小説家 夢咲香織のgooブログ

私、夢咲香織の書いた小説を主に載せていきます。

短篇SFファンタジー 星降る畑 05祖父ちゃん

2021-02-26 17:04:05 | 小説

 スペースポートに着くと、レモン色のタクシーが待っていた。ポートには巨大な倉庫が隣接しており、そこへ集められた野菜や果物が、大きな鯨の姿をした宇宙船に積み込まれていく。

「ありゃ、輸送船ですか?」

「ええ。アグリで収穫された農作物はここに集められ、ああして宇宙船で各惑星に運ばれています」

「はあ。アグリっちゅうのは、農業の星なんですね」

「そうですよ。さあ、タクシーに乗って下さい」

 
 三人を乗せたタクシーは、草原の中に切られた道を走って行った。何処までも続く萌黄色《もえぎいろ》の草原に抜けるようなスカイブルーの空。真っ白な雲がポカリポカリと浮かんでいる様は、まるで人間が文明を築く以前の地球の原風景の様だった。暫く走ると、広大な畑が広がっていた。白亜の四角い建物の前でタクシーは止まった。
 

「ここは管理センターです。涼太さんに見て頂きたい物があります」

センターの入り口には背の高い女性が一人、涼太達を待ち受けていた。

「こんにちは。センターへようこそ。私はここのセンター長のミルラです。涼太さんと淳さんですね。お話は睡蓮さんから伺っております。こちらへどうぞ」

三人はミルラに続いた。外側と同じく真っ白なセンターの中は、床にチリ一つ落ちていなかった。
 

 部屋に案内されると、壁一面に設《しつら》えてある棚に、ズラッとガラスケースが並べられている。中には植物の種が納められていた。

「こちらは太古の昔より、高級勢力の指導の元育てられてきた農作物の種です。これらの種から生育された野菜や果物は、どれも皆高エネルギーに満ちています。それを食した人のアストラル体もまた、少しずつ高波動へと高まっていきます。現在、新たな品種が出来上がりました。その種をお見せいたします」

ミルラは幾つかのケースから種を取り出すと、涼太に見せた。

「こりゃあ、これはトマトの種で、こっちは茄子、それはカボチャですね」

「流石ですね。そうです。涼太さんにこれ等をお渡ししますから、地球で育てて欲しいのです。今までの品種でも人々のアストラルエネルギーを上げる効果はありましたが、こちらはより強力です。魔界の影響は強まっていますから、是非こちらの作物を育てて、人々に分け与えて下さい」

「分かりました。それで、この野菜を食べてたら、村の衆もこんな風に宇宙に来れるんですね?」

「ええ。そうなることを願っています。いずれ、生きている間にこちらへ来て、高級勢力の思いを受け止め、叡知を学んで、地球を魔界の干渉から防いでくれることをね」

涼太は改めてまじまじと種を見つめた。俺のご先祖も、こんな風にして種を貰ったのだろうか?

「おじちゃん家の野菜は正義の野菜っていうことだね!」

「あら、ウフフ。簡単に言えばそうね」

「あの、畑の様子も見てみたいんですが」

「ええ。もちろん歓迎しますわ。お祖父様も喜ぶでしょう」

「祖父ちゃん?」

「外の畑で作業していらっしゃいますよ」
 

 涼太は外へ出ると、広大な畑を見渡した。あちこちで農夫が作業をしている。つばの広い麦わら帽子を被って、茄子の剪定をしている青年の姿が目に映った。

「祖父ちゃん!?」

涼太は祖父の若々しい姿を見て、驚いて声を上げた。

「おう。涼太かね。良く来たのう」

「うん……。睡蓮さんていう綺麗な女《ひと》に連れられてな。それより、何じゃ、その姿は」

「フフ。ここでは生前の好きな時の姿で居られるからな。農作業するのにヨイヨイのジジイじゃ仕方ないじゃろ」

「じゃあ、やっぱり、ここはあの世かね?」

「うーん。そうとも言えるがの。まあ、睡蓮さん曰く、物理地球とは少し次元が違う世界じゃっちゅうことらしいわ」

「ふーん。で、祖父ちゃんは死後の世界でも農夫かね?」

「おうよ。心ある人間は皆、死んだら高級勢力の元、魔界との闘いに参入するのさね。戦士になる者もおるし、芸術家になって人様のエネルギーを高めようとする者もいる。農作物を作るのも立派な貢献じゃし、ワシは自ら希望して農夫をやっとるわ」

「祖母《ばあ》ちゃんと父ちゃんは?」

「辰雄はな、失恋のショックでエネルギーが足りなかったんで、祖母ちゃんに付き添われて、首都のある惑星シャンバラで治療を受けておるわ。ありゃ、来世でもう一度やり直さなならんかもな。よし、そろそろ時間じゃの」

「時間て?」

「あれじゃ」

寅吉は畑に建てられたスピーカーを指差した。

 
 突如、スピーカーから音楽が鳴り出した。川面を小舟が滑るように流麗な曲で、涼太は思わずうっとりと聞き入った。こんな曲を聴いたら、獰猛な野獣でさえ大人しくなるのではないかと思われた。

「なんちゅう綺麗な曲じゃ」

「今日は『アストラル大河』か。良い曲じゃろ?」

「何で音楽を?」

「美しい音楽を聴かせて育てると、より良いエネルギーの野菜になるんじゃ」

「ああ、地球でもそういうのあるな」

「農作物は心を込めて、優しく扱わなならんよ」

「うん」

涼太と寅吉は暫く音楽に聞き惚れていたが、優美な曲を遮って、突如サイレンが鳴り響いた。

「なんじゃ? どうしたのかね、祖父ちゃん?」

「来よったんじゃな」

「何が?」

「魔界勢力じゃよ。よし、センターにあるテレビで衛星動画見れるでな。行くぞ」


短篇SFファンタジー 星降る畑 04アストラル宇宙

2021-02-25 14:46:06 | 小説

 気が付くと涼太は床も壁も天井も、真っ白な部屋にいた。部屋には美しい女性が一人、立っている。亜麻色の長い髪に明るい緑の瞳をして、真っ白なローブを着ていた。

「貴女は……。もしや御先祖に種を渡したという天女様ですか?」

「私は睡蓮です」

睡蓮は静かに微笑んで、涼太の手を握りしめた。仄かに蓮の花の香りがした。

「さあ、こちらです」

睡蓮は奥のドアを開けた。見ると部屋の外は宇宙空間だった。部屋に隣接して、イルカの形の青い宇宙船が透明なチューブの中に浮かんでいる。チューブは遥か彼方まで続いていた。涼太は睡蓮に続いてタラップを渡り、船へ乗り込んだ。

 
 船内には卵形の白いソファーが並んでいた。一人だけ、誰かが座っているのが見えた。

「淳君!」

涼太の背中を冷や汗が流れた。もしかしたらここはあの世ではないのか? 淳は熱射病で、あのまま死んでしまったのではないか?

「涼太のおじちゃん。僕ら、これから旅行に行くんだよ」

「旅行?」

「私がご案内します。座って下さい」

涼太は淳の隣に座った。

「では、出発しますよ」

宇宙船は音もなく発進した。

 
「私達高級勢力は、混沌とした宇宙を真善美で統一しようとしています。ですが、魔界勢力は真善美を理解しません。宇宙を荒廃させようと攻撃を仕掛けてきます」

「はあ……。高級勢力と魔界……ですか?」

「そうです。地球も魔界の影響を受けて、昔に比べると随分堕落してしまいました。特にまだアストラル体の未熟な若者は狙われています。世の中に犯罪や悲劇が蔓延しているのは、魔界が干渉して人の心を支配しているからです。魔界に打ち勝つには人々のアストラルエネルギーを高波動に上げる必要が有ります」

「アストラルエネルギーって何です? どうやれば高波動に上げられるんですか?」

「人間の体は物理的な肉体だけではなく、感情のエネルギーであるアストラル体や魂の体であるコーザル体などで出来ています。アストラル体のエネルギーを上げるには、美しいものを見たり聴いたり、善行を行うなどすると上がります。瑞々しくて新鮮な生命力の溢れる野菜を食べることでも上がります。人は死ぬと先ずアストラル宇宙へ行きますが――ここの事ですよ──アストラルエネルギーが十分にあれば、生きている間でも宇宙へ来れます。こんな風にね」

「じゃあ、俺の畑は……」

「ええ。あなたの御先祖に、我々が託したものです。私達高級勢力は、かつて地球のあちこちに神聖なる野菜を育ててもらうべく、地球人に種を渡しました。北米のインディアンや、南米のインディオ達は特に忠実に畑を維持してくれました。その昔、彼らは高められたアストラル体でよくこの宇宙へやって来たものです。ですが、魔界の干渉を受けた人間達との争いで、多くの畑が失われましたし、人々のアストラルエネルギーも低下しました。あなたの畑仕事も魔界との闘いの一端なのですよ」

「おじちゃん家って、凄かったんだな。まあ僕は農家より、戦士の方が良いけどな!」

涼太はヘナヘナと体をソファーに沈めた。やはり、祖父《じい》ちゃんの言っていたことは本当だったのだ。俺は間違っていなかった!

「それで、これから何処へ行くんです?」

「我々の農業惑星、アグリへ行きます。到着まで暫《しばら》くかかりますから、一眠りすると良いですよ」

睡蓮はソファーの脇のレバーを引くと、仰向けに倒した。船内の照明が徐々に暗くなっていく。涼太は宇宙船の天井をぼんやり眺めている内に、眠りへ落ちていった。

 
「涼太さん、起きてください」

睡蓮の声で涼太は目が覚めた。淳は既に起きて、窓の外を眺めている。涼太も窓に近付いて、外に目を凝らした。青と緑の惑星が眼下に広がっている。大気圏の外側を透明な膜が覆っているのが見えた。

「あの膜は何だろう?」

「高級勢力の高波動エネルギーフィールドです。高波動の膜で魔界の侵入を防いでいるのです。私達が通って来た航路も、エネルギーフィールドで出来ています」

 
 睡蓮が話している間にも、宇宙船は惑星へどんどん降下していった。巨大な森林の間を大きな河が流れ、開けた緑の耕作地へと続いている。太陽の光を浴びて、大地は生き生きと輝いていた。耕作地から離れた草原に巨大なスペースポートが見える。宇宙船が地表に近付くにつれて、涼太の体はポカポカと暖かくなった。

「惑星アグリのアストラルエネルギーを受けて、暖まっているのですよ」

涼太の心を見透かしたかの様に、睡蓮がにこやかに笑った。
 


短篇SFファンタジー 星降る畑 02朝飯

2021-02-18 20:01:09 | 小説

 握り飯を頬張りながら、涼太は周囲を見渡した。この辺りは村の中でも高台で、村全体を見渡すことが出来た。萌える青々とした山の間を川が流れ、その川が山を削って出来た僅かばかりの平地に水田や耕作地がひしめき合っている。背後の森では蝉達がやかましく鳴いていた。上を見上げると、抜けるような青空に真っ白な雲が塊となって浮かび、目に鮮やかだった。少し離れた所に貯水地が有って、用水はそこから引いている。子供の頃はよくその溜め池で同級生の謙治《けんじ》と一緒に釣りをしたものだ。今でも時々は釣りをして、貴重な蛋白源を捕る。大した娯楽も無い谷あいの小さな村で、涼太は細《ささ》やかに暮らしていた。

 
「今日は。涼太さん。休憩かね?」

近所に住む小林が白い軽トラの窓越しに挨拶した。

「やあ、小林さん。今から畑かね? 今日は遅いんですね」

「いやー、寝坊しちゃってね。実はお恥ずかしい話だが、夕べうちのバカ息子が万引きして補導されたんですわ。理由を聞いたら『こんな田舎で何の娯楽も無けりゃ、スリルが欲しかった。俺をこんな田舎に閉じ込めた腹いせにやった』と、こうですわ。あんな子じゃなかったんだけどね。いやもう、腹が立つやら情けないやらで夕べは眠れんくてね。しかも連日の暑さで参っとるんですわ。ま、そんなことより今年の出来はどうかね?」

「中々良いですよ。うちのはこの暑さが良い方に影響したみたいで」

「そりゃあ、何よりじゃのう! うちもまあまあですわ。うちの母ちゃんがいつもあんたんとこの野菜は旨いって、楽しみにしとるんで。独りでやってなさるのに大したもんだわ。ま、お互い頑張りましょうや」

「ええ。暑いから、小林さんも気を付けて」

「あいよ! じゃ、またな」

軽トラは軽快に走って行った。小林さんの所の息子といえば、小さな頃から知っている。素直で良い子だったのに、何があったのだろう? 年頃のせいなのだろうか?


 遅い朝食を済ませた涼太は、トマトの収穫を始める事にした。真っ青な空とコントラストを描くように、真っ赤に実った瑞々しい実がたわわに連なっている。丁度食べ頃だ。涼太は実を一つ一つ確認しながら、鋏で丁寧に房から切り取り、籠へ入れていった。切り口から青臭い匂いが立ち上る。さっき小林にも言ったが今年の出来は中々良いようだ。これは後で村人へ配る事にしよう。きっと喜んでくれるだろう。なにしろ、涼太の畑で採れる野菜は天女のもたらした野菜なのだから。涼太は村人達が喜ぶ姿を想像しながら、黙々と作業した。

 
 昼過ぎになって、小学生達が数人、涼太の畑の横を通りかかった。皆釣竿やタモ網を持っている。そうか、今日は日曜か。子供達は溜め池へ釣りに行くのに違いなかった。涼太は自分の子供時代を思い出して、微笑ましく子供達を目で追っていた。

「あ、涼太だ!」

「本当だ。阿保の涼太だ!」

「阿保!」

子供達は涼太の姿を見付けると、一斉に囃し立てた。

「お前、知ってるか? 阿保の涼太は天女なんか信じてるんだぜ」

「今時、そんなの居る訳無いじゃん。気違いだね。怖い、怖い」

 涼太は黙って作業を続けた。やはり俺は時代に取り残された阿保なのだろうか? でも、俺はこれしか出来ないのだ……。


短篇SFファンタジー 星降る畑 03熱射病

2021-02-18 20:01:09 | 小説

 夕方、トマトの収穫を終えた涼太は、夕飯の準備に追われていた。今晩はカワムツの天ぷらにほうれん草のお浸し、豆腐と油揚げの味噌汁だ。夕方とはいえ、昼間の熱気が冷めやらず、窓を開けていても台所は蒸していた。涼太は首に巻いたタオルで汗を拭きながら、七輪に掛けたフライパンでカワムツを揚げる。部屋中に魚の揚がる香ばしい匂いが充満した。台所の隅にはハナが待機していて、カワムツが落っこちて来ないかと見張っている。

「ハナさん、どんなに待っても魚は落ちやせんからね。あんたにはさっきご飯あげたでしょうが」

涼太は笑いを堪えながら天ぷらの具合を見る。

 
「こんばんは! 涼太おるかね!」

玄関の引き戸が開く音と同時に声が響いた。何やら緊迫した声だった。涼太は慌ててフライパンを七輪から下ろし、玄関へ向かった。謙治が息も荒く突っ立っている。

「謙治さん。どうしたね?」

「ああ、涼太。大変だわ。うちとこの淳《あつし》が熱射病で倒れたんだわ」

淳は小学五年生の謙治の息子である。

「医者は町まで行かないと無いし、取り敢えず寝かしてるが、飯も食えんでな。けど、涼太んとこのトマトが食べたい言うとるんで。すまんが分けてもらえんかね?」

謙治は一気に喋ると、額の汗をタオルで拭った。

「もちろん良いよ。今準備するわ。俺も見舞いに行きたいし、乗っけてってもらえるかね?」

「有り難う。構わんよ」

涼太は急いで七輪の火を消し、ザル一杯トマトを入れると謙治の車に乗り込んだ。
 

 淳は座敷に敷かれた布団の上でじっとり汗ばんで、ぐったりしていた。涼太は布団の脇に正座して、淳の様子をうかがった。

「淳。涼太がトマト持ってきてくれたからな」

「淳君。大丈夫じゃ。おじさんのトマト食べたら、すぐ良くなるからな」

「うん……。有り難う」

「洗って、塩振って食べさせてやって下さい」

「おう。そうさせてもらうわ」

「じゃ、淳くん、疲れるといけんから、今日はこれでな」

涼太が立ち上がると、

「これ、トマトの代金だ。それと、せっかく来たんだし晩飯食っていかんかね?」

謙治が居間へ促した。

「いや、もう飯の準備したから。せっかくだけど遠慮させてもらうわ」

「じゃあ、帰りも送るわ」

「いや、大した距離じゃなし、帰りは歩くわ」

「そうかね。そいじゃ、気を付けてな。わざわざ有り難うな」

「うん。そいじゃ、またな」

 
 涼太は家路をのんびり歩き始めた。夕日の端切れが、もう俺の役目は終わった、といった様子で西の地平に沈みかけている。反対側の東の空には、さあ、これからは俺達の出番、とばかりに、星が白く輝き始めていた。途中で例の溜め池の前を通る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。涼太は立ち止まって溜め池を眺めてみた。風の凪いだ暗い水面が黒い鏡のように鮮やかに空の星を映している。神秘的な静寂が辺りを包んでいた。池に呼ばれているような気がして、涼太は近付いて身を乗り出し、水面を覗き込んだ。

「天の池……」

涼太は独り呟いた。そうだ、涼太の畑が天女の畑なら、ここは天の池に違いない。水は星の光で清められて、用水路を流れ、畑に撒かれて作物を浄化するのだ。天の野菜は天の水で養われる。清められた作物を食べる度、人は浄化されて天へ近付くのに違いない。人はただの肉の塊から、それ以上の何かになるのに違いない。あれは星の光を受け継いだ畑。

「星降る畑だ!」

涼太は興奮して叫んだ。その拍子に右足がズルリ、と池へ滑り込んだ。

ドボン!

涼太は池に落ちた。波立つ水面。慌てて岸の草を掴み、体を岸へと近付ける。やっとの思いで岸へ上がると、ゼイゼイ肩で息をした。

「参ったな」


 涼太はずぶ濡れのまま帰宅した。すっかり遅くなってしまった晩飯を済ませると、水風呂へ入ることにした。普通は沸かして入るのだが、今日はとりわけ暑かったため、冷たい風呂が良いと思ったのだ。風呂から上がると、トマトを噛《かじ》った。甘酸っぱい風味が口一杯に広がる。思った通り、中々良い出来だ。トマトを三つ平らげると、涼太は布団へ入った。


短編SFファンタジー 星降る畑 01序章

2021-02-17 19:36:35 | 小説

 今年の夏は猛暑であったが、早朝はまだ幾分か涼しかった。とはいえ、昼間に比べたら涼しいのであって、体感としては既に十分暑かった。涼太《ひょうた》は早々と起きると、家の裏にある井戸に水を汲みに行った。猫のハナも起きて、涼太の足にまつわりつきながら歩いていく。ハナは顔と背中が黒く、鼻先と腹が真っ白な毛で被われていた。鼻の脇に黒い黒子のような斑《ぶち》があったので、ハナと名付けられたのだ。

「おい、ハナさん。俺は水汲みするんだからね。邪魔しないでくれ」

緑色の手押しポンプを押して、バケツ一杯に水を入れると、風呂場まで運んで湯船に開けた。ハナが湯船の縁に登って、じっと水面を見つめている。ゆらゆらと光の青白い網がハナの体に写り込んで、不思議な模様を作っていた。

「落ちても知らんぞ」

風呂が一杯になったら、次は台所の水瓶だ。涼太の腰まである陶器の瓶が冷たい井戸水で満たされていく。涼太は独り暮らしのため、一日の水はこれで事足りるのだった。

 
 水汲みが終わると弁当をこしらえて、涼太は畑へと向かった。山間を開墾した畑には、トマトや茄子などが植えられている。この畑には、彼の祖父の話によれば、大昔に天女が降り立って御先祖に野菜の種を渡し、『村人を天へ送るため』に畑を作って野菜を育て、村人に分け与えるようにお願いした、という伝説があった。

「だからワシらは、畑を続けなけりゃならん」

これが祖父の寅吉《とらきち》の口癖だった。この村の殆どの住人は農業を営んでいたが、時代の流れと共に、より収益を上げるべく作物の品種改良をしている。だが、涼太の家だけは、先祖代々、頑なに昔からの品種を維持していた。

 
 涼太には母が居なかった。涼太が幼いときに父の辰雄《たつお》と離婚して村を出て行ってしまったという。父はその数年後に病死した。母との離婚がショックで、畑仕事にも精が出ず、食事もろくに摂らずに塞ぎ込んでいったのだった。涼太は母の事は覚えていない。古い薄ぼやけた写真で見る限りは美しい人だった。
 

 父と母がいなくなってから涼太は祖父母と畑仕事をして暮らしていた。子供の頃、母のことを寅吉に訊ねたら、烈火のごとく怒り出したので、それ以来母の事は訊かなかった。涼太が中学生の時に祖母のサキが亡くなり、それから数年経って寅吉が亡くなった。以来涼太は独りだった。いや、ハナがいた。数年前に何処からともなく現れて、涼太の家に住み着いたのだった。ハナは時々涼太の畑へ様子を見にぶらりとやって来る。今日もハナは畑へやって来た。

「おう、ハナさん。また見に来たのかね?」

涼太が声をかけると、ハナはゴロリと地べたへ仰向けになった。まるでオセロの様に、黒い背中が白い腹に入れ代わる。

「よしよし、何だかお前さん、犬みたいだぞ」

涼太はハナの腹を撫でながら笑った。

「ハナも来たことだし、ここらで休憩するか」

 
 巨大な楠の木陰へ腰を下ろし、涼太は黄色い包みをほどいて弁当を広げた。木の芳香に握り飯の仄《ほの》かな香りが混ざって、涼太の胃を刺激する。握り飯の米は近くの米農家がくれたものだ。涼太が野菜を村人へ届けると、そのお返しに米やら古着やら、野菜に見合った金などをくれるのだ。飲み水は井戸が有るし、薪なら山で手に入るし、涼太は殆んど自給自足の暮らしをしていたのだった。