この頃はよく歩く。
池袋からの帰り道、とある喫茶店に「体調を崩したので、しばらくお休みします」という張り紙がしてあった。私も、このブログに同じような張り紙をしたい心境で、この数日過ごしていた。
とても書く気になれない。悲しくてやりきれない。この悲しみの所在について、正直に書けないブログなど、やめてしまおう。ふと思った。
きっかけは朗読だ。
この10月7日から、待ちに待った朗読会が発足し、練習が始まった。テキストは3題あり、その中に『雪国』がある。
『雪国』はあまりにも有名な作品だ。冒頭は、多くの日本人がそらんじることができるだろ。印象的な書き出しで始まる。駒子という北国の芸者がヒロインの、ノーベル文学賞受賞作だ。
映画にもなっている。主演は岸恵子。映画監督イヴ・シアンピに見初められた岸恵子が、フランスに渡る前に撮った、最後の映画が『雪国』だ。何かのインタビューで、彼女が語っていたのを覚えている。
「撮影が終わって、結い上げた日本髪の元結をぷっつりと切ったとき、ああ、これで日本での生活が終わったと思った」と。
有名な作品にもかかわらずちゃんと読んだことがなかったので、この際、じっくり読んでみた。
まず、この作品がなぜノーベル文学賞に選ばれたのか。よくわからなかった。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という、あまりにも有名な書き出しと異なり、全体的にわかりにくい文章なのだ。
ちなみに、国境を「こっきょう」と読むのか「くにざかい」と読むのか、長く論争があり、アカデミックな理屈では「こっきょう」ではなく、「くに」と「くに」の境として「くにざかい」と読むらしい。川端自身は特にこだわっていないようで、そんな作者の態度を反映してか、内容には「ぼかした」ようなあいまいな表現と、彼独特の表現が多くて、分かりづらい。日本語を話さない国の人が、よく理解できるなあと、疑問になるほどだ。
しかし。それにもかかわらず私の心を捉えた。捉えて離さないのだ。
捉えたのは、駒子という女性の、分かりすぎるほど直情的で、絶えず地団太を踏んで、身もだえしているような、「生き難さ」の感覚だ。
借金のために芸者になり、生活のためには旦那がいる。過去には許婚もいた。しかも旦那は鳥肌が立つほど嫌な存在で、惚れた男は妻子持ちで一緒になれず、ただ年に一度会いに来る。それも寒い冬。
この、惚れた男の常宿を、駒子は自分の部屋のように、深夜であろうと勝手に訪問し、夜明け前であろうと出てゆく。あるいは男は駒子の部屋に、深夜、駒子にともなわれて訪ねてゆく。
そうした駒子との逢瀬を男は、心待ちにしているが、このやり取りがすさまじい。普通の男性ならば引いてしまうような、素直さと、わからなさの混濁した感情を、激しく男にぶつける駒子。体当たりでぶつかってくる、激しく美しい女に、男は惹かれ、とまどい、受けとめきれず、女に対してあくまで受動的であり続ける。それが男にできる唯一の罪滅ぼしでもあるかのように。
この起伏の激しさが、共感と反感と一緒くたの感情を引き起こして、私を捉えて離さない。
そうだろうか? 反感の中には、自分を見ているようで嫌になるところがあるのではないか。生き難さの感覚を見ないように、見るとさらに辛くなる。だから自分を見ないようにするために、反感を感じて、正直な感情を誤魔化している。
そうかもしれない。
もういやだ。もういやだ、でも、どうにもならないんだぞっー、って、歯磨きのチューブのように、はらわたから搾り出して言いたいときがある。
ああ、ホントにもういやだ。嫌なんだ、でも、どうにもならん。でも、大人しいだけで生き続けるのは、本当にもう、もう嫌なんだ。
池袋からの帰り道、とある喫茶店に「体調を崩したので、しばらくお休みします」という張り紙がしてあった。私も、このブログに同じような張り紙をしたい心境で、この数日過ごしていた。
とても書く気になれない。悲しくてやりきれない。この悲しみの所在について、正直に書けないブログなど、やめてしまおう。ふと思った。
きっかけは朗読だ。
この10月7日から、待ちに待った朗読会が発足し、練習が始まった。テキストは3題あり、その中に『雪国』がある。
『雪国』はあまりにも有名な作品だ。冒頭は、多くの日本人がそらんじることができるだろ。印象的な書き出しで始まる。駒子という北国の芸者がヒロインの、ノーベル文学賞受賞作だ。
映画にもなっている。主演は岸恵子。映画監督イヴ・シアンピに見初められた岸恵子が、フランスに渡る前に撮った、最後の映画が『雪国』だ。何かのインタビューで、彼女が語っていたのを覚えている。
「撮影が終わって、結い上げた日本髪の元結をぷっつりと切ったとき、ああ、これで日本での生活が終わったと思った」と。
有名な作品にもかかわらずちゃんと読んだことがなかったので、この際、じっくり読んでみた。
まず、この作品がなぜノーベル文学賞に選ばれたのか。よくわからなかった。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という、あまりにも有名な書き出しと異なり、全体的にわかりにくい文章なのだ。
ちなみに、国境を「こっきょう」と読むのか「くにざかい」と読むのか、長く論争があり、アカデミックな理屈では「こっきょう」ではなく、「くに」と「くに」の境として「くにざかい」と読むらしい。川端自身は特にこだわっていないようで、そんな作者の態度を反映してか、内容には「ぼかした」ようなあいまいな表現と、彼独特の表現が多くて、分かりづらい。日本語を話さない国の人が、よく理解できるなあと、疑問になるほどだ。
しかし。それにもかかわらず私の心を捉えた。捉えて離さないのだ。
捉えたのは、駒子という女性の、分かりすぎるほど直情的で、絶えず地団太を踏んで、身もだえしているような、「生き難さ」の感覚だ。
借金のために芸者になり、生活のためには旦那がいる。過去には許婚もいた。しかも旦那は鳥肌が立つほど嫌な存在で、惚れた男は妻子持ちで一緒になれず、ただ年に一度会いに来る。それも寒い冬。
この、惚れた男の常宿を、駒子は自分の部屋のように、深夜であろうと勝手に訪問し、夜明け前であろうと出てゆく。あるいは男は駒子の部屋に、深夜、駒子にともなわれて訪ねてゆく。
そうした駒子との逢瀬を男は、心待ちにしているが、このやり取りがすさまじい。普通の男性ならば引いてしまうような、素直さと、わからなさの混濁した感情を、激しく男にぶつける駒子。体当たりでぶつかってくる、激しく美しい女に、男は惹かれ、とまどい、受けとめきれず、女に対してあくまで受動的であり続ける。それが男にできる唯一の罪滅ぼしでもあるかのように。
この起伏の激しさが、共感と反感と一緒くたの感情を引き起こして、私を捉えて離さない。
そうだろうか? 反感の中には、自分を見ているようで嫌になるところがあるのではないか。生き難さの感覚を見ないように、見るとさらに辛くなる。だから自分を見ないようにするために、反感を感じて、正直な感情を誤魔化している。
そうかもしれない。
もういやだ。もういやだ、でも、どうにもならないんだぞっー、って、歯磨きのチューブのように、はらわたから搾り出して言いたいときがある。
ああ、ホントにもういやだ。嫌なんだ、でも、どうにもならん。でも、大人しいだけで生き続けるのは、本当にもう、もう嫌なんだ。