ごきげん練習帳 〜自分トリセツの作り方〜

自分と人生を楽しむための”セルフ・コーチング”ノート

『少年H』をみて思うこと

2013年09月04日 | ●心のごはん(本、映画・演劇、音楽・美術…)

 

 

先日、映画『少年H』を観てきました。

まったく予定外で、突然行くことになったのですが、

行けてよかったなあ、と思います。

心の芯に置きたいものを、また一つ、

増やせた気がします。

 

随所で涙しましたが、

私がいちばん泣いたのは、

誤解を受けて特高警察に取り調べられた少年肇の父が帰宅して、

肇と会話するシーン。


父がスパイと疑われるような原因を作ったと思われる自分の友人に、

怒りをぶつけに行こうとした肇を止めて、父は

「それも、そもそもあんたがその子に(アメリカの宣教師からの)絵はがきを

見せなければ、起きなかったことではないか?」

と言うのです。

 

「ぼくは、ただ、いっちゃんにアメリカがどんなものか、

見せたかっただけだ」

というようなことを聞いて、父は、

「それはいっちゃんも、同じだったんじゃないか?」

「いっちゃんも、苦しんでいるのではないか」

と言うのです。

 

この言葉には、

ほんの小さな誤解や偏見が、無実の人を犯罪人にしてしまったり、

命を奪うことになったりする、この時代の恐ろしさが現れていると同時に、

時代を超えた人の弱さと強さ、真実や愛、普遍性、

そうしたものが見事に込められていると感じました。

 

常に自分の身体で感じたことを大切に、自分の頭で考えること。

その上で、自分がいかに生きるべきかを選択すること。

その大切さを、この父は家族に伝えていました。

 
 

この父は、そして母は、自分の中の真実にまっすぐに生きることを

身をもって家族に示す人でした。

一方、周りには、その時々で主義主張を変え、

肇の言葉を借りれば「よろしくやっている」人も沢山いました。

 

両方を見て、肇は自分が何を拠り所とすべきなのか、悩みます。

 

ただでさえ、大きく価値観を問われる思春期に、

戦中・戦後という価値観の180度変わる時代が重なります。

 

 

 

正解はどこにもありません。

すべての人が、生きることに一生懸命なことに変わりはない。

けれども、一生懸命なりに、どんな生き方もできる。

 

人を非難することも、許すことも、

憎むことも、愛することも。

それは、どんな時代であっても。

 

 

 

肇の父が語ること、

肇とその家族の生きるさま、

それは、この映画を通して、今の私たちに、

「あなたはどう生きることを選びますか?」

 

と、問うているのだと思いました。

 

 

 

『少年H』は、同名の妹尾河童の自伝的小説が原作。

原作が出た当時、単行本で読みました。

原作の中でもいくつか、記憶に残るシーンがありましたが、

私の中では、空襲にあったとき、

母と少年が爆弾の中を逃げたくだりが心に残っていました。

今はもう、原作が手元にないので確認できませんが、

そのとき、少年は「母と精神的立場を逆転した」、

といったことが書かれてあった気がします。

守られる立場から、守る立場へと。

 

だれでも、子どもから大人へと成長していきますが、

少年肇のなかでは、この時が、一つの象徴的な

ターニングポイントだったのでしょう。

 

 

原作を知っていたとは言え、

映画は映画として楽しみました。

そして、原作とのつながりがどうの、

原作の事実のとらえ方がどうの、ということは別にして、

映画として、とてもよくできていると感じました。

 

登場人物一人ひとりに、役割があり、

出来事一つひとつに意味があり、無駄がない。

テーマも明確。

 

肇役の男の子をはじめ、役者も味がありました。

 

 

まだ見ていない方は、ぜひ、ご覧いただきたいなあ、

と思います。

 

 

 

 



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