国会の前に何万人ものデモが集まっている映像を観ました。
確かにこの世界は、考えるだけではなくて行動を伴うことがとても大切です。
ただ、これを観たお笑いの大御所が、戦争反対は分かるにせよ、ナゼ国会議事堂に向かってそれをやるのかが分からないと鋭いことを言って
いました。
その通りなのです。
こんな奇妙な現象が違和感なくスルーされてしまっていることこそ、今一度、考え直さなくてはいけないことではないかと思います。
反戦を訴えるなら、そもそも当事国やその大使館に向かってやるのが筋です。
不鮮明な領海の珊瑚を次々と埋め立てて滑走路を作ったり、大々的に軍事パレードをやったりというのは、明らかに力でもって強引に事を
成そうとする態度です。
顔色をうかがったりせず、その国に対して反戦を訴えるのは極めて自然なことだと思います。
PEACEというプラカードは相手にこそ向けるものなのに、なぜ身内に向けて叫んでいるのでしょう。
本当に、私たちの国が戦争を引き寄せると思っているのでしょうか。
日本さえ何もしなければ戦争には巻き込まれないと本気で思っているのでしょうか。
そのような思慮不足でないとするならば、もはや日本の国防を崩すための確信的な扇動だと疑わざるを得ません。
このおかしな構図に、しかし私たち日本人だけは全く違和感を覚えなくなってしまっています。
厳しい言い方ですが、正直、他の国から見れば正気の沙汰ではないでしょう。
そもそも今の隣国の力で来られたら、日本一国だけでは支えきれません。
それは国防に対して足を引っ張り続けた結果ですから仕方ありません。
そして、私たちでさえそのように思うくらいなのですから、まして自信過剰の隣国がどう思ってしまうかということです。
ひとひねり、余裕、と鼻息荒くなるに決まっているわけです。
戦争の気運というものは、雰囲気だったりエモーショナルなものが全てです。
勝てる!と思わせてしまった時点で極めて危険な状態へ突入してしまうということです。
舐められるネタをジャイアンに渡したら、その傍若無人ぶりに拍車がかかるというのは子供でも分かることです。
実際の兵力はまだ勝っているとかそのような客観的事実は全く意味を成しません。
彼らの感情的なものを抑えられるかどうか、余裕で一捻りなどと思わせないことが全てであるわけです。
だからこそ、アメリカとの協力強化の姿勢をはっきりと示す必要があるのです。
もしもここで安保はやめて日本一国だけで軍事強化していったらば、その先の展開は火を見るよりも明らかです。
それはそれで過度に不安を膨らました隣国が、早いうちに手を打っておこうと考えるでしょう。
逆に軍備をおろそかにしてイイ人を演じても、単に弱い人と見られて一巻の終わりでしょう。
弱く見られても構わないというのは、想像力の欠けた自己満足でしかありません。
外交というのは、自分がどう思うかではなく、相手がどう思うかです。
それを悲しいとか、そんなはずはない、などと感情や観念の土俵にあげてしまうこと自体、幼いと言わざるを得ません。
それは「自分の立ち位置に相手を置いて考えている」ということに気づくべきです。
相手の立場に自分を置いて考えるのが大人というものです。
自分が動かずに相手を動かそうとするのは傲慢以外のなにものでもありません。
アメリカと手を組むというのは昔からやってることですので、今さら隣国が過剰なヒステリーに陥ることはありません。
それによって別の苦労が生じるのは仕方のないことです。
一番大事なものは何であるかを考えなくてはいけません。
何も波立たせずに安穏と暮らしたいというのは単なるワガママです。
もとより、黙っていても危機が近づいているのは明らかなことです。
遅かれ早かれ、このまま平和に過ごしていくことは不可能なわけです。
だからといって相手をなだめすかしたところで、何か変わるようなものではありません。
何故ならば、相手は自分たちのやってることを悪とは思っておらず、むしろ正義であると本気で思っているからです。
そもそも価値観というのは、私たちが作った幻想に過ぎません。
国によって、また人によって、もとより違うのが当たり前です。
みんな仲間だ、みんなおんなじと、お花畑で輪になって踊るのは幸せなことかもしれませんが、希望的観測だけの安心感に浸るのは身を滅ぼす
ことにしかなりません。
人間は、分かり合えないところがあるのが当たり前なのです。
相手の芯の部分まで分かろう、自分の芯の部分まで分かってもらおう、とするのは単なるエゴでしか無いわけです。
相手の立場になって考え、分かってもらえる部分と、分かってもらえない部分を明らかにする。
そうしてお互いの分かり合える部分で会話を図ろうとするのが、相手を一人の大人として、また自分も一人の大人として互いを立てることに
なります。
「皆それぞれに違う」という事実を受け入れることが、調和への一歩となるのです。
ベトナム戦争の時のように自国が引けば収まるような場面ならば、政府にプラカードで訴えるのもありでしょう。
しかし今現在、私たちの国は何一つ押してなどいません。
逆に、玄関のすぐそばにまで暴漢が押し寄せようとしている状況です。
そうした状況を一切合切無視して、坐して冷静に振る舞うのが大人の態度なのだと幼稚にカッコつけても、状況など変わるものではないのです。
道路を斜め横断する輩は、車が近づいてきても慌てることなく、当てつけのように足の速度を緩めて堂々と歩いたりします。
あたかも、悠然と振る舞っている姿が男らしいのだとでも言いたげな様子で。
しかしいくら、自分は己の危険も顧みず車の減速を勝ち取ったと言い張ったところで、それは約束された安全に寄りかかった虚勢でしかないわけ
です。
極めて危うい行為であることに気付いていないのは己一人だけなのです。
それは、車の運転手が自分と同じルールに生きているという決めつけだけが唯一の頼りでしかありません
轢かれて死んで怒ったところで、もう命が戻ることはないわけです。
「自分たちの好きなように道路を横断したい。私たちを縛るな。それが自由だ。」
つまりは、そういうことなのです。
車は人を優先するものというのが当たり前になりすぎて、命の危険が想像できなくなってしまっている。
でも世界には、それこそ、車が人を優先させない国もあるわけです。
人が道を渡っていようともお構いなしに車がガンガン走る映像を目にしたことがあると思います。
そのような国では、車とか人とかではなく、あくまで他人よりも自分を優先させるのが当たり前のルールなのです。
そこには、約束された安全などどこにもありません。
そうした日々の生活マナーこそが、その民族の根本的な価値観であることは疑いようもありません。
つまりは、表向きはどうであれ、国の外交においても間違いなくそれと同じものがベースにあるということです。
それがいいとか悪いとかではなく、価値観とは、もとより違うのが当たり前というだけの話です。
心の底から全てをわかり合おうというのは夢物語でしかありません。
アカの他人なのだから、通じるところもあれば通じないところもある。
それを四の五の言わず、そのまま受け入れた上で、その先の会話をするのが大人の対応であるわけです。
重ねて喩えるならば、武装した相手に遭遇した時には、逃げるか構えるかどちらかしかありません。
相手を刺激しないように両手を挙げて相対する場合も、心だけはスッと引き締めるものです。
そこで心も緩めて「刺すはずないよね」と独り言を唱えても、その声が届くかどうか、そんなことを知っているのは相手だけです。
こちらが決められることではありません。
自分で自分の暗示に掛かって、ニコニコしながら両手を広げるのは危険極まりない行為です。
絶望的な結果に見舞われたところで、全ては後の祭りでしかないわけです。
殴るより殴られたほうがいいなどという綺麗事は、責任ある大人のセリフではありません。
己の甘さで我が子を命の危険にさらすようなことは、どのような弁解をしても許されるものではないのです。
何が一番に優先されるべきかです。
己の価値観や美意識よりも大事なことがあるはずです。
戦後から昭和、そして平成へと、日本は目に見えないおかげさまに囲まれて幸せな時を過ごしてきました。
当たり前すぎてその特別さを忘れてしまうものが、お陰様であるわけです。
過去の周辺諸国の情勢というのも、今となってはそんなおかげさまの一つだったと言うことができます。
自分のどんなワガママ放題も許される社会というのは、ある意味、理想の社会と言えるでしょう。
何故なら、好き勝手を受け入れて見守るだけの余裕が社会にあるからです。
そして、たまたま様々なお陰様があったために、今までの日本は奇跡的にそれが成立してきました。
本当にこれから先もそれが続けばいいだろうなと私も思います。
ただそれは国内の平穏とともに、周辺情勢の平穏があればこそ叶う話なわけです。
おかげさまの一角が崩れて状況が変わってしまったのなら、それはそれで仕方がないと心を決めるしかありません。
家庭や仕事でも同じでしょう。
現状を変えたくないと思っていても環境とは意図せず変わるものですから、それで自由度が目減りしたとしても、私たちはそれを受け入れる
しかありません。
こんなのはイヤだと納得できずにその場で悶々とするのは、オモチャ売り場でしゃがみ込む駄々っ子と何も変わりありません。
そして、親があってこそ初めて子供がワガママを言えるように、国があってこその国民のワガママであるわけです。
余裕のあるうちは、親も甘くなってワガママを見逃してあげます。
しかし当然ながら、親としては常に子供の命こそが最優先です。
その場の点数稼ぎを優先させてワガママを許した結果、子供の命を危険にさらすようでは親失格です。
あまりにも優先順位が違いすぎます。
危険地帯へフラフラ歩いていく子供を止めるのは当たり前のことです。
それを「自由を奪う行為だ」と非難するのはお門違いです。
そこで己の我欲が抑圧されることに苛立ちを覚えるなら、親ではなく相手国を恨むしかありません。
にも関わらず、親に向かってヒステリックに騒ぎ立てる姿は、駄々をこねる行為でなくしていったい何だと言うのでしょうか。
本人としてはもっともらしい理屈を並べているつもりでも、ハタから見れば子供の域を出ません。
本当に、いま一度真っさらになって、冒頭のシーンを眺めて観てみて下さい。
あれだけの人数が国会議事堂に向かって非難轟々に騒ぎ立てている姿をです。
隣近所に物を申すことができず自分の親に向かって偉そうに暴言を吐いている子供にしか見えないのではないでしょうか。
子供は、自由と我欲の区別ができません。
何となれば、自由とは我欲のままに好き勝手できることだと勘違いしてしまいます。
調和とは、我欲を光のケシ粒へと浄化させた先に生じるものです。
オンリーワンだとかオリジナルだとかアイデンティティーだとか聞いたような口を叩いて己の我執を正当化しようとするのは、思考停止のまま
安全地帯に逃げ込もうとする子供の理屈です。
自由さとは好き勝手にやっていいことではありません。
やりたい放題というのは単なるワガママ、欲に溺れた行為でしかありません。
それを自由人だとか、独自性だとか言うのは、どこまで行っても逃げ口上です。
己のワガママが抑えられてしまう窮屈さを、論理のすり替えで、自由の侵害だと叫ぶ。
もしも自由と我欲の区別をつけて叫んでいるというならば、単に逃げたいだけだと言われても仕方のないことでしょう。
デモの中には、国の解体を心底願って扇動している輩も入り込んでいます。
昔はヘルメットをかぶったりタオルで顔を隠したりしていましたが、今はもっとスタイリッシュに若々しく颯爽と振る舞っています。
見た目だけではアッサリ騙されます。
でもその言葉をマスコミを介さずに、しっかりと自分の腹で聞けばその浅さは明らかです。
私たちは自分の心に柱を立ててしっかりと全景を見渡すことが大事ということです。
あたかも何かをやり遂げたかのようなマラソン感覚だけを求めて、何となく市民運動に参加することほど愚かしいことはありません。
戦争は誰だって嫌です。
だからこそ色々なことを我慢してそれを阻止しようと頑張るのです。
我慢は嫌だ、でも戦争も嫌だ。
これのどこが大人だと言えるのでしょうか。
そしてバカのひとつ覚えのように自由侵害を叫ぶ。
しかし、そもそも我欲に溺れて居なければ、ワガママを抑える法律や風潮が押し寄せてきたところで、そんなものはどこ吹く風になるはずです。
何故ならば、自分とは接点のない話になるからです。
そこでは自由は何一つ侵害されていないということです。
調和というものは、各々の我欲が薄れていくことで自然と生じて来ます。
各々が好き勝手にやっても調和が成立するなんていうのはファンタジーでしかありません。
「自由の中で個性を育てる」として我欲の垂れ流しを許した、ゆとり教育というものがありました。
しかしその先にあったのは調和どころか学級崩壊でした。
これを愚民化政策でなくして何だというのでしょうか。
私たちは自分一人の力で生きているのではありません。
色々なものに庇護されながら生かして頂いています。
そしてその庇護する存在も、私たちに庇護されて生かされています。
これが本当の調和です。
国が我欲に走り、短絡的で幼稚な態度を取った時には、私たちはそれを死ぬ気で食い止める必要があります。
しかし、自分のその公憤が本当に我が親のことを思ってのものであるのか、それとも単に自分自身の我欲を正当化するための駄々に過ぎない
のか、そこをしっかりと見極めなくてはいけません。
隣の子供が泣き出したからといって自分もつられて泣き出すようでは話になりません。
話を隣国に戻します。
相手のワガママが過ぎる時には、相手が自ずとそれを止める気持ちになるように導かなければ、調和というのは生じません。
いくらこちらがニコニコ平和に諭そうとしても、相手のワガママを許してしまっている限り、永遠に調和など訪れません。
ワガママの過ぎる人に対してヘラヘラしたり、聖人君子を気取っても、相手には何も伝わりません。
つまり、そんなことは相手を受け入れる行為でも何でもないわけです。
相手が大人である場合は成立しますが、子供相手にそれをやったところで、むしろ相手は勘違いして増長するだけ。
結局は、相手の暴走の片棒を担ぐことにしかならないわけです。
つまり単なる自己満足だけでは済まず、罪作りになり兼ねないということです。
相手に自制を促すためにこちらも毅然とした態度を示すのは、当たり前のことなのです。
それによって相手も我欲にエネルギーを注ぐことをハタとやめるようになります。
つまり、内側から己の我欲を透明化させることになります。
まさしく、これと同じことが目の前で起こっています。
いま私たちの国は、私たちを守り、そして相手をも守ろうとしているのです。
それでもまだ「いや日本だって昔は隣国と同じく幼かった」とか「相手はまだ成熟してないのだ」「だから見守ってあげよう」と言う人が居る
かもしれません。
ただそうやって棚上げして先送りにできる時代はとっくの昔に過ぎ去りました。
それが綺麗事のお花畑でしか無いのは誰の目にも明らかです。
そんな余裕は、こちらが圧倒的な腕力を持っていて初めて成立することです。
もう時間がないのです。
今どうすれば良いか、たとえベストの答えが出なくとも何かをしなくてはいけないのです。
「昔の日本も子供だったのだから、いま子供である相手も大目に見てあげよう」
それは責任ある大人の態度ではありません。
昔は子供を厳しく躾けるのが大人の務めでした。
誰だって子供の頃ちゃんとしていなかったのは同じです。
それでも大人になって子どもを厳しくガツンとやる。
自分のことは棚に上げてでも、いや、むしろ同じ道を通っていればこそ、道を誤らせてはならないとガツンとやっていたのです。
それが大人の務めというものではないでしょうか。
今は子供を叱れないオトモダチ感覚の大人が増えてしまいました。
それをもって、成熟した社会であり人権を尊重した自由な社会だとするのは、あまりにも幼稚すぎます。
その結果、子供たちは大人をますます馬鹿にするようになり、己のワガママを抑制できなくなりました。
いま相手国に対してやっているのは、それと同じことであるわけです。
そうして、今もまた自国ではヤイノヤイノと騒いでいます。
このまま子どものワガママを許し続けていては、親も堪え切れなくなってしまいます。
暴漢に親が倒されてから自分はなんてバカなことをしてたのかと悔やんでも遅すぎるのです。
今その一番のタガとなっているのは総理大臣と言っていいかもしれません。
もちろん両陛下という存在もおられますが、昔の父親のような厳しさで必死に家を護ろうとしているのは総理であるわけです。
世界から見れば、それは誰が見ても明らかなことでしょう。
ましてや、この国をどうにか倒してやろうと考えている人間たちからすれば、まさに苦々しい存在であるわけです。
彼らからすれば、どんなことをしてでも外してしまいたい棟持柱です。
今はたったこの一柱の強さでもって、この国は支えられています。
だから危ないのです。
それさえ無ければ、あとはワガママ放題の放蕩息子しかいない。
彼らはそう考えています。
今さら他の政治家が頑張ればいいということではありません。
嫌われようと噛み付かれようと、我が身を顧みず子を護ろうとする人間はそうそう居ません。
もはやそのような他人まかせでどうにかなるような時代ではありません。
私たち一人一人が、独り立ちする時なのです。
それこそが散々言われてきた、オリジナリティであり、アイデンティティーであり、オンリーワンであるわけです。
私たち一人一人が、頑強な棟持柱でなくてはなりません。
一柱を外したところでどうにも揺るぎそうにないと、相手にそう思わせなくては真の調和は訪れません。
国会に向かっていつまでも群れ成して騒いでいるようでは、これからの時代、本当にやられます。
いま、己の命を懸けて御子を護ろうとしている親柱を、あろうことかその子供たちが大勢で揺すって倒そうとしています。
その先にあるのは、学級崩壊などではなく日本崩壊です。
この国が無くなったら、人類の希望は永遠に失われてしまいます。
今こそ、一人一人が自らの心に柱を立てて、幾千万もの棟持柱となる時です。
もしかしたら私たちが、いまここに生まれてきたのはそのためなのかもしれません。
それは何も、全身全霊、精魂込めて頑張るということではありません。
心にスッと芯を通す、ただそれだけのことです。
この国が危うい。
何とかしなくては。
その思いは、すでに光の柱となって天地を貫き通すことでしょう。
これまでも、そして今この時も、私たちは数多くの目に見えないおかげさまによって護られています。
幾千億もの光の柱が、この国を、そしてこの世界を支えています。
私たち赤子は、その下でこうして生かして頂いています。
まずは、今この私たちが大人などではなく、ただの赤子でしかなかったことに気がつくことです。
そして私たちは、この小さな手をほんの少しでも伸ばして、ひとり立ち上がってみる時に来ているのです。
確かにこの世界は、考えるだけではなくて行動を伴うことがとても大切です。
ただ、これを観たお笑いの大御所が、戦争反対は分かるにせよ、ナゼ国会議事堂に向かってそれをやるのかが分からないと鋭いことを言って
いました。
その通りなのです。
こんな奇妙な現象が違和感なくスルーされてしまっていることこそ、今一度、考え直さなくてはいけないことではないかと思います。
反戦を訴えるなら、そもそも当事国やその大使館に向かってやるのが筋です。
不鮮明な領海の珊瑚を次々と埋め立てて滑走路を作ったり、大々的に軍事パレードをやったりというのは、明らかに力でもって強引に事を
成そうとする態度です。
顔色をうかがったりせず、その国に対して反戦を訴えるのは極めて自然なことだと思います。
PEACEというプラカードは相手にこそ向けるものなのに、なぜ身内に向けて叫んでいるのでしょう。
本当に、私たちの国が戦争を引き寄せると思っているのでしょうか。
日本さえ何もしなければ戦争には巻き込まれないと本気で思っているのでしょうか。
そのような思慮不足でないとするならば、もはや日本の国防を崩すための確信的な扇動だと疑わざるを得ません。
このおかしな構図に、しかし私たち日本人だけは全く違和感を覚えなくなってしまっています。
厳しい言い方ですが、正直、他の国から見れば正気の沙汰ではないでしょう。
そもそも今の隣国の力で来られたら、日本一国だけでは支えきれません。
それは国防に対して足を引っ張り続けた結果ですから仕方ありません。
そして、私たちでさえそのように思うくらいなのですから、まして自信過剰の隣国がどう思ってしまうかということです。
ひとひねり、余裕、と鼻息荒くなるに決まっているわけです。
戦争の気運というものは、雰囲気だったりエモーショナルなものが全てです。
勝てる!と思わせてしまった時点で極めて危険な状態へ突入してしまうということです。
舐められるネタをジャイアンに渡したら、その傍若無人ぶりに拍車がかかるというのは子供でも分かることです。
実際の兵力はまだ勝っているとかそのような客観的事実は全く意味を成しません。
彼らの感情的なものを抑えられるかどうか、余裕で一捻りなどと思わせないことが全てであるわけです。
だからこそ、アメリカとの協力強化の姿勢をはっきりと示す必要があるのです。
もしもここで安保はやめて日本一国だけで軍事強化していったらば、その先の展開は火を見るよりも明らかです。
それはそれで過度に不安を膨らました隣国が、早いうちに手を打っておこうと考えるでしょう。
逆に軍備をおろそかにしてイイ人を演じても、単に弱い人と見られて一巻の終わりでしょう。
弱く見られても構わないというのは、想像力の欠けた自己満足でしかありません。
外交というのは、自分がどう思うかではなく、相手がどう思うかです。
それを悲しいとか、そんなはずはない、などと感情や観念の土俵にあげてしまうこと自体、幼いと言わざるを得ません。
それは「自分の立ち位置に相手を置いて考えている」ということに気づくべきです。
相手の立場に自分を置いて考えるのが大人というものです。
自分が動かずに相手を動かそうとするのは傲慢以外のなにものでもありません。
アメリカと手を組むというのは昔からやってることですので、今さら隣国が過剰なヒステリーに陥ることはありません。
それによって別の苦労が生じるのは仕方のないことです。
一番大事なものは何であるかを考えなくてはいけません。
何も波立たせずに安穏と暮らしたいというのは単なるワガママです。
もとより、黙っていても危機が近づいているのは明らかなことです。
遅かれ早かれ、このまま平和に過ごしていくことは不可能なわけです。
だからといって相手をなだめすかしたところで、何か変わるようなものではありません。
何故ならば、相手は自分たちのやってることを悪とは思っておらず、むしろ正義であると本気で思っているからです。
そもそも価値観というのは、私たちが作った幻想に過ぎません。
国によって、また人によって、もとより違うのが当たり前です。
みんな仲間だ、みんなおんなじと、お花畑で輪になって踊るのは幸せなことかもしれませんが、希望的観測だけの安心感に浸るのは身を滅ぼす
ことにしかなりません。
人間は、分かり合えないところがあるのが当たり前なのです。
相手の芯の部分まで分かろう、自分の芯の部分まで分かってもらおう、とするのは単なるエゴでしか無いわけです。
相手の立場になって考え、分かってもらえる部分と、分かってもらえない部分を明らかにする。
そうしてお互いの分かり合える部分で会話を図ろうとするのが、相手を一人の大人として、また自分も一人の大人として互いを立てることに
なります。
「皆それぞれに違う」という事実を受け入れることが、調和への一歩となるのです。
ベトナム戦争の時のように自国が引けば収まるような場面ならば、政府にプラカードで訴えるのもありでしょう。
しかし今現在、私たちの国は何一つ押してなどいません。
逆に、玄関のすぐそばにまで暴漢が押し寄せようとしている状況です。
そうした状況を一切合切無視して、坐して冷静に振る舞うのが大人の態度なのだと幼稚にカッコつけても、状況など変わるものではないのです。
道路を斜め横断する輩は、車が近づいてきても慌てることなく、当てつけのように足の速度を緩めて堂々と歩いたりします。
あたかも、悠然と振る舞っている姿が男らしいのだとでも言いたげな様子で。
しかしいくら、自分は己の危険も顧みず車の減速を勝ち取ったと言い張ったところで、それは約束された安全に寄りかかった虚勢でしかないわけ
です。
極めて危うい行為であることに気付いていないのは己一人だけなのです。
それは、車の運転手が自分と同じルールに生きているという決めつけだけが唯一の頼りでしかありません
轢かれて死んで怒ったところで、もう命が戻ることはないわけです。
「自分たちの好きなように道路を横断したい。私たちを縛るな。それが自由だ。」
つまりは、そういうことなのです。
車は人を優先するものというのが当たり前になりすぎて、命の危険が想像できなくなってしまっている。
でも世界には、それこそ、車が人を優先させない国もあるわけです。
人が道を渡っていようともお構いなしに車がガンガン走る映像を目にしたことがあると思います。
そのような国では、車とか人とかではなく、あくまで他人よりも自分を優先させるのが当たり前のルールなのです。
そこには、約束された安全などどこにもありません。
そうした日々の生活マナーこそが、その民族の根本的な価値観であることは疑いようもありません。
つまりは、表向きはどうであれ、国の外交においても間違いなくそれと同じものがベースにあるということです。
それがいいとか悪いとかではなく、価値観とは、もとより違うのが当たり前というだけの話です。
心の底から全てをわかり合おうというのは夢物語でしかありません。
アカの他人なのだから、通じるところもあれば通じないところもある。
それを四の五の言わず、そのまま受け入れた上で、その先の会話をするのが大人の対応であるわけです。
重ねて喩えるならば、武装した相手に遭遇した時には、逃げるか構えるかどちらかしかありません。
相手を刺激しないように両手を挙げて相対する場合も、心だけはスッと引き締めるものです。
そこで心も緩めて「刺すはずないよね」と独り言を唱えても、その声が届くかどうか、そんなことを知っているのは相手だけです。
こちらが決められることではありません。
自分で自分の暗示に掛かって、ニコニコしながら両手を広げるのは危険極まりない行為です。
絶望的な結果に見舞われたところで、全ては後の祭りでしかないわけです。
殴るより殴られたほうがいいなどという綺麗事は、責任ある大人のセリフではありません。
己の甘さで我が子を命の危険にさらすようなことは、どのような弁解をしても許されるものではないのです。
何が一番に優先されるべきかです。
己の価値観や美意識よりも大事なことがあるはずです。
戦後から昭和、そして平成へと、日本は目に見えないおかげさまに囲まれて幸せな時を過ごしてきました。
当たり前すぎてその特別さを忘れてしまうものが、お陰様であるわけです。
過去の周辺諸国の情勢というのも、今となってはそんなおかげさまの一つだったと言うことができます。
自分のどんなワガママ放題も許される社会というのは、ある意味、理想の社会と言えるでしょう。
何故なら、好き勝手を受け入れて見守るだけの余裕が社会にあるからです。
そして、たまたま様々なお陰様があったために、今までの日本は奇跡的にそれが成立してきました。
本当にこれから先もそれが続けばいいだろうなと私も思います。
ただそれは国内の平穏とともに、周辺情勢の平穏があればこそ叶う話なわけです。
おかげさまの一角が崩れて状況が変わってしまったのなら、それはそれで仕方がないと心を決めるしかありません。
家庭や仕事でも同じでしょう。
現状を変えたくないと思っていても環境とは意図せず変わるものですから、それで自由度が目減りしたとしても、私たちはそれを受け入れる
しかありません。
こんなのはイヤだと納得できずにその場で悶々とするのは、オモチャ売り場でしゃがみ込む駄々っ子と何も変わりありません。
そして、親があってこそ初めて子供がワガママを言えるように、国があってこその国民のワガママであるわけです。
余裕のあるうちは、親も甘くなってワガママを見逃してあげます。
しかし当然ながら、親としては常に子供の命こそが最優先です。
その場の点数稼ぎを優先させてワガママを許した結果、子供の命を危険にさらすようでは親失格です。
あまりにも優先順位が違いすぎます。
危険地帯へフラフラ歩いていく子供を止めるのは当たり前のことです。
それを「自由を奪う行為だ」と非難するのはお門違いです。
そこで己の我欲が抑圧されることに苛立ちを覚えるなら、親ではなく相手国を恨むしかありません。
にも関わらず、親に向かってヒステリックに騒ぎ立てる姿は、駄々をこねる行為でなくしていったい何だと言うのでしょうか。
本人としてはもっともらしい理屈を並べているつもりでも、ハタから見れば子供の域を出ません。
本当に、いま一度真っさらになって、冒頭のシーンを眺めて観てみて下さい。
あれだけの人数が国会議事堂に向かって非難轟々に騒ぎ立てている姿をです。
隣近所に物を申すことができず自分の親に向かって偉そうに暴言を吐いている子供にしか見えないのではないでしょうか。
子供は、自由と我欲の区別ができません。
何となれば、自由とは我欲のままに好き勝手できることだと勘違いしてしまいます。
調和とは、我欲を光のケシ粒へと浄化させた先に生じるものです。
オンリーワンだとかオリジナルだとかアイデンティティーだとか聞いたような口を叩いて己の我執を正当化しようとするのは、思考停止のまま
安全地帯に逃げ込もうとする子供の理屈です。
自由さとは好き勝手にやっていいことではありません。
やりたい放題というのは単なるワガママ、欲に溺れた行為でしかありません。
それを自由人だとか、独自性だとか言うのは、どこまで行っても逃げ口上です。
己のワガママが抑えられてしまう窮屈さを、論理のすり替えで、自由の侵害だと叫ぶ。
もしも自由と我欲の区別をつけて叫んでいるというならば、単に逃げたいだけだと言われても仕方のないことでしょう。
デモの中には、国の解体を心底願って扇動している輩も入り込んでいます。
昔はヘルメットをかぶったりタオルで顔を隠したりしていましたが、今はもっとスタイリッシュに若々しく颯爽と振る舞っています。
見た目だけではアッサリ騙されます。
でもその言葉をマスコミを介さずに、しっかりと自分の腹で聞けばその浅さは明らかです。
私たちは自分の心に柱を立ててしっかりと全景を見渡すことが大事ということです。
あたかも何かをやり遂げたかのようなマラソン感覚だけを求めて、何となく市民運動に参加することほど愚かしいことはありません。
戦争は誰だって嫌です。
だからこそ色々なことを我慢してそれを阻止しようと頑張るのです。
我慢は嫌だ、でも戦争も嫌だ。
これのどこが大人だと言えるのでしょうか。
そしてバカのひとつ覚えのように自由侵害を叫ぶ。
しかし、そもそも我欲に溺れて居なければ、ワガママを抑える法律や風潮が押し寄せてきたところで、そんなものはどこ吹く風になるはずです。
何故ならば、自分とは接点のない話になるからです。
そこでは自由は何一つ侵害されていないということです。
調和というものは、各々の我欲が薄れていくことで自然と生じて来ます。
各々が好き勝手にやっても調和が成立するなんていうのはファンタジーでしかありません。
「自由の中で個性を育てる」として我欲の垂れ流しを許した、ゆとり教育というものがありました。
しかしその先にあったのは調和どころか学級崩壊でした。
これを愚民化政策でなくして何だというのでしょうか。
私たちは自分一人の力で生きているのではありません。
色々なものに庇護されながら生かして頂いています。
そしてその庇護する存在も、私たちに庇護されて生かされています。
これが本当の調和です。
国が我欲に走り、短絡的で幼稚な態度を取った時には、私たちはそれを死ぬ気で食い止める必要があります。
しかし、自分のその公憤が本当に我が親のことを思ってのものであるのか、それとも単に自分自身の我欲を正当化するための駄々に過ぎない
のか、そこをしっかりと見極めなくてはいけません。
隣の子供が泣き出したからといって自分もつられて泣き出すようでは話になりません。
話を隣国に戻します。
相手のワガママが過ぎる時には、相手が自ずとそれを止める気持ちになるように導かなければ、調和というのは生じません。
いくらこちらがニコニコ平和に諭そうとしても、相手のワガママを許してしまっている限り、永遠に調和など訪れません。
ワガママの過ぎる人に対してヘラヘラしたり、聖人君子を気取っても、相手には何も伝わりません。
つまり、そんなことは相手を受け入れる行為でも何でもないわけです。
相手が大人である場合は成立しますが、子供相手にそれをやったところで、むしろ相手は勘違いして増長するだけ。
結局は、相手の暴走の片棒を担ぐことにしかならないわけです。
つまり単なる自己満足だけでは済まず、罪作りになり兼ねないということです。
相手に自制を促すためにこちらも毅然とした態度を示すのは、当たり前のことなのです。
それによって相手も我欲にエネルギーを注ぐことをハタとやめるようになります。
つまり、内側から己の我欲を透明化させることになります。
まさしく、これと同じことが目の前で起こっています。
いま私たちの国は、私たちを守り、そして相手をも守ろうとしているのです。
それでもまだ「いや日本だって昔は隣国と同じく幼かった」とか「相手はまだ成熟してないのだ」「だから見守ってあげよう」と言う人が居る
かもしれません。
ただそうやって棚上げして先送りにできる時代はとっくの昔に過ぎ去りました。
それが綺麗事のお花畑でしか無いのは誰の目にも明らかです。
そんな余裕は、こちらが圧倒的な腕力を持っていて初めて成立することです。
もう時間がないのです。
今どうすれば良いか、たとえベストの答えが出なくとも何かをしなくてはいけないのです。
「昔の日本も子供だったのだから、いま子供である相手も大目に見てあげよう」
それは責任ある大人の態度ではありません。
昔は子供を厳しく躾けるのが大人の務めでした。
誰だって子供の頃ちゃんとしていなかったのは同じです。
それでも大人になって子どもを厳しくガツンとやる。
自分のことは棚に上げてでも、いや、むしろ同じ道を通っていればこそ、道を誤らせてはならないとガツンとやっていたのです。
それが大人の務めというものではないでしょうか。
今は子供を叱れないオトモダチ感覚の大人が増えてしまいました。
それをもって、成熟した社会であり人権を尊重した自由な社会だとするのは、あまりにも幼稚すぎます。
その結果、子供たちは大人をますます馬鹿にするようになり、己のワガママを抑制できなくなりました。
いま相手国に対してやっているのは、それと同じことであるわけです。
そうして、今もまた自国ではヤイノヤイノと騒いでいます。
このまま子どものワガママを許し続けていては、親も堪え切れなくなってしまいます。
暴漢に親が倒されてから自分はなんてバカなことをしてたのかと悔やんでも遅すぎるのです。
今その一番のタガとなっているのは総理大臣と言っていいかもしれません。
もちろん両陛下という存在もおられますが、昔の父親のような厳しさで必死に家を護ろうとしているのは総理であるわけです。
世界から見れば、それは誰が見ても明らかなことでしょう。
ましてや、この国をどうにか倒してやろうと考えている人間たちからすれば、まさに苦々しい存在であるわけです。
彼らからすれば、どんなことをしてでも外してしまいたい棟持柱です。
今はたったこの一柱の強さでもって、この国は支えられています。
だから危ないのです。
それさえ無ければ、あとはワガママ放題の放蕩息子しかいない。
彼らはそう考えています。
今さら他の政治家が頑張ればいいということではありません。
嫌われようと噛み付かれようと、我が身を顧みず子を護ろうとする人間はそうそう居ません。
もはやそのような他人まかせでどうにかなるような時代ではありません。
私たち一人一人が、独り立ちする時なのです。
それこそが散々言われてきた、オリジナリティであり、アイデンティティーであり、オンリーワンであるわけです。
私たち一人一人が、頑強な棟持柱でなくてはなりません。
一柱を外したところでどうにも揺るぎそうにないと、相手にそう思わせなくては真の調和は訪れません。
国会に向かっていつまでも群れ成して騒いでいるようでは、これからの時代、本当にやられます。
いま、己の命を懸けて御子を護ろうとしている親柱を、あろうことかその子供たちが大勢で揺すって倒そうとしています。
その先にあるのは、学級崩壊などではなく日本崩壊です。
この国が無くなったら、人類の希望は永遠に失われてしまいます。
今こそ、一人一人が自らの心に柱を立てて、幾千万もの棟持柱となる時です。
もしかしたら私たちが、いまここに生まれてきたのはそのためなのかもしれません。
それは何も、全身全霊、精魂込めて頑張るということではありません。
心にスッと芯を通す、ただそれだけのことです。
この国が危うい。
何とかしなくては。
その思いは、すでに光の柱となって天地を貫き通すことでしょう。
これまでも、そして今この時も、私たちは数多くの目に見えないおかげさまによって護られています。
幾千億もの光の柱が、この国を、そしてこの世界を支えています。
私たち赤子は、その下でこうして生かして頂いています。
まずは、今この私たちが大人などではなく、ただの赤子でしかなかったことに気がつくことです。
そして私たちは、この小さな手をほんの少しでも伸ばして、ひとり立ち上がってみる時に来ているのです。
