日月譚

日月庵 庵主 大樹独活の駄文の世界

麦と自然薯 (1370文字)

2015年12月23日 | エッセイ
 友人から自然薯が届いた。見るからに天然モノだ。たわしで擦っても、そう簡単には泥が落ちない。なんとか泥を取り除くと、まるで便秘患者の直腸をエックス線撮影したような薯(いも)が現れた。早速、流し台の下にしまってあるすり鉢を出してきて、本格的にすり始める。すっているそばから茶色く変色していく。粘りも相当なものだ。お袋なら事前に出汁を作っておき、少しずつ混ぜながらすっていくはずだが、手抜き名人のボクは市販されているうどんのストレートつゆで代用する。けだし妙案! 500ccのボトルすべてを投入したが、お玉と一緒にとろろがごそっと全部持ち上がってくる。こんな強烈な粘りは、さすが天然モノだと今更ながら感心する。
 
 子どもの頃の話だが、東京駅八重洲北口を出たところに、国際観光ホテルというのがあった。多分、今はなくなっているだろう。そのホテルだったか、隣接するビルだったかの一階に『麦とろ』という店があった。当時としては珍しかった「とろろかけご飯」の専門店である。ご飯にはもちろん麦を混ぜているが、麦の量はわずかニ割にも満たないと聞いた。それ以上多くすると、麦飯に慣れない現代人には、麦の匂いがきつ過ぎて敬遠されるのだと聞いた。

 五年前に亡くなった父は、その『麦とろ』の大ファンだった。ボクは小さい頃、よくその店へ連れて行ってもらった。「とろろかけご飯」が、最近の子どもの口に合うかどうかは疑問だが、昨今、「たまごかけご飯」が復権していると聞くので、意外と受け入れられるかも知れないと思った。父は、いつもお櫃に入って出てくる麦飯だけでは足りず、必ず追加注文をした。麦飯に幼少期の郷愁を感じ、「麦飯と言えばとろろ!」と言うように、父の頭の中では切っても切り離せない関係にあったのだろう。自然薯は近所の若衆(わかいし)が山で掘ってきて届けてくれたそうだ。一日一食はとろろをかけた麦飯を食べていたと言っていたのを思い出す。もちろん、戦前のことだから、この麦飯は米と麦の比率が今とは逆転していたことは容易に想像がつく。
 
 昭和四十ニ年、ボクたち家族は父の仕事の都合で東京に移り住んだ。『麦とろ』は職場から近いこともあって、父はよく昼飯を食べに行ったのだろう。この上なく懐かしかったに違いない。当時、四十代になったばかりの父、ボクは小学六年の食べ盛りだった。しかも、相撲と柔道をかけ持ちする毎日。すでに体重は八十キロを超え、身長と体重は父とほぼ同じだった。食欲はボクの方が勝っていたことは断言できる。
 
 父から「とろろかけご飯」を仕込まれたボクは、その後暫く、「好きな物は――?」と訊かれると、必ず『麦とろ』と答えていた。本来なら「とろろかけご飯」と言うべきところを、「とろろかけご飯」のことを『麦とろ』と言うのだと思い込んでいたらしい。その間違いに気づいたのは、かなり後のことである。

 最近の子どもは、『麦とろ』と聞いたら何を連想するだろうか? 少なからず興味が湧く。いや、子どもでなくてもよい。十代、二十代、三十代……と、各世代の人に訊ねてみたくなった。きっと、世代によってさまざまな答えが返ってくるに違いない。
 自然薯は、ボクにいろいろなことを思い出させてくれた。送ってくれた友人には、早速、『感謝』の二文字を贈っておかなくては……。(了)



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