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齋藤百鬼の俳句閑日

俳句に遊び遊ばれて

省略の詩学―俳句のかたち

2010年11月08日 | Weblog
 悪い癖があって風呂のなかに本を持ち込む。トイレに持ち込む場合は、最悪でも悪臭が付着するくらいで、しばらくすれば消えてしまうし、黙っていれば気がつく人もいない。しかし風呂の場合は、落としたりすれば正しく一巻の終わりとなる。そういうことも過去に二三度はあった。それでも止められないのは、湯に浸かりながらの読書が至福であるからだ。僕の場合は風呂に小振りの文庫本を持ち込む程度だが、小説家の中には好物のさくらんぼまで持ち込んで、それを食べながら読書にふける方もいるらしい。五木寛之さんがたしかそんなエッセイを書いていたと記憶している。
 昨夜もその悪い癖が出て、風呂に一本を持ち込んだ。外山滋比古さんの「省略の詩学」(中公文庫)だ。初出は切れ字論を中心にしたもので「省略の文学」として、れんが書房から出版されたとある。後に中央公論社から単行本として出され、さらに文庫に入ったという経緯があとがきに記されていた。
 懐かしかった。れんが書房の社主は知人であったからだ。Sさんはいい本を出されていたなあ、と湯の煙にのぼせながらしみじみ思った。今も出版という利の薄い生業を継続されているのか知らないが、まさか知らないところで俳句論まで手をひろげていたとは驚きであった。
 この書は俳句に興味のある読者には必読の一本かも知れない。
 とくに「切れ字論」は参考になった。外山さんは、あの「英語研究」の元編集長で、俳句は専門外。かえってそれが幸いしてユニークな視点となっている。写生論も読むに値す一文である。歯切れがいい。
「心象の写生」と題しての項では、芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の河」を引いて、

「・・・のごとき、いわゆる嘱目写生の句ではない。それを写生と考えるからこそ、天の河の夜は佐渡は見えない、などといった間の抜けたことを問題にする。横たふ、という他動詞は文法の誤りであるという指摘も、表面的写生に立ったものの誤見である。横たふがよいのだ。舌頭千転の芭蕉がそんな誤りをするはずがない。心象の客観として、これは間然とするところがないといってよいのである。まず、作者の心裡に情緒、詩想が生まれ、それに照応する自然を嘱目の中から選び出して描出する。象徴の詩法である。外界を写生するのではなく、心象の客観的相関物を探し求めて描き出す。それが荒海であり、佐渡であり、天の河である。その心象の風景を写生したものが句として結晶する。」

 俳人の書く分かったようでよく分からない写生論に比してなんと簡潔で分かりやすい心象と写生の関係論か。おかげで湯船に本を落とすことはなかったが、身体を洗うほうはまったく失念してしまっていた。
 さて十一月の句会の用意をそろそろ。
 「術」

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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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百鬼さま (サンド)
2010-11-08 17:44:14
小沢昭一さんは、なんでもお風呂で数時間過ごすとか。風呂場の窓に新聞紙を張って、そこに気に入らないやつの悪口を書いたりするんですって。新聞紙はいくらでもあるし、書いて捨てればいいんだから一石二鳥とか。昨年講演を聞きましたが、とてもお元気そうでした。

ご紹介の本は、出たばかりなのですね。
面白そうなのでさっそく、注文しました。
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