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自分らしいお葬式やお墓を考えましょう。

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自分らしいお葬式やお墓を考えましょう

2025-07-28 08:44:20 | 日記
10月に「終活」の問題の講演を頼まれている担当者から打ち合わせという内容で、電話をもらいました。
打ち合わせにしては長い電話になりましたが、わたしがいいたいことを再認識することができました。『「遺骨を拾わない・お墓をつくらない」葬送を考える』の本で言いたいことを書いたつもりですが、いい足りなかったこと、弱かったことが新たに分かりました。それは、家父長制、家制度の問題への言及です。
きっかけは、あるZoomの講演会でのことです。有名人だから名前を出してもよいと思いますが、仮名にします。苗字は家制度、家父長制を支持することになるので、名前だけでいくという発言がありました。金谷博正(仮名)なので、博正を名乗るので、そのつもり対応してほしいということでした。
何となく聞いていたらその気になりましたが、名前だけでは分かりにくいし、ましてそれをカタカナ表記されると、ヒロマサではもっと分かりにくいと感じました。
講座が終わり、苗字が家父長制、家制度を補完するものかに疑問をもちました。近代の民法で決められた家制度は、家名を基本的に長男が継ぐことをその要件の一つにしています。そのときは、家名だから苗字が家制度に寄与することになりますが、戦後の民法で家制度がなくなったとき、家名の考えもなくなったのではないかと考えました。姓と名で一人の個人を顕す。そのどちらも自分でつけることはできないけれども、一人の人間の名乗りを表す姓名として捉えることができるのではないかと思います。だから生まれたときの姓をそのままずっと名乗りたい人は名乗り続けられる法律が必要なのです。選択的夫婦別姓は、その意味があり、絶対に必要なのです。

そこから、では現在、家制度的な家父長制を支えるものが何があるかを考えました。やはり「遺骨」を維持していくお墓にたどりつきます。つまり、葬送にかんすることです。
遺骨に関するのはお墓だけではありません。仏壇も位牌も、そして、葬送にかんする祖先供養も関係します。祖先を稚拙にするようになったのは、家制度下の近代です。家制度を大きく補完するものこそ祖先崇拝です。
これまでの祖先崇拝を続けることは、家制度的なものを補完することになるのではないでしょうか。
では、家制度的なものを補完しない祖先崇拝が存在するのでしょうか。ものすごく大きな加地ですが、親鸞は「父母のために念仏をもうさない」と、祖先崇拝を否定しています。親鸞による崇拝の否定は、念仏は何のためにもうすかの問題提起だと思います。信心を得た念仏は、親鸞にとって世間を否定する意味がありました。世間で行っている諸々の雑行を否定するのです。こういうわかりにくくむずかしいのが親鸞なので、教団は分かりやすく世間に同調したと思います。親鸞のむずかしさがあるから、親鸞に惹かれる人が多いのでしょう。

こんなことを考えていたら、わたしは頼まれた講座で、家父長制、家制度的なものを補完することをいわなければならないと再認識しました。こういう内容をどのようにわかりやすく、理解してもらえるように話したよいのか、頭の痛いところです。
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自分らしいお葬式やお墓を考えましょう

2025-06-28 10:19:24 | 日記
 昨日、墓じまいをした知り合い遠い、ことの顛末を聞きました。この人はわたしの友人から紹介され、悩んでいたときにわたしの本『遺骨を拾わない・お墓をつくらない葬送を考える』(同時代社)を「読んでみたら」と言われて借りて読んだあと、直接わたしと会って相談した人です。
 以前にも書いたことがありますが、昨日会ったときの顔はこの前とまったく違い、晴れ晴れとされていました。すべてが終わり、思い通りの墓じまいができたからです。
 わたしが伝えた要点は、檀那寺の住職に墓じまいをすることを伝え、石材店を見つけ、遺骨を自宅へ持ち帰るだけのことであることをいいました。自分の遺骨は拾わないと決めていたの人なので、持って帰った遺骨は自分が死んだあとにいっしょに焼き、拾わないとしたらすむという簡単な話だったのです。その上で、檀家を離れるといういわゆる離檀する意向だったので、石材店が墓じまいをする日に、これまでのお礼を込めてお寺に包みものをして離檀する旨を住職にいえばよいと話しました。そのとき、住職が離檀料とかいろいろ言われたら、弁護士と相談しますと言えば、きつくいわないと思うと言いました。
 そして、住職の文句もなく、ほんとにスムーズに終わったのです。
 彼女がより晴れ晴れしていたのは、病気をして2年間ほっといたことが、昨日分かりました。病気の前に事を進めていたら200万円以上をとられていたということを知ったのです。
 石材店の墓じまい、掘り起こした遺骨を寺へ永代供養、その管理料、本人が亡くなったときから5年間の管理料などが含まれていたそうです。もっとも問題なのは、お寺との縁は切れないままが続くと言うことでした。自分が生きている間、寺との関係を切りたかったのです。
 そのことが今回できたので、金額のこともですが、離断できたことは大きかったそうです。またもう一つは、住職が若い人に交代していて、子どものいない彼女の状況などを現代的な目で見ることができる人だと思ったそうです。前住職のままなら、これ間の経験上、何をいわれどれだけ要求されたか分からないといっていました。
 ほんとうに彼女が気の済むようにできてよかったと思いました。
 
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墓じまいの相談

2025-05-28 10:04:31 | 日記
 「ふぇみん」の記事が出ることで、本を買ってもらったらしいです。そのことがどうして分かるかというと、出版社から知ることになりました。「ふぇみん」の記事を出版社の人に贈ったからです。
 そしてそして驚くなかれ! 読者の方から手紙が来ました。わたしの住所は分からないので、出版社へ手紙を送ってくださったのです。出版社から転送され、わたしは大感激です。
 手紙の内容は、見ず知らずの者なのに、本を読んだだけなのに、ご自分の悩みごとが書かれているのです。本を書いた者の冥利に尽きるところです。これまでの本については、そういうことがまったくなかったです。知り合いの感想はもらいましたが、知らない人からの感想は初めてです。
 わたしが返事を書いたのは、もちろんのことです。
 その中から、ひとりの人と8月に会うことになりました。こんなことが起きたのです。わたしが返事を送ったあとに、電話までいただき、そこから講座がある近くに住んでいらっしゃるので、講座に来てくださるそうです。こんなことがあるなんて想像もしなかったことです。本を書く意味があることをかみしめています。

 墓について悩んでいる人が多いことを表してもいます。
 知り合いの友だちのことを少しお知らせします。
 墓じまいで悩んでいるので、相談したいということでした。実際に会って話を聞きました。関西に住んでいて、墓じまいしたい墓は岡山県内にあるのです。ご自分は70代シングルで子どもがいないので、自分が元気なうちに墓じまいをしたいということでした。だけど檀家制度下にあるので、住職にその話をしたら、三桁の金額を要求され、墓じまいをした遺骨はお寺に預けるという、いつまでもお寺と縁が切れないことに悩んでいました。
 三桁の金額に驚き、檀家制度を離れたいことが実現できないむずかしさを感じました。
 わたしは、墓じまいをしてその遺骨をご自分が保管していて、自分通い、これまでお世話になったけど、自分のあとをみる人がいないことを伝えたら、住職も諦めると思うと話しました。通い、これまでお世話になったけど、自分のあとをみる人がいないことを伝えたら、住職も諦めると思うと話しました。墓じまいの時にこれまでのお礼という意味で、「お布施」を包んでいけばよいとも提案しました。
 4月にことがトントン拍子に進み、一気に墓じまいが終わり、お寺との関係もスムーズに離檀することができました。
 この話は、こんなにうまくいくとは思っていませんでしたが、お寺が子どもがいない人の将来の現実を考えることができたからでしょう。今後のお寺もなかなか大変だと思いました。
 少しでも役に立つことができ、わたしもホッとしました。
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ジェンダーと葬送

2025-04-28 08:09:08 | 日記
 「ふぇみん」の記事の最終回を載せることができました。
 「ふぇみん」の編集者の清水さつきさんとのやりとりは、ほんとうに楽しかったです。編集者がきちんと意見を言ってくれることは、書き手としてありがたいです。なぜなら、書き手の内容を真剣に読んでもらっていることが分かるからです。清水さんはそういう編集者でした。
 直接お目にかかっていませんが、メールのやりとりと電話で話した限りですが、絶対に会いたい人になりました。

 幸い、夏頃にオンラインで勉強会を開いてもらえそうです。わたしは東京へ行きたいと考えています。

 最終回を是非読んでください。
 4回を読んでいただき、ありがとうございます。


墓について
 源 淳子

 葬儀のありようは戦後変化したが、墓については大きな変化はみられない。しかし、墓について悩んでいる人は増えている。老いて遠くの墓参りに行けない、墓を相続してくれる人がいない、散骨・墓じまいをしたいが方法が分からない・・・など、結局は墓の管理に関する悩みが多い。

ジェンダー平等のため
 墓とは、遺骨を納める場所である。墓の管理に悩むことは、言い換えれば、遺骨の管理に悩むことである。
 土葬の時代が終わり、遺骨を拾うのがあたりまえの現代だが、墓について考えてこなかったことのツケが、今になってまわってきているといえそうである。現在はなくなりつつあるというが、檀家制度も家制度的なものも残っている。少子化が加速し、墓を継承する人がいなくなっている。この傾向は今後ますます強まるだろう。家制度的なものがなくなれば、わたしたちの社会は少しはジェンダー平等に向かうだろう。ジェンダー平等を達成する一つの手立てとして、墓と遺骨の問題を解決することが考えられる。現在の民法の祭祀権は「慣習」によっており、家制度的なものと結びついている。その「慣習」を変えていくチャンスとなりうる。
 墓の悩みを解決するもっともよい方法は、墓をもたないことである。そうすれば管理する必要はないので、子や孫に墓の負担をかけることはない。
 墓をもたないためには、遺骨を拾わないことである。それによってわたしたちは、遺骨から解放される。遺骨を拾わないことは、日本人にとっては考えてもみなかった大きなハードルであろう。わたしがつれあいの遺骨を拾わなかったのは、長い間遺骨について考え、親鸞の遺体観をよりどころとし、つれあいと話し合い、お互いが納得したからである。

収骨しない時代へ
 遺骨を拾わないためには、まずは遺骨とは何かを考えることから始めたい。遺骨は拾うものであると捉えてきたが、どういう意味があるのかを自分が納得するまで考えたい。収骨に際して大部分を拾わない地域の人は、拾った遺骨と拾わなかった遺骨の違いをよく考えてほしい。拾った遺骨だけが大切なのか。拾わなかった遺骨のゆくえを考えたことがあるのだろうか。
 そして、自分の遺骨を拾わないでほしいという考をもつことができても、それだけではすまない問題がある。家族や大切な人が遺骨をどう考え、収骨しない考えに至るまでの高いハードルがある。関係者が考えを一にしてはじめて収骨しないことが成り立つ。そして、遺骨から解放される。
遺骨を拾わないことについての壁はまだまだ厚い。しかし、わたしはその高い壁を脱して収骨しない時代になってほしいと願う。それが遺骨からの解放であり、ジェンダー平等への道でもあるからだ。この問題に関心をもつ人は、遺骨を拾わない実践を記した拙著『「遺骨を拾わない・お墓をつくらない」葬送を考える』(同時代社)を是非読んでいただきたい。
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「ふぇみん」記事(3)

2025-03-01 08:09:58 | 日記
「ふぇみん」の記事の3回目です。
4回目は、4月に掲載されることになりました。
3月は休みです。


葬式・収骨の選択肢
    

葬儀は戦後、変化した。葬儀社の出現により葬儀社主導になったこととコロナ禍の影響で家族葬が急増したことにある。葬儀をしない直葬が2022年に約11%になり、2015年の約6%から倍増しているが、まだまだ葬儀をするのがあたりまえである。

焼香順のジェンダー
 現在行われている葬儀の宗教形式は仏式がもっとも多く、2010年代には90%を超えていたといわれる。
宗教の信者数と葬儀形式が比例しないのは日本の宗教事情による。信者数では神道系は全人口の48.5%、仏教系46.4%、キリスト教系1.1%、諸教4.0%であり、総人口の約1.5倍になる(『宗教年鑑』2021年度版)。その内実を「信仰」といってもよいのだろうか。
 一方、葬儀の種類は変化している。2015年には一般葬が約60%だったが、2022年には家族葬が約56%になり、一般葬は約26%に減少している(鎌倉新書、2022)。コロナ禍の影響である。しかし、家族葬といいながら、実態は一般葬のかたちで行われているものが多い。2023年に友人が亡くなり会葬したが、会葬者は一般葬と変わらなかった。ただ案内には「家族葬で行う」とあった。友人であるわたしは不思議な思いで参列した。
 通夜・葬儀で行われる焼香順について、ジェンダー不平等が残っていることを感じる。年配の男性が亡くなると妻が喪主になるのが一般的になってきた。しかし、寺の葬儀には第一子男性(長男)が喪主になっている場合が多いし、地方でもそのようなケースをみることがある。妻が喪主の場合の焼香順は、妻のあとに子どもが行うが、生まれた順ではなく、男性のきょうだいが優先され、女性は後回しがいまだに多い。

「市」を考える
 2016年に死んだつれあいの葬儀は、当時まだ一般的ではなかった直葬にした。直葬とは葬儀を行わないで直接火葬にすることをいう。元気なときから二人で話し合い、葬儀社主導の葬儀そのものをいらないと考え、葬儀社に伝えた。怪訝に思われたが、彼が参列してほしい人だけを呼び、棺の前でそれぞれが彼とのことを語り、別れの時間をたっぷりととった。
 この国に住むわたしたちは、葬儀・収骨をそもそもの意味を考えてこなかったといえるだろう。慣習に則り、葬儀・収骨をするのをあたりまえにしてきた。それは、死の問題を考えてこなかったことに通じると思う。どこで死にたい、だれに看取ってもらいたい、死後何を着たい、戒名(法名)はどうしたい、葬儀はどの形式にしたい、葬儀にはだれに参列してほしい、遺骨をどうしてほしい、墓はどうしてほしいなどなど、存命中に考えておかなければならないことは山ほどある。わたしたちは、それを怠ってきたのではないだろうか。「死」にまつわることを考えることは、わたしの人生をどのように生きるかに通じると思う。 
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