3,
「大膳大夫様。麾下に加えてくださりませ。某は山本勘助と申します。今川の者にございます」
声を抑えた声が聞こえる。密かに武田館に忍び込んだので無理はないか。背丈は五尺五寸。齢は五十路になる碧眼の老人が現れた。見るからに醜男で足を引きずりながら歩いている。卑賎な小袖姿で信方と晴信に一礼した。
晴信は「面白い奴。気に入ったぞ。勘助と申すのだな? 条件次第で麾下に加えてやる。何が望みだ?」と勘助に微笑んだ。
信方は「若殿。人事の沙汰は若殿と雖も御屋形様のご許可が必要です。勝手な真似はなさいますな」と晴信を制した。
(動悸は胸で激しく波打つ。何もなければよいのだが。何やら勘助が拙者らの活路を開くやも。話を聞こう)
「大膳大夫様。言いたいだけ喋らせていただきます。某のお声が聞き取りにくうございますか? 密かに参りましたので。小声で失礼します。先ほど泣いておられたのは大膳大夫ですね。武田の忍びは手抜かりが目に余りますな。乱波を見事に精鋭に変えて見せましょう。条件はいかがでござりましょうか?」
「乱波だけでは物足りぬ。何か他の仕事をしてくれぬか? 我は一緒におる駿河守以外の知恵者を求めておる。知恵を貸してくれぬか?」
「若殿。程々に。増長はなりませぬ。足元を救われます。勘助とやら何故に今川を裏切る。武田に寝返ってもそんな見返りは用意しておらぬ。だったら知恵を貸してみよ。返答次第ではお主を成敗いたす」
「畏まりました。今川の太守(今川義元)様が某を邪険に扱います。醜男と罵ります。なので武田に仕官を求めた次第です。今ならば大膳大夫様に一番の宝物を献じ奉ります。甲斐の御屋形様の首を取ってきましょう。それでよろしゅうございますな?」
晴信は「待て。父上に手を出すな」と毅然とした態度で一括した。
信方は「若殿。斯様な痴れ者は拙者が成敗します。異存はござりませぬな?」と腰の太刀に手を懸けた。
勘助の目が「ならば?」と一言吐いた。かつ、毅然として信方と晴信を睨んだ。信方と晴信は一瞬体が固まった。
晴信は表情を変えながら一息吐いて「ならば我に仕えよ。孰れは軍師にしてやる。その日まで待て。父上には別の形で復讐する。死よりも辛い仕打ちを我は望む。勘助よ。知恵を貸せ」と勘助を睨み返した。
(やれやれ。今川の間者は斯様な親子喧嘩まで嗅ぎ付けおったか。勘助は見どころのある人物とみた。拙者の足軽に加えよう)
「若殿。ならば拙者の麾下にまずお加えください。ならば何も問題ありませぬ。よろしゅうございますな?」
「勘助をそばに置きたい。今川の風聞が手に取るようにわかるぞ。将来、軍師に置くのも駄目なのか?」
「軍師かどうかは駿河守が見極めます。念のためです。若殿が拙者を父上と呼んでくださりました。そのご恩に報います」
晴信は渋りながら「承知した」と頷いた。
信方は「若殿。では勘助を我が家に連れて参ります。失礼します。勘助早う、いたせ」と一礼して晴信のもとを去った。
勘助は後に続きながら笑いながら「ありがとうございます。駿河守様。腹が減ったのでお屋敷で何か馳走を願います」と先に回って一礼した。
「どけ。厩に行くのに邪魔だ。さっさとせぬか」
「厩に行く必要はございませぬ。西門においでください。我らの手の者が馬をまわしてございます。駆け足でお願いします」
(抜け目のない奴。軍師としては合格かのう。とにかく西門に急げ)
二人は西門に急いだ。正月なので幸いにも誰もいない。西門から出て大きな樹の下に二頭馬が繋がれていた。
「駿河守様。さあ参りましょう。お屋敷では何を頂けますかな?」
「勘助よ。其方の才がつまらぬものだったら承知せぬぞ。わかっておるな?」
信方と勘助は馬を走らせた。信方が先頭に立って進んでいく。勘助は追いかける。
2、
「駿河守。済まぬ。我がまた父上と喧嘩沙汰になった。父上はなぜ我の手柄を褒めぬのか?」
「御屋形様は虫の居所が悪かった、と伺います。正月に無粋な用事にはかかわりたくなかったと見受けます」
「ならば正月が明けてから手柄を改めて報告致そう。ならば父上は文句は仰せになるまい」
「おやめなされ。また喧嘩に至ったらいかがいたします。さもなくば本当に廃嫡されますぞ」
晴信は「何故に父上はかような仕打ちを致す」と再び号泣した。
信方は「今に若殿が次期御屋形様になられます。それまでご辛抱なされませ」と返した。
晴信の泣き声が止まった。信方は賺さず抱えていた晴信を下ろして晴信の肩をたたいた。
「若殿。他国には相模の北条、駿河には今川がおります。信濃には諏訪もおります。若殿が渡り合う相手ばかりです。御屋形様よりももっと手強い相手です。なのでじっと時期を待つのです。若殿が武略にも知略にも秀でているのは拙者が一番得心しております。御屋形様とぶつかっても拙者がおりますのでご安堵なさりませ。大事ございませんぞ」
信方は「ご辛抱の程ですぞ」と声を懸けてジッと晴信の目を見つめて微笑んだ。
晴信は「お主だけだ。我の才を理解してくれるのは」と再び涙を浮かべている。
(やれやれ、難儀な役目よのう。傳役とは。斯様な役目はもう引き受けんぞ。御屋形様と若殿が恨めしい。二人では身が持たぬ。しかしな何故か動悸と良い予見が半々に感じるが? なぜだろう?)
晴信は「やはり駿河守は父上と違う。我の理想の父上みたいに思える。駿河守が父上だったらどんなに良かっただろうに」
信方は「何を仰せられます。御屋形様の悪口はよくありませんぞ」と敢えて表情を変えた。
流石の晴信も驚いて「悪かった。我が悪い」と信方に謝った。
(若殿は御屋形様に甘えたいのか。御屋形様は愛情に不器用なお方。なので斯様に傳役の拙者が描いた父に見えるのか。やれやれ。今日はこれで引きがるとしよう。今は動悸がすこぶる感じる。また御屋形様がおいでなさったらまずい。早く手を打とう)
「若殿。もう拙者を解放して頂けませんか。御屋形様と若殿の間に挟まれて疲れ申した。よろしゅうございますか」
「ならば其方を解放して遣わす。理想の父上」
躑躅ヶ崎館の庭でガサゴソと音がする。信方と晴信は「何奴」と身構えた。
板垣信方
第一章 信玄の傳役
1、天文六年一月一日(一五三七年二月十三日)
「痴れ者奴が。国主の儂に諫言するとはいい胆力だな。大膳大夫(武田晴信)よ。其方が斯様な官位を貰えたのはだれのおかげぞ。返答してみよ」
「父上(武田信虎)。あんまりです。城を奪ってとどまるのは上作とも思えぬからです。あまりにもむごい仕打ちです。恩賞を下さロりませ」
「城を捨てて恩賞だと。ますます気に食わぬ。廃嫡されたたいか。大膳大夫?」
「御屋形様。もうおやめください。駿河守(板垣信方)の不手際にござります。申し訳ございません。平にご容赦ください。まげて願います」
甲斐の府中の躑躅ヶ崎館の武田信虎の部屋ではではお互いの怒号がこだまする。信虎は敢えて何もない一室に息子の武田晴信と傳役の板垣信方を呼び寄せた。
(拙者が思うにやはり御屋形様は若殿に難癖をつけたか。ならば拙者も一計を案じるか)
激怒しているのは武田家の当主たる武田信虎。背丈は六尺に届く。齢四十三。官位は右京大夫。美男だが顔に傷がいくつもある歴戦の猛者。逆らう輩は容赦しない。黄色の素襖の小袖と袴を纏って腰の太刀に手を懸けている。
叱責されているのは嫡子の武田晴信。赤の堂丸を纏って必死に信虎に戦の手柄を主張している。官位は大膳大夫。背丈は六尺二寸。齢十六。信虎に気性は似ているが優しさを持ち合わせている。信虎の息子だけあって美男。
知略と武勇では信虎に勝る。しかし晴信の主張を信虎は聞く耳を持たない。止めているのは板垣信虎。黒の堂丸を纏い主張を止めない晴信を制止している。
齢五十。武勇と知略は誰にも負けない。優しさを持ち合わせているので信虎が晴信の傳役に抜擢した。
(御屋形と若殿の喧嘩には付き合いきれぬ。お互いが譲らぬ。顔を合わせれば喧嘩ばかり。身が持たぬ)
信方は「若殿。ごめん」と力いっぱい晴信の頭を抑えつけた。
晴信は「何をする。駿河守」と不意打ちを食らって倒れこんだ。
信方は「若殿。御屋形様に謝りなされ」と器用に暴れる晴信の口を手で塞いで無理に晴信の頭を地につけた。
晴信は悔しさのあまり号泣し始めた。流石の信虎も我が子の涙を見せられては戸惑いが出た。
「御屋形様。若殿は泣いております。反省したと見受けますがいかがでしょうか?駿河守も一緒に泣きまする。拙者も泣きまする。不手際をお許しください」
晴信はまだ泣くのを止めない。信虎も動きが止まった。
「下がれ。晴信。今日は許してやるが次はないと思え。男の子が泣いて許してもらうとは卑怯千万」
晴信は泣くのを止めない。信方は「ごめん」と再び叫んで晴信を担ぎ出した。
信虎の部屋を出たときに晴信の泣き声がやんだ。
(やれやれ困った親子よ。両雄並び立たずとは斯様な例か。しかし若殿が不憫よ。なんとかしてやりたいのう)
木曾殿の妻 作詞作曲 木更津P(牧野 新)【木更津Pのキャラみん短編小説 music video】
※古代史の分身たる牧野君の楽曲です。
平家物語の木曾の最期での巴御前を描きました。
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