日本海の荒波が洗う能登半島の曾々木海岸、ここに北前船交易で巨万の富を築いた上時国家がある。
ここを登った先に上時国家がある。
ここが玄関です。茅葺なのに圧倒される。
お庭を覗いてみましょう。
うん。落ち着くね
離れがある
上時国家の祖先は、平大納言時忠つまり平清盛の義理の弟で、源平合戦に敗れここに落ちてきた。
そしてここに住み着くこと800年、江戸時代は天領大庄屋として13カ村を束ね、北前船交易で巨万
の富を築いたという。
上時国家ご覧いただきありがとうございました。
日本海の荒波が洗う能登半島の曾々木海岸、ここに北前船交易で巨万の富を築いた上時国家がある。
ここを登った先に上時国家がある。
ここが玄関です。茅葺なのに圧倒される。
お庭を覗いてみましょう。
うん。落ち着くね
離れがある
上時国家の祖先は、平大納言時忠つまり平清盛の義理の弟で、源平合戦に敗れここに落ちてきた。
そしてここに住み着くこと800年、江戸時代は天領大庄屋として13カ村を束ね、北前船交易で巨万
の富を築いたという。
上時国家ご覧いただきありがとうございました。
ここは若狭熊川宿という。
かつて日本海の小浜から京都まで海産物を運んでいたルートの宿場という。
当時、若狭から鯖を塩漬けにして運ぶと京都に着くころには丁度いい塩加減になったという。
それでこの街道のことを「鯖街道」と呼ぶそうだ。
街並みは統一感がありなんか落ち着く
この家は虫籠窓で重量感がある。
永禄13年(1570)4月、信長は越前の朝倉義景を討つためにここ熊川で一泊している。
ここは敦賀の金ヶ崎城である。(天気が悪く暗いのはご勘弁)
ここで信長は浅井長政の裏切りにあい、命からがら京都へ逃げ帰った。
鯖街道熊川宿、ご覧いただきありがとうございました。
次は宿の背後にある熊川城に登城します。
八墓村を後にして次は備中松山城に登ってみよう
・・・ということで駐車場まで登ってきた。
みんなサッサと本丸目指して登っていくのだが、ちょっと穴場を探検してみよう
・・・ということでやってきたのは、下太鼓の丸。
入り口は石垣でガードされています。
その奥は平場があって、ここにかつては伝達用の太鼓を叩く建物があったのだろう
下太鼓の丸から、中太鼓の丸を見上げたが、なんも見えない
ここが中太鼓の丸で本丸との伝達の中継地なんだろう
ここから城下を見下ろすと
汗水たらしてやっと本丸への入り口にやってきた
もう一息
これが小松山の城跡です。
正に難攻不落とはこのことか
テレビ等でよく見るところじゃ
裏の方はどうなってるのかの
岩の上に石垣を築いて櫓を立てている
・・・ということで備中松山城をご覧いただきありがとうございました。
次はどこに行こうかのう。
昨日(?)は八墓村の庄屋、広兼邸を訪ねました。
今日は、集落内を彷徨います。
集落の入り口です。この感じだとかつては桝形だったのかも
今どこかのう ? 多分、旧片山家住宅脇の駐車場から歩いてきたのだから
おおっ、これはスゴイ。
もっと近づいてみると
街並みにあまり統一感はなく、それぞれが個性を出している感じ
このお宅はまた凄い
屋根の赤色瓦がいい雰囲気を出している
ここは元名主さんだっかかな
あの天窓のついた蔵に上がってみたい
奥はどうなってるのかな
さぞかし維持が大変だねこりゃあ