はぐれぼけぼうし

鹿児島拠点の日記をメモ的に残す。

日曜喫茶室

2007年10月08日 04時20分49秒 | 同世代とともに
 日曜日の午後、12時過ぎから14時頃まで、NHK・FM(ラジオ)放送にて、「日曜喫茶室」なる番組がある。たしか、「はかまミツオ」とかいう方が喫茶店の店長役をして、いろんなゲストの好きな音楽を聴きつつ随想的な会話をする、というような番組である。学生時代だったか、その番組のファンになり、それ以降、女房に出会うまではよく(お金を稼ぐ必要の無い日曜日には毎週のように)愉しみに聴いていた。

 昨日(10月7日)、職務帰りの車中、久しぶりに聴いていると、あるゲストがこんなことをコボシ?ていた。
 主題(テーマ)は、「子供の心がヨメマスか?」であったのだが、
そのゲストの子供が小さい頃(そのゲストが若かりし頃)、突然?外国に引越し、子供は突然外国語で(学校の)授業を受けなくてはならなくなった。子供は当然チンプンカンプンになる。そこで、そのゲストが子供にアドヴァイスするときに思ったそうである。
「いわゆる5教科(語学を除く4教科だったかも)は、いつからでも、たとえば大人になってからでも始めることができる。体育や音楽などの芸術は、そのときでなければ意味?をもたない、後からでは取り返しがつかない。」と。
 このことが、睡眠不足で目覚めてしまった頭に、ふと、甦ってきた。
 ここ数日、3人の若者相手に(大学受験対象の)数学を個人指導した後の反省にそのようなコトを感じたからなのであろう。

  以下、クドクドした言い訳のような(プライバシー的)話しになるが、・・・。

 ある女生徒がコボシテくれた。数字や記号でなければ、論理的推論は得意というか、好きだから何時間でも取り組むことができる、と。
 その生徒は、確かに粘り強い思考力というか性格というか、そのようなnatureを持っていた。その証拠の一つに、合成関数の積分を3段4段繰り返す必要のある問題に取り組んだ時、初問はなんと30分以上ひとつの計算問題に取り組み続けたのである。大多数の生徒が15分も手が止まっているときは「思考停止」の状態に陥る場合が多いのだが、この生徒は(雰囲気的に)考え続けていたので15分経っても(私も)集中して生徒の様子を見守っていた。チョット待っててください、というようなニュアンスの発言を半定期的に繰り返したからでもある。そして、(徐に)私の解説した式変形を確認しながら生徒自身のノートに作成し始めたのである。 立ち止まると私の書いたメモに目を遣りながら(その思考方法をも確認しながら)式を作成していく。そして、脳力をかなり使い果たしたような(憔悴したような)顔つきながら(シンから)美しい笑顔をみせて、「ワカッタと思います」と言ってくれるのである。教師にココまで気を遣いながら自身のやるべきコトを見失わず努める姿には共感せざるを得ない。そして、私も、つい「それが本当の意味での勉強だよね」などとわかりきったことを口走ってしまったりしたが、この生徒はシラケナカッタ。他人(自身以外)から自身に必要なモノだけに心を向け、そうでないモノにはコダワラナイ、彼女にとって効率の良い(集中心に富んだ)学習ができているのである。

 別の男子生徒は、頭の回転の速い優秀な生徒である。だが、よく計算間違いをしてしまう。自身の頭脳での処理スピードにメモリする時間より早くその記憶内容を取り出そうと(アセル?)ために計算ミスをおこしてしまっているのだろう、と考えている。生徒自身もその計算ミスの多さが大きなハンディになっているコトに気づいており、心を落ち着けるための文化系および体育会系の部活にも勤しんでいるのだが、いまだ改善できないでいる。この生徒も(私が感じるに?)「他人(自身以外)から自身に必要なモノだけに心を向け、そうでないモノにはコダワラナイ学習」ができているのである。だが、失敗(計算ミス)を捜す作業に時間がかかってしまい、お世辞にも(彼にとって)効率の良い学習になっているとはいえない。潜在力というのだろうか素質的には非常に優れたモノを持っているのだが活かせないでいる、と私も(彼も)感じている。

 数学の式変形のルールの演習は、現実の生活でいうと、「立場が異なったトキ、その立場に応じたルールで目的に向かって行くコト」、に似ているように私は思っている。数学などでは「写像」という用語があるが、狭い意味では「関数:function」という用語もある。私の所属した大学の講師陣は(好き好んで?)この用語を用いていた。とくに数学の講義ではなくとも機械工学系一般にこの用語が使われていたように思う。
 そして、社会に出て(製造業における現場という)実業界を15年ほど経験し、その後教育界に身を置き、改めて数学を若者とともに勉強し始めると、その式変形の意味合いが非常によくワカルのである。だから学生時代はよくはわからず解に至っていた問題も(実社会などでの)応用を想じながら、ある色彩をもった有機的な式変形と捉えるコトができるようになった。しかし、そのことは若者には到底理解できないことであろうから(よっぽど洞察力に秀でた若者を除いて)無機質の式変形を教えなければならなくなる羽目になるわけである。

 とすると、先に出てきたゲストのいわゆる語学・数学・理科・社会などはいつでも勉強できる、「体育という体を実際に意のママに動かすという勉強」や「芸術という心の中を絵や音で意のママに表現する勉強」が大切だというコトにある意味で共感できるのであった。 


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