14時46分発~パンドラの函を開けて

3・11以来、自分の中で変わってしまった何かと向き合いながら短歌を作り、書きつづる。それが今の自分にできること。

気合いの入れ方

2012-10-29 23:48:40 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)

この際ですから『愛と哀しみのボレロ』を最初から
観てみることにしました。

もちろん、ネットで観られる限り、少しずつ。

初めて観た時も面白いと思いましたが、
いいですねえ。

年月を経てみるといろいろな見方を発見して、
さらに面白みが増します。


こういうスタートだったこともすっかり忘れていました。

このとき、ジョルジュ・ドンは、
自分の父親の役も演じているんですね。

それが嵌まっているというか、これがジョルジュ・ドンだと言われなければ
まったくわかりません。

何て素敵な俳優さんだろうと思ったこと、
思い出しました。


役者になってもよかったのに。
実際、演技の勉強もしているそうですから。



        『愛と哀しみのボレロ』の本当の冒頭部分


ロシアの将校ボリスの役なんですが、
ボリショイ劇場のバレリーナに応募してきた少女に一目ぼれ。

彼女をみつめている時の、
呆然としたまなざしが、たまらないですね。
美の虜(とりこ)になってしまった人のまなざしですよね。


それにいい声ですねえ。
すばらしい。名前を言っているだけなのに、声に表情があります。
大人だし。
カッコいい。


猛アタックの末結婚、やがてジョルジュ・ドン演じる、
セルゲイが生まれます。

映像はここで切れてしまいますが、その後、
父親は戦死して、確か戦死するシーンもあったはず。
長い行軍の果てに、息絶えてしまうのではなかったかしら。

彼女は一人でセルゲイを育てるわけです。
途中で再婚しますが。
最後の『ボレロ』のコンサートに招待されて、息子の晴れ姿を見るのです。


この最初の場面に出てきた人たちが、
最後に、ドンのステージを一緒に見ているのです。
そうとは知らずに。



こんなにいろんな才能があったジョルジュ・ドン。
存命なら今年65歳です。
後期高齢者ですよね。


彼は65歳まで人は踊ることができると言っています。
観たかったなあ。
後期高齢者になって踊るジョルジュ・ドン。

何を踊るのかなあ。

適切なトレーニングを重ねて、
その年齢に相応しい踊りができると考えていたようです。


「白鳥の湖」の王子や「ドンキホーテ」を踊っていると
思ってはいけないとドン自身は言っていますが、
でもね、よろよろとオデットを抱き上げる老王子も面白いし、
観てみたい気がします。


いやいや、老いらくの恋もいいかも。
オデットに恋い焦がれる老いた王子が、
オディールに色仕掛けで騙されて、死んでしまう・・・


それはありえませんね。
でも『瀕死の白鳥』なら十分考えられます。


そのためには、意識を変えなければならないと
1984年のインタビューで答えています。

ここではいろんなことを話していて興味深いのですが、
まだ、若い頃でしょうか。

身体的な欠陥や悩みをいっぱい抱えていたとも語っています。
身体の悩みはダンサーにとって深刻な問題です。

それで菜食主義に変えたようですが、
そういうダンサーの身体の状態に合わせて振付をするベジャールとの出会いは
とても幸運だったといいます。


この1984年、彼はベジャールのカンパニーでは踊っていません。
各地でボレロを踊っていたのでしょうか。
お金が必要なので、客演することもあると語っていますから。


日本で爆発的に人気が出るのは、
彼がもう30代に入ってからなんですね。


このインタビューの時は37歳です。
引退の年とそろそろ言われる頃ではないかと訊かれて、
まだまだ踊ると答えています。



こういう人が、最後にあの『ニジンスキー神の道化』を残したと思うと。
そして『ボレロ』の初演の頃には、


「あんたは、楽な踊りでいいね」と佐々木忠次氏に言われ、
「そうなんだよ。
誰でも踊れる踊りなんだ」と言い切ったことを思うと。



こんなちっぽけなわたしは、勇気を出さずにはいられません。


最近、つらい時は、こう答えたドンの気持ちを思ってみるのです。


今まで何をしてきたのか、
辛いのどうのと単純に弱音を言えたものではありません。

自分の果たすべきことをしろ、という声が、
ふつふつと沸いてくるのです。


たとえ、どんなに涙を流したとしても。



それにしても存命されているうちに、彼の舞台を見たかった。
来月30日は、彼の20年目の命日です。

原発事故とバレエを同列に語る

2012-10-29 16:37:09 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)
意外にもわたしだけでなく、
バレエと原発事故を同列に語れる人がいて、
少し嬉しくなりました。


ある方のブログからです。


まず、ひさしぶりに福島第一原発事故の爆発音を聞いてください。
冗談めかして言っているのではありません。


あのときの恐怖がよみがえりませんか?
絶対にないことにはできなかったこと。

決して忘れてはいけないことだからです。


        福島第一原発 3号機爆発(音付き)




わたしたちは何も知らずに、通勤のために歩き、
ご飯を食べた。



        アーニー・ガンダーセン氏の説明(水素爆発)



しばらくして、
ドイツのオペラ劇場が来るとか来ないとか騒いでいるときに、
シルヴィ・ギエムが日本で踊った。



シルヴィは日本に縁が深い。
それ以上にベジャールと、ジョルジュ・ドンともつながっている。



ドンが亡くなったのは、まさにベジャールが、
ギエムに『シシイ』を振りつけているときで、初日の直前だった。
稽古は即刻中止され、みながドンの喪に服した。


ドンは死ぬその時まで『シシイ』の舞台の心配をしていたという。


そしてドンのお葬式は『シシイ』の初日だった。
初日の舞台はドンにささげられた。


その後、ドンの『ボレロ』はギエムが引き継ぎ、
百三十数回まで踊り続けた。


やだな。
書いているだけで涙が出てくる。


人はえにしでむすばれている。




       3・11 間もない 日本で踊る シルヴィ・ギエム




相変わらず凄いが、シルヴイも歳を重ねたと思う。
音楽に随分助けられている踊りのように感じる。


ドンの晩年の踊りの壮絶さと見比べ、重ねてしまう。



理解の不足で

2012-10-29 00:08:20 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)
わたしは、ジョルジュ・ドンとモーリス・ベジャールに謝らなければならない。

先々週ぐらいだったか、このブログで、
ドンがベジャールの舞踏団を離れたことについて書いている。


ドンが「組織」を離れたとわたしは書いた。


しかしそれは大きな間違いだった。

二人に謝りたい。


ドンがいたベジャールのバレエカンパニーは「組織」ではなかった。


「家族=Family」だったのだ。
少なくともドンにとっては、そうだった。


わたしは今まで「組織」の中でしか働いたことがないので、
つい、こんないやな言葉が出てしまった。


「組織」の中で働くことが、いかに息苦しく、つらいか。
自分を隠し、押さえ、汲々とし、序順にとらわれ、
そんな自分に苦しみながら生きていくことに煩わされてばかりいた。

だからつい、そんな言葉が出た。


しかし「art」という、
目に見えないものを具現化し創造していく個と個の集団に、
「組織」という言葉ほど似合わないものはない。



わたしは、最後となったジョルジュ・ドンの舞台
『ニジンスキー 神の道化』を、偶然ネットで見て、
その衝撃に打ちのめされ、ぐざぐさと魂をゆさぶられてしまった。



どうにもならないほど涙が出て、
遠いところへ跳ばされてしまったような気がした。



『愛と哀しみのボレロ』1というクロード・ルルーシュ監督の映画で
彼の踊りを初めて知った。


その時も涙が出て、止まらなかった。
しかしそれ以後、彼のことを知ることはなかった。
それはあまりにも遠い存在だったからだ。


しかし20年の時の推移は、
ネットという便利なものを産み出した。


ジュルジュ・ドンと、再び出会ってしまった。
見知らぬ街のカフェで、偶然、初恋の人と遭遇するように。



『ニジンスキー 神の道化』を見て、
「ボレロ」しか知らなかったわたしの目が覚めた。



世界が一挙に広がった。


こんな素晴らしい踊りをする人がいたことに、
表現の多様さと深さ、人間の表現の豊かさに、再び胸が震えた。


以前より、もっともっと深いところで、
魂が泣いていた。


彼の踊りには人間の慟哭や、嘆きや悲しみ、そして子どものように純粋な歓びにあふれていた。



その感動と衝撃が今も続いている。


心の奥底深く、長いあいだ眠っていた「何か」が呼び覚まされ、
魂を動かすのだ。


共演者、シーペ・リンコフスキーの演技も素晴らしい。
彼女の名前も、わたしはジーペだと思っていたが、「シーペ」の間違いだった。
彼女にも謝りたい。



シーペは、1990年、モスクワの「ニジンスキーフェスティバル」で、
ドンとの共演により、最優秀共演者賞を受賞している。


ちなみに、この舞台は1990年と1991年にかけて、世界各地を回っている。
1990: 巡業公演"Nijinsky" Argentina, Brazil, Italia, Alemania, Moscu,
1991: 巡業公演"Nijinsky" Francia, Italia, Japón, Suiza, Bélgica, España


シーペもドンとの共演を大切にしていたのではないだろうか。
この2年間は、この作品にしか出ていない。
それだけ素晴らしい作品だったのだと思う。

ドンは死んでしまって20年もたつというのに、彼女はまだ存命だ。




相変わらず、前置きが長い。


ドンにとって、彼が踊っていたところは「組織」ではなく、
ベジャールの率いる「家族」だったという話だった。


ドンが、フランソワーズ・モレシャンとのインタビューの最後で
ルーツについて語っているところがある。



わたしのルーツはただ劇場です。
根はどこにでもおろすことができる。インドでもロシアでもどこでも・・・
ダンスをする限り世界がうちであり、
「デラシネではない」と言っている。

            
                 美の造化 ドンとモレシャントのインタビュー

          

ルーツに対する言葉として使っただけかもしれないが、
なぜ「デラシネ」などという強い言葉を使ったのか。
わたしは、正直ドキッとした。


デラシネとは「根なし草」あるいは「祖国喪失者」という意味だから。



ところが、最近、1984年刊行の「ダンスマガジン(アメリカ版)」の
ドンのインタビューを読んでやっとわかった。


彼がベジャールのカンパニーを「ファミリー」と考えていたことが。

「ファミリー」の一員として、ダンスをわかち、共感し、たえず議論してゆくなかで
ダンスを学び、深め、磨き、人間性を育ててゆくものだと考えていた。



だからこそ、ベジャールのカンパニーを離れることは、
よほどの決意が必要だったと思われる。
それは家族を失うことだから。


だから「デラシネ」なってしまうかもしれないという恐怖もあっただろう。
もしかしたら彼の病気も要因の一つだたのかもしれない。



そうした上での『ニジンスキー 神の道化』の上演と、
「ダンスをしている限り、世界中がわたしの家である」という発言を思うと、
切なくなってくる。

が、改めて決意の人だったのだと思う。

死から生をみつめること

2012-10-27 22:44:39 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)
今日は東洋大学に行ってきた。

午後1時~5時まで。ほぼ半日いた。


「死」について、
4つの視点から考察する発表を聞きに行った。
カバンの奥には、読みかけの『ニジンスキー自伝 完訳版』。


講演は面白かった。

とくにネルヴァルという19世紀フランスの放浪詩人からみた、
産業革命から近代化に向かう中で変遷していく死生観の話が、
一番聞きたかったものでもあり、興味深かった。



フランス革命ののち、
パリという一大都市が産業革命を迎え、
それによって、
いかに「死」を隠ぺいし、近代化に向かっていったか。


また、よく指摘されることだが、
そうした近代化という時空を、
精神病者を産み出していく過程として捉えられていたことも、
わたしの歴史観とも一致しとても興味深かった。


中でも、
放浪の詩人ネルヴァル(1808~1855)の散文によれば、
むかし、納骨堂では貴族の食事にあぶれた詩人たちが集い
死者を弔う詩をうたい、
食事などが振る舞われたという。

その場所は、現在でいえばパリ市庁舎から
歩いて5分ほどのところにあり、
横には骨が山積みされていたという。



「死」が確実に目に見えるところに存在していた。
まるでモーリス・ベジャールそのもののような世界だ。



そうしたなかで、貧しい人たちの家が立ち並び、
商いが行われ、ひとつの文化を形成していたという。
そして精神病者は「神の声を聞く者」として尊重されもした。


ところが産業革命を迎え、
都市の整備という名のもとに一掃されてゆく。


今日まで知らなかったが、たとえば、
有名な「カタコンベ」も死の隠ぺいのひとつであったという。


貧民窟を排除し清潔にするために、わざわざ墓を掘り起こし、
教会の下に移し替えたのである。



「死」と「闇」の隠ぺいである。
それはどこの国でも行われている。
今この現在においても。

かつての、「江戸」も「東京」も。
「死」を意味のある「死」から、肉体の終焉というただの「死」へ。




    
          1789…et nous(1789…そして私たち) フランス革命の時代と現代とを交錯させた描いたMベジャールのバレエ この中でピエロを演じるジョルジュ・ドン          
(大好きな場面・娼婦のドンに涙してしまう)




「死」が身近にあると、人は深く考える。


かつてわたしたちは「死」を共に享受することによって、
自らの贖罪とし、「神」へとつながる回路としてきた。


そうすることで「死」が意味のある「死」へと意味づけされてきた。

私たちにはそういう歴史があった。


それが「闇」であったり、猥雑な場であったり、カオスであり、エロスであったりもした。



死から生を問い直すことは決して後ろ向きなことではない。
むしろ、とても根源的なことではないだろうか。


ジョルジュ・ドンの死と生とが交錯する踊りを知れば知るほどそう思う。

ただの「死」が、「意味のある死」へと変換され、昇華する場として彼の踊りがある。


ジョルジュ・ドン ボヤージュ(旅)2-2


それにしてもこの、類人猿のドンはすごいなあ。

勇気はどこから

2012-10-26 19:02:33 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)
勇気をもらう、元気をもらうという言葉を、
とくに最近耳にします。


この言葉の使用に初めて気がついたのは、2年前のクリスマスでした。
震災の前の年で、まだTVを見ていた頃です。


NHKの番組で俵万智さんが、
「え? 勇気って自分から出てくるんじゃなかった?」と、
ある芸人さんの発言に疑問を持たれ、
他の出演者全員が呆然としたのを覚えています。


その時、わたしも、ああそうだ、と気がついたのです。


「勇気は人からもらうものではなく、自分の内側から出てくるものだった」と。


いつの間にか、わたしたちは
勇気や元気や希望という、自分の内側か沸き上がってくるはずの
本能的な感情を、
人からもらい、与えられるようなものだと、錯覚してしまうようになりました。

家の前の番犬のように。


あるいは、お土産か贈り物のようにやり取りされるものだと
錯覚してしまっているのです。


勇気が出る、希望を持つ、元気が出る。
これらは自動詞です。
それがいつの間にか、他動詞のように使われるのが普通になってしまいました。


本来なら、
そうした根源的な感情は、自分の内側からにじみ出し、
溢れてくるはずのものなのに。


「勇気をもらいました」という言葉を聞くと、
何だか湯水のように勇気を飲んだり食べたりして人は生きているのかと
思って染みます。


薄い気がするのです。


人と人の距離が広がったからなのでしょうか。
それとも、人自身の持ついのちの力が薄まってきたからなのでしょうか。



ところが、
そうした感情を呼び覚まし、喚起させ、目を覚ませと呼びかけているのが
ジョルジュ・ドンの踊る「ボレロ」です。
最近しきりににそう思うようになりました。



毎回毎回、「ボレロ」の話で恐縮しますが、
今年はジョルジュ・ドンの没後20年なので、
古いビデオがDVDにならないか、とのか思惑があってのことです。


また 1975年製作の映画『そして私はベニスに生まれた』の再再上映待ち焦がれてもいるのです。
タイムリーで見ることの出来なかった者の果てしない悔やみをこめて。


ただし、ネットが広がったおかげで、『若きダンサーへの手紙』を見ることができたのは本当に幸せです。


特に、終盤の16分の凄さは筆舌に尽くし難く、見るのも苦しいぐらいの壮絶な踊りで、
この映像が、ベジャールの遺作ともいえる大作、
そしてドンとフレディー・マーキュリーにささげられた『バレエ・フォー・ライフ』の
最後の映像に使われたということも最近知りました。


このときのドンの踊り見ると、勇気は「やり取り」される素材ではなく、
自分の中に眠っているものであると気づかされます。

誰でもできる

2012-10-26 02:16:43 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)
きのう、もう一昨日になるのですね。


水曜日の夜、
偶然FMラジオの生放送で「ボレロ」を聞いていた時、
解説者の方が、
モーリス・ラベルが「ボレロ」を作った時の話をされました。


当時、晩年のラベルは音楽院で教鞭をとっていたらしく、
学生たちに「ぼれろ」の延々と続くクレッシェンドについて聞かれて、
「あれは誰でも作曲できる曲だ」と言ったそうです。


解説の方も話していましたが、

「とても誰にでも作れる曲ではありません。
学生たちにも頑張って自分を越える作品を作ってもらいたかったのじゃないかな」
と話しておられました。


確かに。


それにしてもジョルジュ・ドンが佐々木氏に「あなたの踊りは楽でいいね」と
嫌味を言われた時のことを想わずにはいられません。


「そうなんだ。
誰にでも踊れる踊りなんだよ」
と切り返したドン。まだ20代の頃の話。



凛としたドンの姿が浮かんでくるようです。


もしかしたら、ラベルの言葉も知っていたのかもしれません。
そうあっても不思議ではありません。
彼は相当な勉強家です。


        すべての芸術においてその芸術を愛していたらよく練習し、
        よく勉強しなければ良い芸術家になれないと思います。   ジョルジュ。ドン




ペーパームーン社(1984年2月20日発行)の『ジョルジュ・ドン』メモワールを
古本で買いました。30年近く前の雑誌にしてはかなりの美品です。



ドンの写真がいっぱい載っています。
その代り評論家はドンの踊りに何も書いていません。

お堅い評論家様は、それまでのバレエの美学と因習にとらわれすぎて、
ドンの踊りを正確に表す言葉を見つけられなかったのではないかしら。


男の人が上半身裸で踊ることさえ「事件」みたいな扱いの、
時代だったのですから。


仕方なくベジャールの踊りの「体現者」のような言葉を与えて、
お茶を濁している程度。
しかしドンの踊りの本質はもっと深いところにあります。

それを見た人には必ず分かります。
だからこそ溢れ出される踊りが聴衆を魅了してやまないのだ。



「評価はお客さんがいちばんご存じでしょう」
とドンが言っていたことを思い出します。



少しですがドンの言葉が載っています。


       ダンスを始めることは宗教の道に入ることであり、
       人生を捧げる誓いを立てることです。

       私は自分の心に問い
       すべてを捨てたいと思いました。
                                  ジョルジュ・ドン


ある時から、彼は踊りの求道者、伝道師になることに人生を決めたんですね。
そしてその通りに生きてしまったと。


その頃の、ドンの踊りの「真価」を誰も正確には言い表すことができないでいる。
だから技術より、表現だ、エモーションだ、などという言葉でお茶を濁し、
べシャールを上にして、ドンをセットで語ることを編み出したのでしょうか。


ベジャールもドンと対等に仕事をしてきたことを認めている。
そして互いに譲らなかったこともあると。



今日はフランス革命200年祭のニュース映像をみつけました 1989年フランス革命祭ニュース(ドンは2分ごろから)
エッフェル搭の歴史が分かって面白いです。


あの完ぺきな腹式呼吸をマスターするだけでも大変なのに。


マヤ・プリセツカヤは
「赤く丸い縁台にのせられ、しじゅう蟹のような手をさせられて変な踊り」
とぼやいていました。

蟹のような格好とは、確かに明言ではありますね。
言い得て妙なり。



こちらはおまけです。先ほどの「ボレロ」が1989年のもので、こちらが1880年製作当時の映像


            映画『愛と哀しみのボレロ』よりラストシーン 



チャップリンの娘さんの歌の後、エッフエル搭からカメラがパンして降りてきて、
ドンがアップになるシーンが、本当に素敵だ。

神様が降りて来たかのような錯覚に陥ってしまう。

シンクロニシティ

2012-10-24 21:38:33 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)
先ほどお風呂から出て何気なくラジオをつけたら、なんと!

「ボレロ」の曲が聞こえてくる。
しかも、ドンの踊る「ボレロ」のちょうど、
3段ロケットが噴射されるあたりから、最後のクライマックスまで。


何という偶然でしょう。


こんな嬉しいことはありません。
本当は、もう少し聞きたかったんですけどね。


彼の踊る姿が、ありありと目に浮かびます。
実物にお目にかかったことは一度もないのに。
これは芸術の力強さと、再現力の力のたまものですよね。


サントリーホールで行われたN響コンサートの生放送だったらしく、
指揮者はロリン・マゼール。

ロリン・マゼールといえばフィラデルフィア管弦楽団を振っていましたよね。
1930年生まれなので、今年82歳。
すごいです。


いつもドンの踊る「ボレロ」を聞いているので、
今夜のボレロは、まったく別の「ボレロ」でしたが、
ブラボーでした。

解説者も、
円卓で踊るクライマックスの絶頂感が素晴らしいと言っていましたが、
円卓で踊る振付にしたのはベジャールからなんですけど。
ベジャールが自伝に書いていましたから。


「ボレロ」といえば円卓と、日本風にいえば「ちゃぶ台」という
刷り込みがはいっているのでしょう。
ちなみに「ボレロ」は、第1次世界大戦後の、
ラベル最晩年の作品だそうです。



ところで昨日、
マヤ・プリセツカヤが自身のバレエ人生を語っている映像をみました。
その中で「ボレロ」を踊った時のことに触れていました。

手首を曲げて肩の上にあげる仕草をしながら、
「蟹の格好だ、蟹の格好だ」って、
すごくいやそうな顔で話していました。

彼女の「ボレロ」はなんだかへなへなしていて楽しくありませんでした。
ちゃんと踊れていませんでしたし、
振付の意味も理解できなかったように思います。


ドンと「レダ」を踊っていますが、そちらの方が断然いい。


そういえば、「ボレロ」を踊っている時のドンは、
瞬きをしていません。
俯くことはあっても、決して瞬きはしていないことに、
今夜気がつきました。

    
          Madrid1989年

胸がいっぱい

2012-10-23 00:45:49 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)
先日発見し、このブログでも紹介した、

1992年、スイステレビで放送された番組の、
最後に踊るジョルジュ・ドンの姿の感動と衝撃が
まだ残っていて、

また見たくなってしまうけれど、
明日も明後日も仕事があるような時には、
恐ろしくてみることができない。


興味のある方はまた見てください。性懲りもなく、張り付けておきます。


    
     1992年、スイステレビ放送 『若きダンサーへの手紙』ジョルジュ・ドン  (最後の15分がすごすぎる)




前半は、マーラーで、
ドンが現代人から類人猿になってダンスを獲得する。
ここで終わってくれればいいのだが。


ところが、ここで終わらないところが彼の真髄。


自分の踊りを模索して、その後、えらいことになってしまう。


途中で音楽が消えてしまい、
後は声のみが聞こえてくる。


自分の行った所。踊ったダンスのタイトル。演じた人物。
ニジンスキー。
道化。


そして、最後の15分をみてしまうと、
あまりに凄過ぎて、遠いところに連れていかれる。
魂が遠くへ行ってしまって、戻ってこれない気がする。


ドンと一緒に、果てしない旅をしてしまうのだ。
まだ生きるためには、こっちに還ってこなくちゃならないのに。



そして、なんのかんの言いつつ、またまた見てしまう。
ため息しか出てこない。




大学の時、文学のコースで言われたことがあるが、
児童文学で重要なことは、
主人公が「行って還ってくる物語」でなければならないのだそうだ。



そこにあるのは、旅や冒険だけれど、
主人公がそうした経験を経て、
必ず「うち」に還ってくることができなければならない。


安心して「ただいま」とうちに帰ってこれること。


ドンが片道切符だけを握りしめて、単身ベルギーに渡った時、
ベジャールに「ただいま」と言ったそうだ。



「ただいま」とは、含蓄のある言葉だ。


それにしても、凄い旅の始まりだ。



今日はもう一回、迫力の「ボレロ」を見て寝るとしよう。


このとき、インタビューで、ドンは、
「踊りは遠いところへ行くための儀式」
と話しているような気がする。

違っていたら、恥ずかしいけど。そう思って見ている。



『ニジンスキーの手記 全訳』が他区の図書館から届いた。

ドンは若い頃にこれを読んでいる。
ドンが読んだ時代に、この本を読んだ人はほとんどいないだろう。
ニジンスキーの手記があることさえ知っている人はいなかったと思う。

愛しき人

2012-10-21 02:26:21 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)

人とは、ほんとうに不思議な生き物だと思う。


一見、よいことしか言わない人が、
その人にとって、本当によいことなのかどうかさえわからない。

いや、本当などという言葉も、ないといえばない。

生きている者にとっては、
すべてが、本当でもあり、嘘でもあり、
わたしたちはそのモザイクの中を生きているともいえる。


先日触れた、佐々木忠次氏の『闘うバレエ』に描かれている
ジョルジュ・ドンと氏の関わりを知ると、
人の不思議さを想わずにはいられない。


ドンの踊るボレロに、正面切って、
「あんたは楽でいいね、簡単な踊りで」
と言いきったのが佐々木氏。

その彼に、「そうなんだ。
誰でも踊れるんだよ」と切り返したドン。


その時ドンのはらわたは煮えくりかえっていたのか、
それとも、踊ったことのない人の言いそうなことだと
平然としていたのか。
氏の文章からは読み取ることはできない。


しかし、その後も佐々木氏とドンとの関係は
公演という形を通して続く。



ドンの楽屋には、いつも音楽がかかっていたという。
彼は特にクラッシックが好きで、佐々木氏が覗くと、いつも、
「これいいだろ」といって聞かせてくれたという。


こんなことなら、
ドンのCDを一枚もらっておけばよかった、と佐々木氏は書いている。
とんだ狸親父様だ。


それにひきかえ、ドンは何て無邪気な人なんだろう。


しかも胸を打つのは、
ドンの亡くなる数ヶ月前にパリで食事をした日のことだ。


読むと胸が痛くなる。


当時、ドンはスイスからパリに移って、
アパート住まいをしていたという。


そんな折、ドンの女マネージャーから佐々木氏に電話があり、
ドンが会いたがっているのでパリに来ることがあったら、
ぜひ連絡がほしいといわれ、
アパートの下のレストランで食事をすることになった。


そこはレストランではなくカンティーヌ(ただの食堂)だったと氏は書いている。
氏にしてみれば固くて食えない肉をドンは奨めたという。


「うまいだろ、うまいだろ」
と言って。


わたしは泣けてしまった。


なんでドンは、こんな時にこんな人に会いたがったのだろう。
自分の死が迫っているときに。


佐々木忠次氏は東京バレエ団の総監督であり、
日本舞台芸術振興会の専務理事という肩書の人である。
だから会いたがったのか。


自分の公演のお願いをしたいがために。
ひたすらダンスをするために。
もしかしたら佐々木氏は、彼のことをそう思ったのかもしれない。


しかしどうも、ちがう気がする。


ドンが「これ、いいだろ」と言って、
佐々木氏に音楽を聞かせようとした口調と、
「これ、うまいだろ。うまいだろ」
といって肉を奨めた口調が、どう読んでも同じに聞こえる。


彼は、たぐいまれな、共感性の持ち主だったのではないだろうか。
自分がよいと思うものを、誰かと分かち合わずには、いられない。
そういう無邪気な魂の持主だったと。


だからこそ、あの表現が生まれるのではないか。
そう思わずにはいられない。
そして純粋に、お礼をしたかったのではないだろうか。
踊りを知らない人の率直な感想を述べて、自分を成長させてくれた、
貴重なひととして。



ところで今日は、ドンの凄い映像を見て、
また、涙が出た。


1992年に放送されたらしいスイステレビの映像だ。
ドンの追悼の意味で放送されたのだろうか。

物語はあってないようなものだから、
分からない人には、わからないかもしれない。
ダンサーらしき人物が(ドン)が人類の死と再生の旅をする。

ネアンデルタール人からはじまり、ダンサーとなって再生し、
自分の踊りの旅をしながら、本来の踊りを獲得するが、
最後は、ピエロとなって踊り続けて、死をとげる。


ピエロとなった終盤の20分は、鬼気迫る。


特にピエロの衣装をかなぐり捨てて踊る最後の10分は、
壮絶な舞踏ドキュメンタリーだ。
痛くて、痛くて、観ていられないが、眼がくぎ付けにされてしまう。



      1992年 スイステレビ放送 ジョルジュ・ドン主演 若きダンサーへの手紙



勇気は人からもらうのではなく、自分の内側からわき出すものだという、
本質的なことを告げられたような気がする。
単純に死ぬことなんてできないのだ。


感動で、身動きできなくなって、涙があふれてきた。

動けない。

なんちゃって、ボレロ

2012-10-19 21:26:09 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)
寒くなりました。


冷え症の私は、突然思いついてボレロを踊り始めました。
もちろん、ドンもどきのなんちゃって「ボレロ」です。

いやはや。いやはや。

そうすると、
ベジャール振付の「ボレロ」がいかに身体に無理を強いるものであるか、
数秒で実感します。
そして一分もしないうちに足首があつくなります。


そこで気がついたことがあります。


ジョルジュ・ドンの踊る「ボレロ」の腰が、
なぜあんなに揺れるのか。


わかりました。

バレエの基本に実に忠実に踊り、
敢えて自分に無理難題をかせて、しなやかに踊ろうとしている、
だからなのです。

だからこそ、あのようにエロスの頂点のような、
大袈裟にいえば、
地球のエネルギーのすべてを絞り出すような動きを可能にさせているのです。


並みの踊り手では、あのように腰が揺れることはない。


想像してください。
バレエの基本のポジションの①は、両足を180度に開脚し、
さらに踝から膝、腿の内側をくっつけて立つポーズです。

ドンの踊るボレロは、前に踏み出した足は、必ず横一直線になっています。
リズムをとるときは、
常に基本の第①ポジションの姿勢をとっています。

その時、もう片方の足はどうなっているかというと、
後ろに引かれています。

ということは、
その状態では、左右の足にかかる力が、
たえず90度ねじれた方向に向かっていることになるのです。


その状態のまま、膝を落とすということはどういうことでしょうか。

たとえば左足は横に引かれますが、
右の足は後ろに引かれつつ、屈伸させられるわけで、
こんなことはとてもできません。
訓練を重ねたバレエダンサー以外は。


たとえて言えば、からだにギプスを嵌めて踊らされるようなもの。
これは日常にはありえない動作なのです。


それを、あのように軽々とやっているように踊るには、
肉体の限界への挑戦があってこその、なせる技です。

さらにドンの場合は、稀有なパフォーマンス、表現力が備わっていて、
だからこそ、誰にもできる簡単な踊りだよねと
言わせているのです。


普通ではできません。


踊ってみて初めてわかるその難しさです。


ところで、ベジャールの回想録にはドンの面白い一面が書かれています。
中でも、
        「ドンはとても精悍だった。
         くたくたになるまで踊りたがった」

という記述があります。

それを証明する映像が残されています。
なるほどなあ、と感慨にふけりながら観ています。


ドンという人は、本当に興味が尽きません。
知れば知るほと多面的な要素に満ちています。


最後の方に、くたくたになるまで踊ってしまったドン 「想像のモリエール」より 詩人の恋が映っています。


仏像を横に置き、(これは回想録に書かれていた仏像だと思いますが)、
とうとうと作品について語るベジャール。
最後のほうでドンの、「バクティ」について話しているようです。

そしてこのインタビューの最後で、まあとにかく
やるだけ回るんだぞという感じで、回転しているドンの映像で終わります。

恐らく、50回ぐらい回転していると思います。


ここまで踊らせてくれてありがとう! という感じで、
仲間にお辞儀をしているドン。
この映像のドンが、ほんとうに可愛らしい。


愛すべき人だったんだとつくづく思います。