◎・・トーキー時代からの映画監督、五所平之助も、この「いとう句会」の連衆のひとりだった。俳号は「五所亭」。五十句収録。一応、人名辞典から経歴を。
「1902~81(明治35~昭和56) 大正・昭和期の映画監督。東京生まれ。慶応義塾商工学校卒業。1923(大正12)松竹蒲田撮影所に入り、島津保次郎に師事した。31(昭和6)年、日本最初のトーキー映画「マダムと女房」、42「新雪」など新鮮な抒情のあふれる佳作をつくった。のち東宝に移り、戦後も「今ひとたびの」「大阪の宿」などをつくり、53「煙突の見える場所」はベルリン映画祭に入賞した。(『コンサイス日本人名事典』三省堂・2004)」
たしかに映画の一シーンを見るような句があって、さすが映像作家と思わせる。
初髪を映ゆる夕日にいとほしむ
草笛を吹きつつ隣り村に入る
白き手が開ける余寒の障子かな
花に灯る家なり家に娼婦たち
髪を刈る鏡に御輿もまれをり
朝の蚊帳両国橋の見えてゐる
降る雪が別るるひとの瞳(め)にも降る
背後にそこはかとなく物語が見える句も・・・
年下の亭主持ちけり玉子酒
ひとり編む毛糸の玉の円さかな
片想ひすでに三とせの春着かな
たたずめば砂のほてりや夜の蝉
菜の花に少年海を好みけり
そのほかには・・・
春惜しむ人の流れに流さるる
ゆく春の沖降りかくす雨に眠る
実朝の詠みたる海の秋の雨
柿は手に赤く冷たく一つかな
妻となる妻となる夜の湖の月
最後の二句などは老錬の技巧を感じるのだが、どうだろう。
「降る雪が別るるひとの瞳(め)にも降る」
俳句の専門作家には破調の句と言われるのだろうが、個人的にはこの句が好きだ。(続く)
「1902~81(明治35~昭和56) 大正・昭和期の映画監督。東京生まれ。慶応義塾商工学校卒業。1923(大正12)松竹蒲田撮影所に入り、島津保次郎に師事した。31(昭和6)年、日本最初のトーキー映画「マダムと女房」、42「新雪」など新鮮な抒情のあふれる佳作をつくった。のち東宝に移り、戦後も「今ひとたびの」「大阪の宿」などをつくり、53「煙突の見える場所」はベルリン映画祭に入賞した。(『コンサイス日本人名事典』三省堂・2004)」
たしかに映画の一シーンを見るような句があって、さすが映像作家と思わせる。
初髪を映ゆる夕日にいとほしむ
草笛を吹きつつ隣り村に入る
白き手が開ける余寒の障子かな
花に灯る家なり家に娼婦たち
髪を刈る鏡に御輿もまれをり
朝の蚊帳両国橋の見えてゐる
降る雪が別るるひとの瞳(め)にも降る
背後にそこはかとなく物語が見える句も・・・
年下の亭主持ちけり玉子酒
ひとり編む毛糸の玉の円さかな
片想ひすでに三とせの春着かな
たたずめば砂のほてりや夜の蝉
菜の花に少年海を好みけり
そのほかには・・・
春惜しむ人の流れに流さるる
ゆく春の沖降りかくす雨に眠る
実朝の詠みたる海の秋の雨
柿は手に赤く冷たく一つかな
妻となる妻となる夜の湖の月
最後の二句などは老錬の技巧を感じるのだが、どうだろう。
「降る雪が別るるひとの瞳(め)にも降る」
俳句の専門作家には破調の句と言われるのだろうが、個人的にはこの句が好きだ。(続く)
たしか五所平之助は、原田康子の「挽歌」を映画化してひとですよね。いろんな人間物語をみているから、こんな句がつくれるような気がします。
”生きること一と筋がよし寒椿”、という句を思いだしました。
次々に楽しい句会の様子をご紹介いただき、有り難う
ございます。
早々と書き込みを有難うございます。
プロ作家は隙を見せてはいけないという意識があって、そこが面白くないのでは。隙の持っている余韻というか余情に、人間性が出るのではないでしょうか。
「生きること一と筋がよし寒椿」は彼の代表作ですね。次は絵描きさんの小糸源太郎でもいきましょうか。