小説の世界には存在しないものがある。
それは僕の存在、と言うと語弊がある。
たとえば超有名アイドル、具体的に言えば元乃木坂46の齋藤飛鳥を主役にした小説には、僕の存在は無い。
「世界のどこかにはいる」、という事実すら消え失せる。それがフィクションだ。
現実の世界では「この広い世界には色んな人がいる」という前提を誰もが思い出すが、小説、フィクションの世界においては「その世界」が全てだ。
そんなことを考えながら、読んでいた本を閉じる。
僕は今、喫茶店で物思いにふけていた。
名前とは何か…
この世界における、僕を指す記号…というとあまりにシステム的だ。ただ親から貰った名前を大事にしなさい、と言われても、僕にとっては暴論だ。
大事にできるかどうかは本人次第だ。
押し付けられるものじゃない。
僕はトートバッグに本を仕舞い、喫茶店から出た。
渋谷はいつも僕を不思議な気分にさせる。
宮益坂を下りながら、思考を巡らせる。
自分が生きる意味は何か…
この世界が小説なら、僕は何をする?
自分の声が脳内に響いて、誰かの声が答えた。
「分からない」
それも僕の声だった。
自分のストーリーを描こうとして、いつもどこかで止まってしまう。
坂を降りたところにある交差点。
赤信号で止まると、より思考が深くなる。
このまま自分の存在ごと、どこかに沈んで消えてしまえばいい。
僕の世界はとても小さい。
この世界の外にまた新しい世界があると考えても、僕の心はそれを拒む。
自ら手放してしまった世界を思いながら、何となく自分の右の手のひらを見つめる。
罪を犯した人間のものとして綺麗すぎるその手を。
視界の隅で、周りの人間が横断歩道へ歩き出そうと動き始める。
僕は動けなかった。
信号はまだ青く光らない。