これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

天地の心こそ最強

2016-11-28 00:15:06 | 世界を旅する
今回は武道的な話を交えながら進めたいと思います。

日本というのは奇跡的なほどに平和で安全な国と言われますが、そのことは海外に出ると骨身に染みて感じるものです。
先進国であろうと、都会の駅前であろうと、とにかく海外は物騒な雰囲気が当たり前に漂っています。

そしてイタリアというのはとにかくスリが多くて有名な国です。

日本でスリと言えば手練れな単独犯を想像しますが、海外では複数犯で連携するのがオーソドックスなんだそうです。
そのやり方はとても巧妙で、たとえば昔よくあったアイスを服に付けるという手法は今ではオイルやインキを使ったものへ代わっている
と言います。

このタイプのスリというのは、ターゲットを慌てさせたり怒らせたりして注意を逸らそうとします。

アイスがあまりに有名になりすぎたというのもあるでしょうが、ターゲットの冷静さを奪うのならば、よりショックを受けて激怒する
ような内容に変わっていくのは自然な流れと言えるかもしれません。

私たちは誰しも、動揺したり怒ったりすると、瞬時に落ち着きが消えて、囚われの世界に入ってしまいます。
「どうしようどうしよう」と頭がぐるぐる回ってしまったり、カーッと怒髪天を衝いて周囲が何も見えなくなってしまったりです。

全身が感情に染まると、心は分厚い暗雲に覆いかぶされて、岩戸の奥深くへと追いやられてしまいます。
すると、目に映る景色というのは頭だけの世界になってしまいます。


パニックで頭がぐるぐる回っている時は、目に映る景色も焦点が定まらずぐるぐる回ってしまいますし、怒りに我を忘れている時は、世界は
怒り(=怒りの対象)しか存在しなくなります。

実際、観光地の綺麗な景色や建物などを前にして晴れやかな気分に浸っている時に突然オイルやインキをつけられてしまうなんて、もう
想像しただけでも頭に来てしまいます。

まわりが見えなくなっている人間など、スリからすれば赤子の手をひねるようなものでしょう。

スリの手口というのは他にも様々あるようで、例えばそうした観光地で「写真を撮りましょうか?」と親切に声をかけてきて、
ご機嫌な気分でカメラの方に意識を向けていると、その隙に仲間が背後からスってしまうというのもあるそうですし、また小銭や荷物を
ワザと近くで落として、人のいい我ら日本人がそれを拾っている隙にこれまた背後から仲間がスってしまうというのもあるそうです。

いずれもターゲットが「心ここにあらず」になってしまっている点が共通しています。

心が何か一つのことに囚われてしまっている時、目に映るのはその景色だけになってしまいます。
自我が意識したものだけしか映らなくなる、自我の外のものは映らなくなる、ということです。

逆を言えば、心が今ココにある時は、天地の景色はすべて映り込んでくるということになります。

スリにせよ、犯罪者にせよ、ターゲットに選ぶのは、見るからに「心ココに非ず」になっている人間です。
普段から心が散漫な人間なほど、当然、先ほどのようなトリックには引っかかりやすいわけです。
つまり、ボーッとしていたり、何かに心が奪われているような姿を見つけたら、それこそ格好の獲物ということです。

それは言葉を変えれば「スキがある」ということになります。

スリにしても、あるいはそれ以外の犯罪にしても、そもそもターゲットにされた時点でアウトです。
隙を作った人間が、いくらその時その場で速やかに心を切り替えても、ほとんど手遅れです。

武道においてもそれは同じで、組手をする際に互いに礼をしてからスイッチを入れるのでは遅すぎます。
何故なら、オンとオフという切り替えを行なう時点ですでに自我の作為が入り込んでしまっており、天地からは断絶してしまっている
からです。


さらには、最初にオン・オフという「上げ下げの波」を生じさせてしまっていること自体、その後の波立ちの因子となります。

上げっぱなしをキープするというのは、要は、気が張った状態を保つことであり、それはつまりプツリと切れたらお仕舞いということ
でもあります。
そして、仮にそれが切れなかったとしても人為的に支えてるという不自然な状態には必ず緩みが生じます。
それがすなわち隙となるわけです。

オン・オフのスイッチを握った状態というのは、言い換えれば、我の張った状態であり、それは相手と接触した時に「力対力」の世界
になるということでもあります。
相手という我と、自分という我のぶつかり合いは、刀と刀が一点でぶつかり合っている状態と同じですから、結局は筋力が強い方が
勝つという論理になってしまいます。

人を襲おうなんて考えている連中は、もとより腕力に自信のある人間ばかりです。
あるいは武器を使ってその腕力をさらに強めようとすら考えることでしょう。

そんなのと同じ土俵に立ってしまうのはリスキーでしかありません。
いつも一対一になるとは限らず、また素手とも限らないのですから尚更です。

相手と違う土俵、つまりオン・オフの無い状態、最初からスーッと広がっている状態、つまりス(素)の状態というのが大切になるわけです。

それは相手から見れば、捉えどころの無い状態。
引っかからない状態。接点の無い状態。
すなわち、隙の無い状態に映ります。

そして、オフを無くすためには、そもそもオンが無ければ良い。
逆にオンを無くすためには、オフが無ければ良いということになります。

つまり、気張らなければ気が抜けることもないわけですし、逆に気の抜けた状態が無ければ、気が張った状態というものも起きないと
いうことです。

そうした気の抜けた状態や、気が張った状態、そのどちらの状態とも対極にあるのが、落ち着いた状態です。
言い換えれば、リラックスした状態こそが、争いとは無縁の土俵となります。

赤ん坊を見て、攻撃しようという気が起きないのもそうした理由によるものでしょう。
決して、か弱いからやってはいけないという理性だけによるものではありません。
それは人間以外の動物であっても、人間の赤ん坊を前にして攻撃しないことでも証明されています。

赤ん坊にせよ、高僧にせよ、天地と一体になっている存在を前にすると、あらゆる存在は心が穏やかになっていきます。
まるで、ポカポカ陽気の日なたに触れたように。
何故ならば、あらゆる存在も、そもそも天地そのものだからです。

オン・オフというのは、自我がスイッチを入れることで発生するものです。
すなわち、オンないしオフというのは、自我の現われということです。

天地に溶け込んでいく状態というのは、自我が薄まっていくことと同意です。
そして自我の濃淡というのは、心の波立ちによって知ることができます。
波立ちが無くなれば、それだけ天地に近づいた状態になっていくということです。

ですから、心が落ち着いていれば、オン・オフとは異なる次元に身を置くことになります。

スリや暴漢のように我欲が全身に溢れている人たちは当然スイッチがオンの状態になっていますので、そんな人たちと同じ空間の中に
オフの状態の人間が居ようものなら、彼らは肌ですぐその存在を感じ取り、カモとしてその目に映りこむことになります。
それは空間の歪みというか、揺らぎというか、空気の波立ちとして、スッと感じ取られることでしょう。
まさしく蜘蛛の巣のようにです。

目で追って探そうとしなくとも、その違和感、その揺らぎを皮膚でキャッチする。
そして目に映り込んだ時にハッキリとターゲットとして確認されることになります。

しかし、こちらが心の落ち着いた人間であれば、その自我の網とは違う次元に居るために、目に止まることもなくターゲットになる
ことも無くなるでしょう。

つまり、事が起こる前の状態というのが、全てを決めることになってくるわけです。

静かな状態を求めるなら、その状態を追うよりもまず先に、波立ちそうな様々な状態をあらかじめ身体に通しておくことが有効となります。

例えていうならば、力みを手放すためには、最初に思いっきり力を入れれば、そのあとスーッと力みが消えていくのと同じ原理です。
力みを遠ざけようとすればするほど力みを意識してしまうように、波立ちを遠ざけようとすればするほど波立ちは心の中でその存在感を
増します。

静けさばかりを追っても、いざ事態が波立った時には頭や身体はその波に引っ張られやすくなってしまうということです。

ですから、事前に体験済みとなれば、実際にコトが起きても心は波立ちに影響されず、落ち着いて対処できるようになります。

何事もそうですが、あらかじめ酷い状況を様々にシュミレーションして、キチンとその解決法までを心に落とし込むことは実際に危機を
招かないコツとなります。


さて防犯の話に戻りますと、その場合の最悪想定というのは「こちらが隙を作ってしまい、気の緩んだ状態からスイッチをオンして
対処せざるを得ないような状況」となります。

それは、力対力になってしまい、相手と力がぶつかってしまった時でもあります。
そんな時は、力を外すか、その力を利用することになります。
つまり相手の力に対して技術でしのぐということです。
いなす、と言っても良いかもしれません。

ちなみに合気道というのは相手の力を利用する武道と思われていますが、この場合の「相手の力」というのは、いわゆる筋力的な力や
物理的な勢いを指す流派もあれば、目に見えない氣を指す流派もあります。

後者に関しては自分が氣の抜けた状態にあると全く技が掛かりませんので、先ほどの最悪想定の場合は前者のやり方を使うことになります。
柔道も高段者になると前者と後者の両方を合わせた形になりますが、ここではあくまで前者の方を使うことになります。

四つ相撲からのドタドタした崩し方になってしまいますが、心が相手と同じ土俵に居るのですからそれが当たり前となります。
子供の喧嘩状態です。
そしてここでの落とし所としては、スマートさは必要なく、最後に逃げられればOKということになります。
相手を制圧することなど考えたら絶対にアウトでしょう。

取り分け、拳で殴るというのは最悪の対処法と言わざるを得ません。
本能的に、やられたことをやり返すのが人間です。
自らドロ沼を呼び込むことはありません。
ここでは相手を崩してその隙に逃げるというのが、相手の土俵から降りる最上の道となります。

そのようなわけで、出国前は忙しさと体調不良とでほとんど旅行支度はやれなかったのですが、唯一、有事の備えとしての心の準備だけは
しっかりやることにしました。


それは具体的には、襲われるパターンをいくつも想定し、長くやってきた流派だけでなく他の技術もおさらいして身体を通すというもの
でした。

一つのやり方だけにこだわると、いざという時に技が掛からないと頭が真っ白になってしまいます。
頭の中に道が一つしかないとそのまま進もうとしてしまい、我執の世界にズブズブと沈んでいって絶対に掛かることはなくなります。

この技を掛けよう!これしか無い!
と頭の中がそれ一色になってしまっている時というのは、相手にもその心が伝わり、それとは正反対のベクトルに全力で抵抗されてしまいます。
無意識のうちに本能的にそう動くように私たちの身体は出来ています。

バックドロップをかけられそうになったら前屈みになって堪えますし、払い腰をかけられそうになったら後ろに重心を移して堪えようと
します。
これは子供であろうと女性であろうと同じです。

そのような状態から、ぶっこ抜きのジャーマンをかけるというのは、よっぽどの実力差、筋力差が無ければ出来ません。

ですから、いつでもいくらでも切り替えが出来るという心の冷静さが必要になります。
そしてその冷静さというのは、日ごろの心構えによるところが大きいと言えます。

普段から「正解はコレしかない」という一本気な考え方をしていたり、「何としてもこれをやりたい」「こうでないと嫌だ」と固執しがち
な性格ですと、瞬時の切り替えというのは難しくなるでしょう。

道というこはこれ一本だけではなくいくつもあるもんだ、という気持ちにあれば、いざという時にも落ち着き保つことができます。

ですから、それを護身に当てはめるならば、実際に引き出しが多ければ多いほどパニックにならないということになります。

押さえ込まれた時の対処、複数相手、長物の対処、ナイフや拳銃まで想定しました。
もちろん本当にそれが必要な場面に出くわしたら、そんな付け焼き刃は役には立たないと思います。
ただ何も知らないよりはマシで、大難を小難で済ませられる可能性は確実に増します。

何より、そのような最悪想定をすることで心が落ち着き、実際にそうした事態を招かないことになるというのが一番大きいわけです。

喧嘩に巻き込まれる人というのは、心の中でそういうことを求めていて自ら招き寄せていると言えます。
それが喧嘩自慢でなくて心配性の人だったとしても、心の奥底でそれを思い続けることで逆に現実化させることになってしまいます。

やれることはやったと達観できたらば、心配というのは手放せるものです。
だから、様々な想定とその対処というのは有効であるわけです。

これは学校のテストなとで経験していることではないかと思います。
何が出てくるか分からないという意味では、テストもまた状況は同じと言えます。
そしてしっかりと事前準備をした時ほど、焦らず落ち着いてそれに臨めたのではないでしょうか。

あとの結果はともかく、現場のその瞬間の心の状態こそが大事です。


私たちは海外に行けば、完全に外国人です。
一人一人が自国の代表として見られます。
日本というのは、温かくて優しい国です。
しかしそれは、ひ弱な謙虚さとは違います。
天地のように大らかな優しさであり、それこそが本当の強さでもあるわけです。

心に笑顔を。暴漢が来ても心に笑顔を失わずに居れば、それはそのまま相手に返っていきます。
これは日ごろの人間関係にも言えることです。

天地の理とは「自らの与えたものが自らに与えられる(返ってくる)」でした。
有事にあっても、カッとせずハラハラしたりもせず、心変わらず天地とともにあれば「我、鏡と化す」です。

「寄らば斬る」の心とは、波静まった水面のごとき自我の消えた穏やかな心のことだと言えます。

己の刀が相手を斬るのではなく、鏡と化した水面に映る相手の刀が、そのまま相手自身を斬ることになるのです。

そのような状態にある時、そもそも相手は斬りこめなくなります。
つまり、スリや犯罪のターゲットにされることも無くなるということです。

戦わずして勝つというのは、気迫がみなぎった状態などではなく、むしろ全く逆の、心が静かに落ち着きはらった状態だったわけです。

そして、その鏡というのは天照様そのものでもあるのでした。


(つづく)






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祈りと感謝も万国共通

2016-11-17 12:51:52 | 世界を旅する
フィレンツェは街の中心にドゥオーモと呼ばれる大きな教会があります。
オレンジ色に染まった街を見渡せる場所として有名です。

朝の早い時間に行ったのですがまだ中へは入れなかったため、その手前に建つ古い教会に入ることにしました。

その教会はドゥオーモよりも昔に建てられたそうで、中に入ると清らかな静けさが漂っていました。
天井を見上げると、そこにはびっしりと神話の世界が広がっていました。
あとになってよくよく知ることになりますが、こちらの教会では何処もかしこも天井画が凄いことになっているのでした。

天を仰ぐとそこに神世の物語が映し出される。

いま私たちがプラネタリウムを見上げることで宇宙を感じるように、昔の人たちはドーム状の天井画に広大な世界を感じたのでしょう。

その天井画は初期の頃と後期のものでは明らかに違っていて、この古い教会で観た初期のものは心にスッと来ました。

技巧に走ることなく、真面目に純朴に描かれたタッチ。
そこには必死さや苦しさなど無く、本当に素直な心が伝わってきました。

日々の暮らしへの感謝、生かして頂いていることへの感謝、これからも平穏無事に生かして頂きたいという願い。
何百年も重ねられた、純朴な人々の慎ましやかな祈りがそこにはありました。

長椅子に腰掛け、静かにその空気に浸っていますと、不思議なものでそれまでパシャパシャと賑やかに写真を撮っていた人たちがスーッと
静かになって完全な静寂の時が流れました。
そのあとも色々な人たちが来ましたが、その状態はその後そこを去るまで続きました。

本当に芯から静まったとき、その心地というのは周りへと瞬時に伝わっていきます。
それは瞬間的にみんなが温泉に浸かったかのような即効性です。
幸せな心地に触れると私たちは身も心もそれに預け、それ以外の余計なことはしなくなるのでしょう。

その教会をあとにしまして、今度は街で一番大きなドゥオーモ大聖堂へと入場しました。

ただ、残念ながらこちらのほうは観光客のガツガツした物見遊山の氣によって静寂がかき消されてしまっていました。

観光客の喧騒も去ることながら、もとよりその教会自体が先ほどの古い教会と面持ちが異なっていることに気が付きました。

例えば、聖壇の天井画を見上げますと、そこに描かれているのは写実的なタッチの『最後の審判』で、それはどうにも生々しすぎるもの
でした。

救われたい、天国に行きたい、地獄は恐ろしい、でも現世の欲望はあがらいがたい…
そこには感情と欲望の入り混じったものがおどろおどろしく表現されていました。

欲望がとどまることなく溢れ出し、それに流されエネルギーを注いでしまう人々の姿。
そしてそれは大変な罪であるとして、それに悩み苦しみ、最後は地獄に行く。

そのような一枚絵を突きつけられると、何とも救われない気持ちになってしまいました。

そこまで不安を煽るというのはどういうものなのか、それを口にすると非難めいた言葉しか出てこないのでやめておきますが、ただ、
そうした扇動的な意味合いだけでなく、もしかするとそうした罪の意識を植え付けないと自らの欲望に歯止めがかけられないという
理由もあるのかもしれないとも思いました。

実際、明治期に西洋人たちが、宗教的な戒律の無い日本を野蛮で遅れた国だと嘲笑したという話があります。
日本人からすればあまりに当たり前なことだったのですがそう言われてしまったことに慌ててしまい、そうして作られたのが新渡戸稲造の
『武士道』でした。

今となってみれば、どちらが野蛮で遅れた国なのかは言うまでもありませんが、彼らが「人間というのは何かしらの規律や縛りが無いと
欲望を抑えられず獣のように暴走するものだ」と断じていたことは疑いようもありません。

そうであるならば、そうした自分たちの本性というか本質というものは罪深い漆黒の闇であるとして、それに飲み込まれる不安にいつも
怯えていたことが想像できます。
それを自制し、不安を搔き消すために、このような戒めのような天井画が生み出されたと考えることも出来るかもしれません。

その天井画を見ておりますと、不安まみれの暗澹たる世界の中心に、ポッと希望の光が描かれていることに気づきます。

まわりをおどろおどろしく暗いタッチで描きつつ、中央は明るく輝くように描く。
極端な「闇」というストレスに晒された心にとってその明暗の効果は計り知れず、安息の救いとして「明」である中心の光へと私たちは
確実に惹き込まれます。

もちろん、その中心には救世主の姿が描かれています。

そうした効果を狙って描いているのか、あるいは本当に救いとして描いているのかは分かりませんが、本来、中心に輝くその光というのは
他の誰かではなく、私たち自身のことであります。
私たち自身の放つ光を擬人化したに過ぎません。

この天井画はすべてが正しいものでしょう。
中心に輝く光も真実です。
ただ、それは誰かではなく、この私たちであるわけです。

天井画に描かれているすべて、隅々で苦しみのたうちまわる姿から、中心で光輝く姿まで、そのすべては、私たち自身の内を表すものだと
思います。

恐れおののく必要などない話です。
闇もあれば光もあるのが当たり前。
誰であろうとも、闇だけなんてことはありませんし、光だけなんてことも無いわけです。

それらは、もとよりこの天地宇宙に遍在しています。

光だけを求めるから辿り着けなくなる。
闇を忌み嫌うから苦しくなる。

この絵が助長させているそれらの思いというのは、そもそもの天地の理からしてもおかしなことと言わざるを得ません。

その中心の光が神の子であるとするならば、すなわち神の子とは私たち自身を指すことになります。
ということはつまり「この世の終わりに復活して、私たちの前に姿を現し、私たちを救う」というのは、まさしく私たちの真我という
ことになりはしないでしょうか。

救世主とは私たち自身。
まさしく、自ら助くる者を助くであります。

おそらく御本人こそ、そのように説いていたのではないかと思うのです。
他人に依らず、自身に依りなさい、と。
だからこそ書を残すこともなかったというのは仏陀にも通ずるところでしょう。

何処まで行っても晴れることのない苦しさというのは、不条理さに対する考え方に因るところもあります。
この世界というのは不条理だらけで、なかなかそれを納得するのは難しいものです。

ただ日本に生きていますと、天災は日常茶飯事ですし、田畑も家も人も簡単に失われていきます。
そうして「いつまで引きずっても仕方がない」という諦めが繰り返され、ついに不条理も受け入れるようになります。

この世とはそもそも不条理なもの。
不条理なのが当たり前。

だからこそお蔭様に感謝をする。
見えない闇にはただ畏れ入り、謙虚になる。


一方で、日本と違って天災の少ない土地に在りますと、同じ景色、同じ現実というものが長らく続くことになります。

家も壊れない。
村も壊れない。
家族も奪われない。

実際、ヨーロッパに行きますと築100年などザラで、数百年以上たつものもアチコチにあります。
日本の基準では有り得ないような、見るからに危なそうな石造りの建物や彫刻装飾が何百年も残り続けています。

そうしますと「当たり前」というものが自ずと変わってきます。
つまり、自分を取り囲む環境が壊れないのが当たり前になってまいります。

しかし、そのような中でも不条理なことは当然起こります。

日本人は天災の脅威のおかげで、大自然は克服するものではなく共に生きるもの、寄り添うものと考え、自然環境の方に自らを合わせて
生きてきました。
我を通しても、そのすぐそばから天災によって全てひっくり返されてきました。
ですから、不条理に対しても耐性があるというか、諦めて受け入れられる素地が形成されました。

ただ、天災が少ないと、自分たちの住みやすいように自然環境を作り変えていくことができ、その景色が長らく保たれることになります。
つまり、自分たちの方に、自分を取り巻く環境を合わさせて生きるような格好になっていきます。

すると、不条理な出来事が起きた時に、なかなかそれを受け入れられず悩み苦しみ、何とかそれを理屈で解釈しよういう風になって
しまいます。
当たり前なことを失うのには何か理由があると。

その結果、自分たちはそもそも罪深い生き物であり、生まれた時からそれを背負っている、という世界観が創られました。

天地宇宙の条理とは、人間の価値判断の中に収まるものではありません。
そもそも人間の理屈などで説明つくものではないわけです。


しかし、何かしら納得する理屈がないと悶々とした気持ちが抑えられない。
そうした結果、辿り着いたのが、罪人であるのだから仕方ないという論理でした。

教会に行きますと、その中央には磔の像が置かれてます。
それは日本にあるものと違って、非常に生々しく再現されています。

事前に何の知識がなくてもその映像は見ただけで胸の痛まない人は居ないと思います。
そこでそれにまつわる史実が頭に蘇ると、自分たちもそこに居た当事者たちと同罪であるような申し訳ない思いが湧き上がり、赦しを請う
気持ちになってまいります。

十字架というのは、まさに私たち人間が罪人であることを想起させる象徴だと言えるでしょう。

しかし、例えば幼子に対して、あなたはとても良い子だと語りかけながら育てるのと、本当は悪い子なのだと諭しながら育てるのとでは
どちらが光を輝かせるかということです。

「光は我らの内になく、光は天にある」という前提に救いはあるのかです。

これ以上はやめておきますが、一つはっきりしているのは、そうした教義の中にあっても透き通った人たちも大勢いるということです。

ここからが今回一番言いたかったことでもありますが、教義や環境に私たちは流されやすいということはあるにせよ、最後の最後は私たち
自身がどうであるかによって決まる
ということです。
それが本当の『最後の審判』です。

たとえその教え自体が外へと救いを求めるものであっても、自ら救いを願い求める対象が自分自身ではなく、他の誰かへと向けられた場合
その構図は一変します。
自らの救いを外に向けてしまうのは我欲でしかありませんが、誰かの救いを求めるのは祈りとなるからです。

すなわち前者は、私たちの内なる光を陰らせるのに対して、後者は、逆にそれを輝かせることになるということです。

誰かのための祈りとは自らの内に火をともすことであり、灯台のごとくその相手に光を注ぐことになります。
それはまさしく自灯明の一つの姿です。

私心のない透き通った祈りや感謝の心は、いつの世にあっても、光そのものであり、天地宇宙そのものと成ります。

奇跡というものは天の誰かが起こすものではなく、私たちが互いの光を灯すことによって起きるものです。
分厚く覆われた暗雲を、私たちの内なる光が吹き祓うことで、相手の内なる光が輝きだします。

どちらか一方の光だけで奇跡が起きることは有り得ません。
つまり、一方向的なおすがりやお助けというものは有り得ないわけです。


大聖堂の中では、何かを強く求める思いと、ただ純粋な感謝と、そうした正反対の心がないまぜになっていました。
我執の心と、無私の心、それぞれが存在していました。
それは手を合わせる人たち、一人一人の違いによるものであるわけです。
そしてそれは何も大聖堂に限らず、世界中どこでも、日本の神社やお寺であっても同じことが言えるでしょう。

どのような環境にあっても、結局は私たち自身がどのようにあるかで180°変わってきます。

それは異国にあってもそうですし、いま私たちの居るこの日本にあっても同じことです。

たとえ内なる光を讃える国にあっても、おすがりやお願いごとを求めてしまっては結果は同じ、抜け出すことのできない天井画の世界に
なってしまいます。

ささやかな暮らしへの感謝。
いま生かして頂いていることへの感謝。
そして、誰かの幸せを思う心。

私たちの内に広がる混濁の中にあって、そのような透き通った祈りや感謝こそが、あの天井画の中心に燦然と輝く光となるのではないかと
思います。


(つづく)



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お蔭様は万国共通

2016-11-11 12:32:50 | 世界を旅する
旅というのは、ハプニングも含めて何もかも楽しいものです。

あらゆる展開をウェルカムな心で受け入れて、ノープランのまま筋書きの無いストーリーを1ページずつ進んで行く。
何が起きるか分からないという、この360°無限に広がる開放感は本当に心地よいものです。

あらかじめアレコレ決めてしまうと、目の前に広がる道を自ら狭めてしまうことにしかなりません。
すると思いがけない出来事や発見というのはその分だけ目減りしてしまいます。

「想定したことが起こる」
それは安心安全な旅に違いありませんが、安心だけが幸せなのかということです。

そしてそれは、まさしく人生そのものを指し示すものでもあるわけです。

ただ、旅行というのは期間が限られているので大らかな心で何でも楽しもうという気持ちになれますが、人生はとにかく長い。
寿命という期間限定が設けられているのは旅を楽しむのと同じ理由ですが、それでもやはりその気持ちを維持するには長いと言えるかも
しれません。
しかし長すぎてモタないというその長さこそが、絶妙な仕掛けにもなっています。

本来は夢の創造であるこの世界を「夢ではない」と自らを信じ込ませるためには、これだけの長さが必要であるわけです。
夢が夢だと分かってしまうと、種明かしされた手品と同じでドキドキハラハラすることが無くなってしまいます。

寿命というのは、旅を楽しむために期間限定であるとともに、私たちがスクリーンの中の自分たちに同化しきってそれを芯から味わう
ための絶妙な長さでもあるわけです。



さて、イタリアの話をしたいと思います。

予定を立てる以前に、そもそも仕事が忙しくて何も考えられないまま当日を迎えてしまいました。

ミステリーツアーというのは、事前に情報が少なければ少ないほど、驚きの感動は大きくなります。
そして、驚きと喜びが必ず起きることを知っていると、最早「信じる」という表現にはならずに、当たり前に進んで行くようになります。

何故、驚きと喜びの出来事が「必ず」起きるかというと、それはあらゆるハプニングが喜びになることを知っているからです。
こうした旅に行きますと私たちの誰もがそうであるのですから、本来の人生もまた誰もがそうであるということです。

前世の知識を失い、今世の予見をも失う一番の理由は、まさしくこのミステリーツアーを充実させるための仕掛けに他なりません。
知らないことを知った時の驚きと喜びは、旅先で誰しも経験することです。
そしてこの世に生まれて来るというのは、まさにその初めての国への旅と同じであるわけです。


さて、現実の旅行のほうに話を戻したいと思います。
フィレンツェに着いてからのことです。

初日は時差ボケで早朝に目が覚めてしまいました。
とりあえず近場まで散歩しようと外へ出ましたら、100メートルも行かないうちに道脇に人が集まっているのに出くわしました。

まだ早い時間でしたので道ゆく人もまばらでしたが、小さな広場には中世風の服装に分かれた一団が立ち並び、その横には小銃を構えた
軍人が整列していました。

その後ろをすり抜けて見やすい位置へ移動しますと、勇ましい演奏とともに国旗が揚がり始めました。
気づけば初日の一歩目に国歌の生演奏を聴かせて頂くことになりました。

居並ぶ軍人の方を何気なく眺めますと、修道服に身を包んだ看護婦とおぼしき老女たちが整然と並んでいるのに気づきました。
修道服の女性たちは軍人たち同様、同じ角度で国旗を見上げながら声高らかに国歌を斉唱していました。

それを見た瞬間、表現しがたい濃縮された悲哀の塊が全身をブワッと吹き抜けました。
何がなんだか分からぬまま、涙が溢れそうになるのを必死に堪えるばかりでした。

国旗が掲揚され、しばし静けさが漂う中、記念碑の下へ大きな花輪が運ばれていきました。
その間、捧げ銃に構える軍人とともに、老女たちもビシッと直立不動の姿勢で力強く立っていました。

修道女といえば慈愛に満ちた優しいイメージしかありませんが、彼女たちの雄々しき姿は、そのすぐ脇で黒光りする小銃と違和感なく
溶け合っているのが衝撃でした。

もちろん、それは強さの現れであり、そうやってこの国は遥かな昔から自分の国や家族たちを護ってきたわけです。
負けまいとする気持ち、一丸となって国を護るという強い思い。
兵士達にも神の御加護があらん、です。
しかし、その激しいほどの強さゆえに、その内に秘められた止むに止まれぬ深い哀しみが伝わってくるのでした。

イタリアというのは小さな公国が集まった共和国でした。つまりその前は戦国時代があったということです。
そして、その前にも、そのあとにも、他国から獲った獲られたという歴史がありました。

修道女すら心に銃を持ち、闘わなければならない。
逞しさを表にあらわさずには居られない。
何という大変な歴史だったのでしょうか。
それは生きるために必要なことであり、護るために必要なことであり、それ無くして今というものは無かったわけです。

良い悪いということではなく、それが逞しくあればあるほどに、深い哀しみと強い愛情がないまぜになって全身を吹き抜けたのでした。

あとで聞くと、それは戦没者の慰霊祭とのことでした。

国というのは、古今東西どこであっても数多くのお蔭様によって支えられています。
そして、今この笑顔というのは数知れない哀しみと愛情によって支えられているわけです。

すべてに感謝を思う瞬間です。

古人をしのごの言う権利が私たちに有るはずがありません。
今ここに生かさせてもらっている、その事実が全てでしょう。

どの世界にあっても私たちを護る国魂というものがあります。
それは天に坐します遠い存在というのではなく、私たちのご先祖様たちであり、私たち自身であるわけです。

初めの一歩で、そのことを改めて教えて頂きました。


(つづく)




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心は肉体を超えて

2016-11-01 23:36:43 | 心をラクに
先週から松本での取り引きが始まりました。

信州というのは長らく空白地帯だったのですが、今年の夏あたりからトントン拍子で話が進みまして、そのうち前任者が異動となって
開始直前になって自分が担当することになりました。

御柱祭直後の諏訪大社にフラフラと足を踏み入れたのは6月のことでした。
あの時は、こんな場所が日本に隠されていたのかと衝撃を受けて再訪問を心に決めたのでしたが、まさか数ヶ月後にそこの担当になる
とは思いませんでした。

これまで伊勢を始め、日なたの陽のエネルギーに触れ続け、自分はそちらの御縁なのだと当たり前に思っていましたが、ここに来て
日蔭の、静の感覚に触れることが多くなり、それが遠く深くへと広がっていくのを感じるようになりました。

それを何と言えばよいのか、しっくりくる言葉が浮かばないのですが、自分を取り巻く環境、心に触れる感覚がガラッと変ったのを
感じています。

取り巻く環境というのは、現実生活の目に見える景色もそうですが、それ以上に目に見えない水面下の広がりの意味合いのほうが
大きいかもしれません。
最初は水面上の点であったものが、気がつけば天地水平に満ちるエネルギー、空気となり、それが深淵にまで続く感覚となりました。

これが御縁というものなのでしょうか。

御縁というのは、まさしく目に見えない世界の繋がりです。
というと何処か見えないところから何かがヒュッと繋がるようなイメージを浮かべるところですが、逆を言えば自分の方から水面下の
それらにヒュッと繋がっていくという見方も出来ます。
この世界は相対的なものですから、どこに視点を置くかの違いであってどちらも同じことを言っています。

つまり、御縁とは向こうから勝手にやってくるものでもなければ、こちらから強引に行くものでもない。
どちらも引き合うようにして自然と同化するものということです。

道開きの神様というのは、遠くの何かを引っ張ってきてくれるのではなく、その世界と自分との風通しを良くして下さっているという
ことではないかと思います。

引き合うということに関しては、良縁も悪縁も同じ理屈ですから、私たち自身がどのような状態にあるかによって目の前の景色もそれ
相応の姿形になっていくと言えます。
不幸や困難が勝手に向こうから訪れるということは無いわけです。

御縁と言えば、初めて高野山に行った時には、ものすごい渇望感をもって仏教を猛勉強したということがありました。
それは数ヶ月にも渡り、まさに机にかじりつくような勢いだったのですが、決して追い立てられるようなものではなく、とても悦びに
満ちたものでした。
その時というのは表層の自分ではなく、広がりの中に重なり合う何者かの存在を感じました。
そして自分自身は、その歓び嬉しくて仕方が無いという感覚を、不思議と冷静に眺めていたのでした。

荒唐無稽に過ぎますが、自分にとっては心の奥底というか、無限小の中心の実感でしたので疑いを挟む余地のないものでした。
そうなると理屈でなく、証明するまでもない真実でしたので、誰かに伝えてそれを分かって貰おうという思いすら湧かなくなっていました。

そうして誰に話すでもなく過ごしていましたが、あるときボンヤリ感じる存在のことをボソッと話したら、家の者がだいぶ前からその
存在に気付いていたと言うのには驚きました。

確かにドーンと居てるんですから、リラックスしてる自宅の中で「むむ」と思わないはずがない。
そりゃそうだよな、と笑ってしまったことがありました。

この時の感覚というのは、水面下の広がり全体に及ぶものではなくポッと一つのともしびのようなものでした。
そして実際のところ、高野山から帰ってきたらそれは消えてしまいました。

また御縁としては、それよりもさらに淡い、あっという間に目の前を通り過ぎるものもありました。

例えばこれも高野山ですが、前日になって急遽、熊本・八代に仕事で飛ぶことになってしまい、そこから高野山直行という強行軍に
なったことがありました。
内心、文句タラタラでしたが、まさに人生楽ありゃ苦もあるで、トンボ帰りで宿坊に着きますと大変立派な部屋を使わせて頂くという
幸運に恵まれました。

そこはお殿様の部屋で、細川首相の部屋でもありますと言われて、ホンマかいなと話半分ながらも喜んでいたところ、翌朝の勤行を
終えたあと住職に導かれるままに奥の部屋へ入るとそこには歴代の熊本藩の藩主の位牌がズラリと並んでいました。

何も知らないにもほどがありますが、その宿坊は熊本藩の菩提寺というオチでした。

さすがに驚いて、心落ち着けて手を合わせましたが、その中に歴代の八代城主の位牌もあることに気づいた時にはもはや完全に降参の
心境でありました。

この時というのは水面に浮かぶ点のような御縁と言っていいものでして、たまたま使える駒が来たから使ったという感じでした。
そのおかげでこちらはお殿様の部屋を使わせて頂いたのですから、これぞ本当のお蔭様でありました(笑)

色々と書いてきましたが、こういうことはたまたまそれに気づくかどうかだけで、いつでも誰にでも起きていることなのだと思います。

そもそもこの世とは天地の中心に成ったものであって、私たち人間というのはさらにその中心、つまり天地を繋ぐパイプに成ります。
依り代というと大層なものを想像してしまうかもしれませんが、自覚の有り無しに関わらず、それこそがごく自然の姿ということです。

私たちは、私たち自身の依り代です。
そして天地の依り代でもあるわけです。


何となく足を伸ばしたくなったり、ふと手を合わせたくなった時というのはそういう時です。
そんな時は余計な詮索はやめて、理屈も捨てて、ただ手を合わせる。
そしてそれが終わったら、そのこと自体も忘れて何事もなかったように切り替える。
サッサと我心を捨てることが詰まらせないコツではないかと思います。


さて、このように御縁といっても様々にあるわけですが、今回の松本の流れというのは点や面とは違って、もう少し奥深くへ広がる
ものを感じました。

先週末、帰りの特急が下諏訪に差し掛かった時、にわかに諏訪大社の景色が心に浮かび、今すぐにでも駆けつけたい衝動に駆られました。
しかし電車の中で缶詰めになっているのでどうしようもない。
そこで止む無くそのままその景色に身をまかせていますと、その空気と肌感とに同化した瞬間、弾けるような幸福感が全身をブワッと
包みました。
その余韻はその後、数十分ほど消えることはありませんでした。

その時、それは生まれる前や死んだ後、誰もが味わうこの天地宇宙に満ち満ちた産湯なのだと感じました。

そしてその感覚というのは、心が感じているだけでなく、この肉体も感じているものでした。
全身の皮膚の表面に鳥肌が立ち、感触を物理的に感じている状態となったのでした。

必ずしも神社境内に肉体を置かなくても、心がそうであれば寸分違わずそこに在るのと等しくなる。
逆にそれは、そこに肉体が在ろうとも心がそこに無ければ、肉体もまたそこには同化できないということを意味します。

家の中にあって神棚に手をあわせる時も、天照様であれば伊勢神宮のあの神苑の空気、あの心の肌感を思い出せばそこに行かずとも
たちまち同化する。
氏神様にしても、またしかり。

ですから時々それら実際の境内に足を運び、手を合わせるのはとても大切なことになるわけです。

頭とは違い、皮膚の実感はフィルターレスです。
実体験というのは、自我の覆うフィルターを突き抜けて天地宇宙に直結するパイプとなります。
心の肌感を思い出せば瞬時に同化できるというのはそういうわけです。

実地に赴き、肌に身をまかせる。
手を合わせたくなれば手を合わせる。
何をするでもなくただそこに立ち、頰を撫でる風を心を預ける。

日頃この肉体にカチコチに押し込められている心を解き放つには、頭を空にして肌へと身をまかせるのが一番です。

心の皮膚感、肌感、そうしたものに素直に身を任せた時、突如、たとえようのない幸福感が吹き寄せるかもしれません。
それは私たちが生まれる前や死んだあと、そして今この時も、当たり前にこの世界に満ち満ちているものであるわけです。


鳥取でも地震があり、国土のあちこちで不穏な状態が続いています。

明後日からはイタリア。
フィレンツェ、ローマに行ってまいります。

何処が特別ということはありませんが、その時その人にとっての御縁というものはとても大事なものでしょう。

本日の内容そのままです。

私たちは、いつ何処にあっても、天地宇宙の依り代であり、そして私たち自身の依り代ということです。




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