老い烏

様々な事どもを、しつこく探求したい

大審問官 2&3

2015-02-20 20:56:54 | 「カラマーゾフの兄弟」

    「大審問官」 2&3

 小説に沿って「大審問官」の主張を追おう。 

 舞台は16世紀のスペイン南部の都市セビリャ。前日には男女の貴顕の参加する中で、100人もの異端者焚刑に処せられた市の広場にキリストが現れる。民衆は「彼」をキリストと信じて奇蹟を求め付き従い、「彼」は教会から出て来たばかりの棺に横たわる少女を生き返らせる。これを見た異端裁判所の老大審問官は、兵士に命じて「彼」を捕縛させる。イヴァンは民衆は遠巻きにするが「彼」を守ろうとはしない、と語る。これについて 100年以上前にウオレンスキーは、著書 「ドストエフスキー」(みすず書房、1987、p154)で、「彼ら(民衆)は自らの心の秘密さえも・・・・守りきれない程に、権力への盲従に慣れ切っていた。彼らは権威によって命ずる者には心理的に抵抗できず、・・・・・、歴史が人々自身の強い言葉を期待したかと思われた最も決定的瞬間に、真の裏切り者と化していた」と記している。これはウオレンスキーの考えであると共に、イヴァンのそれでもあっただろう

   《月桂樹とレモンの香り》に満ちた夜、闇の牢獄に大審問官が現れ「彼」に話し出す。「もしお前がキリストであろうと、1500年前に示した行為によって全てが決せており」、「今では何一つ付け加える権利は(お前には)ない」と。大審問官のこの言は、イエスの磔刑前に彼が聖ペテロに教会の設立と信徒たちの指導を任せた事をいう。新約マタイ伝の第16章-18に「貴方はペテロです。私はこの岩《ペテロ》の上に私の教会を建てます」のイエスの言葉が記されている。この言葉を根拠として聖ペテロを初代とする教会が成立し、その後のローマ教区の大司教は同時に全キリスト教徒の長である教皇である、とするのがローマ教会の教義だ。ドストエフスキーが信者であったロシア正教会は、ローマ教会のこの絶対性(教皇制)を認めてはいない(東西への教会分裂はAD.1054年とされる)。

 「お前にとって信仰の自由とは、既に1500年も前のあの当時から、何よりも大切だった筈ではないか。・・・《あなた方を自由にしてあげたい》と言っていたのはお前(キリスト)ではないか?」と老人は続ける。「お前は今その自由な(異端を火炙りさにする)人々を見たのだ」。「今や・・・人々はいつの時代にも増して、自分たちが自由であると信じきっているが・・・・実際は自由を《我々の足元に捧げたのだ》」と語る。ここで歴史的には、大審問官の言葉と逆に「自由な人々」は火炙りにされた人を言い、火炙りにした「人々」は自由を《我々の足元に捧げたのだ》となるだろう。人間は「自由を恐れる」存在と考えれば、「自由な信仰者」とは異端者であり、自由を大審問官達に捧げた者こそ、彼の言う「人々」になる。従って捕らえられた「彼」は、「自由な信仰者」として翌日火刑の対象となる。

 老人は続ける。「人間はもともと反逆者として作られている。だが果たして反逆者が幸福になれるものだろうか?」。しかし「自由を与えることにより、お前は人々を幸福にしてやれる唯一の道を斥けてしまった」。その根拠として、イエスが曠野で40日の断食の後に現れた「聡明な恐ろしい悪魔が、自滅と虚無の悪魔が」イエスに問うた三つの問いかけを引き合いに出す。悪魔は三つの問いかけ(試み、あるいは誘惑)をしたが、イエスはいずれも退けた(マタイ福音書第4章)。

 悪魔の問いの第一は《石をパンにする奇蹟》をおこせ。第二に《神殿から飛び下りてみよ》。第三は彼(悪魔)に従うなら《世界の帝王にしてやる》であった。この試みにキリストは、第一の問いに「人はパンのみにて生きるに非ず」、第二の問いに「神を試みてはならない」。第三の誘惑には「神のみを崇めよ」として全てを斥けた。即ちキリストは悪魔が提示した三項目「奇蹟、神秘、権威」を否定し、これらなき人間の「自由な信仰」こそ真の信仰であり、人間の在り方であるとした。

 老大審問官はキリストのこの対応は人間に苦しみを齎したと非難する。「人間と人間社会にとって、自由程耐え難いものは未だかって何一つなかったからなのだ!」し、「人はパンのみにて生きるに非ず」のキリストの答えは、人々をキリストから引き離し、大審問官ら(ローマ教会)の前に集まらせた。彼らは言う《我々に食を与えてください。天上の火を約束した人(キリスト)が呉れなかったのです》と。「食を与えるのは我々だけだからだ」と群衆に大審問官らは《嘘》をつくのだという。

 「最後には彼らが我々の足元に自由を差し出し《いっそ奴隷にして下さい。でも食べ物(地上のパン)は与えてください、と言うことになるだろう。・・・・・それと言うのも、彼らは決してお互い同士の間で分かち合うことが出来ないからなのだ!彼らはまた、自分たちが決して自由ではいられぬ事を納得する。何故なら、彼らは無力で、罪深く、取るに足らぬ存在で、反逆者だからだ。お前は彼らに天上のパンを約束した。だが、・・・・・か弱い、永遠に汚れた、永遠に卑しい人間種族天上のパンの為に地上のパンを黙殺することの出来ない何百、何百億という人間たちは一体どうなる。・・・・・我々が彼等の先頭に立って、自由の重荷に耐え、彼らを支配することを承諾してくれたという理由から、我々を神と見做すようになる。――・・・・自由の身である事が、彼等には恐ろしくなるのだ!》。しかし我々はあくまでもキリストに従順であり、キリストの為に支配しているのだと言うつもりだ。彼らを再び欺くのだ。・・・・この欺瞞の中にこそ我々の苦悩も存在する」。

 「パンを認めていれば、お前は個人たると全人類たるとを問わず、全ての人間に共通する永遠の悩みに応える事になった筈だった。その悩みとは《誰の前にひれ伏すべきかという事に他ならない》。

 「皆が一緒にひれ伏す・・・《跪拝の統一性》という欲求こそ、有史以来個人たると人類全体たるとを問わず、人間一人一人の最大の苦しみに他ならない。統一的な跪拝の為に、人間は剣で互いに滅ぼし合ってきたのだ。彼らは神を作り出し、互いに呼び掛けた。『お前たちの神を棄てて、我々の神を拝みに来い。さもないと、お前たちにも、お前たちの神にも死を与えるぞ!』。多分、世界の終りまでこんな有様だろうし、この世界から神が消え去る時でさえ同じ事だろう。どうせ人間どもは偶像の前に平伏すのだ。」

 「全ての人間を・・・お前に平伏させる為に」悪魔が提案した《地上のパンという唯一絶対の旗印》をお前は「斥けてしまった。しかも自由天上のパンの為に斥けたのだ。・・・・人間と言う不幸な生き物にとって、・・・自由という物を少しでも早く譲り渡せるような相手を見つけること位、やり切れぬ苦労は無いのだ。人間の自由を支配するのは、人間の(原訳では「良心」と訳している。「良」心なる価値観の入った言葉は不適当と考える。よって以後は単に「心」と記す。…・筆者)を安らかにしてやる者だけだ。…パンさえ与えれば人間はひれ伏すのだ。何故ならパンより明白な物は無いからな。・・・・もし誰かが・・・人間の心を支配したなら、そう、その時には、人間は・・・自己の心を擽ってくれる者について行くことだろう。…・(お前は)人間にとっては心すら、善悪の認識における自由な選択より大切だと言いう事を忘れてしまったのか?人間にとって心の自由ほど魅力的なものは無いけれど、同時にこれほど苦痛なものもない。…だが選択の自由などと言う恐ろしい重荷に押し潰されたなら、人間はお前の姿も真理も終には斥け、反駁するようにさえなってしまう・・・・。最後には真理はお前の内には無い、と叫び出すだろう。・・・・お前自身が自己の王国の崩壊に根拠を与えた・・・誰も責めてはならないのだ」。

 「地上には三つの力のみが、弱虫の反逆者たちの心を、彼らの幸福の為に永久に征服し魅了できるのだ。その力とは奇蹟神秘権威に他ならない。(お前はその全てを斥けた)。

 「人間も・・・奇蹟を必要とせずに…神と共のとどまるだろうと期待した。しかし、人間は奇蹟を斥けるや、直ちに神を斥けてしまう・・・。何故なら、人間は神よりはむしろ奇蹟を求めているからなのだ。・・・人間は奇蹟の中に居続けることなぞ出来ない為に・・・・祈祷師や呪い女の妖術にひれ伏すようになる。」

 「人間は、お前が考えているより、ずっと弱く卑しく創られているのだぞ!…・不安と混乱と不幸とか、彼らの自由の為に、お前があれほどの苦しみに耐え抜いた後の人間の、現在の運命に他らない!」

 「神秘を伝道して《大切なのは、心の自由な決定でもなければ愛でもなく、心に反してでも、盲目的に従わねばならぬ神秘なのだ》と教え込む権利が《我々にもある》。我々がやったのはまさにそれさ。我々はお前の偉業を修正し、奇蹟と神秘と権威の上にそれを築き直した

 「我々は彼(悪魔)についているのだ、これは我々の秘密だ!・・・あの力強い悪魔の第三の忠告を受け入れていれば、お前は人間がこの地上で探し求めているものを、悉く叶えてやれた筈なのに。つまり。誰の前にひれ伏すべきか、誰に心を委ねるか・どうすれば結局全ての人が論じようのない共同の親密な蟻塚に統一されるか?と言った問題をさ。何故なら世界的な統合の欲求こそ、人間たちの第三のそして最後の苦しみに他ならぬからだ。」

 人間の心を支配しパンを手の中に握る者でなくして、誰が人間を支配できよう。我々は帝王の剣(世俗権力)を受け取ったが、受け取った以上、勿論お前を斥け、彼(悪魔)の後をついて行ったのだ。そう、人間の自由な知恵と、科学と人肉食と言う非道な時代が、さらに何世紀か続くことだろう。何故なら、我々の知らぬ内にバベルの塔を築き始めた以上、彼らは所詮、人肉食で終わるだろうからな」。

 「お前は自分の選良たちを誇りにしているが、お前のは所詮選ばれた人々に過ぎないし、我々は全ての人に安らぎを与えるのだからな。」

 「自由自由な知恵科学などは彼らを深い密林に引き込み、大変な奇蹟と解決し得ぬ神秘の前に据えてしまうので、彼らの内の反抗的で凶暴な連中は、我と我が身を滅ぼすだろうし、反抗的であっても力足りぬものは互いに相手を滅ぼそうとし合い、後に残った弱虫の不幸な連中は我々の足元に躄り水よって、泣きつくことだろう。「彼らは、自分たちの手で獲得したパンを、我々が取り上げてしまうのは、一切の奇蹟なしに分配してやる為だった事を、はっきりと悟るだろうし、我々が石をパンに変えたりしなかった事にも気付くだろうが、本当の話、彼らはパンそのものより、我々の手からパンを貰う事の方をずっと喜ぶだろう!

 「我々は彼らに静かな慎ましい幸福を、意気地なしの生き物として作られている彼らに、相応しい幸福を授けてやろう。そう、我々は彼らに結局.驕ってはならぬ、と説いてやるのだ。それというのも、彼らをお前が煽て上げ、その結果として、驕ることを教え込んだからだ」。「個人の自由な決定という現在の恐ろしい苦しみや、大変な苦労から、彼らを開放して…全ての人間が幸福になる事だろう。彼らを支配する何十万の者を除いて、何百万という人々が全て幸福になるのだ。それというのも、我々だけが、秘密を守ってゆく我々だけが、不幸になるだろうからな」。「我々は秘密を守り通し、彼らの幸福の為に、天上での永遠の褒美で彼らを誘い続けるのだ。何故なら。仮にあの世に何かがあるにしても、勿論彼等のような連中の為にある訳ではないのだからな。」

     「大審問官」 3

  老人の主張を次のように要約する。

  「人間はもともと反逆者」で、「人間と人間社会にとって、自由程耐え難いものは未だかって何一つなかった」。人々は大審問官 (ローマ/カソリック教会)の前に集まり、「自由を差し出し、『いっそ奴隷にして下さい。でも食べ物(地上のパン)は与えて下さい』と言うだろう。何故なら「彼らは決してお互い同士の間で分かち合うことが出来ない」し、「自由ではいられぬ」からだ。「彼らは無力で、罪深く、取るに足らぬ」反逆者だ。何百、何百億という「か弱い、永遠に汚れた、永遠に卑しい、天上のパンの為に地上のパンを黙殺することの出来ない」人々は、教会を神と見做すようになる。「自由」と「地上のパン」とを両立して考えられぬ人間は、「自由の身である事が恐ろしくなる」のだ。

  人間の永遠の悩みの一つは「跪拝の統一性」だ。この「跪拝の為に、人間は剣で互いに滅ぼし合ってきた」。神を作り出して『お前たちの神を棄てて、我々の神を拝みに来い。さもないと、お前たちにも、お前たちの神にも死を与えるぞ!』と互いに呼び掛けた。多分「神が消え去る時」にも「人間は偶像の前に平伏する」。

  人間は「自由」を苦痛に思う「不幸な生き物」だから、彼等の「自由を支配するには、彼らの心を安らか」にすればよい。「パンより明白な物は無い」から、「パンを与え、心を擽ってくれる者」に自ら喜んで服従する。「心を擽って」もらうことが、善悪認識の自由な選択より大切なのだ。自由は魅力的だが、苦痛でもある選択の自由は人間を押し潰し、人は真理も斥けるようになる。 

  「三つの力(奇蹟と神秘と権威)のみが人間の心を、永久に征服し魅了できる」。「弱く卑しい」人間は、「神より奇蹟を求め」、ついには「祈祷師や呪い女の妖術にひれ伏す」。不安と混乱と不幸が彼等の運命で、「心の自由な決定とか愛」より「盲目的に従う」事が大切なのだ。我々は「奇蹟と神秘と権威」の上にそれを築くのだ。

  心を支配し(宗教的権威)パンを手に握る者(世俗権力)として、「全ての人が共同の親密な蟻塚に統一されるように」、我々(ローマ教会)は悪魔に従ってきた。「自由な知恵と、科学と人肉食の時代が、さらに何世紀か続く」だろう。しかし「自由自由な知恵科学などは、人を深い密林に引き込む」だけで、「彼らの内の反抗的で凶暴な連中は、我と我が身を滅ぼ、反抗的でも力足りぬ者は互いに滅ぼし合い、残った不幸な弱虫連中は我々の足元に泣きつくのだ」。

 人間は「石はパンにはならぬと知っているし、自らの手で得たパンを我々が取り上げるのは、奇蹟なしに分配して貰うのだ」とも知っている。それでも我々の手から「パンを貰う」事を喜ぶのだ。 だから「意気地なしの生き物」の彼らに相応しい幸福、静かな慎ましい幸福を授けてやろう。「驕ってはならぬ」と説きながら。

 このように「自由な決定」から開放された「何百万という人々が全て幸福になる」。「我々(教会)はキリストに勝利した」と言って良いのだ。人間は教会を神と見做すようになった。

 以上が「大審問官」の「弁証法」の要旨となるだろう。