BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

教育のゆくえ 0517

2024-05-17 | 日々新た
  



 
学校時代の思いには複雑なものがある。学校時代はわたしにとっての中等教育になる小中高の少年期から思春期の真っ只中まで、教育による人格形成に影響したことが大きい。あの吉野源三郎、君たちはどう生きるかなどには中学時代の読書で何を言っていたのかという思いでそれを実行すると、自分にとってはよどみに浮かぶうたかたにしか見えなかったのである。

小学校から高等学校までを通じて格好よくあこがれの先生はいまにして思えばちょっとちがった方たちであった。その教育の影響には何があったのだろう、このわたくしに。国語、数学、理科、英語、体育、倫理社会を教えてくれた、そして学校長となっていた方々、それぞれ学校時代に教科目以上に、どの方にも教えをうけたことに感謝がある、いまだにそうである。

が、理想教育に影があったのだろう、わたしの求めたものは実現困難なことであった。どんなことか、幸福者になる、真理先生を探す、人間愛を叫ぶ少年だったわたしは、中学生たちのリーダーになると政治を知るようになり、努力の限界を悟り始めた。能力と体力と、学力の相関には自己鍛錬の道にしか見いだせなくなった。将来に先生たちの教えはきえていたのである。

どの方も闘志だったのだろう。小5のときの友人は担任教師の街頭での活動を見ていた。中学校での憧れの教師は海軍上がりの組織に外れた生き方をしていた。生徒会指導の教師には思想の何たるかを思い知らされた。権力に立ちはだかるものとして戦うことをひそかに心中に秘めて、それがよりどころとなる正義であった。

わたしの無鉄砲に限りないエピソードが生まれていた。なかで、周りのもてはやし方には母にPTAの会長を押し付けるまでになり、かろうじて副会長どまりの活動で親不孝の限り、その始まりとなるも、親の教育には放任主義にあったから、いくつものことはその結果でもあったように、迷惑この上ない生き方である。












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