まったく面識のない人が、『自分らしい終末や葬儀の生前準備ー「生老病死」を考える』(あけび書房)を読まれ、共感するところがあり、わたしの連絡先を調べて手紙をいただきました。もうずいぶん前ですが、一年にはならないと思います。本を読み、共感して、連絡先を調べることをしたことがないわたしは、その行動力に感心し、すごくうれしかったです。今年出した『仏教における女性差別を考えるー親鸞とジェンダー』(あけび書房)にも、そういう人がいて、驚くとともに、すごくうれしく、その方はあけび書房の久保さんから電話があり、わたしが直接電話をしました。初めての人に対して、緊張して電話w祖いたことをよく覚えています。
手紙をいただいた方は、電話番号が書いてあり、わたしから電話をしました。この方も緊張したことはいうまでもありません。それから、メールのやりとりを行い、お目にかかる日を5月に決めましたが、コロナの影響で、その日は延期になりました。次回の日程を8月初旬に決め、コロナも大丈夫だろうと二人が思っていました。ところが、7月後半になり、コロナは感染者の増加はありますが、その方の住んでいらっしゃる地域は大丈夫ということで、お目にかかることに決めました。グループで活動もされ、同じように共感してくださった方が4人ぐらい集まるとのことでした。
梅雨が明けて、急に暑くなった日でしたが、5人の方とお目にかかることができ、いろいろな話ができました。そのうちのお二人は、その市で行われた過去の講座に聞きに来てくださったとのことでした。担当者の名前も覚えていてくださり、懐かしかったです。あいにくわたしは聞いてくださった方のお顔を覚えていませんでした。
葬儀のやり方が、コロナによって大きく変わり、これは、コロナの終息収束後も続くのではないかと、話が出ました。コロナによっての葬儀は、「直送」に近いかたちに変わりました。とくに、志村けんさんが亡くなった場合、死に目にも会えず、葬儀も行えず、お骨が拾えなかったという報道は、多くの人にショックを与えると同時に、この時期に行う葬儀は、例えコロナによって死ななくても、簡単に行ってよいという考えが芽生えたと思います。葬儀が変わることにみんな大賛成でした。クリスチャンの人もいて、教会での葬儀の簡単さはすごくよいという意見が出ました。わたしも友人から教会の葬儀に何度が参列したことを聞いていて、仏教よりもよいと聞いていました。葬儀が簡単になることが、コロナによって行われるというのは、少し違和感があります。葬儀について考え、これまでの葬儀の総括を行った故の変化であるなら、そうは思わないですが、コロナによってです。考えないで、「外圧」によって変化するという日本的だと思います。葬儀が簡単になることはだれも異議はなく、賛成なのです。
ところが、お骨の問題になると、そう簡単にはいきません。わたしがつれあいのお骨を拾わなかったことは、みなさん、相当にショックを受けたようです。というより、考えたこともなかったといったほうが、あっています。考えたこともないということを新たに考えるというのは、案外しんどいことなんだと、聞いていて感じました。収骨しないことがそれほどむずかしいことでもあると思ったのです。わたしの周囲で、簡単に同意してくれた人もいますが、今回の人たちは、そう簡単ではありませんでした。お墓の管理に困っているという現実がありながら、その後を簡単にする方法の収骨をしないのは、スムーズに移行しないのです。関西の人たちなので、ほんの少ししか収骨しないことをも知った上で、簡単ではないのです。なぜ簡単にいかないかの議論がなかなか進まないなかで、時間切れになってしまいました。
遺骨の問題は、なぜこれだけ簡単にいかないのか、もう一度、わたしも考えてみようと思います。わたしは親鸞の遺体観によって考えたことですが、何かによらねばできないことかどうか、わたしへの問いが必要です。
手紙をいただいた方は、電話番号が書いてあり、わたしから電話をしました。この方も緊張したことはいうまでもありません。それから、メールのやりとりを行い、お目にかかる日を5月に決めましたが、コロナの影響で、その日は延期になりました。次回の日程を8月初旬に決め、コロナも大丈夫だろうと二人が思っていました。ところが、7月後半になり、コロナは感染者の増加はありますが、その方の住んでいらっしゃる地域は大丈夫ということで、お目にかかることに決めました。グループで活動もされ、同じように共感してくださった方が4人ぐらい集まるとのことでした。
梅雨が明けて、急に暑くなった日でしたが、5人の方とお目にかかることができ、いろいろな話ができました。そのうちのお二人は、その市で行われた過去の講座に聞きに来てくださったとのことでした。担当者の名前も覚えていてくださり、懐かしかったです。あいにくわたしは聞いてくださった方のお顔を覚えていませんでした。
葬儀のやり方が、コロナによって大きく変わり、これは、コロナの終息収束後も続くのではないかと、話が出ました。コロナによっての葬儀は、「直送」に近いかたちに変わりました。とくに、志村けんさんが亡くなった場合、死に目にも会えず、葬儀も行えず、お骨が拾えなかったという報道は、多くの人にショックを与えると同時に、この時期に行う葬儀は、例えコロナによって死ななくても、簡単に行ってよいという考えが芽生えたと思います。葬儀が変わることにみんな大賛成でした。クリスチャンの人もいて、教会での葬儀の簡単さはすごくよいという意見が出ました。わたしも友人から教会の葬儀に何度が参列したことを聞いていて、仏教よりもよいと聞いていました。葬儀が簡単になることが、コロナによって行われるというのは、少し違和感があります。葬儀について考え、これまでの葬儀の総括を行った故の変化であるなら、そうは思わないですが、コロナによってです。考えないで、「外圧」によって変化するという日本的だと思います。葬儀が簡単になることはだれも異議はなく、賛成なのです。
ところが、お骨の問題になると、そう簡単にはいきません。わたしがつれあいのお骨を拾わなかったことは、みなさん、相当にショックを受けたようです。というより、考えたこともなかったといったほうが、あっています。考えたこともないということを新たに考えるというのは、案外しんどいことなんだと、聞いていて感じました。収骨しないことがそれほどむずかしいことでもあると思ったのです。わたしの周囲で、簡単に同意してくれた人もいますが、今回の人たちは、そう簡単ではありませんでした。お墓の管理に困っているという現実がありながら、その後を簡単にする方法の収骨をしないのは、スムーズに移行しないのです。関西の人たちなので、ほんの少ししか収骨しないことをも知った上で、簡単ではないのです。なぜ簡単にいかないかの議論がなかなか進まないなかで、時間切れになってしまいました。
遺骨の問題は、なぜこれだけ簡単にいかないのか、もう一度、わたしも考えてみようと思います。わたしは親鸞の遺体観によって考えたことですが、何かによらねばできないことかどうか、わたしへの問いが必要です。