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老い烏

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「大審問官」 Ⅰ

2014-12-06 11:13:48 | 「カラマーゾフの兄弟」

             大審問官  Ⅰ

  邦訳「カラマーゾフの兄弟」には、必ずイヴァンの語る叙事詩「大審問官」について訳者の解説があり、「大審問官」を重視して、小説の最重要な部分とする主張もある。例えば原卓也氏の訳書「カラマーゾフの兄弟」(新潮文庫)の解説では、「20世紀の評論家ローザノフの研究こそ、(大審問官は)この小説の魂である」と指摘して「『カラマーゾフの兄弟』に対する20世紀的な解釈に道を開いたのだった」、と書くが、どのような意味で「この小説の魂」なのかは書かない。ローザノフなる人物すら知らない我々には、上記の文章は意味を為さない。

   V・ローザノフの「大審問官」研究は、前世期後半、ドストエフスキー死後10年の1891年から雑誌に掲載された論文であり、日本では神崎昇訳「ドストエフスキー研究――大審問官の伝説――』(弥生書房、1963年)がある。同書はかなりの部分を大審問官に充てているが、基本的には他の諸論と同じで、キリストとドストエフスキー賛歌よりなる評論集だ。ちなみに、氏はかのドストエフスキーの「情婦」であったポーリナリア・スースロワと24歳で結婚している。その時スースロワは既に40歳を超えていた。その後に彼は離婚を希望するが、スースロワは同意せず、為に内縁の女性との間に数人の子供を得て事実上の家庭を持っていたという。これから判断すると、当時のロシアで「離婚」は可能であったが「両性の合意」が前提とされていたようだ。

 また文芸評論家による「カラマーゾフの兄弟」評論も同様だ。かって日本でドストエフスキーの小説が盛んに読まれた時、最も「権威」ありとされた文学者が埴生雄高氏であった。氏は著書「ドストエフスキー――その生涯と作品」(NHKブックス、1965年)で、「『カラマーゾフの兄弟』の思想的中心に位置する大審問官物語」と書く。マタイ福音書中にある「悪魔の三つの誘惑」を紹介し、この誘惑が「(地上の)パンと奇蹟と権威という人類にとって、終に離れがたい生き方をキリストは取らずに、自由の方を選んだけれども、自由は人類にとって重荷であり、苦悩を持った少数者のみが担うことができるのだ」として、「大審問官」が論証しようとする理論は「単純で恐ろしい基本的な思想です」と書く。その帰結として氏は、「大審問官」の主題を、20世紀初頭のロシア革命とソ連共産党を重ね合わせ、「(地上の)パンと奇蹟と権威を現代風に言えば、即ち(レーニンが説いた)『パンと電化と党』になる」と記す。埴生雄高氏を代表とする日本の「カラマーゾフの兄弟」と「大審問官」の受容と理解は、ロシア革命後の社会主義への問題意識から生じた、と考えて良い。上記の原卓也氏訳の「大審問官」解釈も、大審問官の主張をロシア社会主義(スターリン主義)と対比させて記述しているので、この延長線上にあるだろう。

 1991年のソ連崩壊を知る21世紀初頭の我々は、強大を誇ったソ連が、パン(消費財)生産低迷を解決できず、電化ではチェルノブイル原発事故で恐るべき失敗をし、為に党の権威失墜から解体に至ったことを知っている。即ち「パンと電化と党」の全てに失敗した為に、ソ連および世界の共産党は崩壊した。埴生氏の解釈で「大審問官」を受け入れる者は今ではいないだろう。残るのは社会主義的「思想問題」から離れた「商業主義・資本主義的」ドストエフスキー回帰現象として、日本では21世紀初頭の2007年以後の、亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」(光文社)の大ヒットがある、と考える。

 「大審問官」の提起する第二の問題は、「イヴァンの無神論」についてだ。埴生氏は「(無神論者)大審問官の冷徹な論証を、(作家は)ゾシマ長老の話で打ち破ろうとしました。けれども・・・イヴァンに対する反駁が難しいことを自覚していました」と書く。氏は作家が「イヴァンに対する反駁が難しいことを自覚していました」とするが、具体的な作者の文章を明らかにしない。一体「カラマーゾフの兄弟」の何処に、埴生氏の書く「作家の自覚」を記しているのだろう?氏はドストエフスキーが明記した「自覚」を、小説自体の文章から記さねばならない。しかしそのような「論証」を氏は一切行わない。「大審問官」の対極に長老ゾシマは位置しているのだから、ゾシマ長老の議論「遺訓」を細かく検討した上で、「イヴァンに対する反駁が難しい」との論を進めるべきだった。長老ゾシマの「遺訓」の検討無くしての「大審問官」論は不十分となる。しかし管見する限り、氏は長老ゾシマについて検討されていない。

 氏が「イヴァンの懐疑の力強さに、ゾシマの肯定は遥かに及ばない」と書くのは自由だが、「イヴァンの懐疑の力強さ」の根拠として引き合いに出される例(「罪なき小児への虐待」)は、全て当時の新聞種や裁判記録から作者が得たものだった。このような不条理な「罪なき者への虐待」は、歴史上・地理上何度となく繰り返され、現在でも未来でも生じ続けるだろう。別言すれば、事新しくドストエフスキー(イヴァン)が見出した世界ではない。また氏は「大審問官の冷徹な論証」と書くが、かなりの論理の飛躍の上に構築されたのが(イヴァンの)大審問官の「論証」と筆者は考える。

 イヴァンの引用する小児虐待例は、裁判記録や新聞種からドストエフスキーが得た「事例」だとされている。であれば、これら事例は「稀に生ずる事件」だ、との単純な事実を意味しよう。従って「小児虐待」は人間の本質「そのもの」ではなく、こうした傾向を有する人物がいる。だから「事件」として世人(ドストエフスキー)は強烈な感慨を持つのだ。あるいは、こうした傾向を無意識に多くの人間は持っているが、日常的にはこの傾向は抑圧されているので、抑圧された《傾向》が「事件」として発露される時、世人(ドストエフスキー)は多大の関心を抱く」に過ぎない。イヴァンの次の言葉「もう一度はっきり断言しておくが、人間の多くの者は一種特別な素質を備えているものなんだ――それは幼児虐待の嗜好だよ、しかも相手は幼児に限るんだ」との言葉は、限定的に捉える必要がある。つまりイヴァンの言葉であって、作家(ドストエフスキー)の言葉(思想)ではない。これを「多くの人間の素質」として受け入れる事が出来るか?恐らく出来ないだろう。言えるのはそうした人間も存在する「事実」である。あくまでイヴァンの言は「小説」として理解せねばならない。従って亀山氏の持ち出す幼児虐待の嗜好の「サドマゾ的解釈」などは無意味だ。

 このイヴァンの考えはドストエフスキーの小説「地下生活者の地下」に近似してはいるだろう。しかしドストエフスキーの「カラマーゾフの兄  弟」執筆時の考えではない

 またイヴァンは「俺はね、どうすれば身近な者を愛することができるのか、どうしても理解できなっかったんだよ」として《情け深いヨアン》の例を出す(第5編四「反逆」)。彼は「人を愛する為には、相手が姿を隠してくれなきゃ駄目だ。相手が顔を見せた途端、愛は消えてしまうのだよ」なる言をなし、アリョーシャもまた、師ゾシマ長老もやはり同様の事を述べた、として同意する。しかしこれは正しいだろうか?納得できる事だろうか?確かにイヴァンはそう思っている。しかし「一般論」としてこの命題と結論が誤りなのは、作者ドストエフスキーの、兄ミハエルや妻子への愛情を思い起こせばよい。彼は身近に「顔を見る」人々への愛を、人一倍強く感じる人であった。つまり作者はイヴァンとは全く逆の考えを持ち生きた作家だった。「一般論」として言えるのは、こうした「身近の人々」への愛に縛られているのが、多くの人にとって「普遍的真実」という事だ。つまり、小説上では殆んど人 (最も身近な家族とのを含めて) との交流を経験していなかったイヴァンであるから、上記の発言が出来る。

 小説に則って考えれば、彼の愛するカチェリーナはこの直ぐ前、ホフラコーワ夫人邸で、兄ドミートリィへの「愛なき」執着をイヴァンに語り、彼の愛を事実上拒否している。この時イヴァンにとって、「顔を見せた」カチェリーナは憎悪の対象であっても、「愛しているとは」口が裂けても言えなかった。彼女への「懐かしい」想いを吹き消すのは、遠くモスクワへ向かう汽車の中でのことだった。余りにも強い影響を彼は身近に感じ過ぎていたからだ。従って上のイヴァンの言を、普遍的・哲学的真理であると有り難がる必要は毛頭ない。さらに述べるなら、彼が「相手が顔を見せた途端、愛は消えてしまうのだよ」と述べているのは「身近な者」、つまり父フョードル――父としての義務を放棄した男と、彼の愛する女を奪い辱める兄ドミートリィへの彼の素直な感情、即ち彼の敵意の表現に過ぎない。突っ込んで記せば、彼は上記の言葉で「身近な者(父と兄)」への殺害まで「期待する(彼の)権利」を正当化している。血を受けた父「イソップ爺さん」を、下僕の「最前線の肉弾」スメルジャコフに殺害させ、殺害の容疑を兄に被せようとする「意識下」の彼の願望があったからだ。つまり彼の上記の言は決して「哲学的」概念ではなく、小説上で必要なイヴァンの意識下の願望を、哲学的に装った代物に過ぎない。

 「大審問官」を論ずる上では、「嘴の黄色い」青年イヴァン・カラマーゾフが創作した叙事詩だ、というのが前提だ。良きにつけ悪しきにつけ「小説」の筋、流れから離れてはならない。イヴァンは長兄ドミートリィを探していた弟の見習僧アリョーシャに「大審問官」を語る。小説に則っとれば、イヴァンは弟のアリョーシャに己の「無神論」を理解させ、彼の無神論的考えの「正当性」を知ってもらおう、と話すのが、飲み屋「みやこ」での兄弟の上記「幼児虐待」を巡る会話だし、さらに叙事詩「大審問官」だ。

 イヴァンは己の「無神論」を裏付ける具体例として、先に述べたように罪無き「子供達」への大人達の「虐待」を指摘する。母親の前で子供を猟犬に虐殺させた19世紀初頭のロシアの将軍を「銃殺」すべきか?のイヴァンの問いに、信仰者である弟アリョーシャが「銃殺すべきです」と答えた時、彼は己の考えに自信を持ったに違いない。そこで彼は、子供を殺された母親と将軍が抱き合う「神の世界の調和」を拒否・否定する。「一体どこに調和があると言うんだ?この世界中に『罪無き子供達への大人たちの虐待』のような不条理を、赦す事が出来るような、赦す権利を持っているような存在が果たしてあるだろうか?」と畳み込み、自ら答える。「否、存在しない」。従って、加害者と被害者が抱き合う「調和」などは、現在にも未来にも「神の創った世界には存在しない」。仮令「存在したとしても、俺は認めない」。何故なら「赦す事が出来るような、赦す権利を持って」いる存在が無い以上、調和は在り得ず、不条理が世界を支配しており、彼にはそんな「不条理は認められない」からだとする。彼は世界を創った神を「否定」するのではなく、神の創った世界の「不条理」を認めない、従って「不条理」で構成される「神の創った世界」の「調和」も認めない。為に「調和」ありとする世界への入場券を、神に「ただ謹んでお返しする」と続ける。入場券を返すとは「自殺する」との意であり、対して弟は「目を伏せて」、それは神への「反逆」(自殺は神が禁じている)だと応じる。

 兄の次々に繰り出す無神論の「攻撃」に圧倒されたアリョーシャは、「ふいに目を輝かせて」言う。「兄さんは今、この世界中に赦す事の出来るような,赦す権利を持っているような存在が果たしてあるだろうか、と言ったでしょう?でもそういう存在はあるんですよ。その人(キリスト)なら、全ての事に対して、ありとあらゆる者を赦すことが出来るんです。何故なら、その人自身、あらゆる人、あらゆるものの為に、罪なき自己の血を捧げたんですからね」。この答えを待っていたかのように、イヴァンは即座に応じる。「お前がいつまでもその人を引っ張り出してこないんで、ずっと不思議に思っていた位さ。なにしろ、たいてい議論の際に、お前の仲間(有神論者=キリスト教者)は皆、真っ先にその人を押し立てるのが普通だからな」。イヴァンはアリョーシャがキリストを持ち出して反論することを、とっくに予想していた。その予想に基づいて語られるのが叙事詩「大審問官」だ。つまり「大審問官」は弟が主張する「赦す事の出来るような,赦す権利を持っているような存在」としてのキリスト、ただしイヴァンの理解するキリストを何よりも物語っている、と理解しておかねばならない。イヴァンにとって「許す」とは何を意味するかを語っているのだ。

 時は16世紀。イヴァンの描く90歳を超える老大審問官は、「赦す権利を持っているような存在(キリスト)」の名において、前日には100人もの異端を焼き殺していた。スペインの都市セヴィリアに出現した「イヴァンのキリスト」は、死んだ少女を甦らせる奇跡を民衆に示すが、これを見た大審問官は、彼を捕らえさせ牢にぶち込む。《月桂樹とレモンの香り》の夜の牢を訪れた大審問官はイエスに、「何故、今現れたのか?」と問い、かってキリストの説いた「自由による信仰」に苦しんだ教会は、キリストの名による《異端者》の火炙りの刑によって、やっと今「完成」したのだと宣告する。この後、大審問官は神=キリストの「代理人=教皇」の支配の本質とその正当性をながながと語ることになる。彼はキリストが悪魔から受けた三つの《試練》を引き合いに出し、彼キリストがその全てを否定した為に、《異端審問》が行われている今こそ、彼キリストの希望が実現したのだとする。「彼」=キリストはこうした大審問官の議論を《柔和》な目で見つめているだけで一切反論することはない。大審問官の論告が終わるや無言のキリストは、「反キリスト者」である筈の大審問官に黙ってキスをする。大審問官は喜び、再びこの世に現れ大審問官らが行っている支配の邪魔をするなと言い、火炙りの刑に予定した「彼」を釈放する。1500年前の新約聖書のキリストは十字架上の死において、「エリ、エリ、レマ、サパクタニ(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?)」と神への「疑問」すら心に感じていた(マタイ福音書、27章,46)というのに、「イヴァンのキリスト」は《柔和》な目で大審問官にキスをする。この差異を作者(イヴァン=ドストエフスキー)は十分に理解していた。そのうえで「イヴァンのキリスト」にキスをさせている。「彼」のキスは大審問官の主張の是認である、とイヴァンは叙事詩「大審問官」で結論付けている。

 アリョーシャの説く「赦す権利を持つキリスト」は、異端糾問による火炙りの刑という不条理を「糺す」のではなく、このような不条理すら「調和」として「赦す」存在でしかない、というイヴァンの主張に帰結する。つまりアリョーシャの持ち出す「赦す権利」を持つキリストは、(叙事詩「大審問官」によれば)イヴァンの《何故、世界に不条理は存在し、それが糺されることはないのか?》の疑問に何も解決を齎さない。これがイヴァンのキリスト観であり主張だ。従ってアリョーシャは、イヴァンのキリスト像を否定する議論《何故、世界に不条理は存在し、何故それが糺されることはないのか?》に対する《対案》を展開しなければならない。しかし彼にそれは出来ない。彼に出来る反論は、イヴァンの「大審問官」像を、キリスト教カソリック教会の最悪の一派イエズス会の説くところだ、と述べるに留まる。これではイヴァンへの反論にはならない。イヴァンにとって問題は、「調和」を齎せ得るは「赦す権利」を持つキリストにあり、大審問官にあるのではない。大審問官が現実に行っている「反キリスト」行為に、キリストが有効な対応、反論が出来なければ、アリョーシャの主張は無意味になってしまう。16世紀のセヴィリアに出現した「イヴァンのキリスト」は、己の主張する支配構造は「反キリスト」であるが、結局、人間はそうした反キリスト的支配構造から自由になれない愚かな存在に過ぎないのだ、という大審問官(イヴァン)の人間観を認めている。

 イヴァンは問う。何処に神の調和が存在するのか?キリストは本来「大審問官」の行為を「赦すことなど出来ない筈だ」。それが神人キリストの持っている意義ではないか?しかしアリョーシャの言う「赦す事の出来るような,赦す権利を持っているような存在」の筈のキリストは、100人もの異端者を焼き殺す「大審問官」に接吻した。彼イエスは「反キリスト」者を結局「赦し認める」存在でしかなかった。であればキリストは世界の「不条理を認める存在に過ぎない」、あるいは「不条理=調和」を実証する存在となる。イヴァンの主張するキリストが「赦す権利」を持ち、「不条理=調和」しか齎さないのであれば、キリストは彼の「無神論」を支える代物にしか過ぎなくなる。

 ここで作家ドストエフスキー自身のローマ教会が行った火刑(火炙りの刑)についての考えを述べておこう。1880年カヴェーリンへの反論で「異端者を火刑に処す者を私は道徳的人間と認めない。・・・・(中略)・・・・・私が道徳性の手本とおよび理想とするのはキリストである。私は『キリストなら異端者を火刑にしただろうか?』と自問してみる。答えは否だ」。(ミハイル・バフチン「ドストエフスキーの詩学」(筑摩学芸文庫、1995年、200ページ)。当然の事ながら「イヴァンの大審問官」は、ドストエフスキーにとってキリストの対極に立つ(反キリスト)者と言って良いだろう。ドストエフスキー自身が、大審問官の論理を認めてキリストにキスさせる訳がない。異端者の火刑を命じた大審問官は反キリストであり、作家ドストエフスキーには決して認められる存在ではない。

 原卓也氏は氏の訳書の解説で、大審問官の支配の「社会的原理」を見抜いていた「キリストは彼(大審問官)に反論せず、彼が民衆に代わって我が身に背負い込んだ重荷に対して接吻した」と書く。氏はイヴァンが語る「大審問官の構造」を理解していないのではないか?「作家の考えるキリスト」を「イヴァンの語るキリスト」に置き換えてはならない。作家は「社会的原理」を是認するキリストなど一切考えてはいない。ましてや大審問官が「民衆に代わって我が身に背負い込んだ重荷」に接吻した、などは不十分な解説、あるいは大きな誤りだ。叙事詩「大審問官」の二人の登場人物は、あくまでイヴァンの考えを具体的に述べたものであり、彼にとっての「キリスト」であり「大審問官」であった。つまり「赦す」キリストの否定であり、かつまた「大審問官」もまた否定されるべき存在だった。「信仰の矛盾」、この二つ矛盾の並立が彼イヴァンの心の中で存在し、彼の心を引き裂いていた、と作家は書いている。従って亀山氏の提起する、登場するキリストは真のキリストであったか、反キリストで実際は悪魔であった、などの言辞、詮索はまったく無意味だ。他の多くの「大審問官論」もまたこの小説の構造を理解することなく論じている。その代表例が埴生氏の「パンと電化と党」論であるのは言うまでもない。

  「反キリスト者(大審問官)」すら「赦す事の出来るような,赦す権利を持っているような存在」としてのキリストが、イヴァンの主張するキリストだと理解すれば、この後のアリョーシャとイヴァンの行動、特にアリョーシャの兄への接吻はどう理解すべきだろう?アリョーシャはイヴァンの叙事詩「大審問官」を、時には反論しそうになりながら聞き入る。大審問官がキリストへの「告発=論告」をラテン語"Dixi(わしの話はこれでおわりだ)で締め括る。アリョーシャは「兄さんの詩はイエスの賛美」であり、大審問官の話は最悪のローマ教会の一派イエズス会の主張だと難じ、「兄さんの審問官は神を信じていないんです」と「夢中になって叫」んで詩の結末を聞く。イヴァンは「(彼=キリストは)不意に無言のままに歩み寄ると、血の毛のない90歳の老人の唇にそっとキスをするのだ。これが返事の全てなのだ。老人は身震いすると、扉を開けていう『出ていけ、もう二度と来るなよ・・・・』と言って放免する。・・・・囚人は立ち去ってゆく(そして確かに、「彼」は二度と人間世界に現れることはなかった・・・・・筆者)と結末を明かす。「で老人は?」と問うアリョーシャ。イヴァンは答える「今までどうおりの理念に踏みとどまる(異端者の火炙りの処刑を続ける・・・・筆者)のさ」。これを聞いた弟は「兄さんもその老人と一緒なんでしょう、兄さんも」と悲痛に叫び、「心と頭にそんな地獄を抱いて」、何故に生きて行けるのか?と問うと、イヴァンは冷たい嘲笑を浮かべて「カラマーゾフ的な力」によって生きて行くと答える。アリョーシャはその意味は「全てが許される」という事か?と問うのに対し、イヴァンは「眉をひそめ、ふいに何か異常なほど青ざめ」、そう答えたら「お前は俺を否定するのか?そうなのかい、そうだろう?」と逆に問いかける。立ち上がったアリョーシャは「兄に歩みよると、無言のままそっと兄の唇にキスをした」。イヴァンは「『剽窃だぞ!』と歓喜に移行しながら叫び・・・・俺の詩から剽窃したな!それにしても有難う」と言い、連れ立った二人は居酒屋「都」を出る。イヴァンは『それじゃお前は右、俺は左へ行こう」と弟に告げ兄弟は別れる。

  イヴァンは何故『剽窃だぞ!』と歓喜したのか?勿論、アリョーシャもまたイヴァン(大審問官)の理念を認めたと考えたからだ。キリストを釈放した「イヴァンの大審問官」はその後も「異端審問(異端者の火炙りの刑)を続けた」。つまりイヴァンにとって、キスした弟の行動は、イエスが大審問官にキスしたように、弟が彼の「理念」を是認したと理解したのだが、より具体的には何を意味したのだろう。

 この前日、長兄ドミートリィが父フョードルを殴り倒した後、イヴァンはアリョーシャに「二匹の毒蛇と毒蛇が食い合うだけさ」と述べ、アリョーシャを震え上がらせている(第三編、9「好色な男たち」)。この後にアリョーシャは、父フョードルから「俺はイヴァンのほうが怖い(イヴァンに殺される)」と聞かされている。庭に出たアリョーシャはイヴァンに、人には他人の「生きてゆく資格」を決定する「権利」などあるのか?と問う。イヴァンは「他人の死」を含む「期待する権利」は誰でも持っている、と答え、「お前は、俺もドミートリィと同じように、イソップ爺さんの血を流す、つまり親父を殺すことのできる人間だと思っているのか?」と問う。アリョーシャの否定「なんてことを兄さん!そんなこと一度だって考えたことはありませんよ」、に「俺は何時だって親父を守ってやる。ただその場合にも自分のの中には十分な余地を確保しておくがね」と述べる。この兄の態度に弟は「それが、何かの為に、必ず何らかの意図をもってなされたに違いないと感じた」のだった。イヴァンの言葉に嘘偽りはない。彼は「親父を殺すことの出来る人間」ではない。しかし父親が「他の人間」に殺されるのを「期待」してはいたのだ。ただし、この時彼の頭にあったのは「最前線の肉弾」スメルジャコフであるより、兄ドミートリィであったろう.何故なら、直前に彼は兄の父への暴行を目にし、体を張って阻止していた。何よりも、この時にはまだ、彼はスメルジャコフの意図を明確には知らなかった。《兄貴は親父を殺す。俺はそれを止めることはない》というのが基本的立場だ。

 モスクワに帰り、父殺害と同時に3000ルーブルが強奪されたと知らされた時、彼はスメルジャコフの父親殺害を確信した。《兄貴は親父を殺しても金を奪うような男じゃない。なら殺人者は金を強奪した男、スメルジャコフに違いない》と。だが飲み屋「みやこ」で叙事詩「大審問官」を弟アリョーシャに語った時、彼は弟が兄ドミートリィの「父殺害」とそれを「希望する」己を認めて、弟が彼にキスをしたと思った。ただし、弟のキスを「兄ドミートリィによる父の死を期待するイヴァンの権利」を認めた行為だ、と兄は誤解して「歓喜に移行」したのだ。しかし「アリョーシャのキス」の意味は、イヴァンの理解と異なっていた。キリスト者アリョーシャには、兄の「理念(父の死を期待する権利)」を肯定できない筈だ。ではアリョーシャの行ったキスの論理とは何か?

 この前、イヴァンは「幼児虐待の嗜好」例で、犬に子供を虐殺させた19世紀初頭の将軍を「銃殺すべきか?」と問い、見習い修道僧アリョーシャは「銃殺すべきです」と「低い声で口走って」答えたが、兄の「でかしたぞ!」の反応に、この答えがキリスト者として「正しい」ものではない、と感じていた。だから「馬鹿なことを言ってしまいましたけど」とすぐに付け加えている。何故付け加えたのか?彼は自分の言葉がキリスト者として相応しいものと思わなかったのだ。何故なら「許し」の原点には、イエスの言葉「汝の敵を愛せ」」(マタイ,5章、44)があるのを、彼は思い出した筈だ。その意識があるから、アリョーシャはキリスト者としての「原点」である「汝の敵を愛せよ」を、兄イヴァンに対して行った。「イヴァンのキリスト」はイヴァンの拒否する「幼児虐待の嗜好」を持ち、キリストの名において「異端者」を焼き殺す「不条理」な行為を認める存在で、「調和」の言葉で不条理を合理化する存在だった(「銃殺すべき」とするキリスト)。他方、アリョーシャは「汝の敵を愛せ」のキリストの「行為」で対抗したのだ、となる。つまり 兄イヴァンが、父フョードルの死を「期待する権利」を理念とする者であれ、「貴方を愛している」として、彼の論理(「キリスト者アリョーシャ」)からキスをしたのだ。「汝の敵を愛せ(=許せ)」という「聖書のキリスト」の命の実践であったろう。筆者にはこの弟の行為は未だ「形式的」であり、この行為はイヴァンを誤解させたように、「読者」の判断を誤らせるもの、つまりイヴァンの「解釈」を読者も共有してしまう「行為」であったと考える。ただしこの論理の差異について、イヴァンは飲み屋を出て「お前は右(アリョーシャの「キリストの道」)、俺は左(「イヴァンのキリスト」の道)へ行こう」と言って別れるた時、アリョーシャのこの論理を知ったに違いない。

 アリョーシャは兄イヴァンに「無言」のキスなどする必要はなかった。例えばアリョーシャがこの行為の前に「無言」ではなく、「イエスの教えに従い兄さんに接吻します」と書けば、アリョーシャの行為の意味がより明瞭になっただろう。ただしそれでは、この場のドラマlチックさがかなり減少する。作者はこの効果を狙って「意図的」に、大審問官が「イヴァンのキリスト」に行った「無言のキス」を、アリョーシャにさせたのだ。この「場面」は小説として非常に興味深く、巧妙に構成されていると考える。 

 ドラマに沿ってこの章を続ける。兄と別れたアリョーシャは「天使のような神父(Pater Serafics)」ゾシマが危篤のベッドに横たわる僧院に向かう。その途次「イヴァン、気の毒なイヴァン、今度はいつ会えるのだろう・・・・・」と独り語ちる。何故、弟は兄を「気の毒」と言ったのか?彼の価値観からすれば、兄は心と頭に「地獄を抱いて生きている存在」だからだが、その彼自身、兄の叙事詩「大審問官」にかなり動揺していたのも事実だ。その後に続く言葉「僧庵だ、助かった!そう、そうだ、長老様がセラフィック神父なのだ。あの方が僕を救ってくださる。・・・悪魔から永遠に!」は、明らかにアリョーシャの信仰への動揺を物語っているだろう。ついでに記せば、この前第五編Ⅰ「密約」の章で、彼は恋人14歳のマゾヒスト少女リーザ・ ホフラコワに「でも僕は、ひょっとすると,神を信じていないかもしれませんよ」と述べている。敬愛し尊崇するゾシマの直近の死を予想して、ある程度はイヴァンの言う「神の不条理」に彼は悩んでいたからであろう。

 ところで、本題から離れるが、上記のアリョーシャの「一人語ち」に引き続いて、語り手は書いている。「その後、一生の間に何度か彼は、この朝、つい数時間前に、是非とも兄ドミートリィを探し出そう、たとえその夜は修道院に戻れぬ羽目になろうと、見つけぬうちは帰るまい、と決心したばかりなのに、どうしてイヴァンと別れた後、不意にドミートリィの事を全く忘れたり出来たのだろうと、実に訝しい気持ちで思い起こしたものだった」と。確かに彼は第五編Ⅱで「恩人(ゾシマ)が僕の留守中に亡くなっても仕方がない、それでも僕は少なくとも、自分が救い得たかもしれぬ者を救わずに、脇を素通りし、さっさと我が家に帰ったなどと、自分を一生非難し続けずに済むのだ。こうすることが、長老の偉大な言葉通りに振る舞うことになあるのだ」と考えていた。しかしその「義務」を忘却している。兄イヴァンとの会話がアリョーシャにもたらした「動揺」が理解できるだろう。小説上では、この後にアリョーシャが「自分を一生非難し続けた」ようには思えない。その点で、筆者はアリョーシャの行為、「無神論者」イヴァンへの「キリスト者アリョーシャ」のキスが「形式的」であったあった、と考える。



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