記憶は筋肉に宿る。
そんな話があることを知っているだろうか。
一見すると非科学的、根拠のない話に聞こえるが、初めてその話を聞いたのは数年前、ボディフォーカスト・アプローチのワークショップだった。
比較的非科学的と思われることも、実際に様々な形で体験してきたので、私自身はすんなりと意識のなかに入ってきたが、これを一般的なものとして受け入れられるかといえば、そう簡単にはいかないようだ。
現実にこの説を拙書「たおやかに生きる」で書こうとしたとき、編集者から説得力がないと却下された。
しかし後になって、実はそうした考え方が必ずしも非科学的=信用できないとは言えないことを確信する、ある出来事に遭遇した。
それはいつものようにBFAのワークショップに参加したときのことだった。
そのときのテーマは「身体」
身体感覚に意識をむけながら、セルフワークをしていくことを何度か繰り返した。
痛みや重たさ、だるさや痺れなど感覚に意識をむけると初めは微細な感覚だが、やがて増幅されたり変化をおこし始める。
ときには心の琴線に触れたのだろう涙を流すひともいる。
セルフワークが終了後、
参加者の何人かがどんな体験をしたかをシェアしたが、あるひとの話してくれた内容に参加者全員が驚愕した。
そのひとは、ある時から長い間ずっと肩の疼き、痛みを感じなから生活していたという。思い当たるふしもなく、ただ漠然と痛みを覚えていたそうだ。
またまBFAをしながら肌で痛みをで感じた彼女は、あえて感じることをし続けた。
するとどうだろう。
しばらくして、遥か昔の記憶が甦ってきたのである。
子供の頃、友達と遊んでいて肩を脱臼したときのことが、鮮やかに甦ってきたそうである。
そして、そのビジョンを体感し、痛みをずっと感じ続けていったところ少しずつ痛みや疼き、違和感が薄まってきたという。
BFAのワークショップに参加しセルフワークで記憶が甦るまで、そんな出来事はすっかり忘れていたそうだ。
まさしく記憶は筋肉に宿るである。
その出来事以降も、多方面から似たような話を聞いたり、BFAと同じような考え方をしている分野のひとから意見を聞いたり、筋肉や神経の痛みと怒りが密接に結びついている説を医療の分野で読んだりする機会が増えている。
非科学的と捉えられていたが、徐々に受け入れられてきているということなのだろう。
科学的に実証されることだけが真実とは言えないことを示しているようで興味深い。