BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

言語を記号と見る

2020-09-13 | 日本語学2020

日本語教育学入門書の語彙⑳ 言語記号
2019-09-13 | 日本語語彙

概念意味と聴覚音象徴を言語記号で図式にしたのは大学講義の受講者たち、そして弟子による書き加えであったと、草稿本のイラストから説明をする、ソシュールの一般言語学講義である。言語記号のその図には内円に絵が描かれている、円形の半分上部にクリスマスツリーの原木に似た絵柄があり、その下には仕切られた半円の中にバーでくくって、/arbor/と、ラテン語音韻が書き込まれている。円の両側、左右のサイドに矢印の上向きと下向きが添えられて、その上下の半円は行き来している。これが言語記号の模式図である。しかし講義では円に半円となる仕切り線だけが板書で示されたようで、概念と音韻による語は説明のものであったらしい。所記と能記と、小林英雄訳の難しさに、それを読みこなしたのであった。。

ウイキペディアより

シニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifié)は、フェルディナン・ド・ソシュールによってはじめて定義された言語学用語。
シニフィアンは、フランス語で動詞 signifierの現在分詞形で、「意味しているもの」「表しているもの」という意味を持つ。それに対して、シニフィエは、同じ動詞の過去分詞形で、「意味されているもの」「表されているもの」という意味を持つ。日本語では、シニフィアンを「記号表現」「能記」(「能」は「能動」の意味)、シニフィエを「記号内容」「所記」などと訳すこともある(「所」は「所与」「所要」などのばあいとおなじく受身を表わす。つまり「所記」は「しるされるもの」の意味)。なお、「能記」「所記」は『一般言語学講義』の小林英夫による訳業であり、以降広く用いられたが、現在では用いられることは少ない。


能記(読み)ノウキ
デジタル大辞泉の解説
のう‐き【能記】
《〈フランス〉signifiant》ソシュールの用語。言語記号の音声面。
所記(しょき)とともに言語記号を構成する要素。シニフィアン。


精選版 日本国語大辞典の解説
しょ‐き【所記】
(signifié の訳語) 言語記号によって意味される概念をさしていう。ソシュールによって規定された用語で、音響の面を能記と称するのに対する。シニフィエ。



12 コメント

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ソシュールと共同幻想 (Mr.Moto)
2020-09-14 19:47:43
「シニフィアンとシニフィエ」に関しては、「どのように理解・把握したらいいのだろうか?」という点でずいぶん悩んだ記憶があります。
あくまで私個人の解釈ですが、生物学者の日高敏隆さんの、「それぞれの種(しゅ)は、本能に基いて世界を見ている」という意見に同意します。たとえばカイコにとっては、「桑≡食物」だということになります。
これに対してフロイト派の心理学者の岸田秀さんは、「人類は幼体成形(ネオテニー)化の結果として、『本能が壊れた状態』で生まれているので、(言語を通じて)共同幻想を貼りつけないと世界を認識できない」と主張しています。つまり「共同幻想を貼りつける」道具というのが言語なのであろうと。
吉本隆明さんの共同幻想論は、この説に対しては否定的(言語は本能的であり本来的なものである)な立場でしたが、『逃走論』の浅田彰さんは「社会的な認知の枠組は、本能に支えられていない」という立場で、現代人は「統合失調症(スキゾフレニー)的な危うさを内在している」と主張して岸田説を支持していたようです。
ソシュールは「存在論 VS 認識論」的な立場であるのに対し、共同幻想派は「人間は『まず認識ありき』という立場に立脚しないと世界観すら持ちえない」と主張しています。岸田秀さんと伊丹十三さんの対談『保育器の中の大人』は、「社会とか文明とかといった保育器の中でしか、人間というものは生存しえない」という話をしています。
このあたり、レヴィ・ストロースの『野生の思考』にも通じる部分があり、興味深く思っています。
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漢字、シーニュ (ksk_ym)
2020-09-15 11:34:53
漢字、シーニュ
漢字を記号として、言葉そのものに見ると、シニフィアンとシニフィエの結合体とわかるが、そうすると、一般講義に書かれている図解は、弟子たちが書き込んだようだけれど、シニフェに漢字が描かれますから、まさに字形は概念のようにも、絵文字だからか、しかし、音声は中国発音か、日本語音読みか、とすれば、訓読みであったりもするので、日本語読みにする/arbor/について、聴覚は違ってくる、それをいともたやすく日本語は学習してやってのけているんですね、とかんがえてみて、漢字を学ぶ日本民族は本家より絵文字を音標記号にした地域の言語よりも、人間本性と認識とを、はじめに言葉ロゴスありき、ではなくて、はじめに文字ありき、と、感性を働かせてきたはずなのだけれど、その本能は研ぎ澄まされなくなってきているのかも。(言語記号の解釈は漢字を用いる日本語で正しくするのは困難で、ウイキペディアには誤った図解を載せ、形態の国語学者にも同様、漢字の扱いをシニファンにするという誤謬がある、出なければ、新説を唱えていて、そもそもこれは講義の弟子たちの図解を出版してしまうとなった、テキストにあって、ソシュールの捉えたであろうところの概念が漢字と同列にあるという、そのシンプルな理論なので、さらにむつかしく言い出すと、漢字文字、日本言語がわからなくなる、所記が受け身で、能記がかかれたものという錯覚に、能う記すのはあくまで記号の音声であるという根本がとらえられていない)
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外延主義のテーゼ (Mr.Moto)
2020-09-15 16:17:14
ソシュール言語学における「表されるもの」は、プラトンのイデア論を批判的に継承したと云われるアリストテレスや、サルトルの実存主義に通じる議論につながるものだと考えています。
我々日本人が感得するところの漢字の「意味」は、少なくとも民族的な意味で「所与のもの(生まれたときから、あたりまえに存在したもの)」であり、ホモ・サピエンスとしての「ヒト」の本能に基いて「所与のもの」ではあると思うのですが、その間に「物理的現実と内的な実体」の間を隔てる薄皮のようなものがある、という「隔靴掻痒」な感じがあるというのが、「共同幻想」派の謂いです。
坂井秀寿『日本語の文法と論理』では、それについて「外延主義のテーゼの限界」と表現しています。「金星」というものが物理的実在(外延)としての天体を表すものだとすると、「明けの明星」は金星であり、「宵の明星」は金星なのだから、「明けの明星≡宵の明星」ということになってしまうわけです。これはどうだろうか?という話です。
そうなると、我々は「外延」として「物理的な存在である、天体としての『金星』」というものを採用するとおかしなことになってしまう、という意味で「外延主義のテーゼの限界」を感じずにはいられない、という話です。
だったら、我々は「外延と内包」の関係をどう捉えるか、という話になります。
数学者の遠山啓(とおやま・ひらく)先生は、「『集合』というのは、一つ一つの要素に区別はないはずなのに、それぞれの要素が『異なっている』ことが判るというのはどうしてだろう?」と、ときどき数学者仲間をからかっていたそうです。そう考えると、われわれ人間の中では、「違うのは判るんだけど、具体的にどこが違うのか説明できない」というもどかしさがあって、それが「外延」なのではないか、というのが、我々電算屋の理解です。
こういう存在を、Codd のデータベース理論では、「データベース・キー」と呼びます。
そこを踏まえると、「外延」というものは「内包的な意味を引っ掛けるための釘」であって、それぞれの釘は「区別はつくんだけど、どこが違うか」は説明できず、それぞれに別の内包的な意味が引っかかっていないと言語的には言明できない、という話になるのではないか、と思います。
このあたりの話は、「日本人と日本語で議論できるコンピュータ・システム」というものが開発できて、なおかつ多くの日本人がコンピュータと対話することができるようにならないと、先が見えない話だと考えています。
いまどきの AI のレベルだと、まだ「足下にも及んでいない」と、システム技術者としては思っています。
AI が人間の頭の上に来るなんて、まだまだ。シェイクスピアではありませんが、「腰のあたりでよろしくやっている」あたりまで来るのは、十年後でしょうか、百年後でしょうか。
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おおほけなし (ksk_ym)
2020-09-15 23:55:47
外延テーゼ主義、共同幻想派、漢字による隔靴掻痒はよくわかりません。わたしの理解は形式論理どまりで、内包(Intension)外延(extension)が、述語論理と自然言語で概念をとらえるキーとなったようです、人間の記憶と記録は大脳にインプットされてすべてとはならないでしょうが、ある実験を思い起こします。抽象概念はどう脳細胞のなかに潜在するかというのを調べようとしたかどうか、記憶するところにパルスを送って、つまり脳全体を染めて、ことばによる反応をCTスキャンしたら、あちこちの細胞に、脳全体に散在していたという、つまり、外延、内包の概念は記憶によることという点では人間脳のすべてである、ということらしい、言語生成の領野はわかっているし、その発生、発声による言葉というのが頭全体からでているのであるということだから、どれくらい脳を使っているのか、その可能性はどこまであるのか、テーゼの限界にも、薄皮にも、電子情報が実現する、神経パルスによる人間脳への挑戦には、違ったもののように聞こえます。おおほけないことをもうしました。記号論理学に、日本哲学的内包の捉え方に、何も変わらないじゃないかと、数式に、歌にと両極を思います。
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自然言語と論理 (Mr.Moto)
2020-09-20 09:18:56
過ごしやすい季節になりました。
興味があるという点ですと、私も
> 述語論理と自然言語
に尽きるのですが、私はシステム屋なので「実際に動くものを作る」ことを考えています。。目指すところは同じでもアプローチが違えば風景も違う、ということだと思います。
今のところの目標は坂井秀寿『日本語の文法と論理』に示されている「モンタギュー文法」なのですが、これは「自然言語(の文法と表現)と論理(表現)の対応関係」をどう捉えるか、という話です。
ごく部分的な日本語表現については古典論理と一応の対応はつくのですが、ちょっと複雑な表現になると、うまくゆかない。「フランス語と高階述語論理だったら、モンタギュー文法でけっこう説明がつくのに、日本語だとうまくゆかない」という論理学者が、その理由として「日本語は非・論理的な言語だ」というのを挙げているのも見て坂井先生が「おまえらの怠慢を日本語のせいにするな」(実際の表現はこれほど激烈ではありませんが)というのを読んで、「オレもそう思う」と思って『数と言葉の迷い道』(細井 勉)に踏みこんでしまったために、「外延主義のテーゼ批判、生物における共同幻想論、漢字にまつわる隔靴掻痒」に直面することになりました。
結論からいうと、モンタギューによる「可能世界仮説」というのは実用化の見込み薄(コンピュータ・サイエンス系の学会の自然言語処理に関する分科会で話題になっていました)で、「高階述語論理」「直観主義の論理」「様相論理」「多値論理(ファジイ論理を含む)」なんかを考えないとうまくゆかないと考えられます。
ただ、日本語は省略が多いのと語順が固定されていないのとで、構文レベルの処理ですらコンピュータでは扱いが大変で、けっきょく「人間が丹念に論理式に変換し、その変換方法を蓄積し、似たような表現についてその方法を適用したときに変なことが起きないことを確認する」という辛抱強い努力を積み重ねるしかないのが現状です。
このとき邪魔になるのが学校文法と文語文法の解離で、「『食えば』は已然形であって仮定形ではない」といった話が通じにくい。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」は、「柿を食えば(仮定)、法隆寺の鐘が鳴る(結論)」のではなく「柿を食ったら(已然)、法隆寺の鐘が鳴った(出来事)」という言明だ、という説明がなかなか理解してもらえません。
困ったことだと思います。
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柿食わば (ksk_ym)
2020-09-20 23:04:07
http://uzgranpa.web.fc2.com/webhtml2011/h-oldjapanese.htm
>「柿食えば鐘が鳴るなり」=「柿を食べた。そしたら鐘が音が聞こえてきた。」
「柿食わば」=「もし柿を食べたら」
 
柿の季節がなつかしい、本格的に10月をまつ、そのまえに、栗食えば喜ぶ顔の中津川に出かけましょう。

古典語と現代語を連続で捉えるしかないので、拡大古語・現代日本語文法をin putするしかないのでしょうか。国語文法が口語から現代語にする必要があるかどうか、文語文法から口語文法になったと学習をしてきた伝統を戦後教育で失ってしまったのは、古典語を学ばない、文学を言語教育でするという英語学者、転向した日本語教育文法の輩です。件の例については、誤用文法が多いといわれる、平安朝の擬古文法から口頭語にする表現の俳句の世界であって、「柿食へば」と訓んで「柿食はば」との違いを明確にした表現だったのだと思います。已然形を仮定形にしたのは叙法の影響でしょうから、近代日本語の解釈を文語のままにする規範を理解すればいいでしょう。日本語の変遷を知れば、もっとも機械は規則を入れてどう反応してくるか、それは拡大古語・現代日本語文法とする、あの日本国語大辞典のように、使えないか。というのは古典と現代をごちゃまぜで項目は音引きにしたので、ますます厄介な代物ですが、編集も連続する日本語をどうしようもなかったのでしょう、それだけ、現代語としてとらえる文語または古典語があるということでしょうけれど、記述文法はかんたんに規範にはなってくれないですね。モンタギュー文法には思い出があり、これは院の時代にゼミ発表をして量化の記号を用いて「は」「が」を区別したら、何をやっているんだと恩師に叱られて、散々だったという、機械言語の理解なく、そのまま文献国語の実証にとどまることにしましたが、「日本語の文法と論理」は書棚に眠ったままとなりました。日本語を論理式にするためには、いまの現代語日本文法は都合よく、くぼたくぼ節の彼らにとってですが、どんどん開きっぱなしの話者の主観を表現する形式を追及してきました、「基礎現代語日本文法」は文の骨格に、述語、補足語、修飾語、主題を据えて、この不統一な理論はどうかと、ここまで包括したかと考えてしまいます。漢文法の句単位、英語補語の拡大、係り受けのまま、そしてはなはだしき、主語抹殺に拠る文法解釈の発展を、文の要素とならべています。これでは機械に打ち込めないのではないでしょうか。機会がしゃべる日本語が、わたしたちの日本語とおなじかどうか、変異しても、翻訳文ようになっても、意味世界のことだから、通じ合えるでしょう。そこに、意志意欲、叙情、真理、そういうものがどれくらいのメモリーをもてば備わるか、はなから機械は真理を拒否するかもしれないから、遺伝子とか親子の縁とか、これもコピーになると、生まれてきたときのスペックとなるのかと、尽きませんね。
寒暖差が10℃になると、最低気温と最高気温の日較差、秋の日和が懐かしいーーどうも、COVID-19流行のせいだなぁ。
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夏目金之助さん (Maria)
2020-10-08 21:21:44
うちら日比谷高校の大先輩である夏目金之助さん(まだ、日比谷公園あたりに府立一中があったころの話なので、うちら永田町校舎出身者としては畏れ多いのですが)の、『草枕』の冒頭の諧謔性について、「理解されていないのだなぁ」という点について、しみじみ思います。
「九十九折りの坂道を登りながら、こう考えた」ですよね?
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」というのは「仮定形」ではなくて「已然形」です。ということは、意味としては
「智に働いたら角が立った。情に棹したら流された。意地を通した窮屈だだった」というようなややこしいことを考えながら山道を登っていたら、足を滑らせて落っこちて尾骶骨を強(したた)かに打った、みたいな間抜けなキャラクターを描きたかったんですよね?
現代語でいうと、「やらかしちゃった自分」がいて、結果として「現在の自分」がいて、そういう自分がどうなるんだろうか、というのが『草枕』だと思います。
つい先日、「かぜ耕士」さんという方が亡くなられたのですが、その方の『流れる』という楽曲の歌詞に「看取る者なく ただ一人 旅の終わりは野垂れ死に」という歌詞がありました。
そもそも、「漱石」という號が、ヤバいんですよ。お孫さんである(漫画家でエッセイストでもある)夏目 房之介さんが、「障子の向こうに虎が座ってるような雰囲気があった」と書いていらっしゃいました。
「仮定形」と「已然形」の差(あるいは「違い」)というのは、それくらいの差だということを、後の(「あとの」か「のちの」かは別問題にしても)世代には、ちゃんと伝えておく義務は、日本語学の研究者を自認している人間には、ありそうに思います。
> 件(くだん)の例については、誤用文法が多いといわれる、平安朝の擬古文法から口頭語にする表現の俳句の世界であって、「柿食へば」と訓んで「柿食はば」との違いを明確にした表現だったのだと思います。已然形を仮定形にしたのは叙法の影響でしょうから、近代日本語の解釈を文語のままにする規範を理解すればいいでしょう。
というのは、「解釈文法なのか、読海文法なのか」といったことを問題とする文語文法の研究者の立場からすると、「そう解釈したことのどこが悪い?!」という立場なのか、「こう解釈するのが適切なのではないか」という立場なのか、について、「私はこういう立場である」という立点を明らかにしてもらわないと、日本語処理技術者としては反論の余地がない(つーか、「どないすりゃええんか?!」みたいな話です。同じ土俵に上がってこないわけですから)ので、かれこれ四半世紀以上、迷惑(というか、被害)を被(こうむ)っています。
已然形と仮定形をごっちゃにするのは、うちら都立日比谷高校生(府立一中生)の面子(めんつ)に、わざわざ泥を塗りにきた、と解釈していいんですよね?という話です。
「とりあえず文語文法くらい勉強してこい」と言いたいところなんですが  ……
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恒常条件 (ksk_ym)
2020-10-09 10:55:01
ブログにある解説を引用します。
>已然形と仮定形をごっちゃにする
次は、わかりよいと思います。

https://lucky4155.exblog.jp/23538559/
2014年 10月 09日
已然形がいつから仮定形になったのか(前編)

https://lucky4155.exblog.jp/23585591/
2014年 10月 18日
已然形がいつから仮定形になったのか(後半)

参考文献
・『日本語表現の流れ』阪倉篤義 
・『日本語条件表現史の研究』小林賢次
・『上方・大阪語における条件表現の史的展開』矢島正浩
・『係り結びの研究』大野晋
・『ことばの科学』言語学研究会
・『日本国語大辞典』

そして仮定表現を使う時に欠かせない言葉が「もし」という言葉です。まあこれは今でも使うしイメージできると思いますが、「ひょっとして」みたいに疑いの気持ちを表して、事実を仮定・前提する時に使います。つまり、「もし明日、雨降ったらどうしよ~!」とか「もしかしたら明日SexyZoneの中島くんに会えるかな(*^^)?」みたいな感じで、あくまでもまだ現実に起こっていない「仮定条件」になる。

ですが方丈記に次のような表記があります。
「もし、せばき(狭い)地に居れば、近く炎上ある時、その炎を逃るる事なし。」
(訳:もし狭い地にいると、近所で火事になった時に炎から逃げられないっすYO)

先ほどの「もし」の特性を思い出してほしい。あくまでも現実に起こっていない「仮定条件」を表すのだから、「~だろう」とか「~かも」みたいに語尾は濁しておくのが普通のはず。ですが、この例の語尾は「なし!」って言いきってますよ。あれれ~おかしいぞ~。
まず「もし」を使ってるのに、「居れば」ってバリバリ「已然形+ば」を使ってるのがおかしい。そして「なし」って言いきってるのもおかしい。なぜこうなっているかというと、この文章は「おや?」「ひょっとして?」というタイプの「もし」ではないからです!「狭い土地にいて、近所が燃えたら逃げれん」って当たり前ですよね。これは普遍的な道理を表しているというわけです。
※他にもたくさんこういう例はあるのですが、書いていたら疲れるのでここでは割愛しておきます。

まとめると、「もし」という言葉には「もしかして」「ひょっとして」っていうタイプのほかに、「もしこのような場合には・・・」っていう用法もあるということになります。『必然性の認識』というわけです。こんな風に確信を伴う予想の意味は、もはや「仮定条件」ではなく「確定条件」。すなわち「未然形+ば」よりも「已然形+ば」の方が意味的にしっくり来るようになった、というわけでござる。

そうこうしてるうちに「已然形+ば」の語尾が「言い切り」ばかりではなく、(「もし」特有の)「推量形」に変わった。すなわち、文の意味が「確定条件」から「仮定条件」に徐々に変化していったということ。これが仮定形の成立です。難しい言葉で言うと、「恒常確定に含意されている、恒常仮定の表現に適用され、推量的な内容と結びついたとき、『已然形+ば』は仮定の意味へと変化した」(『日本語表現の流れ』P87から抜粋し、手を加えたもの)

【キーワード】
〇恒常・・・一定していて変わらないこと
こうして本来、確定表現だったはずの已然形が仮定表現的に用いられるようになり、「仮定形」になったというわけです。
つまり「已然形は仮定形のご先祖様」という説は正解だったということですね。意味は真逆になってるけど。

引用、終わり
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仮定形と已然形 (Maria)
2020-10-09 19:29:31
またお邪魔します。Maria でございます。ただいま所内でドタバタしているので、多少粗雑な文章になることを、あらかじめご了承くださいませ。
> 已然形と仮定形をごっちゃにする
は、「徐々に行われて、一般化した」わけではなく、「母数が増えてきたので、誤用の例が増えてきた」という話なんじゃないかなー、と思います。
新型コロナウィルス感染症だって、検査数が増えたら陽性患者数も増えるわけですよね?
「已然形と仮定形をごっちゃにする」のが鎌倉時代から進んできたとすると、明治・大正・昭和においても已然形と仮定形の使い分けが現実に行われているということを説明できなくなってしまいます。

 (えーと、大きな声では言えませんが、ひょっとして「噛みついてやれ」「吠えてやれ」とかうちらを怪(け)しかけてませんか? 誰がこの WebLog を読んでいるのか分かりまでんが、「番犬に『怪(け)し! 怪し!』と命令する」のが、「けしかける」です)

現在、所内がドタバタしているのは、先生(というと、慶応大学系の方々は、「『先生』というのは福沢先生以外には使わない」というポリシーがあるので、「さん」で呼ばないと「水臭い」と叱られたりするのですが)との対話が元になっています。

日本語には「助詞」というものがあるので、語順に頼らなくても「述語」からどのような文法格を要求されているかは、割合に判断しやすいという利便性があります。
一方で、「この体言は、どの用言から(文法格を)要求されているのか?」を判断する際に、用言が要求される格を(字義的にではなく、意味的に)判断する必要があります。
「ビール」は「飲む」もので、「餃子」は「食べる」ものです。同時に、どちらも「注文する」ものでもあります。
このとき、「非交差則」というものがあり、「ビールを餃子を飲み食べる」は、非・文法的です。
また、「(文法)格の(述語からの要求の)一意性」というものがあって、「私はビールを餃子を注文する」は非・文法的なので、「私は〔ビールと餃子〕を注文する」と言わなければなりません。
ところが、「非交差則」と「文法格の一意性」というのは、(おそらくは)世界中のあらゆる言語に共通しているにもかかわらず、これを効率的に処理するようなアルゴリズムというものが、知られていなかったんですよ。「語順が確定していない、述語に対する係り受けのチェック」というのは、「経験的な文型のチェックの能力」に委ねられていたので、それがあらゆる言語における普遍的な法則であるがゆえに、「あんまり意識されなかった」という事情があります。

「このあたりが、現在の文法教育における問題点ではなかろうか」と、うちらは二十年来思っていたのですが、その二十年間においてコンピュータの性能は百万倍くらい上がっていたわけですよ。

そうなると、「(体言的な)文節と述語の係り受け」というのも、総当たりで解決できそうに思えてきたわけです。順列組合せの話だと「くり返し処理」になるわけですが、いわゆる CG(コンピュータ・グラフィックス)におけるレイ・トレーシング(直訳すると「光線追跡法」ですが、「視線追跡法」と呼ばれます)に使われる、「Z バッファ法」というのがありまして、「ひょっとしたら、『日本語の構文解析』って、これで実用的にイケるんじゃねぇ?」という話がありまして(技法そのものは、一九九四年にインプレスから出版した『スーパーステレオグラム』で使ったので、いわば「自家薬籠中の物」です)、現在、所内は総力戦体勢でドタバタしております。
ありがとうございます m(_ _)m。
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「人工智能」と「日本語処理」 (Maria)
2020-10-10 22:29:52
Maria でございます。たびたびお邪魔して申し訳ございません。
構文解析というのは、述語に対する係り受けの関係を解決する(この点では、「係り結び」と同様です)ことです。
そんなわけで、N 個の文節に対して N の階乗ではなく「 N の自乗程度に納まるのではないか」という話が所内でありました。ところが「これって、『人工智能』(「智」は「知識」とは別の問題です。知識だけだったら、人間はコンピュータに勝てません)の問題じゃねぇの?」という話になっています。
とりたて詞(「強調助詞」とも云うわけですが、そのあたりは国文法の世界では一般化されていないようです)としての「は」「が」と、格助詞としての「を」「に」および述語としての動詞・形容詞の関係を「絞りこむ」場合においては、「データの集積に頼るしかない」という話になりました。ううう、また私の仕事が増える (T_T)。
たとえば、「昼」「ラーメン」「食べる」「です」を例にとると、「昼」が時間帯なのか「夕食」なのかという情報が必要になってくるわけです。「日本人は、一日三食が普通」だとか、「夜食」や「おやつ」という習慣があるとか、「茶の子」「茶菓子」という概念があるとか、そういうコトで解析候補を絞りこみたい、という話になるわけですよ。そうなると、「バックグラウンドとしての、意味的なデータベース」を参照しないとムリじゃないですか。
「昼がラーメンだった」ということは、「夜はちゃんとしたものを食いたい」みたいな話にはなります。「ラーメン」が、いわゆる「朝ラーメン」なのか、カップラーメンかも問題になります。いわゆる中華圏(香港とかシンガポールとか)だと、「朝食はカップラーメン」というのも普通だそうです。
そうなると、「昼は」「昼が」「昼に」「昼を」は、「昼はラーメンだった」「昼がラーメンだった」はあるけれども、「昼はラーメンだ」はあるけれども「昼にラーメン」になると、なんかしら様相論理における「順序様相」とかの話になってしまうんですよ。
こうなると、日本語教育に対して、「文法から入るか(たとえば「日本語が母国語である人」には向いていると思います)、あるいは文型から入るか(日本語が母国語ではない人には向いていそうに思います)」という話は、けっこう切実な話ではないか、と思います。
しばらくカリフォルニアで仕事をしていたことがあるのですが、「語順」とか「てにをは」とかは無視して、適当に単語を並べていてもけっこうフツーに通じていました。
で、サンディエゴのオールドタウンとかだとフツーにネイティブの方と「手話(サイン・ランゲージ)」が通じたりするわけですが、「アメリカン・ネイティヴ・サイン・ランゲージ」だと、語順が英米語とは違ったりするんですよ。日本国内だと、「国際式」や「日本式」(手話通訳者が使っているもの)以外に「日本・ネイティヴ・サイン・ランゲージ」があったりします。これ、日本語とは語順が違ったりします。なにしろ手話には「てにをは」がありません。そうすると、「述語に要求されている『文法格』を背負った語を、述語の前に置くか、後に置くか」というのが、露骨に見えてきたりします。
こうなると、ある程度ノウハウを蓄積しないといけない部分があるわけですが、これは「規範文法」の範疇に入るのかどうか、という疑問もあります。
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