kasaiさんの江戸甲府物語

江戸時代の甲府の様子を庶民の生活を中心につづる。

第102回 灯油の値段

2015-11-09 15:01:18 | 説明
甲府の灯油の値段

 
 江戸時代の庶民は日の出とともに起き、日の入りとともに寝るということを読んだことがあります。電気がなかった時代なのでそうかなとも思っていました。

 役所の開く時間は朝五つ時で、役所からの呼び出しも朝五つ時に出頭するように言い渡されています。日の出が六つ時で、五つ、四つと数えていきます。一時(いっとき)は約2時間です。日の出とともに起きてから、食事、身支度をし、それから歩いて役所に出頭します。日の出前に起きないと間に合わないかもしれません。

 甲府町年寄りの御用日記などを読むと、暗くなってからも町名主が用事のために尋ねてきていることが記載されています。町年寄りも緊急の用事がある場合、暗くなってからも甲府勤番役所に出かけています。日の出とともにすべての住民が寝ているとはかぎらないようです。

 第65回で書いたように、甲府城下には木戸が設けられていました。甲府城下の境にある木戸は暮六つ時に閉られました。城下内部の木戸は四つ時に閉められます。暮六つ時は日の入りですので、日が沈むと通行が遮断されます。四つ時は22時頃です。ただし、脇にあるくぐり戸は通ることができました。暗くなってもある程度人の通行があるという前提になっています。

 庶民の寝る時間についての資料はあまりありませんが、次の資料がありました。
寛延元年(1748)12月27日(旧暦)明け七つ時前に柳町2丁目の次郎左衛門裏物置から出火しました(御公用諸事之留)。この時の次郎左衛門、次郎左衛門母、下人、下女の各々の供述書(口書)に「今晩五つ半時伏せり申し候処」とあります。また、次郎左衛門の両隣の供述書には、「今晩八つ時過ぎ迄勘定仕り起き罷り有り候処」とあります。
当時は不定時法で、日の入りが六つで、夜中に向けて五つ、四つと数えていきます。一つ時は2時間前後なので、五つ半時とは日の入り後3時間程度後になります。理科年表によると1月31日の甲府の日の入りは17時11分です。そうすると、就寝時間は20時頃になります。八つ時は午前2時頃です。

 寛延2年(1749)8月18日(旧暦)甲府新青沼町の治左衛門(鋳物師)の自殺事件がありました(御公用諸事之留)。この時の治左衛門妻の供述書(口書)に「昨夜平日の通り四つ時伏せり申し候」とあります。一つ時は2時間前後なので、四つ時は日の入り後4時間程度後ということになります。理科年表によると9月18日の甲府の日の入りは17時50分です。そうすると、就寝時間は22時頃になります。平日の通りとありますので、ほぼこの頃まで起きていたことになります。

 この2つの例から、日の入り後3時間から4時間程度は起きていたことになります。当然夜間照明の下にいることになります。そこで夜間照明に必要な灯油の値段が問題になります。灯油の値段は次の通りです。

【灯油の値段】(日付は旧暦です)
○享保16年(1731)10月:1升に付銀3匁
○寛保1年(1741)12月:1升に付文銀5匁2分6厘
○寛保2年(1742)6月:1升に付文銀5匁3分3厘
〇延享5年/寛延元年(1748年)閏10月:1升に付文銀4匁5分5厘、11月:1升に付文銀5匁1分
○寛延2年(1749)2月:1升に付文銀5匁3分3厘
○寛延2年(1749)5月-6月:1升に付文銀5匁3分8厘、8月:1升に付文銀4匁9分
○寛延2年(1749)11月:1升に付銀4匁4分6厘
○寛延3年(1750)7月:1升に付文銀4匁6分9厘
○明和5年(1768)6月:1升に付文銀4匁5分
○文化1(1804)5月:1升に付文銀4匁3分2厘
○安政7年(1860)10月:1合に付84文
○万延2年(文久元年、1861)3月:1合に付70文
○文久4年(1864)10月:1合に付116文
○慶応3年(1867年)6月:1合に付252文
○慶応4年(1868)3月:1合に付272文

 灯油は高価でした。1升は1.8ℓです。銀1匁は110文程度とすると、330文から560文程度になります。寛延2年(1749)2月の両替相場は銀1匁につき108文です(寛延2年御公用諸事の留)。寛延2年(1749)2月の燈油の値段は1升に付文銀5匁3分3厘なので、576文に相当します。1合では58文程度になります。1日の灯油の消費量は不明です。


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