老い烏

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17 補論2 「姦淫を犯した女」

2014-11-15 10:36:31 | 「ファウスト」を読む

        姦淫を犯した女

 イエスの有名な逸話の一つに、「姦淫」を犯した女の物語がある(新約聖書「ヨハネによる福音書」8章3~11)。律法学者やファリサイ人(びと)らは、「姦淫(姦通)の場」で捉えられた女を連れて来て、イエスに問うた。「この女は姦淫の場で捕えられたのです。モーゼは律法の中で女を石打にするように命じています。貴方は何と言われますか?」。勿論、この「モーゼの律法」は所謂「モーゼの十戒」である。モーゼの十戒を念の為に示せば次の様になる。

  1. 主が唯一の神である
  2. 偶像を作ってはならない(偶像崇拝の禁止)
  3. 神の名を徒らに取り上げてはならない
  4.  安息日を守る
  5. を敬う
  6.  殺人をしてはいけない(汝、殺す無かれ) 
  7.  姦淫をしてはいけない
  8.  盗んではいけない
  9.  偽証してはいけない(を言ってはならない)
  10. / 隣家をむさぼってはいけない

  1から4までは人間(ユダヤ人)と神の契約であり、第五から十までは人間と人間の規定(倫理規定)となるが、これらを破る時、ユダヤの律法から「石打(処刑)」が(神)により許可される。「姦淫」は第七戒となる。もし「モーゼの律法を守れ」とイエスが答えれば、彼女は石打の刑に処させる。「石打の刑」は処刑を意味する。これまで一貫して抑圧されていた者の立場に立ってきたイエスは、彼の「教え」からして民衆に「石打(女を殺せ)」を「命」ずることは出来ない。さらに次の事も考えねばならぬ。当時、ローマ帝国属国(紀元前64年以後)だったユダヤ王国での死刑判断は、帝国総督の権限にあった(イエスの磔刑は総督ピラトの命によって行われ、ユダヤ人の「最高法院判決」によって行われたのではない。最高法院の決定を最終的にピラトが是認して実行された)。帝国にとって「モーゼの律法」は、ユダヤ人のみを縛る「私法」であり、「石打による処刑」という「モーゼの律法」執行は、公的なローマ帝国の秩序(法)を破る事になる(「私法が公法に優先する」)。私法「モーゼの律法」が実行されれば、「石打(処刑)」を命じたイエスは、ローマ帝国支配への挑戦者となる。その意味においても、彼は「石打」を命じることは出来ない。

  他方「許せ」と判断すれば、ユダヤ人の最高法規「モーゼの律法」を破ることになる。「モーゼの律法」を破れと命じたなら、当時ユダヤ人中に生じていた彼の「ラビ(ユダヤ教の師)」としての権威は攻撃の対象となり、彼は「反律法者」として糾弾され、最高法院は彼を有罪にする可能性が高くなる。彼のユダヤでの宗教的活動は頓挫する。この前に彼は多くの「奇跡」を行って、「救済」の希望をユダヤ社会の底辺の人々に与えてきた。それは煩瑣なファリサイ的「律法主義」から人々を解放してきた「軌跡」でもあった。彼の運動は律法主義者には苦々しい事であっても、律法の基本(十戒)を犯す物ではなかった。しかし、「姦淫を犯した女を許す」のは「モーゼの十戒」の第7条そのものを否定することになる。この意味、「モーゼの十戒」を否定するのか?において、律法学者とファリサイ人らの問いはイエスを陥れようとする「罠」であった。

  イエスはどうしたか?イエスは身を屈めて指で地面を画いていた。執拗な彼らの問いに、イエスが答える。「あなた方の中で、罪の無い者が、最初に石を投げなさい。彼らはそれを聞くと、年長者から始めて一人一人出て行き、イエス一人残された。女はそのままそこにいた。イエスは女に聞く。あの人達はどこにいますか?貴女を罪に定める人はいなかったのですか? 女は答える。誰もいません。イエスは言う。私も貴女を罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません」。

  有名な感動的な逸話、イエス伝説の「姦淫を犯した女」である。ここで語られるのはイエスの「知恵」だ。ヘブライ語では、男性が既婚女性を誘って行う行為が「ナーアフ」、既婚女性が男性を誘惑する行為を「ザーナー」と区別されるという(“ウキペディア”参照)。ただし新約ヨハネ福音書はギリシャ語が元となり、この逸話は4世紀にヨハネ伝に載せられた。邦訳(聖書刊行会)では、彼女の犯した「姦淫」の具体的な事実は不明だが、「この女は姦淫の場で捕まえられたのです」との「証言」からすれば、彼女の犯したとされる「姦淫」は「姦通」であったろう。「律法」によれば、姦通を犯した「男女」は死刑と定められているという(レビ記および申命記。いずれも「モーゼ五書」に含まれる)。ここで疑問が湧く。もし女が「その場で捕まえられた」としても、相手の男は何故「捕まらなかった」のか?男は逃げおせ、女のみ引き出され罪を問われた、とすれば、女は本当に姦淫(通)を「実際」に犯したのか?の疑問が湧く。女は「姦通」を実際には犯していなかったが、「偽りの証言」の為に彼の前に立たされた可能性もある。「女のみ引き出され、男が罪を問われない」状態を見て、イエスは「直感的」にファリサイ人らの「偽り」と「罠」を知った。だから女の「無罪」を確信して、「私も罪に定めない(許す)」と言った可能性がある。そして、念の為に「今からけして罪を犯すな」と諭した、のかももしれない。それとも、実際に彼女は「罪(姦通)」を犯したが、その罪は許すが、「もう(繰り返)してはいけませんよ」と言ったのか?行為としての「姦通」を犯した彼女を「罪に定めない(許す)」のは、姦通を認めることになる。とすれば、このイエスの判断は「正しい」かったのか?彼女の犯した「罪」の真実は実際には不明であり、イエスは何を許したのかも眞訳聖書(ヨハネ伝)からは不明だ。

  更なる問題は、「あなた方の中で、罪の無い者が、最初に石を投げなさい」というイエスの回答だ。イエスの言う「罪」とは何を指しているのか?一つの解釈は「我々は全て罪人(広義の、宗教的)」の意味で「罪」とする考えだ。しかし「律法学者やファリサイ人」が、イエスのように「罪」を考えていたとは思えない。何故なら、こうしたイエスの「罪人観」を「律法学者やファリサイ人」が持っていた筈がないからだ。持っていれば「姦淫を犯した女」をイエスの前に引き出し「罠」を仕掛けることはない。彼らは「(彼らの考える)律法に反した(罪人)」の答の「如何」で、イエスを殺そうとしていたのだ。イエスを殺そうとする彼らが信じているのは、「律法」に反する事が処刑に当たる「罪」である、との教えだ。「律法」を守って暮らしている彼らは、自らを「罪なき者」と考えていた筈だ。だから「姦淫を犯した」として女をイエスの前に引き出し、彼に「モーゼの律法」に反した女への判断を求めた。彼らにとって「罪」とは、所謂モーゼ十戒中の「汝、姦淫するなかれ」の「姦淫(通)の罪」のみを指している。分り易く言えば、「律法」からは、イエスの言葉「罪の無い者」に律法学者やファリサイ人は分類される。彼らは自らを「罪なき者=白」と確信していた筈だ。

  その場にいた老若男女、全ての人々が女に石を投げなかった。聴衆は自らを「罪あり」と考えていたのだろうか?彼らは律法に定める「姦淫の罪」を犯していた為、女に石を投げなかったのか?それはありえないだろう。彼らの中に、密かに律法で禁じる「姦淫」を犯した「罪びと」がいたかもしれない。しかし圧倒的多数の聴衆は「律法学者やファリサイ人」と同じく「姦淫は犯したことがなく」、その意味で「罪がない者」と自分を考えていただろう。しかし、彼らは石を投げなかった。何故か?クリスチャンである荒井は次のように書く(前掲書、304p)。「人間は原初的に『罪人』なのだ、という限界を露にしている、と理解すべきであろう」。イエスに問いを突きつけた者の中に、この意味で「罪を犯したことのない者」は一人もいなかった。だから、彼らは「立ち去って」「誰も女を罪に定めなかった」。イエスの姦淫についての言葉(「山上の垂訓」マタイ伝5-28)は、「誰でも情欲をいだいてを見る者は、既に心の中で姦淫を犯したのです」となるだ。彼の立場は律法遵守主義ではない。イエスは「欲情を抱いてを見る者は、既に姦淫を犯している」と厳しい倫理的立場を明らかにしている。「姦淫」は男女間の「行為」で明らかになるのではなく、女見る時の欲情を抱く男の「心」で定義される。したがってイエスの定めは、極めて「厳しい」倫理規定と判断されている。イエスは「を見るもの」と言っている。では「女が欲情を抱いて男を見る」ケースを、イエスは想定していただろうか?イエスは、女は「欲情」を持たない存在と考えていたのか?筆者に言わせるなら、イエスは「欲情を抱いて『異性』を見る者は全て」と言うべきであったろう。男目線の福音書記者マタイが、口伝されたイエスの言葉を歪曲した、と考えよう。イエスは男も女も異性に「欲情」を持つ人間は、姦淫をなした「罪ある存在」と考えていたと理解する。女性もまた「欲情をもって男」を見て、心に「姦淫」を犯す存在であるだろうからだ。

 イエスの用いた倫理的意味で、ファリサイ人達が「姦淫」した女を引っ張って来た訳では勿論ない。又、その場にいた聴衆全てが、山上の垂訓での「イエスの言葉」を知っていたとは考えられない。ならば、彼らの圧倒的多数は、イエスの言葉「罪の無い者」を、「律法学者やファリサイ人」の言う意味で考えていただろう。実生活で(律法でいう)「姦淫」を犯してはいなかった彼らは、律法では「罪なきもの」に相当する。ならばイエスの言「石を投げる」資格を有している、と彼らは自らを考えたろう。しかし彼らは石を投げなかった。荒井の「解釈」は「宗教的には正しい」かもしれないが、現実理解として、あるいは「人間ドラマ=人間の真実」の解釈とては誤りだ。「律法学者やファリサイ人」を始め、殆どの「大衆」はイエス(荒井)の言うようには、倫理的・「宗教的」に「罪」を理解してはいなかった筈だから。では何故、律法上では「罪なき」彼らは、女に石を投げなかったのか?次のように考える。

  「(律法からは)姦淫を犯していない(罪が無い)」からといって、石を投じて女が死亡すれば、彼もまたイエスと同様に「ローマ帝国秩序」を破る者となり、処罰の対象となる可能性がある。イエスは「巧妙」に命じている。「罪ない者が、最初に石を投げなさい」と。イエスを罠にかけようとした「律法学者とファリサイ人」は、彼らの実生活で律法の「姦通」を犯した可能性は少ない。彼らは実人生で「姦通の罪」を犯したことの無い、所謂「善良な市民」であったと言って良い。さらに言えば、その「律法」で硬直した彼らの姿勢こそ、イエスの批判、攻撃の対象でもあった。イエスの立場は、律法で言う「姦通」を犯す罪人も、「人」としての弱さと悲しみを持っていた筈だ、であろう。彼ら「姦通を犯した罪人」ですらも、神の前で「許される」べき人々である、との考えだ。この意味でイエスは女に「私も貴女を罪に定めない」と言った、と理解する。

  ローマ帝国から見れば、「善良な市民」であるファリサイ人であれ、もしイエスの「命」に従って、「最初」に女に石を投げつければ、彼はイエスの言(教義)に従う者、イエスの「徒」とされるだろう。彼の言に従った行為、「自分は『罪なき者』だから女を『罪ある者』として石打の刑に処す」は、ローマの帝国秩序を破壊する行為として、ローマ総督から「犯罪」とされる可能性がある。その場にいた「律法学者やファリサイ人」そして聴衆の誰も、己が実生活で姦通した「罪にある」とは思わなかった。従って「石を投げる」資格があると思っていたが、ローマ帝国権力を恐れて、自らの責任として「モーゼの律法」を守ろうとしなかった、に過ぎないだろう。この問題をイエスに問うた「律法学者やファリサイ人」が、石を投じなかったのは、イエスの答えに、自分たちが陥ったジレンマ(「ユダヤ人の律法」と「ローマ帝国統治の現実」の矛盾と相克)を理解して、「律法の命ずる行動」を回避した為と考えられる。この意味で「姦淫を犯した女」の逸話は、「現実的人間」の物語、「イエスの知恵物語」となる。

  さらに「無信仰者」の我々に突きつけられる問題がある。イエスが危険な罠の内にいたことは間違いない。イエスの「知恵」は、この危険な罠からイエスと「姦通の女」を救い、しかも宗教的に多くの人を感動させもした。しかし、もし「聴衆」の中の誰か一人でも、愚かにも、己は律法で言う「姦淫の罪」、あるいは他の「罪」を犯した事がないとして、「最初」に女に石を投じたとすれば、どう事態は展開しただろう。おそらく、その場に居合わせた多くの他の「罪なき」聴衆も、付和雷同して石を投げつけ女を死に至らしめただろう。「最初」に石を投げた「愚か者」と共に、イエスは「民衆扇動」の責任者として、ローマ総督(ポンペイウス・ピラト)によって死刑に処されただろう。

  非宗教者として筆者には、この逸話は「感動する聖書物語」ではない。イエスの「知恵物語」であるが、同時に「罪の無い」善良な者、罪なき「扇動者」と不和雷同する罪無き「民衆」の危険性を示している物語と考える。イエスと女を取り囲み、イエスの「命」を聞いて、「年長者から始めて一人一人出て行った」民衆の一人として「己」を感じるよりも、誰かが石を投げ始めた時、それを見過ごして、そっとその場を立ち去る自分に、より可能性を感じてしまう。それは丁度、イエスが処刑される朝、イエスの予言どおり、鶏が二度啼く前に、3度イエスとの関係を問いただされ、3度とも「否定」した聖ペトロに通じる「神ならぬ凡人」だからだろう。

  もっと一般的に言うなら、現実には、人は「出てゆく人」となるよりも、「石を投じる人」になる可能性の方が高い。