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死について

2019-10-09 11:05:37 | 日記
 大阪府下の自治体での講座が3回にわたってあり、「生老病死」を考えるのだが、簡単にテーマを分けると、「老病」「お葬式」「お墓」について、それぞれ考えるのである。
 第1回目の「老病」が終わった。年齢層は高いので、老いの問題は我がことであり、介護の経験もあることが予想された。わたしは母の介護を実際にしているので、その体験を踏まえながら、そのしんどさを話した。認知症でありながら、徘徊、被害妄想、暴言暴力のない母なので、人からいわせると楽だが、当人のわたしはそうではない。介護はストレスになることは間違いがない。グループディスカッションの20分間が終わり、最初は発表を渋っていた人たちが、全員のグループ発表をすることになった。その長さは、やはり体験者であるから短くならない。実際に介護士として働いている人の話もあり、よくわかったことは、人生の体験ほどすばらしいものはないということだ。それがどれだけしんどくても、またそのしんどい渦中にいても、体験は貴重である。その意味では、女性の体験の法が現実的である。現場に介護をしてきたからである。性別役割分業は介護問題でも明らかである。

 グループディスカッションのなかの問題と発表で男性のことばに印象づけられたのが、「死をどう捉えるのか」というテーマであった。「死」の問題は簡単に答えられないが、次週の問題にもつながるので、わたしの意見は述べたいと思う。この世で生きることが、ほんとうに終わることである、と知ることである。それは、自分が体験することはできないが、大切な人を亡くしたことで、知る・考える「死」である。亡くなったつれあい、ネコが、わたしにとってどれだけ大切であったかは、毎日の生活に必ず出てくるからである。仕事をしている最中とか忙しいときは出てこない。しかし、仕事を終えて家へ帰るとき、「迎えに来てもらったな」「ただいまといえないな」「ひとりで食べるご飯は寂しい」とか、いろんな場面で、つれあいとネコが出てくる。それは、もう話すことも姿を見ることもできないことを突きつけられるのである。「死」とはこの世との別れであるとしみじみ思う。逝った先がどこかとか、魂があるかないかなどはまったく問題にならない。死後は生きた人、この世との別れだから、墓とか仏壇とかも何の問題にもならない。
 「死」をどう捉えるかと悩んでいらした男性への答えはこれしかない。

 生き残ったものは辛い。だけど、精一杯心残りがないように生きたい。まだ関係をもって、わたしを必要としている人がいるから。しかし、もうほとんどないか少ないかを感じているから、いつ逝ってもいいとは思う。母は、わたしより後でも問題はない。入所手続きをしているので、そういう場合は優先的に入所させてもらえる。母を残すことにはそんなに心残りがない。この感情は不思議である。責任上の母の介護をしているからだろう。もう少し考えなければならないテーマである。
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