするわけですから)と似たようなものではないかと。現在では「ひんひん」と鳴くものだとされていますが、昔は「いんいん」と表記されていたとか、鴉は「カーカー」と鳴くか「ガーガー」と鳴くか、というのは、「都市化によってハシブトガラスとハシボソガラスという種の交替が起きた、とかいった説もあります。「嗚呼」という言葉があるので、「アーアー」と鳴いたという話もありますので。
こういった雑学に関して、ちゃんと自然言語で(文章で)応対してくれる人工智能というものが、そろそろ現れてもいいんじゃないかなぁ、と、うちらは思っています。
この発音、いん は、どうしてか。
evangel
gospel
福音 フクイン
元来はギリシア語euangelionで語義は〈よい知らせ〉
うちらは、「U」に属しているようです。一般的には「単一派」で「万人救済説」に対してはちょっと否定的(「悪人正機説」ってどうなのよ、という思いは、凡人としてはあります)です。田川 建三先生は “こっち側” なのではないか、と思っています。
いわゆる「キリスト教徒」というと、日本国内では1%以下と言われていますが、「神道」と「佛教」の信徒数を足すと、日本国民の人数を軽く超えてしまいます。ピーター・フランクルさんがどこかで言っていましたが、「日本は宗教にうるさくないので住んでて楽だ」とのこと。新聞みたいなもので、朝日と毎日と産経を取ってるひともいますしね(赤旗をとってる人は必ずしも共産党員でもないし、聖教新聞の読者が学会員とは限りません。東京新聞の読者が左翼だとも限りません)。そういう意味では、「耶蘇教」を名宣るわれわれとしては、「意外にイエス先生押しのヒトって多くない?」と思います。「キリスト教」という看板が、むしろ邪魔をしているんじゃないかと思います。
「†プログラマ聖書」(https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/prog/1130152749/)というスレッドがあったりするんですが、意外に理数系のひとがイエス先生のファンだったりします。
「カトリック」というのが「普遍的な」という意味なので、行き着くところは「理性」であり「科学」です。「初めにロゴスありき」ですし。
福音書を徹底的に(理性的に)叩く(批判する)というのは、おそらくは(イエス先生のファンとしては)正しい態度なのではないかと思います。
ちなみに、筒井 康隆『ジーザス・クライスト・トリックスター』はけっこう面白い戯曲です。
三田の近所に「大門(だいもん)」という地名もあります。
> 古代の都市では、メインゲートは夜早くかんぬきを掛けて特別の許可がない限り開けられませんが、大きな門の横には旅行者の出入りのために小さな門があることを、わたしは読んだことがありました。
というのは、ごく正しい見解だと思います。
とはいえ、“べタニアのマリア” としては、イエス先生(「イエス様」とか「キリスト」とかいった呼び名自体が馴染みません)は「先生(「ラップーニ」、あるいは「ラボニ」で、許容範囲は「ラビ」あたりです)」です。だいたい、福音書の「我に触れるな。私はまだ天に召されていないのだから」って、どんだけ誤訳なんだよ。「放さんかぁ! まだ死んどらんわぁ!」とかいって蹴っ倒された本人としては「なんで、いい話になってるの?」と思います。
とはいえ、大森は「付け馬」という言葉が大森あたりの発祥だということで、
> もし夕方遅くなってメインゲートが閉じられた後に商人が到着するようなことがあると、中に入る唯一の方法は、らくだの荷物を全部降ろし、らくだの膝をつかせて文字通り這うようにして「針の穴」を抜けなければならなかったのでした。
っつーのはどうだろう、という感じがあります。街道筋には、門に接して「番屋」あるいは「番所」というものがあって、現在でも「交番(「交替番所」の略)」には「門番」(「番太郎」という言葉があります)が詰めていました。
イエス先生の発想としては、「ヘレニズム文化における、行政に対する期待」というものがあって、「社会保障」という概念があるからこそ「納税」に対して寛容だったのだと思います。「カエサル(ローマ皇帝)のものはカエサルに、神のものは紙に」とかいう話もありますし。
当時、「立法」と「司法」は神殿に集中していたわけで、ローマに支配されて「行政」はローマが担っていたわけですが、立法・司法機関である神殿が「死刑だ」と言って、行政官が「われわれは、あの人に罪を見いだせない」とか反対したら、行政としては死刑にするしかないんですよ。ソクラテスじゃないけど「死刑だっつーんだから行政に殺されても仕方がねぇや」と思ったんだろうと思います。
話しだすと長くなるので、救世 義也『ふたりで聖書を』(明窓出版、一九九八)
聖書の時代と風物
第6章 らくだと針の穴
>古代の都市では、メインゲートは夜早くかんぬきを掛けて特別の許可がない限り開けられませんが、大きな門の横には旅行者の出入りのために小さな門があることを、わたしは読んだことがありました。ダマスカスのこの古代都市で、その門が「針の穴」と呼ばれたことをわたしは聞いたのでした。わたしは確信しました。エルサレムのヨッパ門もまたこれらの小さな「針の穴」の入り口の見本です。
イエス様は、この世の富と物質的な多くの資産を握り締めていて失いたくないと思いながら、神の国に入りたいと願っていた金持ちの若い管理人に話していました。イエス様は彼に一つだけ欠けているものがあると言われました。「持っている物をみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そしてわたしに従って来なさい」(22節)。「彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持ちであったからである」(23節)。イエス様は悲しそうに付け加えられました。「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」(25節)。
イエス様は隠喩を用いて説明されたのでした。らくだは穀物の袋や、薪、炭、またいろいろな町に必要な雑貨を背負ってはいりました。もし夕方遅くなってメインゲートが閉じられた後に商人が到着するようなことがあると、中に入る唯一の方法は、らくだの荷物を全部降ろし、らくだの膝をつかせて文字通り這うようにして「針の穴」を抜けなければならなかったのでした。すべてを脱ぎ捨て膝まづかなければならなかったのでした。富んでいる人がクリスチャンになるためには、その物質的な富の中から、イエス様の足元にひれ伏す貧乏に打ちひしがれた罪人の水準にまで、謙遜にならなければならないという、明白な関係があります。金持ちの青年はそれができず、そのため入ることができなかったのでした。
またコアなところを(^_^!)。あそこにはギロチンの現物があったりするんですよね。ギロチンの刃って俎板くらいの厚みがあったりとか、現物は意外にコンパクトだったりとか、いろいろな話があります。
じつは江戸時代には死刑というのは意外に少なくて、少なくとも江戸市中では年間数名だったという話があります。大田区の近くでは「立会川」という地名もありますが、磔とか火刑とかはそれほどの例はなく、むしろ幕末に獄門晒し首が流行したというふうに認識しています。
そういう意味では、いまの東京都のほうが物騒ではあります (-_-!)。
本来、「断頭台」というのは、医師ギヨタンが「苦痛なく処刑する」ことを目的に開発されたわけですが、その反面「処刑の効率化」にもつながっちゃったので賛否あると思います。「切腹」とか「銃殺」とかを選びたい、という人もいるわけですから。そういえば今年は三島由紀夫さんの歿後半世紀なんですよね。
まぁ、いろいろあったりするわけですが。「十二使徒のボケキャラ」であるペテロさんは、「師・イエスと同じ死にかたをするのは畏れ多い」というので、自ら望んで「逆さ磔」を選んだというネタがあります。いちおう、初代法王なんだけどなぁ。「ヨナネによる福音書」では、ガリラヤ湖で、死んだはずのイエス先生を見つけて、わざわざ服を着てから湖に飛びこむというボケをかましています。
じつは、湖というのは岸から近いところに一度深いところがあり、そこより遠いところに浅いところがあったりします。いまは埋立されて農地になっていますが、かつて「日本で二番目に大きな湖」だった八郎潟でも、湖の中に「子供でも歩いて渡れるルート」があったそうです。
で、そのあたりをバシャバシャ歩いて渡っていた師匠から逃げようとして大騒ぎしたのが、やっぱりペテロさんです(経験から学んでほしいなぁ)。
「現実的にいって、それはアリなのか?」という話に遡って語義を糺さないと、「コンピュータによる日本語の解釈」というのは、空中の楼閣になってしまいます。
辞書屋であればこそ、語義批判については厳正でありたいと思っております。
そういえば、「駱駝が針の穴を通るより難しい」というのは誤訳で、「駱駝」が「綱」「縄」と発音が似ているのが原因であるそうな。「だったら、『ロープ』と訳してもいいんじゃねぇ?」と思うんですが、どうでしょう。
https://traveroom.jp/kodukapparakeizyo
歴史的著名人が眠る「小塚原刑場跡」は心霊スポット?
もう一つ。
https://ameblo.jp/kagaku43/entry-12485234084.html
語源遺産 (13)土壇場(どたんば)
明治大学博物館刑事部門で絵図を見た、とあるから、しおき場に土壇があったかどうか、その上にはいかないから、土壇場に行くかどうか、いろいろと探ってみました。正しいとする独擅場は語例がなかなか出ないから、辞書検索に。
>Q11 「独擅場」か「独壇場」か
「ドクセンジョウ」か「ドクダンジョウ」か,という読みの問題でもある。
本来「独擅場(ドクセンジョウ)」が正しく,明治時代に刊行された国語辞典には「独擅場」しか見あたらない。昭和11年初版『大辞典』(平凡社刊)には,「独擅場」の項に「独壇場はこの誤りか」とあり,昭和18年初版の『明解国語辞典』(三省堂刊)では,「ドクダンジョウ」も見出しに掲げ,「独壇場 どくせんじょうのなまり」としている。このころから,「独壇場」の用例がかなり見られるようになったのであろう。https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/chuu/kokugo/guidanceq011-00.html
弗 次は、字通です。
>縦の木二三本をつかね、縄でまきつけた形。曲直のあるものを強くたばねることをいう。
訓義
[4] 怫(ふつ)と通じ、うれえる。
[5] 仏と通じ、ほのか、にかよう。
相転移 固相・液相・気相間の相転移、氷の場合八つの固相、また平衡相転移と非平衡相転移と、などがあるんですね。コトバンクを読みました。
本意に寄り添うとは、不本意でしょうね。
台湾を臺灣と書くかどうか。
>原住民の言語の「Tayouan(ダイオワン)」(来訪者の意)という言葉の音訳
と見える解説で、漢語には由来しない、と言えば、〔和名抄〕臺 宇天奈(うてな)
とあって、その意味よりも、
>台はいま臺の常用字とするが、もとは異なる字。清の黄生の〔字詁〕に「台臺」の一条があり、台を敬称に用いるのは三台(三公)の意にとるもの
とか・・・
トピックに、考えましたよ。
うちら大森総研は、「鈴ヶ森」にも近いわけです。小塚原刑場と並んで、いちおう東京近辺(「江戸市中」ではありません)の名所ではあります。
首が落ちる穴が掘られていて、その土が盛られているのが「土壇場」です。で、後ろ手に縛られて、両足の親指を紐で結ばれて、目隠しをされて、柄杓の水で刀を濡らして(柄杓は使い捨てです。柄杓の柄で晒首を固定するの定法です)、刀が降り降ろされたと思ったら、「頸の皮一枚で繋がった」という話になるわけです。
「弗」というのは、要するに「相転移」なのだと思います。「沸騰」は、「液相である水が気相である水蒸気になる」ことであり、「佛」は「人からワンステージ上がって、別の存在になる」という意味ではないかと。
本意に寄り添うという意味では、そのあたりは尊重しておいたほうがよいのではないか、と考えます。
「当用漢字」だの「簡体字」だのといった話からは距離を置いていた臺灣(台湾)の方々とコミュニケーションを取る際には、素養として身につけておいたほうがよろしくはなかろうか、と、一般の方々には言っておきたく思います。
いろいろと書き分けるのがいいかと思います。どっちがいいのと言われたら、共通する書き方を示すのがいいでしょうし、それによって、ちがってまた元の用法がよいという意見でもいいと思います。
以下は、日国大、字通、広辞苑より。
仔細 と書けば、あるいは子細 でもいい。
子猫 よりも、仔猫 がいいなら、人偏の説明をするだろうし、独擅場 ドクセンジョウ と読めない、書けない人が増えてきて、編集にも読めないよりも、さかしらにすることがあって、手書きをしてみればいいですが、実は、擅 壇 と同じ旁――
>戦国策‐秦策・昭襄王「昔者中山之地、方五百里、趙独擅之、功成名立利附焉、天下莫能害」
>閑耳目〔1908〕〈渋川玄耳〉飲、嫖、奕「此の種の好顧客が有ればこそ浪花節の独擅場(ドクセンヂャウ)は築かれたのである」
>王城の護衛者〔1965〕〈司馬遼太郎〉「宮廷はいまや長州系公卿の独壇場になりはててしまって」
ただ、独擅場 独壇場 と、ともに検索できても、ドクセン、ドクダンの語の用法がない。趙独擅之 をもって、独擅 とすることはある。
仏 は、もと、この略体な字を用いていたらしい。
>仏 俗の佛字なり
佛 にすると、つまびらかならざるなり となる。
仏陀 は、buddhaの音訳語。
ことばはわかりやすくつかいやすいほうがよい。
教科書通りに教えるのは大切なことでもありますが、教科書で教科書を教えるのではなくて、わかりやすくなる教え方を、日々、努力していますよ、教師は――と、思います。
「本則」にどれほど強制力が(誰に対して)あるのかは知りませんが、「頷く」は、「うなづく」と書いてくれないと不快だ、という人に対して、「他者危害(忌避)原則」は適用されないんですかぁ~?!という話があります。
あたしは「小猫」は「小さい猫」なので「幼い猫」であることが多いので「仔猫」であることが多く、「親猫」の反対語としての「子猫」を「仔猫」の代用語として使うのはいかがなものか、という話があります。
だいたい、「独擅場(どくせんじょう)」を、編集者が「独壇場」と修正するのが当然、という態度はいかがなものでしょうか。「ほしいまま」は「擅」「恣」の訓である、といった話はどこかへ行ってしまったのでしょうか?
「佛教」を「仏教」と書くのが普通だというのならば、「弗素」は「ム素」だということを教師が生徒に強制したとしてもいいんですよね?!という話になります。
「じしん」か「ぢしん」かというときに、「本則に従え!!」とか強制することにためらいのない人は、さぞかし多かろうと思うのですが、そのときに、現代社会においては国文法の研究者の立場が尊重される世の中ではない、っちゅーのはどうなんでしょうか、と思います。
「項(うなじ)」を「突(つ)く」が連語になったせいで、「つ」が濁音化して「づ」になったという説があるので、本則では「ず」を認めているが、伝統的なかなづかいでは「づ」を使うことも許容している、とかいった話はしてもいいように思うんですが …… いまどきの学校では禁止されているんですか?
「教科書にそう書いてある」(というか、各教科書には教科書ごとに「こう教えなさい」というアンチョコがあるそうで、その通りに教えないと学校で睨まれる、という話を聞きました)とすれば、「教科書通りに教える」のが教師なわけですから、「国文法教育」を変えてゆこうと思ったら、「教科書から替えてゆく」というのが正しい方針だと思います。