これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

大祓いのすゝめ

2016-12-30 23:24:13 | 感謝のこころ
今年も残すところあと一日となりました。

この一年、楽しいこと、つらいこと、色々なことがありました。
そんなこんなを思い返すことで、今この人生を生きていることをしみじみと実感できます。

ただ、そんな楽しさもつらさも、目に見えないお陰様があればこそ味わえているというのをつい忘れてしまいがちです。
ありがたいことに日本には、年末最後にそれを思い出させてくれるイベントがあります。
それが『大祓い』です。

もともとは宮中祭祀として行われていたものが、一年の罪穢れを取り除くための行事として民間に定着したと言われています。

「知らず知らずのうちに犯してしまった罪穢れ」というのは、良くない『行ない』に始まり、良くない『言葉』、良くない『思い』に至る
まで、様々な身口意によって自分に付いてしまった汚れを指します。

そこに他意があろうがなかろうがダメなものはダメですので、自覚をしないままに塗り重ねてしまうこともあります。
さらに、自らがそれを発しないように気をつけていても、それを発する人と関わったり、そうしたものが溜まった場所に身を置いただけでも
同じことになってしまいます。

それらを避けて通るというのは、人里離れた山奥に引きこもらないかぎり叶わない話ですが、そもそもそうしたことを忌み嫌ったり、
いちいち気にすること自体が天地の理に反していることと言えます。

例えば、私たちのまわりには顕微鏡で覗けばどれも雑菌がついているのが当たり前で、そうしたものに一切触れずに暮らすことは不可能です。
雑菌を一つも付けたくないといって、いちいちすべて完全滅菌させてから触るというのは正しい姿ではありません。

つまりここでは、雑菌を悪いものと決めつけること自体、馬鹿げているということになります。

罪穢れもまた、私たちが生きているかぎり避けることができないものです。
それは垢や埃と同じで、黙っていても付いてしまうものです。

自然に付いてしまうものだからどうしようもない。

といって、それが積もり積もって汚れたままを放っておいて良いということでもありません。
この世は何事もバランスが大事です。
身体を洗って垢や埃を落とすように、罪穢れも洗って落とすことが必要ということです。

もし垢や埃は付くのが当たり前だからとそのまま風呂に入らず暮らしていたら、社会生活など成り立たなくなります。
それだけではなく、汚れたままでいると、目に見えない引力も働き出すということもあります。

例えば、垢まみれの汚れた姿でピカピカの綺麗な場所に身を置くと、場違いすぎて居たたまれなくなります。
できれば身体を洗って服も綺麗なものに着替えたくなるものです。
それが叶わず汚れた姿のままで居続けるなら、どこかピカピカでない場所を探してササーッと移動するでしょう。

心がホッと落ち着くというのはそういうことです。
闇は闇を好み、闇は闇を呼ぶのです。

自分自身を穢れたままにしておくと、知らず知らずのうちに穢れた境遇に引き寄せられることになります。
私たちの目から見れば闇が向こうからやってくるように見えてますが、実際は私たちの方から闇を求めて近づいているわけです。

これと同じ理屈で、罪穢れを払えば、自ずと天地自然の清らかな環境へ知らず知らずのうちに向かうようになります。

それが大祓いです。


さて大祓いの流れとしては、人の形に切り抜いた紙切れに名前と年齢を書き、それでもって全身を撫でて罪穢れの転写を行ないます。
まさしく写し身、移し身、映し身です。

この時、手早くササーッと撫でて「ハイ、おしまい」というのもありますが、折角だから一つ一つきっちり転写を図りたいと思ったりもします。

たとえばこんな感じに。


ハイ、まずは頭。「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。
髪の毛、前とか後ろとか、あとてっぺんも「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。
眉毛、両眉を「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。
次は、右目と、左目と「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。

あと。耳か。
あ、最近なんか左耳痛いことあるんだよなぁ、左耳だ、左耳。「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。



調子が良くない個所はとりわけ念入りに祓おうとしますが、何も問題ないところも「悪くなりませんように」と気持ちを込めて祓うものです。

初めは打算的な願いから一つも漏らさないように撫でていくのですが、そうしていくうちにある心の変化が起こります。

というのも、最初はもっと早いペースで足もとまで行くつもりで居たのに、思ったよりも先へ進まないからです。

何ヶ月か前に歯が痛くなったことを思い出すと、それまでボヤーッと一つの塊でしかなかった「口」に、たちまち20本の独立した歯が
現れ、舌や唇もポーンと現れます。

すると「あ、右の奥歯も祓っておかないと。あと口内炎もなったらヤダから口の中も」となってきます。

始める前は、無意識のうちに「顔」「手」「胴体」「足」くらいの大雑把なイメージでササーッと終わるつもりで居たのが、いざ始めて
みると、みるみるうちにいくつにも細かく分かれていく。

日頃、私たちがどれだけ身体のことを意識していないかを知らされるのです。

そして、その数の多さ以上に驚くのは、そうしたものの多くが何の不具合もなく健康でいるという事実です。
そんなの当たり前とかいう以前に、普段はそのことに気がついてすら居ない。

胸のあたりを撫でるにしても、「あ、ココは心臓があった、あと肺もだ、それと気管支も」というように、日頃は全く忘れているものが
次々と表面に現れてきます。

それまで存在していなかったものが次々と出現するたびに人形で祓うのですが、今になって祓うまでもなく常日頃からその存在を消して
淡々と健康に動いていたことに気付かされます。

臓器の一つ一つ、指の一本一本、そして指の先には爪もあります。
それらが表舞台に引っ張り出され、突如スポットライトを浴びる。
正直、膵臓や脾臓の存在など普段は完全に忘れていますし、指がしっかり5本あることを意識できていないのにも驚きます。
知識としては分かっていても、感覚として5本をしっかり意識しては居ない。
薬指とかは本当に消えてしまっているようです。

肺や心臓は痛みや苦しさでたまにその存在を知ることがありますが、実際に胸の数十センチ奥に物質としてあるのだと生々しく意識する
ところまではいきません。

人がたで祓っていくごとに、水面下に眠っていた一つ一つが現実にはっきりと存在を現します。

その時になって初めて、完全に忘れ去っていた存在たちが、いつも健康に動き続けていたことを知らされます。
そして同時に、この世に存在しなくなっているほどに忘れ去っていたことにも気づくわけです。

その時その瞬間、心の底から申し訳なさとありがたさが溢れ出します。

頭のてっぺんから下へと一つ一つ撫でていきますと、筋、骨、臓器、それら驚くほどの多さに言葉を失います。
こんなにも沢山のおかげさまに支えられている、
生かされているのかと。

それが大祓いであるわけです。

神社でイメージするような仰々しさとか堅苦しさは必要ありません。
それはそれで大事なことですが、大切なのはその中身。心です。

ですから、近くの神社で大祓いをやっていない場合は、例えばシャワーで流すというのもいいと思います。

もともと水で洗い清めるのは水垢離といって禊祓いの一つです。
冷たい水ですから身も心を引き締まり、いかにも修行らしいと言えますが、実際は一意専心に集中するところに意味があります。
本当に心を決めれば、温かい水でも禊祓いになるでしょう。

それに大晦日に冷たい水で気合い入れるというのはさすがにハードルが高い。
勿論やれるならやった方がいいのですが、ハードルが高いからといってそれをやらない理由にしてしまうのでは本末転倒になってしまいます。

やることに意味があります。
あったかいシャワーでいいのです。

ただ、いつもより時間がかかってガス代がもったい無いというのは、この日だけは目をつむってしまいましょう。

そして大祓いと同じように、頭のてっぺんから一つずつ手で撫でながら温水を流していきます。
祓いたまえ清めたまえと言えるならば言うのがいいですし、抵抗があれば言わなくてもいい話です。

言葉のエネルギー以上に、思いのエネルギーの方が強力です。
ネガティヴな感覚が伴うことはやらないほうがいい。
祓うはずが逆のことになってしまいます。

むしろポイントは、一つ一つの細胞や臓器、身体の節々の存在をしっかりと認識していくことにあると思います。

手で撫でながら湯を当てて流していく。
そこに何があるのか、日頃存在しているのか、黙々と健康に生きていてくれているのか、私たちを支えてくれているのか。

そうした思いこそが、禊祓いになっていくのではないかと思います。

そして最後に大きく3回、全身の端々の細胞からサーッと風が流れ出ていくようにして、口から息を吐き出します。

これで身も心もスッキリ。
あとはゆっくりお風呂に浸かって、年越しそばであります。

今年一年ありがとうございました。



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光あるところに影がある(改)

2016-12-25 23:04:07 | 世界を旅する
このタイトルを聞くと「まこと栄光の影に数知れぬ忍者の姿があった」と頭に流れてくる方も多いのではないでしょうか。

私たちは何度も生まれ変わりながら、毎度初心に戻って初心者マークでおっかなビックリ旅行を楽しんでいると以前書きました。

何千回と旅を重ねますとかなり擦れまくって感動も何も無くなってしまうところですが、誰ひとり例外なく真っさらな純粋無垢に戻して
新鮮な喜びを味あわせて貰えるのは本当にありがたいことです。
今この人生を振り返ってみても、食事や旅行で喜びが大きかったのは、ほんの少し背伸びをしたり足を伸ばしたりした時だったのでは
ないかと思います。
それというのは値段や見た目の豪華さによるものではなく、未知の喜び、好奇心を満たされた喜びだったわけです。

知らないことだらけというのは、天の祝福に他なりません。

想像してみれば分かることですが、何もかも知っていたり、やったことばかりだったら、あまりの退屈さに毎日がツラくなるでしょう。

それにしても何千、何万回とある記憶を漏らすことなくリセットさせているというのは考えてみると本当に凄いことです。
隠されていると知りたくなるのは私たちの性分ですが、そのくせタネを明かされてしまうと『何だ知らないままで居たほうがもっと楽しめ
たな』と思ってしまうものです。

とはいえ、何千、何万とありますと、中にはあちこちからポロポロとこぼれ落ちることもあります。

そうした一つ一つの記憶にクローズアップして深掘りするのは大概は意味のないことですが、それでもタイミングや流れによって自然と
そこに繋がることもあります。
そうした場合、それは好奇心を満たすためではなく、それによって今この瞬間をさらに味わい深くさせるためのエッセンスとなるかも
しれません。

私たちは今の時間軸に乗った水平方向だけの見方だけでなく、そうした過去世の断片に触れることで今この瞬間を立体的に俯瞰することが
出来るようになれます。

もしも普段から過去世ばかりに目をやってしまうと焦点は今ココから離れてしまい意味を為さなくなりますが、自然のうちに過去に身を
置かされる分には焦点は今から離れることはありません。

カーナビに例えると、前者はカーソルを過去に置いてしまうことになるため現在地がそこへ移動してしまいますが、後者はカーソルの
位置は今ここにそのまま変わらず残り、画像だけが俯瞰画面に切り替わるようになります。

ですから天地や真我がそこへ導くことはあっても、自らそれを求めて訪れるものではないということになります。

そうしてその流れがやってきた時には、それをカルマの解消などと言ってしまうのは野暮というものですし、重苦しいだけでしょう。
むしろ新しい機能を面白おかしく楽しむというのが近いような気がします。

前置きが長くなってしまいましたが、今日はそんな流れで行きたいと思います。


少しばかり厚手の皮で作られた古代の靴がありました。
足のスネのところまで格子状に編まれた靴です。
そして白というよりもクリームに近い色をした布の服。
こうしたものを身につけている肌感というものが、ふとした時に蘇ることがあります。

それは映像ではなく、たとえば布地が肌に触れる感触とか、歩く時に舞った砂が肌に当たる感触とか、靴底で土を踏みしめる感触とか、
そうした皮膚の感覚であることがほとんどです。

でも、いちいち意識を向けることでもないので『またか』と思って放っとくとスーッと消え去っていきます。

脳の記憶というのは意外と浅いものですが、やはり肉体の記憶は芯まで染み込むものなのかもしれません。
この世で生きるからには、やはり実際に肉体を通した経験というものがどれだけ大切かを再認識します。


舞台は現代に戻ります。

イタリア出発の3日前、仕事の忙しさもさることながら、メタクソな体調不良で丸2日寝込んでしまいました。

それはこれまであまり経験したことがないシンドさで、一度トイレに立った以外はほとんど気を失ったように臥していました。
とりわけ頭痛というか目の奥の痛みが激しく、わずかな光でも頭が割れそうなほどだったので、目をタオルで強く縛って暗闇のなか1日半を
過ごしました。

もしかしたら新型インフルエンザか何か新種の病気かもしれないと思いましたが、その一方で旅行の不安というものは全くありません
でした。
それは、行けるという信念があったということではなく、出国3日前だったのでもう俎板の上の鯉だったからでした。

ダメならダメですし、行くなら行ける。

この時イタリアでは1週間前に大きな地震が起きていましたし、仕事の方もますます収拾のつかない忙しさになっていましたので、
こうなるとすでに「行ってはいけない」一歩手前でもありました。
止められる材料は山ほど揃ってましたので、変な話、心配しなくてもちゃんと止めてくれるだろうという妙な安心感で完全にお任せする
ことができたのでした。

そもそも今回の旅先をイタリアに選んだところからしてコレといった衝動があったわけでもなかったので、この選択で良かったのか?と
自分の中でもフワッフワとしてお尻を据えかねている部分がありました。

そんな中でのこのヤマ場でしたので、逆にどっちに転んでも割り切れるというものでした。

結果的には行かせて貰えて、気持ちもスッキリ割り切れたわけですが、その代償として著しく体力が低下してしまいました。
久々に歩いたときは力が入らずフラフラと、最寄駅で息を切らしてしまう有り様でした。

そして出国当日までほとんど何も食べられずゲッソリ生気がなくなってしまい、この時まわりの人たちは海外は無理だろうと思っていたことを
あとになって知らされましたが、実際、自分でも当日起きてダメだったら東北あたりの湯治場で1週間過ごそうと考えるようになっていました。

とはいえ、イタリアも湯治場も完全に価値としてはイーブンでした。

どんなにありふれた土地であっても、自らの中心によって導かれた先には、ビックリ仰天のパズルゲームや噛めば噛むほど味わえるものが
用意されていたりします。

逆にどれほど物珍しい場所であろうと我欲をナビゲーターに辿り着いた先というのは、ガイドブックの範囲を超えないありふれたものに
しかならなかったりします。

何処にマーク設定されるかは神のみぞ知る。
いや「私の中心はそれを知っている」です。

これは誰にとってもそうです。

そしてそれが絶対にハズレ無しであることは確信というか、完全な事実であるわけです。
ですから絶不調だった身体とは裏腹に、心のほうはこれ以上ないほど晴れ渡っていました。

そうして出発の日を迎えました。

幸いにしてこの日を迎えられた時点で、もう途中で倒れたり引き返すようなことは無くなりました。
ようやく心身が定まった瞬間でした。

そんな流れでイタリアに着いた一発目が国旗掲揚、国家斉唱だったのはとても感慨深いものでした。


さて今回の旅はほとんどノープランの風まかせでしたが、それでもいくつか定められたポイントはありました。
その一つはコロッセオでした。
詳細は割愛させて頂きますが、触れられる範囲で触れたいと思います。

常識というものは時代が変われば全く違ってきます。
集団生活がすべてのベースとなりますので、環境が変われば育ちも変わります。
持って生まれた個々の資質以上に、そうしたものの影響は大きいものです。
実際、今この現代にあっても、国が違うだけで驚くほど価値観が変わってくるというのが事実です。

今の価値基準でもって、過去の時代の暮らしや歴史を「良い悪い」と判断することは全くのナンセンスだと言えます。
今の自分が絶対正しい、正義であるという考えは傲慢以外の何ものでもありません。

ですが、そこまで理解できて居たとしても実際に殺戮のような出来事を許容できるほど私たちは大きく成ってはおりません。
自我の枠の中に居るうちは、そうした記憶は自らを傷つけ、数多くの可能性を狭めることにしかなりません。
私たちは贖罪のために生まれてきたわけではないわけです。

そのためにこそ、前世の記憶は抹消されてから此処に来ています。

ただ自分としてはその場所のことを頭に浮かべただけで肌に緊張が走り、全身が拒絶感に包まれました。
それと同時に「フタをしてはいけない」という極めて強い思いが湧きあがるのでした。

記憶を呼び起こせないよう私たちは非常に強いロックがかけられています。
でも、ある体験を事実として知っている感覚というものがあります。
自分はそこでそれをやったのだという。
それは喩えるなら、ややピンボケの景色が意識の奥に広がっているような感じと言えるかもしれません。

ただ、そこに光を当ててはいけないという本能的な感覚が全身を覆っています。
それを無理にピントを合わせようとすると様々な形で身体にストップがかかります。
鮮明に見えなくとも、その事実を実感しているということだけで十分であるわけです。

そして現実としてその場所に行った時、言葉には表せられぬ感覚のなか、全身の細胞一つ一つの奥底から、申し訳なさとお詫びの思いが
湧き出しました。

決してその氣を忌み嫌うことなく、その思いをそのまま受け入れ、自然と出てきた祓詞に身をまかせました。
遠い位置や上方からではなく、同じところに立ち、受け入れ、共におさまる。

ピンボケの景色が何であるかは分かっている。
知っています。
ただそれをそのままクリアにはさせずに、心の思いだけを救い上げるというのは、いま思えばまさしく天の慈愛そのものだったと思います。


さて、道中そのように胸がグーッと苦しくなる場面が結構あったのですが、パンテオンだけは別でした。

パンテオンはローマ市街にある神殿で、古代ローマ時代に様々な神を祀るために作られました。
ご存知の通り、古代ローマは日本と同じような多神教の国だったわけですが、キリスト教が広まっていくにつれてこうした多神教の
建築物はみんな壊されてしまいました。
パンテオンも本来なら破壊されるはずでしたが、教会として利用されたことでかろうじて残った珍しい例だそうです。

前情報なしに廻っていましたので、最初に訪れた時は自分もそこは教会だと思っていました。
実際、パンテオンの中には王族やラファエロの墓がありました。
ですが行ってみるとそこにはスッキリした精妙な空気が流れていて、中に入ったときは言葉を失いました。

なんというか、一言でいえばホッと落ち着く感じでした。
石造りなのですが、そこはまるで古い神社の境内のような静けさに包まれていました。

そして何故かそのとき『君が代』が頭に流れてきました。
よく分からないまま、流れのままに小さな声で『君が代』を謳いました。

それが国歌としてのものでないことは分かりましたが、それ以上は何のことやらよく分かりません。
分からないことは分からなくていい。
必要であれば必要なときにポンと出てくるものですから、下手な考え休むに似たりです。

その一方で、短い歌で良かったとホッとしている自分も居たのでした(笑)


その日の予定として、もう一つ行かなくてはいけない場所が××××でした。

(中略)

さて、こうして××××をあとにした時には文字通り生気が抜かれたようになってしまったため、どこかでひと休みしようということに
なりました。

そしていま行きたい場所として瞬間的に浮かんだのがパンテオンでした。
喫茶店でなくパンテオンかよ!と自分でも思いましたが、なんでか分からないけど素直な気持ちでした。

実際パンテオンに行ってみますと、その中へ入るなり指先や爪先までスーッと氣が通っていくのが分かりました。
それは腕や足の付け根で止まっていた血流が、五指の毛細血管の先にまで流れていくような感覚でした。

ここはいったい何という場所なのでしょうか。

ドーム状になった天井の中心はポッカリと穴が空いています。
これは「太陽の光が差し込むことで日時計になっている」と説明されましたが、果たしてそうなのでしょうか。

その天井の中心の真下に立ちますと、自分の正中線にスーッと太いものが流れ、そのまま自分の外へとグルグル回っていきました。

パンテオンは天地の万物を神々として崇める古代ローマの教会だと言われています。
しかしここは、あらゆる存在がこの世に存在するために無意識のうちに行っている『天地の呼吸』すなわち『エネルギー循環』というものを
そのまま体現させた場所、言い換えれば「天地の姿をそのままに表した場所」なのではないかと思いました。


万神を崇める古代ローマの考え方に対して、その後の人々はそれを排除するような格好になってしまいました。

私たち日本人は古代ローマと通じる部分を数多くもっており、実際多くがその時代を体験してきたことでしょう。
自分もまたそれを強く持ったまま、思いやエネルギーが残る場所を訪れ、その相剋によって苦しさを感じることとなりました。
過去に経験したことのない目にもあいました。
しかし、だからこそその本当の意味を知ることも出来ました。

何も考えずあちらこちらを訪ねていましたが、重要な場所を素知らぬ顔でシレッと行けるというのは凄いことです。
自身が何者であるかを知らないという点で私たちは本当に隠密忍者のようなものと言えるかもしれません。

出国の前にフラフラになるほど倒されたのも、もしかしたら色々な経験を通るための準備だったのかもしれません。
そうでなかったらどうなっていたのか、考えただけでゾッとします。


今日は世界中でお祝いがされるクリスマスです。

様々な存在のお蔭で、世界はこうして今を生かして頂けています。
直接的に関係なくとも、他岸の安息は、此岸の安寧と成っています。

日本人は信仰心もなくただ面白おかしくクリスマスを騒ぐと言われますが、それは何でも愉快に楽しもうもするお祭り習慣の為せるわざだと
思います。

そして祭りとは本質的には、祀りであります。
祀りとは、その対象へ感謝を示すことです。

楽しんでいる瞬間というのは、一番に今を生きていることになります。

八百万の神々に敬意を払う私たちが、今日という日に感謝を表してもそれは不自然なことではありません。

この世界というのは、人知れず様々なことが陰に働いて成り立っています。

どちらが正しいとか、どちらが間違っているとか、そういうことはありません。

たとえ正反対のものであっても、そのどちらも全世界として見れば調和の支えとなっているということです。

唯一絶対神たる一神教も、八百万の神々の多神教も、どちらもあって今があるということでしょう。

正面から衝突してしまうと、ゼロか100か、全か無か、ということにしかなりません。
実際には、大きな大河がぐるりんと循環しているだけです。

これにて長きにわたる相剋が一件落着となることを願うばかりです。


(おわり)





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私たちを包むゆりかご

2016-12-10 12:06:03 | 世界を旅する
フィレンツェは文化的な観光地ということもあって、道ゆく人たちや街全体に穏やかな雰囲気が漂っていました。

出国前の過労と体調不良で薄氷を踏むような危うさで旅行していましたが、おかげで何事もなく無事に通らせて頂けました。
今更ながらあの状態で襲われたら一巻の終わりだったと思います。お護り頂いて心から感謝です。

そうして少しずつ体力を戻していきながら、次のローマへ移動する日となりました。

フィレンツェの中央駅は前日に下見をして、すでに駅の造りや混み具合は肌にインプット済みでした。
国内のホテルでもチェックインすると階段と非常口を確認して暗闇でも逃げられるようにしていますが、それと同じ話でありました。

こうしておけばテロや銃撃事件に巻き込まれて逃げる時や、スリや暴漢を追う時も、暗闇パニックにならずに冷静に判断できます。
もちろん後者については命の危険もあるので、余程のことが無ければ深追いせず諦めるつもりでいました。

感情のまま闇雲に走っても、その先の道や曲がり角がどうなっているか分からないと行き当たりばったりになってしまいます。
特に、大勢が慌てて逃げる時の群衆心理に巻き込まれたらアウトです。
自分の身は自分で護らなくてはいけません。

これはまさしく日頃の生き方と同じことです。
マスコミやネットの情報に煽られて突っ走ったり、様々に沸き起こる感情に流されるのは危険であるということです。

さてそのようにして中央駅に着きますと、そこには同じホテルで見かけた日本人カップルが居ました。
年齢は40前後で、見た目も落ち着いた感じだったのですが、まずお連れさんを待ってる時の姿にギョッとしてしまいました。

大きなカバン2つに申し訳程度に手を置いて、下を向いたままスマホをいじっているその姿は完全に気が抜けていて、カバンも手もとで
氣が切れていました。
そして連れ合い女性が合流したあとは2人だけの世界に入りこんで、まわりが見えなくなっていました。

といってもその人たちが特別おかしかったというわけではなく、日本であれば普通に見かける姿だったのは間違いありません。
同国人だから気になったというのもあるかもしれませんが、それでもやはり海外の空気の中では明らかにそこだけが異彩を放っていました。

その異質感は彼らの醸し出したものというよりも、まわりの空気が作り出したものと言えました。

あらためて全体を見渡してみますと、駅の雑踏を行きかう人たち、そこで電車を待っている人たち、そうした一人一人がハッキリと
くっきりしていました。
これに比べれば、日本で見慣れた雑踏にはその向こうに全体を包む柔らかいものがあることに気づかされました。

非常に感覚的なものなので言葉で表現するのは難しいのですが、例えば日本もイタリアも同じように一人一人の「氣」というものが
独立独歩に好き勝手にまとまりなく動いているものの、その足元の水面は日本の方がかなり浅いところにあるような感じでした。

その水面というのはイタリアでは足もと遠くにあって、長い竹馬に乗って歩いているような距離感であるのに対して、日本はもう膝の下に
まで水が来ている。
喩えとして足元で表現しましたが、実際のそれは360°四方八方に在るという感覚でした。


ひも理論では「四次元以上の多次元は、極小の形で空間の中に無限に織り込まれている」と表現されますが、まさにそんな感じです。
もう詰まり詰まっている、本当に高天原に神詰まっているのでした。
ただそれはその中にいる間は気がつかず、外に出て初めて気づけるものでした。


イタリアではそれをかなり遠くに感じたため、手前の空間はスカッとしてるというか、その分そこに居る一人一人はよりクッキリと
存在していました。
つま先の先の先までがクッキリしている。
まさに「在る」という感じ。
それに比べると日本は膝下あたりがもう波打ち際となっているため、そこから先は何となくモヤンとしていると言えました。

言い方を変えれば、日本で無意識のうちに当たり前に感じていたその柔らかい何かがイタリアには無い。
そこに在るはずのものが無くて、いきなり空間の中に私たち一人一人が存在しているような感じなのでした。

だからなのでしょう、その中に身を置くと「自分」というものをつま先の先までクッキリと描き出させないと、地面までしっかり届いて
いないというか、足元からフワフワ浮いてしまっているような感覚に陥りました。

その、日本で身近に感じた私たちを包む柔らかいものとは、もしかしたら国魂なのかもしれませんし、ユングのいう集合的無意識なのかも
しれません。

ふだん私たちは他人に無関心のまま好き勝手に生きていますが、それでも日本はとても近いところに一つの海のようなものが存在している
ことを、このとき肌身に感じました。


その母なる海に包まれていればこそ、彼ら日本人カップルのスマホいじりも、日本では決して無防備なんかではなくなるわけです。
今も電車の中で多くの人たちがスマホいじりの世界に入り込んで隙だらけになっていますが、そこにイタリアで見たような危うさは全く
感じられません。

外国の人たちが日本に来た時に、電車の中で熟睡している人たちを見て大変驚くそうです。
うつらうつらする人は居ても、そこまで爆睡するような人は海外には居ないからだと言います。

寝るというのは最も無防備な状態です。
生き物として本能的に一番強固なロックがかかる場面だと言えます。
それが、見知らぬ人たちに囲まれてそこまで安心しきれるということ自体が想像つかないのだそうです。

しかし、それを聞いても私たち日本人は何が不思議なのかいまいちピンときません。
私たちは「見知らぬ人たち」=「危険」という発想が起きないほどに、とても近いところで周りと一体となっているからです。

そしてまた、外国の人たちが日本に来ると一様に「これほど自分が外人であることを自覚する国は無い」と感じるのは、まさにそこに
あるのではないかと思います。

さらに私たち日本人の一体感、繋がりというのが極めて近くにある証拠に、何か大事が起これば表面を覆っている薄皮一枚の個々の自我は
あっという間に吹き飛び、その真下にあるモヤンとした一体感がすぐに現れ出ます。

大震災がそうですし、先の戦争でもそうでした。
その海のように広がる一つの感覚が剥き出しになると、海外の人たちが驚くような静かに秩序立った姿が現れます。
それは決して教育や理性によるものでは無く、私たちは特に考えずともやってしまう自然行動であるわけです。

自我の土俵が吹っ飛んで一つ海に等しく浸かる状態となった時、『天地が我か、我が天地か』という皆一つの状態となって、足並み乱れる
ことのない同じ感覚となるのでしょう。


つまり、個々人は自分で行動しているのですが、その自分というものが大海と等しくなっている。
そうなるともはや大海の意思なのか、自分の意思なのか、その線引きは無くなるということです。

平時においても私たち日本人が空気を読んだり、人の気持ちを感じ取ることを自然に行なえるのは、一つの大海が極めて近くにあるから
なのかもしれません。

ということは逆にそれが遠くにある国では、一人一人がハッキリくっきり存在し、主張し、生きるのは自然な流れと言えます。
世界に誇る日本の安全というのは、そうした目に見えない柔らかさのお蔭にあったということです。

今回の旅では幸いにしてスリや犯罪など危険な目に合うことはありませんでしたが、気が張るような場面は多々ありました。

フィレンツェでも、中央駅の雑踏にあって大荷物を抱えつつ、乗り間違えないように掲示板を見ている時というのも気が張る場面でした。

ちなみに、海外では遅延が当たり前なので、どのホームに入線するかは直前まで決まらないものなんだそうです。
到着してからわずか10分ですぐに出発してしまうため、ホームを間違えたら一巻の終わり。
ですから、どうしても心配しながら見逃さないよう真剣に掲示板を見てしまいます。
すると、意識がそこだけに向いているわけですから非常に危険な状態にあることになります。

そのようなわけで地図を見たり、カバンを開けたりして周囲から意識を外すような時には、まず壁や隅へと移動して壁に背を向ける
ようになりました。
そうすれば背面の視界や気配はひとまず切り捨てても大丈夫だからです。
これはほとんど無意識にやっていたのですが、ふとそれに気づいた時はゴルゴ13の真実味を実感して驚いたものでした。

海外の暮らしが長いと言動が突き刺さるようになるというのは、生活習慣や民族の違いというよりも、深くにまで足先を届かせずには
居られない、根を下ろさないと不安になってしまうという空気感に原因があるのではないかと思いました。
帰国子女などに見られる一種のキツさというのは、そうした感覚に馴染んであちこちが伸びた状態で日本の浅瀬に来ているわけですから、
知らず知らずあちこちにザクザクと刺さるのは当然の話と言えるでしょう。
まさに感覚の問題ですので、デリカシーの問題ではないということです。

自分自身にしても、そのような空間に身を置いたあと、日本に帰って来た時にはその包み込む感覚に皮膚がホッとしているのを感じました。

私たちには、まず自分という海があり、その下には家族と繋がる一つ海があり、さらにその深みに民族と繋がる一つ海があります。
その先には民族を超えて人類で繋がる海があり、さらには生き物として繋がる海、そうして天地という大海があるわけです。

個の存在というのは非常に大切なものです。

ただその「個」というものをどの視点から見るかによって、その中身も大きく変わってきます。

あくまで個の中からそれを見ている状態と比べますと、小なる一つ海、中なる一つ海、大なる一つ海の上に立った「個」というのはさらなる
重みを増します。

その両方があって共に活きるわけです。
どちらかに偏るような見方では窮屈なものにしかなりません。
大なる一つ海が大事だからといって個を軽んじるのでは本末転倒ですし、逆に、個に特化してそこに囚われてしまうというのも狭い世界の
中で息が苦しくなるだけです。

私たち日本人が、その繋がりを身近に共有しているのは本当に幸せなことです。
個を安定させるために自我は根を張ろうとしますが、深くまで伸ばさなくとも、すぐにそこに大きな足場がある。
つまり、自我が肥大しにくい環境にあるということになるわけです。

小なる一つ海が近しく感じられているということは、その先の大なる一つへの障壁がそれだけ薄まっているということでもあります。


もちろんここでの「繋がる」というのは一つの比喩で、もともと私たちはすべてに繋がっています。
あくまで霞の翳りによりその繋がりが掻き消されて見えなくなってしまっているに過ぎません。

「自分のことだけ」ではいつまで経っても小さな世界のままとなります。

気づかず自由奔放にやれると思いきや、所詮は小さく狭い世界ですから、そのうち窮屈さに息苦しくなって、生きること自体が苦しく
なっていきます。

家族や友人、仲間へと心を向けることで足もとは広がっていきます。
すると霞が晴れるように翳りが消えていき、伸び伸びと手足を広げられるようになっていくことでしょう。

そうして国全体や、過去のご先祖様たちへと心が広がれば、ますます伸びやかな海に浸ることになるのではないかと思います。

これまで幾千億ものご先祖様たちが、自分以外の誰かのこと、家族のこと、仲間のこと、さらに昔のご先祖様たちのこと、国のこと、
国を護って下さっている存在のことを思い、感謝し、そのようにして心を広げていかれたことでしょう。

今この私たちを包むやわらかな海というのは、そうした思いの一滴一滴が集まったものと言えます。

そして私たちもまた、そうしたうちの一人であるわけです。

私たちから溢れ出る一滴一滴が集まり大海となり、その大海に私たちは優しく包まれています。

母であり子である私たちは、母なる揺りかごにゆらされながら今を生かして頂いているのです。



(つづく)


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