おとにっき

「骨形成不全」という病気を持って生まれた神霞の記録です。

--since 2005.09.01--

昔の自分(高校3年生)

2005年09月27日 22時24分17秒 | 昔の自分
昔の自分を書こう! 其の6

高3になり、本格的に卒業後を考える事になった。

また「現場実習」があった。
2年の時と同じスーパーで実習をした。
2回目ということもあり、「お久しぶり」という感じで暖かく迎えられた。
1年前と変わらない事務員さんだったから
とても楽しかった。

そんな楽しい実習も終わり、またまたスポーツ大会がやってきた。
またまた種目は「車イススラローム」
やっぱり一人。
3年の時はちょっと違っていた。
自分との戦いになっていた。
自分の記録を超えたいという目標があった。
全国大会で失敗したから、ちょっと恐かったけど
学生最後だったから思いっきり走った。

新記録達成!
ちなみに57秒だったかな??
その前がたぶん59秒くらい。
全国大会の記録でも1分台。

すっごく嬉しかった!指導してくれた先生と大喜びした。
ちなみに、記録は破られていない(へっへぇ~)

スポーツ大会終了後(かな?)
卒業後どうするか考えた。
そんな時、担任から”とある会社(仮)”の願書を出してきた。
私は全く受ける気がなかったけど
「ずっと養護学校にいて、自分の実力を試した事がないだろ?
だから、就職するかは後で考えて、とりあえず受けてこい!」
と言われた。
確かに、一緒に勉強していたのは、友達と2人だけだったから競争することはなかった。
自分の実力なんてどんなもんだかも全く知らない。
だから、とりあえず受けてみた。

合格しちゃった…(汗)

ということで、スーパーの夢を捨てて(あら簡単)”とある会社(仮)”に就職決定(いいのか??)

将来が決まって、私の高校生活も終わった。


あまり、同級生と遊んだキヲクがない(汗)
友達との話が出てこないまま書き終わってしまった(友よ、すまん)

高校生活は、骨折せずに終わった。
それが何より嬉しい事だった。
まぁ、危ない事はあったけどね…(あはっ)

高校生活は簡単に言うと「スポーツ三昧」だったかな?

またやりたいなぁ~車イスバスケ(ちなう??)

昔の自分(高校2年生)

2005年09月25日 18時21分17秒 | 昔の自分
昔の自分を書こう! 其の5

高2になり、とうとう「卒業後」に目を向けた行事がはじまった。
「現場実習」
就職したい人は、2週間実習をさせてもらえる企業に行って実習するというもの。
進学したい人は、学校に残って自主学習をする。

私は進学する事は全く考えていなかったから、実習を希望した。
家の近くのスーパーに実習させてもらえる事になった。
裏方の事務で。

それは、それは、楽しくて、卒業後も働きたい!と思ったくらいだった。
実際就職したら、辛い事もあるだろうけど、働きたかった。
働く事の楽しさを知って実習が終わった。

そうそう、高2の時も「スポーツ大会」に出場した。
ついでと言ってはなんだか、「全国身体障害者スポーツ大会」にも出場する事が決まっていた。
種目は1年と同じ「車イススラローム」
1年の時に一緒に出場した先輩は卒業してしまい、とうとう一人になった。
全国大会に出場するからということで、車イスをちょっとスポーツタイプにして挑んだ。
みごと、先輩の記録を抜いて金メダル!(一人だから当たり前/汗)

県大会終了後、全国大会に出場。
種目は同じく「スラローム」
あっ、「100m走」にも出たな(汗)
100m走は、私以外の人はマラソン用の車イスだったのでビリになった。
不公平な感じがしてとても嫌だった。
スラロームは女子2人だけだった。
とても緊張していたけど、勝てそうな気がした。

ピストルが鳴った。

いい出だしだった。

中盤にさしかかった時

こけた(へ?)

自分でもなんでこけたのかがわからなかった。
とても悔しかった。
今でも思い出すだけで悔しい。
あんなに悔しい思いをしたのは初めてだった。
あぁ~!自分にムカつく

うちの親が見に来てたけど、こけた瞬間「骨折した!」と思ったらしい。
自分も思った。
こけて起きるまでの間に、骨折してないか確かめた。
こけても骨折しなくなったということは、強くなったんだなぁと
しみじみ思いながらも、やっぱり悔し過ぎた。

「リベンジする」という新たな目標を持って大会は終了した。
2年生も終了した。

昔の自分(高校1年生)

2005年09月24日 19時40分03秒 | 昔の自分
昔の自分について書こう! 其の4

高校は、中3の時の骨折の事もあり、養護学校に進学。
ちなみに、中3の時に一緒に補習していた友達は普通高校に進学した。
でも、私は後悔はしていないし、むしろ、養護学校で良かったと思っている。

高校になると、「身体障害者スポーツ大会」という県の大会に出場権利がもらえる。
今は中学生かららしいけど。
昔、1度だけその大会を見に行った事があったからとても嬉しかった。
もちろん、出場した。
車イスを使う競技「車イススラローム」
コース上に白と赤のポールと、段差や坂が置いてあって
白いポールは前進で、赤いポールは後進で進むというもの。
車イス技術が問われる競技だった。
女子で出場したのは、私と先輩だけ。
たしか、先輩が勝ったような気がするけど、あまり覚えてない。
出場したことがとても嬉しかった。
「また来年も頑張るぞ!」と闘志を燃やしてその年は終わった…。


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お知らせ?
3年分を書こうと思ったら、すんごく長文になることが判明して1年ごとにしました。

昔の自分(中学校)

2005年09月23日 23時19分57秒 | 昔の自分
昔の自分について書こう! 其の3

中学校も養護学校に進学した。
勉強は普通の教科書を使ってるし
進学した養護学校は高等部まであって、高等部の先輩方はちゃんと就職していたから
なんにも不安はなかった。

中1の時、歩くための手術をした。
骨折して湾曲に曲がった骨をまっすぐにするという手術。
でも、今考えると、どうしてその話が出たのか、いまいちわからない(いいのか?)
自分で「歩きたい!」と思った事はあっても
誰かに強く志願したキヲクがない。
でもまぁ、今は良かったと思ってるから、まっ、いっか?

中1の3学期に、小学校5年生までいた病院付きの養護学校に転校した。
もちろん、入院付き。
まぁ、手術の話は改めてすることにして
中2いっぱい、入院していた。
手術の結果は「成功」
めでたし、めでたし…。

中3から元の養護学校に戻った。
しかし!それが地獄への入り口だった。
担任が小6の時の先生(スパルタ先生)になった(泣)

スパルタ先生になってから「普通高校に!」というのが目標になった。
というか、目標を持たされた?感じ。
小6と同じく、夏休みに「補習」が行われた。
幼なじみの友達も一緒だった。
が…。どうも小6の時とは違っていた。
スパルタ先生が友達の方に力を入れていた。
私は「おまけ」みたいな扱いだった。
嫌気がさした。

2学期が始まり、スパルタ先生と友達の関係はますますエスカレートしていた。

「学校行きたくないなぁ」
「休みたいなぁ」
「あっ!骨折すれば転校出来るんだ!」
「でも痛いなぁ~」

と変な考えをしてたら、ホントに折れた。
久しぶりの骨折。右足大腿骨。
しかも、手術した場所ぢゃないところ。

即、転校&入院。

「骨折したい」って考えるもんぢゃない!と思ったけど
転校出来るのが嬉しかったりして、ちょっと複雑だった。

入院中、スパルタ先生が現れた(担任だからしょうがないけど)。
「高校」をどうするのか?を聞きにきた。
「養護学校に行く!」と言った。
だって、骨折したら勉強出来なくなるし、体育出来ないし、恐いし…。

中3は結局そのまま病院付き養護学校で卒業した。


つづく…。

昔の自分(小学校)

2005年09月20日 22時13分57秒 | 昔の自分
昔の自分について書こう! 其の2

小学校は、病院も一緒になってる養護学校に入学。(幼稚園からそのまま進学)
勉強は、普通の学校どおり。
でも、「訓練」の時間が週に3~4回あったからその分は遅れたと思うけど
今、普通に仕事ができてるんだから、大丈夫だったみたい。

もちろん、「体育」もあった。
体育といっても、普通学校みたいに鉄棒とかは出来ないので
養護学校ならではの授業だった。
生徒一人一人にあったルールを作って、ドッジボールをしたり野球をしたり…。
だから、私も骨折してない時は全部参加した。

友達同士の遊びの中にも参加した。
みんなそれぞれ違う障害を持っているから、ルールはいろいろ。
友達一人一人が出来る事を探してルールを決めていた。
今、考えれば、みんなで遊べるようにって自然に考えるのはすごいことだと思う。


小学校に入ってから、骨折の回数は減ったけど
年1回は骨折していたと思う。

小学生の時の一番大きな骨折は、小3の時。

授業で「カルタ取り」をしていた。
カルタは、ちょっと高めの机に並べられていた。
カルタを取ろうとして、その当時身軽だった私は車イスから机の上に乗った。
降りようとして後ろに下がった。
車イスがあると思って下がった。

なかった(バカだよ)

落ちた(やっちゃったよ…)

で、左腕(上腕)を骨折。
しかも、骨がずれた。

即、入院(祝?初入院!)

今、考えると、左腕だけでよく済んだと思う。

入院してからずっと牽引の日々。
一時は手術という話もあったけど、腕だったからそのままになった。
今でもずれてます。でも、生活に支障はない。

それが、学校でした最初で最後の骨折。(本当は他にも…シィーッ  ̄b ̄ )

小5の時に、車イスで暴走しながら過ごしていたら
「病院なしの養護学校に行かないか?」とお誘いがあった。
その時、ちょうど同級生の殆どがその学校に転校した時だった。
病院なくてちょっと不安だったけど、病院から近かったので転校する事にした。

転校後、スパルタ先生が担任になった。
中学に向けて、夏休みの補習をさせられた。
いろいろ厳しい事も言われた。
精神的に参ったときもあったけど、結局は楽しかった。(今思えば)
今その先生は退職されたみたいだけど、すごく感謝してる。

それと、転校してから骨折しなくなった。
多少のヒビとかはあったけど、我慢出来る程度で、親にも言わないで済んだ。

骨折すると、親が大変な思いをするので、1週間くらいで治りそうな時は言わなかった。
まぁ、言わなくても大変だったと思うけど。(今もか?)

そんなこんなで、その養護学校は高等部まであったので
のんきにそのまま進学しようとしていた。

っていうか、したけど(汗)


つづく… らしいよ?

昔の自分(小学校前)

2005年09月18日 16時18分24秒 | 昔の自分
昔の自分について書こう!

生まれたとき…は餅!キヲクはありません(そりゃそうだ)
私の一番古いキヲクは、2~3歳だと思うけど
階段をエッチラホッチラ登ったこと。
すんごく、親に怒られた。
その時は、ハイハイなんて出来なくて、もちろん歩く事も出来ない状態。
どうやって移動していたかっていうと
座った状態で、手と足を使ってズリズリと移動していた。
そんな私が階段を登るなんて事は誰も想像していなかったことで…
なんで登ったかっていうと、お姉ちゃんと遊んでたから。
でも、登った後、お姉ちゃんが怒られてた気がする…。
悪い事したなぁ~。

その頃の私は、危険だからってことで、洗濯物を入れるようなカゴに入れられていた。
写真が残ってるからちょっと恥ずかしい。

小学校前の私は、よく骨折していた。
親に言わせれば、折れては治りの繰り返しだったそうだ。
自分でもそんな気がする。

折れていた場所は、両腕、両足。
まぁ、場所問わず。

布団カバーに腕を引っかけて、ポキッ。
お出かけ中、親に抱っこされていて、人とすれ違いざまに足を取られて、ポキッ。
と、いっぱいあり過ぎらしい。
折れた時のキヲクはないけれど、ギプスを巻きながら遊んでたのは覚えてる。

中学に入るまでは、骨折すると近くの病院に行って
半分のギプス(ぐるぐる巻きじゃない)と包帯で固定して終了だった。
1週間経てば、痛みは取れ、動き回る。
1ヶ月すれば完治。


4歳まで、障害者の幼稚園みたいな場所に行っていた。
でも、他の子とは全く遊ばずっていうより、危険過ぎて自分から近づかなかった。

5歳からは、病院が一緒になってる障害者の幼稚園に行った。
その時から訓練というのを受けるようになり、車イスという乗り物を知った。
訓練は、両腕、両足、腹筋、背筋の筋トレと、三輪車で病院の中をぐるぐる廻った。
三輪車は当時、なんでやるのか理由がわからなかった。
(なんとなく、歩く時の足の運びが似てません??だからかなぁ~と今は解釈している。)
でも楽しかったから、いっぱい乗っていた。

訓練のおかげで、徐々に骨折の回数が減っていた。
人付き合いも出来るようになってた。
逃げ腰だったけど。
大切な友達も出来た。
とっても楽しく過ごした。
そこの病院に一緒にある学校に進学しようと決めた。


つづく…