老い烏

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10 ファウスト「第二部」

2014-10-21 19:35:39 | 「ファウスト」を読む

       ファウスト  第  部 

           概  略

 第二部は時空を超えた世界でのファウストが示され、第一幕の「忘却と治癒」から始まる。第二幕「公的世界(神聖ローマ帝国宮廷)」、第三幕は「ギリシャ古典世界」となる。第三幕は二つの殆んど関連の無い場からなる。前半の場は人造人間「ホモンクルス物語」で、後半はファウストと古代ギリシャ伝説の美女ヘレナとの結婚と挫折よりなる、所謂「ヘレナ物語」だ。第Ⅳ幕で再びファウストは「公的世界(神聖ローマ帝国)」に戻る。最終(第5)幕では、海から奪った(干拓された)領地でのファウストの「所有と支配」、および領主ファウストの「死」と彼の「救済」が描かれる。第二部は、第2・4幕の「公的世界のファウスト」と第3幕「ギリシャ古典世界」、最終5幕「ファウストの死と救済」の三部分からなる。

        第二部の進行

 第一幕「爽快なる土地」:第一部最終場の「牢屋」で愛する乙女グレートヒェンを見捨て苦悶するファウストは、大自然の内にあって「苦悩を忘却し治癒」される。

 第二幕:心の癒えたファウストはメフィストの言う「大(公的)世界」、疲弊した神聖ローマ皇帝宮廷に登場し、財政破綻した帝国をメフィストと共に兌換紙幣の発行で救済し、魔術師として凡庸な皇帝の信任を得る。彼は古代ギリシャ伝説の美女ヘレナを連れてくるように皇帝から命じられる。メフィストの助言で「母の国」からヘレナを連れてきたファウストは、彼女の虜になりヘレナの夫トロイアの王子パリスの幻影に触れる。幻影は爆発し彼は気を失う。

 第三幕: 「ギリシャ古典世界」は「ホムンクルス物語」と「ヘレナ物語」に分かれる。ヘレナ物語はさらに「ファウストの城」と「アルカディア」でのファウストとヘレナとの結婚生活、彼らの息子「オリフォーリンの誕生と死」が挿入される。「ギリシャ古典世界」と言っても、「ホムンクルス物語」と「ヘレナ物語」は完全に独立した章詩をなしている。作品としては「ヘレナ物語」は1827年に発表され、「ホモンクルス物語」と共に詩劇ファウストの脇筋と考えてよい。あるいは通常の時間の流れに支配される「大世界(神聖ローマ帝国)」に対して、特に「ホモンクルス物語」は筋的には関係がなく、「時空を超える夢幻的世界」で、詩人の空想と美意識が煌めく世界が展開される(とされる。ドイツ語に疎い筆者には判断不能であるので、一般的評価として書く)。

 第四幕:第三幕で「美(ヘレナ)」との永続的結合に失敗したファウストは、再び中部ヨーロッパ世界(神 聖ローマ帝国)に帰還する。再会した悪魔メフィストに次の希望を聞かれ、ギリシャからの帰路に見た波に洗われる陸地から、海からの陸地の創造、干拓(陸地の創造)と干拓地の「所有と支配」への願望を述べる。メフィストは彼の望を聞くやいなや、直ちにファウストを戦場へと導く。戦場では第二幕で登場した神聖ローマ皇帝が、僭帝(対立皇帝)の反乱で苦境に陥っていが、ファウストは敗色濃い皇帝側を悪魔メフィストの幻術で大勝利させる。海の干拓者たらんとするファウストは、戦功により海沿いの広大な土地を皇帝から与えられる。

 最終第5幕は前半と後半に分けられる。

  前半:「干拓地の領主」となったファウストは、広大な領地の権力者・所有者になるが、なおも不満に苦しむ。彼の広壮な宮殿の目の前に、老夫婦の小さな家が礼拝所や菩提樹と共にあるために、彼の所有欲は満たされないからだ。メフィストによる老夫婦の殺害の後、彼は霊「憂い」によって失明しながらも「自由な土地で自由な民」を「空想」し、「時よ、止まれ。お前は美しい」とメフィストと契約した「禁忌」の言葉を口にして死ぬ。この後には、ファウストは一語も発することはない。

  後半:ファウストの死後の「墓場」から最終場「山峡」に向かう。「墓場」では天使達の薔薇の花の攻撃で、悪魔メフィストは「笑劇(ファルス)」の中に退散し、「山峡」では斬首された恋人グレートヒェンの聖母マリアへの「取成し」により、メフィストから解放されたファウストの「救済」が、厳かにカソリック的に完成して詩劇ファウスト全巻は終了する。

 

     翻訳者・解説者は第二部をどの様に解釈したのか?

  詩劇ファウストの「真髄」は第二部にある、と称揚されるが、実際にどう理解してよいのかは、訳者・解釈者も良くは分かっていないようだ。何故なら、翻訳の解説や評論などには、第二部について十分な解説は殆ど無いと言ってよい。しかし、勿論詩劇ファウストへの「賞賛の言葉」に欠ける事はない。それを見てみよう。

  相良守峰氏は第二部について書く(相良訳「ファウスト第一部《解説》」、岩波文庫)。「ゲーテは時折、第一部を自らの北方の野蛮な作風といい、醜い茶番とまで酷評したのに対し、第二部については『生涯の終わりにおいて、落ち着いた精神には、従前には考えられなかったような思想が現れている。この思想は過去の高嶺の上に、赫然と座を占める恵み豊かなデーモンの如きものである』」と。氏は第二部を高く評価が、氏の評価する内容(「この思想」)は具体的に示されず、読者には不明のままだ。ゲーテが「言ったから」的な評価から一歩も出ていないと思える。

  高橋義孝氏は、高橋訳「ファウスト第一部」(新潮文庫)の解説で「第二部は、人間のさまざまな思念や欲望が絡みあって、いくつもの層をなしている立体的世界を貫いて上昇するところの、彼の精神のひたすらなる登高を、それぞれの段階で、彼に作用する諸現象を客観的に描く」と書くが、何を言っているのか理解不能だ。上記の日本語とも思えない文章を解するに、翻訳者の氏にも良く理解できないのが第二部だ、となるだろう。しかし氏の著書「ファウスト注集」(郁文館、1979年)は大著であり名著でもある。日本人ゲーテ学者の達成した業績中の高峰だ。日本のファウスト学の一つの頂点だと言っても良い。ハムレット論における後藤武氏の著書に等しい意味を持っている。「集注」であるから高橋氏の主観的なファウスト解釈は極力抑制されている。これは当然だろう。であれば氏の訳書「ファウスト」(新潮文庫、昭和43年)の解説では、より丁寧な「主観的な解釈」があればと思う。

  小塩節著「ファウスト」(講談社文庫、1996年)は、第二部第一幕の「爽快なる土地」で、乙女グレートヒェンを見殺しにしたファウストの「過去の忘却と心の再生」について、長々しく解説し賞賛する。しかし「ファウスト」なる書名にもかかわらず、二・三幕、四幕には一切触れず、言わば素通りして直ちに第五幕「ファウストと死と救済」の解説に入る。氏は第二幕「神聖ローマ帝国宮廷(兌換紙幣物語」」も第三幕「ヘレナ物語」にも「ホモンクルス物語」にも「古典的ヴァルプルギスの夜」にも、第四幕「僞皇帝と戦場」についても何も書かない。要するに第二部の第二・三・四幕への記述は何処にも無い。氏は詩人ゲーテが最も力を込めて叙述しただろう上記部分(幕)への関心が一切ない。しかし、これらの幕に触れないで「ファウスト」なる(解説)書は成立するのだろうか?ファウスト第二部の大部分を「解説」せずに、人に読ませ得る(売る?)と考える、このゲーテ学者の神経が信じられない(氏は昨年亡くなられた。合掌)。また、氏の表現は東大ドイツ語科(名誉)教授柴田翔氏に似て「大仰」で「断定的」、独り善がりの宗教的観点(氏はプロテスタント信者だという)の強い「ファウスト」論だ、とも付け加えよう。確かに氏がキリスト教徒であれば、その表現は理解できる(点もあるだろう?)。しかし第二部の重要な部分をなす第三幕の古典的ギリシャ世界。「ヘレナ物語」は何処へ行ったのだろう。ホモンクルスは?「古典的ヴァルプルギスの夜」に氏は何を感じておられるのだろう。推測するに小塩氏には、この部分を十分に読者に解説するだけの「ずうずうしさ」が欠けているのだろう。分からない事は読者に「無理」に説明する必要はない、とする氏の「良心」の表れだろうか。しかし、上記の諸幕を説明しない「解説」書「ファウスト」なる書物とは一体何なのか?

  訳者池内氏も第二部の内容については殆ど何も書かない。一切触れない。氏が解説中で書くのは第二部の「皇帝の居城」で、財政破綻に瀕した帝国の状況に関連して、兌換紙幣と詐欺師とされるイギリス人の歴史的事実を書くだけだ。詩劇ファウスト自体の内容を「無視する」、「解説」をしない。この姿勢は氏の訳書「ファウスト第一部、第二部」に一貫している。第一部の主要部をなす「グレートヒェン悲劇」については、単に粗筋だけだ(粗筋を読者は知っている。知っている読者に、改めて粗筋を「解説」で書くのは読者を愚弄するものだ)。翻訳者が「何を感じて翻訳したか」は一切書かない。先に第一部で記したように、ゲーテが「グレートヒェン悲劇」の「素材」としたフランクフルト市での1871年の「ズザンナ事件」については勿論、21才の若きゲーテが理由も明かさずに「捨てた」、ゼーゼンハイムの恋人フリドリーケ・ブリオンについて、一言も言及する事はない。

  氏はゲーテの生まれ故郷、帝国都市フランクフルト出身のユダヤ人金融家ロスチャイルド家について長々と記す。ロスチャイルド家の歴史を知るために、読者(筆者)は氏の翻訳した詩劇ファウストを購入したのではない。ファウストの「解説」として、ロスチャイルド家史の説明を受けるのは「読者」としては迷惑至極だ。解説で知りたいのは、訳者が「何を詩劇ファウストに感じたのか」、「何を訳者として読者に伝えたいのか」だ。それらの観点を欠いた「訳者の解説」など意味はない。氏が何年もファウストの原文をポケットに入れ、大著の注釈書(原文と邦訳)を読んで翻訳した、と書いても、その「努力」が翻訳と「解説」に反映されなかったなら、何の意味も無い。俺はこんなにも「努力」して翻訳したのだ。だから、いまさら「解釈」など不必要だ、とでも言うのだろうか?「俺の訳文を文句などつけず読め」では、読者に対して失礼この上ない。読者は貴重な時間を割いて読んでいるのだ。訳者として「何を」感じ、「何を」伝えたいのかを書くのが、翻訳者の第一の義務ではないか。この義務に鈍感な翻訳者を何と評価したらよいだろう。「翻訳業」を辞めてもらいたいものだ。

  小説家(原作者)は「解説」する必要はない。本文中にそれ(小説家の意図)は入っている。それを気に入るか否かは読者次第だ。だから「小説家の意図」を理解しているとする「文芸批評家」なる職業が成立する。しかし、翻訳はこれと異なる。原作があり、その翻訳は訳者の「主観」を濾過、通過して書となる。翻訳者の「主観」が問われるべき理由だ。「文芸批評家」なる職業は、現在では出版社の「広告員」に堕している。「褒める」ことが「売る」事に繋がる。彼らは「生活の為に」出版社を怒らせたくはない。だから決して非難する事はない。そうした「売文批評家」に出版社は原稿を頼む。「作家と批評家と出版社」は三位一体の運命共同体をなしている。

  古田島東大名誉教授も、自約ハムレットに何の注釈も説明もなく「ただバラの花を見るように」味わえ、と書く。翻訳者として読者に「失礼」であると拙稿「ハムレット論」に書いた。日本では内外の古典文学にすら、十分な注釈も解説もないのが普通のようになっている(「近頃は」とする必要がある。かっての「古典」の翻訳本は、面倒なくらい「訳註」があった)。「自由」な解釈を読者に「許す」との立場かもしれないが、このような「自由」は本来の自由ではない。古典にはそれなりの不自由が付き物だ。それを読者は理解しなければならない。解釈・注釈のない外国古典の翻訳は、翻訳などとはいえない。

 池内紀氏は、従って「正直」に次のように書く。「意味を解きあぐねているのは一般の読者だけではないようだ。ゲーテ学者達も又そうであって、夥しい『ファウスト』注解書は、第二部にいたると決まって原文以上に難解になり錯綜していく」。池内氏は自らも同じく「解きあぐねている状況」を素直に述べている。が、翻訳を「職業」としている者として、最後に「巧みに夢を取り込み、小宇宙と大宇宙の位相を尽くして,老ゲーテは壮大な生成と蘇りの劇を作った」と記すのは忘れない。では第二部の何処に氏の言う「壮大な生成」があり、何処に「蘇り」があるのだろう?具体的に示して欲しいものだ。

 池内訳書の「解説」中で多和田葉子氏は「古典的ヴァルプルギスの夜」の世界は、「私が体験したベルリンやニューヨークなどの都市と似ていないこともない」として、最後に「ドイツ語で読め」と書く。すると「次第に自己増殖していく言葉、言葉が空間を作ってくれる。光を作ってくれる・・・この奇跡は読まれなければ起こらない」となる。要するに何を言いたいのか、何を彼女が感じたのかは書かない。これまた無責任だ。

  池内氏はファウストの翻訳に取り組んだ理由について「ゲーテと髭親父」と題した後書きで書く。「何故ファウストなのか?・・・・貸本屋で借りた手塚治の漫画『ファウスト』である。こよなく熟読した」と。確かに手塚治の遺作「火の鳥」には、明らかにゲーテの詩劇ファウストに影響を受けている部分がある。手塚氏は漫画「ファウスト」を書くにおいて、おそらく詩劇ファウストを熟読したものと思われる。多和田氏も同じに書く。「登場人物の姿を絵に描いてしまうとアニメ的にしやすいかもれない」。

 文芸評論家の河上徹太郎氏は、既に古く昭和46年に「ファウスト対ベートーヴェン」(「西欧暮色」河出書房新社 昭和46年)で書いている。「一体この『第二部』とは何ものか?怪力乱神の限りを尽くして倦むことがない。人間精神の限度、欲望の限りが完璧に描かれている。そこから連想して私は、これは文学のジャンルとしては、今日はやっている「漫画」の如きものじゃないかと思った」

 結局、日本人にとっては漫画が想起されるだろう。

 ドイツ人はどう考えているのだろう。フリーデンタールの著書「ゲーテ」は、最後の方に「ファウスト」とする一章を設けているが、第二部が詩劇ファウスト全曲に占める意味について、直接的に解説することはない。エッカーマン著「対話」その他の資料から、ゲーテの宗教観やギリシャ観などと、戯曲ファウストの係りをアネクドート風に書くだけだ。彼のゲーテ観は、今21世紀の邦訳、あるいはゲーテ学者には無視され続けているが、筆者にとって興味深い解釈が記されている。ただ惜しむらくは、彼の解釈の根拠となる文書・文献が一切明示されていない。(「フリードリーケ」の章を参照のこと。彼女の「捨て子養育院」へ送られた子供(私生児)の父親は誰だったのか?など)。

 柴田氏の「ゲーテ『ファウスト』を読む」では、取り上げられるべき問題は全て取り上げ、氏流の解釈がなされる。ただ、筆者はその全ての解釈および文章にはゾットする、としか言い様もない。氏の解釈なるものに「全面的」に反対である。が、「我慢して」読み、それと対比して己の「解釈」を検討する材料としては非常に意味がある、と考える。

  第一部は先に書いたように、ファウストの「忘却と治癒」が書かれているが本稿では省略する。



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