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2020年10月沖縄の旅(その17・沖縄戦跡の資料館)


さてひめゆりの塔前に着いて食事を済ませました。
ここで11時32分。11時前に着いたはずなのに、思ったよりも時間を使ってしまったような・・次の目的地の平和祈念公園に向かうバスは12時24分発なのでここでの残り時間は約55分。それにしても食べ過ぎて体が重いです。



入口に献花の花を売る売店があるものの閉店中。やっぱり新型コロナで来訪者が減ってるのでしょうね。



正面には色々な碑が建っています。右側の石碑のひとつに「ひめゆりの塔」と文字が入っています。
手前に見える石積みは当時の壕の出入り口。沖縄戦当時、陸軍病院第三外科として使われた壕の場所が「ひめゆりの塔」と資料館になっています。



入館料310円を払って併設の資料館入館。現代的にクレジットカードや電子マネー対応でした。館内は残念ながら撮影禁止
館内は複数の展示室にわかれ、まず前段としてひめゆり学徒隊の母体となる沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校についての紹介。
当時はエリート校だったようで戦争の時代の前は当時は珍しい英語教育があり生徒のあこがれの的だったが、英語が敵性言語とされたこともあり中止。
皇民化教育、軍国教育の中で「お国の為に身を捧げ死ぬことも厭わない」ような意識を持つように。
昭和19年頃からは本来の授業に代わり包帯の巻き方など応急処置や皮下注射の仕方など看護師としての基礎研修や実習が多くなる。
そして昭和20年3月23日に南風原町の陸軍病院に動員。陸軍病院は外科の他に内科や感染症科もあったもののすべて第1~第3外科に再編されたとのこと。
動員された生徒たちは赤十字旗がたなびく後方の病院での活動を想像していたのが実際は戦場の中の野戦病院だった。
まともな設備もない壕の中の野戦病院は運び込まれた負傷兵、看護にあたる学徒生、医師ともども悲惨な状況。
展示室には当時の壕の野戦病院の内部が実物大のモッグアップで再現されているコーナーもあり、物資や食料などの極度の不足も相まって病院とはいいがたい状況、実態は「負傷兵が死ぬまで待機する場所」であったことがありありと想像できます

日本軍は本土決戦を遅らせる時間稼ぎの為に司令部のある首里での決戦を避け本島南部へ撤退しつつ消耗戦を展開。戦局が絶望的となった6月18日に学徒隊には解散命令が出るも、既に周囲は無数の砲弾が撃ち込まれる戦場の中、住民とともに行き場もなく右往左往することとなり、犠牲者の大半は解散命令後の数日に集中しているそう。

ひめゆり学徒隊は有名ですが、それ以外にも各中等学校ごとに男子生徒も含め多くの学徒隊が組織され動員され結果犠牲に。本島の特に糸満周辺には特に多数の慰霊碑などが点在しているようです。

展示室の中に生存者の当時の体験談を読めるコーナーがあり、いくつか読んだのですが、非常にリアルで「即死といっても一瞬で身体の全てが機能停止するわけではない」ということが、ありありと想像できるような内容でした。



資料館を見学していたら意外に時間の経過が早くて予定のバスの時間近くに。



バスの時間までの10分ぐらいの間にバス停横の土産物屋をのぞいてみることに。有名な観光地だけあってバス通り沿いに露払いの如く土産物屋が数軒。



このお店は修学旅行がお得意様のようで、オーダーTシャツのプリント代無料とか、自分でオーダーした図柄のTシャツなら土産にならんじゃん。一瞬思いますが高校生はこういうの好きそうだな・・と。
箱入りの菓子複数とショッピングバックをセットにした割引のパックなども売られていて、色々工夫されてます。
店員の人にセールスされて心苦しい状態ですがまぁ自分が店員ならそりゃお客さんに声をかけるわなと・・。それで一つでも売れればラッキーだし。
ふと奥を見ると団体向けの大人数の収容できる使われていない食堂が。修学旅行が殆どなく観光客も大幅に減っている状況を色々と想像しますね。



さて次の平和祈念公園に向かいバスに乗車。
この路線は糸満バスターミナルから南城市の玉泉洞(おきなわワールド)駐車場行の82番。乗客は既に乗ってるおばあちゃん1人と私の計2人。



車両自体は古いものの、LCDの運賃表に案内モニターと補助金でも出てるのか去年まで訪日観光客が沢山いたからか意外に設備が充実してますね。

さて次の目的地は平和祈念公園ですが、ひめゆりの塔からの運賃を見ていたらずっと190円だったのが下車地の平和祈念堂入口の一つ手前、健児の塔入口を出ると大した距離でもないのに一気に上がり300円に。この上がり幅、観光客の足元を見ているかのようになんともえぐい。もう伊勢神宮の外宮前から内宮前のバスを思い出すようですね。
これは健児の塔入口で降りて110円節約すればよかった・・というのは本当にそうで、後で分かったのですが「健児の塔」は平和祈念公園の中にある学徒動員された沖縄師範学校生(男子生徒)の慰霊碑。
平和祈念公園は横に長い広大な敷地なので、健児の塔入口で降りて平和祈念公園内を散策しながら後述する神奈川の塔や資料館や行けばよかった。



ひめゆりの塔から10分弱さて予定通り平和祈念堂入口で下車。
入口から見るだけで公園の広さが分かるぐらい。ここも糸満市内なので先ほど乗った糸満市のデマンドバス(いとちゃんmini)も発着可能。いとちゃんバス停は少し中に入った管理事務所の付近にありました。

小雨が降ってきたような・・あまり降らないで欲しい



次に乗るバスは14時25分発の玉泉洞行のバス。これを逃すと次の与那原町の鉄道資料館に行けなくなります。持ち時間は約1時間50分
ひめゆりの塔と平和祈念公園は3km程度なので、この間の移動は糸満市のデマンドバスかタクシーを使う手も・・とある程度余裕を持った行程に出来たはず??実際にはひめゆりの塔(平和祈念公園も)にはタクシーが待機していなかったので、呼ぶとなると時間かかりそう



まずは沖縄県平和祈念資料館を見学
放送大学の学生証を提示して大学生料金の150円にしてくれました。



こちらも残念ながら館内撮影禁止
まず沖縄戦の前段として、明治の琉球処分以降の皇民化教育などが紹介。ここでの展示も先ほどの糸満市史と同じく「日本人のしての自覚が足りない沖縄人」「方言の殲滅」「珍妙珍奇な沖縄人の名字の本土風の名字への改姓」など今風に言えば「パワーワード」的な内容が並びます。
また先祖崇拝を信仰としていた沖縄では日本風の神社はなかったものの、国家神道を根付かせるために各地に神社を設立したことなど。戦前の時代首里城正殿も沖縄神社という神社として利用されていたとことも天皇や国家神道による支配体制というものを感じます。

(創姓改名といえば日本統治時代の朝鮮半島におけるものが有名ですが「韓国朝鮮の歴史(放送大学)」によれば、創姓改名は夫婦・子供等家族で同姓を名乗る日本の家制度に組み込みことが意義としています。沖縄でもそのような意図があったのか気になるところです)

そして太平洋戦争開戦からの沖縄戦。ひめゆりの塔の資料館展示で見たように終始豊富な物量の米軍が有利の中、本土決戦を遅らせるための時間稼ぎとしてゲリラ戦状態となり住民を巻き込んだ悲惨な地上戦に。
沖縄戦では「日本軍が住民を盾にした」と言われますが、現実は本土を守る時間稼ぎで日本が沖縄を盾にした。壮絶な地上戦の中では兵士も住民もないというのも実際なのかなと。

北部・中部など早々に米軍の占領下となった地域では、住民は収容所に収容されるも、学校教育も行われ砲弾が飛び交い爆音が鳴り響く中で子供たちへの授業が行われたシーンなどが当時の映像で紹介されます。

沖縄では激しい地上戦に巻き込まれたことで大くの文化財が失われた一方で、米軍は終結宣言前の1945年8月には米軍人・軍属に対して琉球文化の高さを知らしめる目的で現在のうるま市に博物館を設立(放送大学「博物館展示論」による)した件にしても沖縄戦と並行して戦後の沖縄統治を見据えていた米国と時間稼ぎの消耗戦を続けていた日本側を対比させられます。

ここでも生存者の当時の体験談が読めるコーナーが設けられて
「米軍に捕まれば殺される。ならば自殺を・・と思うも、どうせ死ぬにしても一分一秒でも長く生きたい。米軍の捕虜になれば殺される前に飯でも食わしてくれるかもしれん」と投降して捕虜になった話。
「行き場なく彷徨っているところを投下ビラや船からの放送で具志頭に行けという指示があり、いちかばちか彷徨いつつ具志頭に行ったら米軍に収容されて助かった」とか・・
「兵士が住民に『自分はお前たち沖縄を守るために本土から連れてこられたんだ』と苛立った」話は、本土を守るために沖縄を盾にしたという実態はともかく、沖縄に連れてこられた兵士の立場を思うとまた壮絶なものです。

先ほどのひめゆりの塔の体験談もそうですが、この同じ内容を家で本やインターネットで読むのではなく、沖縄戦の激戦地のこの場所で読むからこそ、生々しく感じくるものが大きいのかなと思います。
知人で霊感が強いので(霊が怖いから)沖縄には行きたくないという人がいますが、それもわかるような気がします。

展示はここで終わりかと思えば驚いたのはこの先。
常設展の3分の1ぐらい(体感では半分)を戦後の米軍占領下から返還前後の展示に割いていること。軍政下の商店が実物大で再現されていたり「国際通り」の
名前の由来になった「アニーパイル国際劇場」の入り口部分が等身大モッグアップで再現されていたのは驚きます。
米軍は占領した沖縄の統治に当たり「琉球列島米国民政府」こと琉球政府を設立。沖縄政府ではなく琉球政府としたことにかっての琉球王府への敬意とそれ以上に沖縄ではなく琉球とした方が住民が付いてくるという計算が見え隠れしているようにも思います。
戦後の時代、基地の円滑な運営には現地住民の理解協力が重要であるという趣旨のもと大型火力発電所の建設などインフラ整備が行われる一方で、米兵による住民への加害事件、事故などは裁かれることなく無罪(ノットギルディ)と治外法権どころか何をやっても許されるといわんばかりの状態であり反基地運動も激化。

そして1972年(昭和47年)の沖縄返還。通貨経済が米ドルから本土の日本円に組み入れられることでの経済格差による問題。そして有名な730と呼ばれる1978年(昭和53年)の右側通行から左側通行への切り替え。切り替え当初は事故が多発したことなど・・

明治の琉球処分以降からの琉球(沖縄)の日本化の流れ、そして皇民化教育の果ての沖縄戦。返還後の今に続く経済問題や基地問題、そういったものを見るに「沖縄が返還されてよかったね」と単純に喜べるものなのか。一方で米国の人種差別問題、トランプ政権の話ではないですが、米国は日本(沖縄)を必ずしも本心から対等な人権を有する相手とみていたのかどうか、返還されなかったらアメリカの植民地だったのかどうかと色々と考えさせられるものです。



資料館の前面は広大な海。この平和祈念資料館、館内はかなり広くて一通り見たところで予定のバスまで残り30分強ぐらい。公園内が広くて思った以上に移動に時間もかかります。
平和祈念公園を1時間で切上げれば早めに玉泉洞に向かう別プランもあったのですがとてもとても・・この公園内でもう一か所「神奈川の塔」にも行きたいので忙しくなってきました。



資料館の前庭辺りに広がるのがテレビなどでもよく見る「平和の礎」
沖縄戦での犠牲者の氏名を県内・県外・海外出身問わず刻銘していて、今でも毎年新たに判明した分の追加刻銘、重複分や生存が判明した分の消去などを行っているよう。
一家全滅などで詳細が不明になっている分も聞き取り調査などで「〇〇家の長女」のようにわかる範囲で刻銘されいると聞きますが、実際に刻銘を見ているとわかります。



慰霊碑ではないので線香や供物を備えないでください。という表示も。
こういったのも実物を見るとテレビで見るのと感じるものが違いますね。



小高い丘に上がり千葉県など各県ごとの慰霊碑が集まっているエリアに。
この辺りは公園の中でも摩文仁の丘と呼ばれているエリアで、前面の海を米軍艦船が埋め尽くし丘には米軍の戦車隊が並ぶ中で最後の組織的戦闘が行われ多数が犠牲になった場所だそう。



目的の神奈川の塔を発見!
沖縄戦をはじめ南方各地域での神奈川県関係者の犠牲者約4万人を追悼する為に昭和40年11月に建立。郷土の材料を使うということで真鶴産の石を使用しているそうです。



私が訪問した時は資料館内以外は殆ど人がいなくて、時折園内の整備をするスタッフを見かける程度。神奈川の塔の敷地の片隅の休憩用の東屋では整備スタッフが2人休んでいました。

ここで残り時間約18分。googlemapで方向を確認して小走りでバス停に向かいます。いい腹ごなしなのか、身体が重いから時間がかかるのかよくわかりません。
googlemapは結構役立ちますが園内の園路が表示されないので、道があって通れるのかどうか今一つ定かではない。



園内遊覧車が待機しているのも見たものの・・タイミング合えば乗ってしまえば早いと思うのですが、いつ来るのかわからないとなかなか・・。

駐車場の端からショートカット出来て、10分弱前ぐらいにバス停に到着。急ぐと意外に時間が余る(๑´ㅂ`๑)
最初、1時間50分もあれば余裕と思っていたのが時間が足りないぐらいでした。本当はこの周辺の戦跡なども含めてじっくり回れればいいのかもですが、次の予定があるので仕方がないですね。

食堂や土産物屋が並ぶひめゆりの塔に対してこちらは土産物屋の類は発見できず。資料館の建物のミュージアムショップがあった程度。園内にはレストランも軽食スタンドなどもあるようですが。



沖縄でもバス運転手が不足しているようで・・。
沖縄に移住したい人は多いものの仕事がなく断念することが多いそう。大型2種免許を持ってれば意外になんとかなる??のでしょうか?


2020/11/20 15:28(JST)
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