10月に「終活」の問題の講演を頼まれている担当者から打ち合わせという内容で、電話をもらいました。
打ち合わせにしては長い電話になりましたが、わたしがいいたいことを再認識することができました。『「遺骨を拾わない・お墓をつくらない」葬送を考える』の本で言いたいことを書いたつもりですが、いい足りなかったこと、弱かったことが新たに分かりました。それは、家父長制、家制度の問題への言及です。
きっかけは、あるZoomの講演会でのことです。有名人だから名前を出してもよいと思いますが、仮名にします。苗字は家制度、家父長制を支持することになるので、名前だけでいくという発言がありました。金谷博正(仮名)なので、博正を名乗るので、そのつもり対応してほしいということでした。
何となく聞いていたらその気になりましたが、名前だけでは分かりにくいし、ましてそれをカタカナ表記されると、ヒロマサではもっと分かりにくいと感じました。
講座が終わり、苗字が家父長制、家制度を補完するものかに疑問をもちました。近代の民法で決められた家制度は、家名を基本的に長男が継ぐことをその要件の一つにしています。そのときは、家名だから苗字が家制度に寄与することになりますが、戦後の民法で家制度がなくなったとき、家名の考えもなくなったのではないかと考えました。姓と名で一人の個人を顕す。そのどちらも自分でつけることはできないけれども、一人の人間の名乗りを表す姓名として捉えることができるのではないかと思います。だから生まれたときの姓をそのままずっと名乗りたい人は名乗り続けられる法律が必要なのです。選択的夫婦別姓は、その意味があり、絶対に必要なのです。
そこから、では現在、家制度的な家父長制を支えるものが何があるかを考えました。やはり「遺骨」を維持していくお墓にたどりつきます。つまり、葬送にかんすることです。
遺骨に関するのはお墓だけではありません。仏壇も位牌も、そして、葬送にかんする祖先供養も関係します。祖先を稚拙にするようになったのは、家制度下の近代です。家制度を大きく補完するものこそ祖先崇拝です。
これまでの祖先崇拝を続けることは、家制度的なものを補完することになるのではないでしょうか。
では、家制度的なものを補完しない祖先崇拝が存在するのでしょうか。ものすごく大きな加地ですが、親鸞は「父母のために念仏をもうさない」と、祖先崇拝を否定しています。親鸞による崇拝の否定は、念仏は何のためにもうすかの問題提起だと思います。信心を得た念仏は、親鸞にとって世間を否定する意味がありました。世間で行っている諸々の雑行を否定するのです。こういうわかりにくくむずかしいのが親鸞なので、教団は分かりやすく世間に同調したと思います。親鸞のむずかしさがあるから、親鸞に惹かれる人が多いのでしょう。
こんなことを考えていたら、わたしは頼まれた講座で、家父長制、家制度的なものを補完することをいわなければならないと再認識しました。こういう内容をどのようにわかりやすく、理解してもらえるように話したよいのか、頭の痛いところです。
打ち合わせにしては長い電話になりましたが、わたしがいいたいことを再認識することができました。『「遺骨を拾わない・お墓をつくらない」葬送を考える』の本で言いたいことを書いたつもりですが、いい足りなかったこと、弱かったことが新たに分かりました。それは、家父長制、家制度の問題への言及です。
きっかけは、あるZoomの講演会でのことです。有名人だから名前を出してもよいと思いますが、仮名にします。苗字は家制度、家父長制を支持することになるので、名前だけでいくという発言がありました。金谷博正(仮名)なので、博正を名乗るので、そのつもり対応してほしいということでした。
何となく聞いていたらその気になりましたが、名前だけでは分かりにくいし、ましてそれをカタカナ表記されると、ヒロマサではもっと分かりにくいと感じました。
講座が終わり、苗字が家父長制、家制度を補完するものかに疑問をもちました。近代の民法で決められた家制度は、家名を基本的に長男が継ぐことをその要件の一つにしています。そのときは、家名だから苗字が家制度に寄与することになりますが、戦後の民法で家制度がなくなったとき、家名の考えもなくなったのではないかと考えました。姓と名で一人の個人を顕す。そのどちらも自分でつけることはできないけれども、一人の人間の名乗りを表す姓名として捉えることができるのではないかと思います。だから生まれたときの姓をそのままずっと名乗りたい人は名乗り続けられる法律が必要なのです。選択的夫婦別姓は、その意味があり、絶対に必要なのです。
そこから、では現在、家制度的な家父長制を支えるものが何があるかを考えました。やはり「遺骨」を維持していくお墓にたどりつきます。つまり、葬送にかんすることです。
遺骨に関するのはお墓だけではありません。仏壇も位牌も、そして、葬送にかんする祖先供養も関係します。祖先を稚拙にするようになったのは、家制度下の近代です。家制度を大きく補完するものこそ祖先崇拝です。
これまでの祖先崇拝を続けることは、家制度的なものを補完することになるのではないでしょうか。
では、家制度的なものを補完しない祖先崇拝が存在するのでしょうか。ものすごく大きな加地ですが、親鸞は「父母のために念仏をもうさない」と、祖先崇拝を否定しています。親鸞による崇拝の否定は、念仏は何のためにもうすかの問題提起だと思います。信心を得た念仏は、親鸞にとって世間を否定する意味がありました。世間で行っている諸々の雑行を否定するのです。こういうわかりにくくむずかしいのが親鸞なので、教団は分かりやすく世間に同調したと思います。親鸞のむずかしさがあるから、親鸞に惹かれる人が多いのでしょう。
こんなことを考えていたら、わたしは頼まれた講座で、家父長制、家制度的なものを補完することをいわなければならないと再認識しました。こういう内容をどのようにわかりやすく、理解してもらえるように話したよいのか、頭の痛いところです。





