老い烏

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7 柴田翔氏の”エロス論”

2014-10-18 22:20:56 | 「ファウスト」を読む

        柴田翔氏の“Eros論”

  柴田翔氏はグレートヒェンの「愛」に、エロス(性愛)の存在を認める。他の解説者、訳者が「純粋な愛」などと、内容の不明瞭な表現に留まっているのに比すれば、詩人ゲーテと詩劇ファウストの理解へ一歩は近づいている。が、問題はここからだ。氏によるエロスの定義は何を意味しているか。

 「井戸のほとり」でグレートヒェンの最後のセリフ、「みんなとても素敵でした。とても嬉しいことでした」(3586行)を、氏は「グレートヒェンは、既に自らが罪にあることを自覚しています」((「ゲーテの『ファウスト』を読む」岩波書店、1984年。184頁)と書く。では彼女の「罪」とは何か?未婚の男女が性的関係を持てば、当時のドイツ下層市民階級では、宗教的に「罪」とされて「教会贖罪」の対象となった。「井戸のほとり」でリースヒェンが言う、「罪の肌着を着せられて/教会で懺悔させられる」は「教会贖罪」を意味している。これがグレートヒェンを不安に陥れ苦しめる「罪」の実際の内容となる。己の属する地域教会(新・旧教会ともに)で、公然と晒し者となり辱めを受ける意味での「罪」に過ぎない。この「罪」からの恥辱を回避するために、当時、ヨーロッパ全土で嬰児殺を犯す若い女性が後を絶たなかった。グレートヒェンの恐れている「罪」は、教会贖罪の対象としての罪である。道徳的・法的な意味で「罪」を感じている訳ではない。

 知っておくべきは、同じ男女の性関係でも、その「罪」は上流階級では許容されていた。ゲーテの属す上流社会では「教会贖罪」の対象にはならなかった。社会的にも宗教的にも未婚の男女の性関係は「罪」と看做されていない。当時のドイツ社会には「男女関係」で二重基準が存在していた。グレートヒェンとファウストの性関係は、道徳的・法的な「罪」とはならない。しかし、下層市民には「教会贖罪」があり、地域社会での「虐め」が習慣的に存在し、これがために、多くの女性が「罪」とされ、「教会贖罪」の恥辱を避けようと、ついには「嬰児殺し」を犯す。ゲーテはこの事を指摘しているから、グレートヒェン悲劇が痛烈な意味を持つ。同罪を最初に廃止したのはプロイセン国のフリードリッヒ大王で、1765年のこと。帝国都市フランクフルトで嬰児殺しで斬首されたズザンナ事件の起きるたった6年前であった。ゲーテが宰相だったワイマール公国では、プロイセンに遅れること20年後の1785年、宰相ゲーテの働きもあって「教会贖罪」は廃止された。ゲーテは一貫して「教会贖罪」に反対していた。(ついでに記せば、ゲーテの姿勢には彼自身の「ゼーゼンハイム」のフリドリーケ体験が当然のこと影を落としていただろう)。

 従って柴田氏の「既に自らが罪にある」とのグレートヒェンの「自覚」解釈や、他の全ての訳者・解説者の「罪」解釈は誤りだ。彼女の犯した罪、法的な罪は嬰児殺と母親への過失致死のみとなる。母親を殺した真の犯人は、眠り薬をグレートヒェンに与えたファウストだ。しかし、既に指摘したように彼女も犯罪者(共犯)なのは明らかだ。哀れなグレートヒェンの「罪」意識は、上記のような意味(教会贖罪)で認められるが(ゲーテはそう書いている)、読者は柴田氏らの言う道徳的「罪人」とグレートヒェンを考えてはならない。

 彼女は自らの性愛(エロス)に対して「みんなとても素敵でした。とても嬉しいことでした」と独り言ち、それに読者は感動する。彼女は心の奥底では、何らの「罪意識」など感じてはいない。それは現代においても通じる真実だ。彼女の恐れている「罪」は、社会的・常識的(柴田氏ら訳者や解釈者レベルの)虐めの理由としての「罪」、前記した教会贖「罪」の対象になる恐怖に過ぎない。だから、自ら体験した性愛を、上記のように大胆に彼女は肯定する。では、彼女の「性愛(エロス)」はどの様なものか?柴田氏は記す。

 「グレートヒェンの愛、相手の全てを受け入れる愛は、具体的には官能の喜びにおける自己放棄、すなわちエロスなのです。グレートヒェンを動かしているのはエロスの喜びです。自我と自我を隔てる壁がエロスによって溶ける。自我がエロスによって自らの孤独から救われる。エロスは感覚と魂の出会う場です」(柴田前掲書、184頁)。

 氏は彼女のエロスの対比として、メフィストの「性的欲望」を対置する。彼の欲望は「卑猥な形」で表現される。メフィストと老魔女の対話は以下の如くだ(第一部「ブロッケン山」。

       Mephistopheles                        236行

              Einst hatt’ ich einen wüsten Traum;
              Da sah’ ich einen gespaltnen Baum,
              Der hatt’ ein — — —
              So — es war, gefiel mir’s doch.

      Die Alte(老婆).

              Ich biete meinen besten Gruß
              Dem Ritter mit dem Pferdefuß!
              Halt’ er einen — — bereit,
              Wenn er — — — nicht scheut.

 上記の4つのドイツ語の欠字は、高橋義孝氏によれば、それぞれ「大きな穴」「大きい」「大きな穴」「しっかり栓」としている。当然猥褻な表現として検閲の対象、あるいはゲーテ自身が自己検閲で欠字としたのだろう。柴田氏はどのような表現かを記すことはないが、池内氏訳は「何時だったか、ひどい夢をみた/木の幹が二つに裂けて/大きな穴が開き/大きいけれども気に入った」。年寄り魔女も、これに合わせて「馬の脚のお方は/大歓迎/でっかいこれで良いのなら/穴の方もご自由に」となる。

 柴田教授はメフィストの「卑猥(性欲)」を、グレートヒェンのエロスの対極として糾弾される。しかし、20世紀末の日本では、上記の池内訳が、日本で何の咎も受ない。何故、教授はメフィストにのみ「猥褻」を感じるのか。氏の言う「卑猥」なメフィストのセリフは何であったのかを、具体的に記すべきだろう(上記の文言と考えるが)。検閲のない(筈)の日本なのだから。柴田氏は芥川賞を受賞した文学者の筈だ。高橋も池内も訳している文言を、猥褻だと指摘していながら、具体的に示さない文学者とは、一体何者か?氏の感覚に、むしろ異常を感じてしまう。

  ちなみに、日本文学は「猥褻」を巡って、二つの裁判を経験している。一つは伊藤整の「チャタレイ裁判」(1973年完全版出版)であり、もう一つは渋沢龍彦の「サド裁判」(1969年)だ。柴田氏は文学者として「卑猥」「猥褻」をどう捉えているのだろう。最高裁判決をどう考えられたのか?おそらく何の疑問も、「文学者」として抱かなかったのだろう。伊藤整の「チャタレイ夫人の恋人」裁判(1957年最高裁判決)では、次のように定義されている。「1 わいせつとは徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう。2.芸術作品であっても、それだけでわいせつ性を否定することはできない。3わいせつ物頒布罪で被告人を処罰しても憲法21条に反しない。」

 氏は「メフィストは終始孤立した自我意識であって、性の欲望をも孤立した自我意識の自我の欲望として知るのみであって、それがエロスの場に転化して、そこで自我の殻が崩れ、壊れていくことを知らない」と書く。ほとんど意味不明の文章だが、要するに「性欲の充足」は「孤立した自我の崩壊」を齎さないが、エロスは「孤立した自我」の崩壊を齎す、という意味であろう。好意的には「崩壊」を解放(救済)と解釈する。エロスは「人間と人間の間の壁を溶かし、自我の孤独から人を救済(解放)するのがエロス」であるという。エロスか、単なる性欲かは、性行為が愛を伴っているかによるだろう。小難しい表現を単純化すれば、メフィストの「愛なき性」は、性欲の充足(満足)に過ぎず、グレートヒェンの「愛ある性」はエロス=性愛となり、「違和感を溶解して、相手の自我の全ての欲求を受容するのです」となる。彼女のエロスは「相手(ファウスト)の全ての欲求を受容し」、「官能の喜びにおける自己放棄」だという。ここに感動するか否か、が関わってくる。

 「自我と自我を隔てる壁がエロスによって溶ける。自我がエロスによって自らの孤独から救われる。エロスは感覚と魂の出会う場です」と書く柴田氏は、グレートヒェンのエロスと悪魔メフィストの性欲情とを対比で示そうとする。グレートヒェンの恋人、彼女を捨てたファウストの「性」のありようは問題にしない。氏が「解説」すべきは、ファウストの「性」だ。彼はメフィストと同じ「性欲」からのみ、グレートヒェンに対したのか?それともグレートヒェンのエロスに応じ、彼の「エロス」で対応したのか?「孤立した自我意識を崩壊」させる「人間と人間の間の壁を溶かし、自我の孤独から人を救済(解放)する」エロスで、ファウストは恋人グレートヒェンを抱いたのか?ファウストもエロスとして恋人を愛した。しかし、ファウストのエロスは彼の自我を溶かすことなく、孤独から救いもしなかった。彼のエロスはグレートヒェンのエロスと重なる事はなく、「感覚と魂の出会う場」に共に登場しなかった。彼は彼女を激しく愛していたにも関わらず。

 ファウストのエロスを「解説」せねば、氏の「エロス論」は完結しない。残念な事に、氏は一言もファウストの「エロス」に触れない。ファウストは彼女を愛した。「エロス」として愛した。しかし、彼のエロスはグレートヒェンのエロスと共に「悲劇」の温床となった。ファウストの愛を知るには「森と洞穴」あるいは「夜」の場を読み直す必要がある。「森と洞窟」では次のように語る。

             So tauml’ ich von Begierde zu Genuß,
             Und im Genuß verschmacht’ ich nach Begierde.

             俺の胸は、荒々しき欲望から享楽へとよろめき

             享楽から新たな欲望を喘ぎ求める

 洞窟にやって来た悪魔メフィストは、彼の「高尚」な思いも、「卑猥」な身振りで、所詮はファウストの求めるのは「性行為」に過ぎないと挑発し、グレートヒェンが「恋」に苦しんでいると伝える。ファウストはいきり立ち

             Und nenne nicht das schöne Weib!
             Bring’ die Begier zu ihrem süßen Leib
             Nicht wieder vor die halb verrückten Sinnen!

             あの娘の事は口にするな。

             半ば狂えるこの五官に、二度と

             魅力あるあの体への欲望を起こさせるな。

 さらにファウストは叫ぶ。

            Was ist die Himmelsfreud’ in ihren Armen?
            Laß mich an ihrer Brust erwarmen!
            Fühl’ ich nicht immer ihre Noth?
            Bin ich der Flüchtling nicht? der Unbehaus’te?
            Der Unmensch ohne Zweck und Ruh?
            Der wie ein Wassersturz von Fels zu Felsen braus’te
            Begierig wüthend nach dem Abgrund zu.

             あの胸にいだかれる,天上の歓びよ。

             あの胸にこの身を暖めていようとも――

             あの娘の苦しみを感じぬ時とてない。

             俺は逃げたのだ。宿無しだ。

             目的なく、安らぎ知らぬ人

             滝のように流れ落ち 

             欲望に狂い、落ちに落ちる。俺だ。

 彼はグレートヒェンの「平和な日常」を、神の憎しみを受けて微塵に砕いた、と己を呪う。さらにメフィストを呪う。

             あの娘を滅ぼさずにはおかぬのか。

             悪魔め、どうしても生け贄が必要なのか?

             いっそ、俺の息の根を止めろ。

 メフィストは勝ち誇って応える。

            何が没趣味と言って、絶望している悪魔ほど

            没趣味ってのは、ありませんや。

 上記のセリフは、Urfaustでは「夜」の場で、ファウストがグレートヒェンの部屋に訪れる時に語られている。「第一部」での次の場面は彼女の部屋となり、名詩「糸車の歌」をグレートヒェンは口ずさむ。「場」はついで「夜」に続く。グレートヒェンの部屋に向かうファウストは、教会の常夜灯の光が、闇に呑まれるように、

            俺の心を包むのも、又、闇だ。

 楽しかるべき逢瀬を前にして、恋人への自らの裏切りを予感するファウスト。メフィストは「壁沿いに忍び歩く、発情した猫のよう」上機嫌だ。ここで、メフィストは劇ハムレットで、狂ったオフィーリアが歌う「ヴァレンタインの娘」を、ギターで弾きながらファウストに聞かせる。その後グレートヒェンの兄ヴァレンタインをファウストは刺殺し、恋人を置き去りにし、メフィストと共に、ブロッケン山の「ヴァルプルギスの夜」への逃避行する。この時ファウストは、この夜に首に赤い傷(斬首の傷)を負った少女、グレートヒェンの幻をみて「あの胸はグレートヒェンが俺に捧げた胸だ あの悩ましい身体は、俺が掻き抱いた体だ」と、彼の良心は疼くが、メフィストは単なる幻だと、ファウストをさらなる歓楽と忘却へと誘う。

 ファウストはグレートヒェンを愛していた。「愛の有無」を問題とするなら、彼はグレートヒェンと同じく「エロス」として彼女を愛した。しかし、彼のエロスは「自我と自我を隔てる壁」を溶かしはしない。彼の自我は「エロス」によって、さらなる「孤独」へ落ち込んでしまう。彼と彼女にとって、エロスは「感覚と魂の出会う場」ではなかった。ファウストのセリフから、彼のエロスの実態は明らかだ。彼の苦しみも明らかだ。であれば、柴田氏の「エロス論」は否定される。彼の苦しみは、己の「エロス」=「性愛」が恋人を破壊するのを予知していた為に生じた。エロスは彼を「自我」の内に閉じ込め、グレートヒェンを傷付ける恐れから、より「孤独」を強めていた。彼は愛した、エロスとして恋人を。が、彼の自我はけっして「溶解」せず、「孤独」も救いはしなかった。彼のエロスは「感覚と魂の出会う場」で、グレートヒェンに会う事もなかった。愛してはいても、グレートヒェンが経験した「エロス」とは「異なったエロス」を、ファウスト感じていた、となろう。(ここでも付け加えれば、ファウストの上記苦しみは、フリドリーケに対してゲーテが感じていた苦しみであろう)。

  「エロス」などの言葉を弄ぶべきではない。男と女の関係を「性欲」と「エロス」で二元的に考えるべきではない。男と女の愛には、それぞれの「性欲」があり、それぞれの「エロス」が存在する。「グレートヘンの相手の全てを受け入れる愛は、具体的には官能の喜びにおける自己放棄なのです」などの言辞は用いるべきでない。氏の「エロス論」は、実際は男にとって「都合」の良い、単なる男の「願望」、男性目線からの「エロス論」でしかない。したがって、この東大独文科教授で芥川賞受賞暦のある人物は、「牢屋」内でのファウストとグレートヒェンの会話を、次のようにも書く。

 男は理性で先を考え、女は感情で瞬間を生きている。男の理性の言葉には、相手を助けようという責任感と必死さが溢れ、女の生きる瞬間の内には,死さえ恐れぬ陶酔の空間が広がっている(193頁)                    

 この文章に女性読者は何を感じるだろう。男=「理性で先を考え」、女=「感情で瞬間を生きる」。男には「責任感」、女には「陶酔感」。なんと古い男女観であることか。

 彼女の悲劇は、愛した男が目の前から立ち去った時、身内二人(母親と兄)を、自らの「エロス」の為に失い、その悲しみの中で、胎内に生命の動きを感じていた事にある。男と女の「愛あるエロス」の差異が、彼女に「嬰児殺しの悲劇」を齎した。自我と自我の対立(違和感)の溶解により、「相手の全てを受容」する「女性の愛」は、しばしば相手(ファウスト。あるいはより以上一般的に言うなら「男性」)にとって、都合の良い「愛(エロス)」に転化する。

 要するに柴田氏の「エロス論」なるものは、極めていい加減な代物に過ぎぬ、と断ずる事ができる。それは氏の「ゲーテの『ファウスト』を読む」全ての議論について言えることであり、単に「エロス論」に止まるものではない。ただし、氏が従来のグレートヘンの「愛」を一歩踏み込んでリアリスティックな「(性)愛」として捉えたことは認めねばならない。

  歴史はエロスの名による「受難者」を、極めて多く生み出してきた。その犠牲者の多くは男性でなく女性、しかも貧しい若い女性たち、まさにグレートヒェン「達」であったとも記すべきだ。そのような「事実」からすれば、女性は「相手の全てを受容し、自己放棄」などと、柴田氏の如くエロスを賛美してはならない。むしろ、危険なのだと知るべきだ。危険と知っても、人は人を愛し、そして傷付け、傷付けられ苦しむ。そうゲーテは主張している。

 柴田氏は虚構の少女グレートヒェンと、実在のゲーテの恋人フリードリーケとの重なりを「エロス」で理解する。実在のフリードリーケは「エロスの喜びを通して、若いゲーテに惜しみなくエロスの喜びを与えた」として。確かにフリードリーケはエロスを惜しみなくゲーテに与えたのだろう。そして彼女は「捨てられ」傷つけられた。彼もエロスを持って彼女を愛した。だが彼ゲーテは彼女を「捨てた」。「苦しんだ」、と後年に自伝「詩と真実」第二部、第三部で語っているが。

 

  

 

 



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