14時46分発~パンドラの函を開けて

3・11以来、自分の中で変わってしまった何かと向き合いながら短歌を作り、書きつづる。それが今の自分にできること。

どうにも、こうにも

2009-10-19 08:24:07 | 3.11震災以前(芝居・映画)
 この頃はよく歩く。
 池袋からの帰り道、とある喫茶店に「体調を崩したので、しばらくお休みします」という張り紙がしてあった。私も、このブログに同じような張り紙をしたい心境で、この数日過ごしていた。

 とても書く気になれない。悲しくてやりきれない。この悲しみの所在について、正直に書けないブログなど、やめてしまおう。ふと思った。

 きっかけは朗読だ。
 この10月7日から、待ちに待った朗読会が発足し、練習が始まった。テキストは3題あり、その中に『雪国』がある。
 『雪国』はあまりにも有名な作品だ。冒頭は、多くの日本人がそらんじることができるだろ。印象的な書き出しで始まる。駒子という北国の芸者がヒロインの、ノーベル文学賞受賞作だ。
 映画にもなっている。主演は岸恵子。映画監督イヴ・シアンピに見初められた岸恵子が、フランスに渡る前に撮った、最後の映画が『雪国』だ。何かのインタビューで、彼女が語っていたのを覚えている。
 「撮影が終わって、結い上げた日本髪の元結をぷっつりと切ったとき、ああ、これで日本での生活が終わったと思った」と。

 有名な作品にもかかわらずちゃんと読んだことがなかったので、この際、じっくり読んでみた。
 まず、この作品がなぜノーベル文学賞に選ばれたのか。よくわからなかった。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という、あまりにも有名な書き出しと異なり、全体的にわかりにくい文章なのだ。
 ちなみに、国境を「こっきょう」と読むのか「くにざかい」と読むのか、長く論争があり、アカデミックな理屈では「こっきょう」ではなく、「くに」と「くに」の境として「くにざかい」と読むらしい。川端自身は特にこだわっていないようで、そんな作者の態度を反映してか、内容には「ぼかした」ようなあいまいな表現と、彼独特の表現が多くて、分かりづらい。日本語を話さない国の人が、よく理解できるなあと、疑問になるほどだ。

 しかし。それにもかかわらず私の心を捉えた。捉えて離さないのだ。

 捉えたのは、駒子という女性の、分かりすぎるほど直情的で、絶えず地団太を踏んで、身もだえしているような、「生き難さ」の感覚だ。
 借金のために芸者になり、生活のためには旦那がいる。過去には許婚もいた。しかも旦那は鳥肌が立つほど嫌な存在で、惚れた男は妻子持ちで一緒になれず、ただ年に一度会いに来る。それも寒い冬。
 この、惚れた男の常宿を、駒子は自分の部屋のように、深夜であろうと勝手に訪問し、夜明け前であろうと出てゆく。あるいは男は駒子の部屋に、深夜、駒子にともなわれて訪ねてゆく。
 そうした駒子との逢瀬を男は、心待ちにしているが、このやり取りがすさまじい。普通の男性ならば引いてしまうような、素直さと、わからなさの混濁した感情を、激しく男にぶつける駒子。体当たりでぶつかってくる、激しく美しい女に、男は惹かれ、とまどい、受けとめきれず、女に対してあくまで受動的であり続ける。それが男にできる唯一の罪滅ぼしでもあるかのように。

 この起伏の激しさが、共感と反感と一緒くたの感情を引き起こして、私を捉えて離さない。
 そうだろうか? 反感の中には、自分を見ているようで嫌になるところがあるのではないか。生き難さの感覚を見ないように、見るとさらに辛くなる。だから自分を見ないようにするために、反感を感じて、正直な感情を誤魔化している。

 そうかもしれない。
 もういやだ。もういやだ、でも、どうにもならないんだぞっー、って、歯磨きのチューブのように、はらわたから搾り出して言いたいときがある。
 ああ、ホントにもういやだ。嫌なんだ、でも、どうにもならん。でも、大人しいだけで生き続けるのは、本当にもう、もう嫌なんだ。

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