日本人のブルース。
第1部。
「憂歌団」、「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」――。日本の有名なブルースバンドやミュージシャンは関西出身者が目立つ。ブルースを積極的に取り上げるライブハウスや音楽フェスも関西に多い。米国の黒人音楽がこの地に根付いたのは何故だろうか。音楽関係者に尋ねて廻ると「京都の学生文化」「主流派への対抗心」と言った背景が見えて来る。
大阪府茨木市の音楽バー「時代屋」。憂歌団のボーカル、木村充揮さん(64)のソロライブは、古くからのファンらで身動き出来ない程の盛況だった。
ザ・エン歌
曲順はその場の雰囲気で決まる。終盤になると、女性客が「天王寺、聞きたい!」と叫んだ。「そんな簡単には聞かされへんで……。」。照れながらも木村さんが歌い始めた。「♪大阪 南の玄関口は 通天閣がそびえ立つ……。」
1975年のデビュー以来、生活に根差した言葉にこだわる。レコード会社などが集中する東京へ進出するミュージシャンも多い中で、ずっと大阪を拠点にしてきた。「東京は流行に敏感すぎるから……。」(木村さん)
天王寺/木村充輝LIVE in ジョアンジョアン【豊田市】
「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」のメンバーである歌手・ギタリストの有山じゅんじさん(65)も長年、関西を拠点にして来た。「若い時は『東京はカッコ付けやがって』という対抗意識があった。今になって見ると間違いだったけど……。」と苦笑いする。
「あ丶ブルース」ダウン・タウン・ブギウギ・バンド from album "あゝブルース Vol.2" 1976年
日本で本格的なブルースが知られる様に成ったのは1970年頃。フォークやロックのファンが、海外ミュージシャンに影響を与えた黒人音楽に注目した。さらに「ブルースの王様」と呼ばれたB・B・キングの初来日(71年)などで、熱が一気に広がった。
レコードを聴くのが中心だった東京のファンに比べ、大学の音楽サークルが活発だった京都では自ら演奏しようとする若者が相次いだ。最盛期は100以上のブルースバンドがしのぎをけずって居たと言い、「ウエスト・ロード・ブルース・バンド」がプロデビューするなどブルースの本場として京都が全国から注目される様に成った。
老舗ライブハウス「拾得(じっとく)」(京都市上京区)が開店した73年はまさにそんな頃。オーナーの寺田国敏さん(69)は「毎日の様にブルースバンドが出演して居た。当時の若者にとって一番新しい音楽だった」と振り返る。「学園紛争が下火となり、心にぽっかり穴が開いた様に成って居た反体制志向の若者に火を付けた」
「哀愁のブルー・ノート」ダウン・タウン・ブギウギ・バンド from album "あゝブルース Vol.2" 1976年
京都出身のギタリスト、田中晴之さん(63)もそんな若者の一人だった。拾得でのウエスト・ロードの演奏にショックを受け「このサウンドをやると心に決めた」と言う。
しかし、ブームを支えていた大学生らは卒業、就職し各地に散って行く。フュージョンなど新たなジャンルに押され「ブルース受難の時代が続いた」(田中さん)。演奏の機会は減ったが、田中さんは市バスの運転手などをしながら演奏活動を続けた。
「風向きが変わったのは90年代後半から」(田中さん)。60~70年代の音楽の再評価が進んだほか、仕事や子育てが一段落して「団塊の世代」のファンが戻って来たと言う。
クミコ 『身も心も』 2011/01/19
最近のライブは年配客が目立つが、若い世代に引き継ごうと言う動きも出て来た。2016年に大阪市浪速区で「なにわブルースフェスティバル」がスタート。年1回の開催で、ベテランから若手まで20組以上の出演者が2日に渡って登場する。
主催するNPO法人のメンバーで、ライブハウスの運営会社を経営する津田清人さん(61)は「今のうちに伝えなければと言う危機感がある」と打ち明ける。
関西ブルースを支えてきた関係者は多くが60代以上。近年、有名ミュージシャンの訃報も相次いだ。「あらゆるポップスの源流にあるのがブルース。廃れてしまえば日本の音楽全体が薄っぺらく成って仕舞う」(津田さん)
反体制の若者文化から、世代を超えた音楽に――。時代と共に位置づけは変化しても、関西ブルースの熱い魂は変わらない。
「あいつの好きそなブルース」ダウン・タウン・ブギウギ・バンド from album "あゝブルース Vol.1" 1976年
ブルースは音楽の基礎です。しかし最近は、ロックでもメロディーが消えて仕舞って居る。世界的にブルースは聴かれなくなって居ます。今回はそんな全ての音楽に取って必要なブルースのお話と日本のブルースの歴史を書いて見ました。音楽を聞いて居て、「これって渋い。」「これって、何てカッコイイの」と痺れる曲があります。そんな曲は大抵がブルースの影響を受けて居る曲なのですよ。ブルースを感じさせる曲は数多くあります。ブルースとは黒人の音楽ですが、今や世界中の音楽の中に紛れ込んで居ます。極端な話、ヒップホップやら、ラップを外して、J・POPなどの曲でもブルースの影響を受けて居る曲はあります。此処ではそんなブルースを、3部に分けて紹介します。日本にブルースを普及させたブルースバンドの紹介です。曲は日本人が作ったブルースです。
ーーkiyasumeーー
またもや、Bluesです・・・
題2部。
日本の誇るブルースバンドと云えば「ウエストロード・ブルース」バンド。
今は解散していますが、1970年代から80年代に掛けて日本が誇るブルースバンドでした。ギタリストが2人居て、塩次伸二と山岸潤史の二人なのですが。
ブルース・マスターと呼ばれる塩次のjazzの要素も取り入れたプレイに対して、、山岸の鋭角的なアグレッシブなフレーズで観客を興奮の坩堝に誘うプレイとの、対比が絶妙なブルースバンドでした。解散後は塩次は、妹尾さんとコンボを組んだり、色々な人達のバックでギターを弾いて居ましたが。3年程前に妹尾さんとステージで演奏している最中に突然倒れて亡くなりました。
山岸は、「ソーバット・レビュー」とか「チキン・チャック」と云うバンドを組んで80年代に吹き荒れたフュージョン旋風に乗っかって、独自のギタースタイルを磨き、ニューオリンズに単身渡り、アメリカでグラミー賞を貰い、活動拠点をニューオリンズに定め、ファンクやらブルースを演奏して居ます。下は貴重な映像です。
WEST ROAD BLUES BAND
Rock Free Concert - ソウル地下鉄(feat. 山岸潤史)
塩次伸二 Shinji Shiotsugu a.k.a.Japanese Blues Master
それから、「ブレイク・ダウン」とか、良いバンドが居ました。メンバーの近藤房之介は今はソロ活動をして居ます。
Sweet angel 近藤房之助
「憂歌団」とかも忘れられないバンドです。
憂歌団 パチンコ
そして、入道さん。
入道 / Help Me
そして、今現在、無数のブルースバンド、ブルース・ミュージシャンたちがライブハウスやコンサートで活躍中です。
Blues Is Allight - ホトケ&近藤房之助&山岸潤史etc
しかし、Blues。何でBluesなのか?jazzも色々聴いたのですが・・・良く聴いてみると、元に成って居るのがBluesだと解ります。jazzはBluesから生まれた音楽だからです。
私は略、10年間、jazz漬けに成って居ました。レコードを買うお金が無いのでもっぱら、明大前の「マイルス」とか新宿の「サムライ」とかのジャズ喫茶で聴いて居ました。
聴いて居た一部を挙げると、バーニー・ケッセル。ケニー・バレル。タル・ファーロウ。とブルース寄りなジャズ・ギタリストを好んで聴いてましたね。
Barney Kessel blues
Every Day I Have the Blues - Kenny Burrell - Blues The Common Ground
Tal's Blues
サックスでは此れ又一部ですが、ソニー・ステット。ソニー・クリス。ジャッキー・マクリーン。クールジャズのスタン・ゲッツ、そして御大、チャリー・パーカーなどです。
中でもお気に入りはBlues 色が強いソニー・クリスです。彼は70年代の終わり頃に来日する予定だったのですが、日本に来る3日程前に、ピストル自殺をして仕舞いました。
惜しい人を亡くしました。彼は1940年代の後半位からビパップを演奏しており、、当時、デイージー・ガレスビーと共にビパップの旗手だったチャリー・パーカーとも共演し、レコードも残して居ます。
Sonny Stitt,Howard McGhee,JJ Johnson,Walter Bishop,Tommy Potter,Kenny Clarke."Buzzy"
Summertime - Sonny Criss
Jackie McLean Quintet / Blues Inn (1988)
Stan Getz Performs Wave - Copenhagen 1970s
Parker's Mood - Charlie Parker
ロックはブリテッシュ・ブルース・ロック、プログレッシブ・ロック、ハードロック、をおもに良く聴いて来ましたが。
ブリティッシュ・ブルースと云えば何と云っても、「ブルース・ブレイカーズ」でしょう。
「ヤードバーズ」と共に3大ギタリストを輩出したので有名です。「ヤードバーズ」がエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ。「ブルースブレイカーズ」がエリック・クラプトン、ピーター・グリーン、ミック・テイラー。を輩出しました。クラプトンは両方のバンドに在籍しています。
私はギタリストとしては、まあ、エリック・クラプトン。ピーター・グリーン、ミック・テイラー。ジミー・ペイジ。ジェフ・ベック。イングウェイ・マルムスティーン。ゲーリー・ムーア、ロリー・ギャラガー、ロイ・ブキャナン、アルヴィン・リー、アメリカのホワイト・ブルースの名ギタリスト、マイク・ブルームフィールド。御大ジミー・ヘンドリックスなどがお気に入りです。イングウェイはイスラエルのギタリストですが、、彼のクラシカルなフレーズは好きなんです。まあ、ブルースもヘビメタのギタリストがブルースを弾くとこう成ると云ったもので、しかし、それはそれで好感が持てます。。。
Eric Clapton-Hideaway
John Mayall & The Bluesbreakers - The Stumble - 1966 (ピーター・グリーン)
PETER GREEN - THE SUPERNATURAL.flv
Driving Sideways
John Mayall w. Mick Taylor 1968
Led Zeppelin - Since I've been loving you HD HQ (ジミー・ペイジ)
Rory Gallagher - Tattoo'd Lady (Live At Montreux)
roy buchanan - live - blues
Ten Years After & Alvin Lee - I Can't Keep From Crying Sometimes - ( Live )
Jimi Hendrix - Red House - Santa Clara 1969
Al Kooper & Mike Bloomfield "Albert's Shuffle"
Yngwie Malmsteen - Blues Soloing
Gary Moore — The Messiah Will Come Again
と、後半、ブルースでは有りませんが、ブルース・スピリッツを感じさせる演奏でした。
最後に本家黒人のブルースです。
B.B. King - Sweet Little Angel (Live)
Otis Rush Berlin1966 / All Your Love
002_Freddie King - Ain't Nobody's Business (Live At The Sugarbowl 1972).mp4
Albert Collins - Cold Cold Feeling, 1981
Magic Sam "Every Night About This Time"
ROBERT JR. LOCKWOOD 神LIVE IN TOKYO③/「Everyday I Have The Blues」
Buddy Guy "Damn Right, I've Got the Blues" on Guitar Center Sessions
以上、足早に、Bluesの演奏を綴って来ましたが、、此れで日本人と白人、黒人のBluesの概要は解ると思います。
=ジャパニーズ・ブルース=
題3部。
シカゴに来て、二年が経った だけどいいことありゃしねぇ メンフィスから、汽車に乗って やって来たけれど 他の奴らは、うまいことやってるけど この俺だけが、落ちぶれちゃった 町の片隅で、小さくなって 一人暮らしてる (憂歌団(1975)「シカゴバウンド」『憂歌団』Show Boat)
関西出身のブルース・バンド・「憂歌団」は、1975年に発表されたデビューアルバム『憂歌団』 に収められた「シカゴバウンド」という曲の中で、メンフィスからシカゴに来たものの、仕事にもありつけずに落ちぶれた「俺」の物語を歌った。19世紀中版の南北戦争と奴隷解放宣言以降、特に20世紀の前半には、メンフィスや、そのさらに南部のミシシッピ川河口地帯の黒人が、自由と生活水準の改善を求め、シカゴなど北部の工業地帯に移動する事はそれほど稀な事ではなかった。それは、奴隷としてアメリカに連れて来られたアフリカ人たちが、アフリカへの帰郷ではなく、合州国北部での「アメリカンドリーム」を夢見る様になった(つまり、彼らが、アフリカ人では無くアメリカ人であると言うアイデンティティを受け入れる様になった)契機として語られる。南部から移住して来たミュージシャンたちは、都市の喧騒と結びついた新しいブルースを生み出した。例えばシカゴでは、都会での路上演奏でも音が通るように、楽器をマイクロフォンで増幅するスタイルが一般化し、それがシカゴ・ブルースと呼ばれるものの原型になって行く。
この様な文脈において、憂歌団の「シカゴバウンド」が、メンフィスから来てシカゴで落ちぶれた黒人の「憂い」を歌ったものであると考えるのは、至極自然な事だと思われる。具体的な名前を持たない「俺」は、そうした意味では、南部から来たものの、鳴かず飛ばずで、日々の糧にも困る様な、ステレオタイプに沿った黒人像なのであり、この曲を聴く人の多くは、
その様なイメージと共に、そして憂歌団の「心得た」演奏によって、この物語の中へと、 自然と引き込まれて行く事になる。しかし、繰り返し聴くうちにある種の違和感も感じる様になって来るのでは無いか。その違和感とは、まず、「俺」の物語が日本(関西)を拠点とするブルース・バンドによって日本語で歌われて居る事に起因する。しかしそれ以上に奇妙なのは、上に示したように、この物語が、日本でそれを聴くファンにとって「自然に」聴こえると言う事である。「俺」とは誰で、何時、何処でこの「歌」を歌って居るのだろう? 日 本で「シカゴバウンド」を歌う木村充揮の事なのか、アメリカンドリームに裏切られたシカゴの黒人の事なのか? それとも是等ともまったく違う場所と時間で歌う誰かなのだろうか?
此処では京都とブルースに関するフィールドワークを参照しつつ、そこに時折姿を見せる、この様な複雑な時間と空間の関係について考察する。勿論この様な問題意識はすでに論じられて来た。中でも、現代世界において、様々な特定の「場所」で生活するわたしたちの生活実感は、そこに居無い他者との関係によって幻燈劇的(phantasmagoric)に定義される様になって居ると言う、アンソニー・ギデンズ(Giddens 1990=1993, 18-9)の議論は示唆に富む。ギデンズによれば、近代性(modernity)は本来的に グローバル化し、地域的な差異を超克して出来るものとして「普遍化(universalising)」して居る
「近代性の普遍化は、西洋の大航海時代に端を発する時間と空間の空白化により推進される。時間の空白化は、世界中どこに行っても正確に時間を刻む機械時計の発明と普及によりもたらされ、空間の空白化は、世界地図̶̶特定の場所から自律した地球表象̶̶の発明と普及によりもたらされる。空間の空白化は、同時に、空間なるものを場所、つまり「地 理的に位置づけられた社会活動の物理的なセッティング」と分離する。この様にして 空間と場所の分離が進むと、私たちが生活し、物を考え、記憶を蓄積して行く「場所」と 言うものが、その場所とは一見何の関わりもない別の場所やそこには居無い人の活動の影響を受ける様になる。」
これが、ギデンズの言う、現代世界における幻燈劇的な人間関係である。此れは、 近代諸制度が、特定の場所に根付いた社会関係をその局所的な文脈から引き離し(脱埋め込み化)、空白化された時間・空間の広がりを横断して、他の様々な場所の中にそれを構造化し 直す(再埋め込み化)事を可能にして居るからである。脱埋め込みを可能にしている メカニズムには「象徴的通標(Symbolic Tokens)」と「専門家システム(Expert Systems)」がある。「象徴的通標」とは、「如何なる場所で如何なる特性を持った個人や集団により扱われても、それにかかわらず『受け渡し』が出来る相互交換の媒体」である。その代表例に「貨幣」があるが、音楽に関する文脈であれば CD や MP3 などが此れに当たる。
京都とブルースはどう結びついて居るか。
「専門家システム」とは、「私たちの今日住んでいる物質的、社会的環境の大部分を組織して居る技術的な成果や専門知識」の事だ。例えば我々は、自動車の走る仕組みを知らなくても自動車を運転する。此れは、その仕組みの部分を専門家システムが担保して居るからである。音楽に関して言えば音楽産業であるとか、音楽著作権制度なども専門家システムと言えるだろう。音楽の録 音・再生を可能にして居る様々な技術や、そして著作権・著作隣接権の処理についての知識が無くても、音楽を聴く事が出来る訳である。
この様な議論を踏まえるならば、京都ブルースについて、ブルースが合州国の特定の文脈 (南北戦争、奴隷解放、公民権運動......)から、レコードと言う象徴的通標と音楽産業という 専門家システムによって脱埋め込み化され、それが時空間のグローバルな広がりを通して京都と言う場所の別のローカルな文脈(70年代のアングラ・フォークやニューロックの興隆、学生運動......)の中に再埋め込み化された、と記述する事が出来よう。しかし、ギデンズ自身も指摘する通り、近代性のグローバル化は、実際にはこの様な合目的的なプロセスでは無く、 暴走する「ジャガノートに乗って居る」様な、予測不能で、制御困難なプロセスである。観光や移動をキーワードに新しい社会学の視野を拓いているジョン・アーリもまた、グローバルなるものの複雑性(complexities)を検証した論文の中で、「[既存の]社 会科学の多くは、グローバルな水準あるいは規模と言う物を、ローカル性や地域、国民国家、 環境、文化と言う様なものを直線的に変形して仕舞う、全能の、そして完全でどこまでも同質なものとして、自明視して来た」と批判して居る。アーリはまた、近代性の中で私たちの依って立つ土台がどんどん不安定になっており、関係を構築しようとする先から足元を掬われる様な流動的なものになって居ると言うバウマンの指摘(Bauman 2000=2001)や、 移動する権力として「帝国」を捉えるハートとネグリの議論(Hardt & Negri 2000=2003)、全 ての人が内側と外側に同時に存在して居る様な複雑なシステムの存在ゆえ、企業や国家の活動の多くが自分で自分の墓穴を掘る様な事態に陥って居る事を指摘するベックの議論(Beck 1986=1998)などを参照し、グローバル化とは、非線形的な、複雑性を持った現象であると指摘する。この様な視点から考えるなら、京都とブルースの関係は、憂歌団の「俺」同 様、グローバルとローカル、空間と場所、あるいはマクロとミクロというような単純な二項対立では充分に分析出来ない事になる。
この為。此処では、文化のグローバル化が孕む複雑性をより精密に析出するための指針として、特に「空間性(spatiality)」の諸相を再検証し、その重層性と相互干渉に注目する。より具体的には、まず、移動するヒトやモノを内包する、通常の意味での「空間」概念について、 人文地理学者であるデヴィッド・ハーヴェイ(Harvey 2005)の分類法を参照しつつ検討する。 次に、このよな通常の空間概念の中を移動するヒトやモノ(あるいは作品やジャンル文化)
それ自体が構成する「空間」のあり様について、科学的事実の「普遍化」について批判的に検証するローとモル(Law & Mol 2003)の分類法を参照しつつ検討する。これら二つの分類法は、 異なる文脈から引用したものであり、その間の論理的な整合性を厳密に同定する事は此処では余る。むしろ、京都とブルースという特定の事例が、この様に一見整合性のない様々な空間概念にどの様に当てはまり、また、それらがどの様に重なりあい、お互いに干渉しあって居るかを描出する事が、さしあたっての主題となる。論を進める上での利便性から、 まずは京都のブルース文化の歴史的変遷について概観し、上に概観した様な空間性の諸概念と分類法を提示し、そのあとで、フィールドノートからのデータと突き合わせながら、是等の空間性概念が京都とブルースの関係を分析する上でどの様に有益かを検証する。結論では、それらを踏まえた上で日本のブルースを明らかにしたい。
京都とブルース
京都のブルース関係者に話を聞くと、1970年代に至るまで日本には「ブルースは無かった」と言う話になる事が多い。京都出身で、70年代初めから主に関東の米軍基地でギターを演奏していた西野やすしは、「エリック・クラプトンやローリング・ストーンズのおかげで『ブルース』と言う単語だけは一人歩きして居たんですわ。せやけどそのぅ、黒人のブルー スと言うのはまったく知らんかったんですわ、当時の日本人は」、と当時の状況を振り返る。 西野が最初に米軍基地での演奏を始めたのは 1972 年の事だが、それは泥沼化するヴェトナ ムで北爆が再開された年である。当然基地のなかの空気は緊張しており、酩酊して舞台に上がって来る客や、ヴェトナム行きのプレッシャーから錯乱し凶器を振りかざす兵士なども居たと言う。西野はその中で、「米兵と一緒に演奏」して廻った。演奏して廻った、と言っても何時も同じ人間とバンドを組んで居る訳では無かった様だ。基地での仕事は年間数クールに別れており、そのたびに別の場所で別の人間と組んで演奏すると言う雇用形態であった。また、 会場や曜日により客層も異なり、幅広いレパートリーを見よう見まねで習得する必要があった。 西野にとって、ブルースはそうしたレパートリーの一部であったと言う。
多くが指摘する通り、「ブルース」という言葉は 1970年代以前から日本でも使われて居た。日本で「ブルース」という言葉がタイトルに使われた最初の曲 は 1935年に発表されたヘレン雪子本田による「スヰート・ホーム・ブルース」である。1937年には淡谷のり子が「別れのブルース」を吹き込んで「ブルースの女王」への道を歩み始めた。 1939年には 斎藤寅次郎監督の「東京ブルース」というミュージカル映画もあった。60 年代以降も、1959 年に「一対一のブルース」を出した西田佐和子が 1963 ~ 4 年にかけて「東京ブルー ス」、「博多ブルース」、「メリケンブルース」を発表し、1966年には美川憲一が「柳ケ瀬ブルー ス」を、青江三奈が「恍惚のブルース」を歌っている。その青江三奈は 1968年に「伊勢佐木町ブルース」、「札幌ブルース」、「長崎ブルース」を相次いで発表した。長崎ブームにあやかった中井昭・高橋勝とコロラティーノの「思案橋ブルース」も 1968年の発表である。70年代を迎えても、「ブルース」と名のつく曲は数多く発表されており、厳密に言うならば、「70年代 に至るまで日本にブルースは無かった」、と言う言い方には語弊がある、と言う事になる。 しかし此処で重要なのは、70年代になって、それまでのブルースとは違う、特定の形式や内容、 媒介者、受容層をもった「ブルース」――西野の言う「黒人のブルース」――と言うものが顕 在化する様になった、と言う事である。
もっとも、この「黒人のブルース」は突然空から降って来たものでは無い。少なくとも二つ、 そこに至る水脈があった。一つは50年代以降のアメリカの所謂フォーク・リヴァイヴァルの動きの中で、収集家や愛好家のあいだで再評価される様になったカントリー・ブルース の流れである。それは、大和田がアメリカ音楽史という視座から正当に指摘して居る様に、「反商業主義と反西洋主義を掲げる戦後アメリカのフォーク・リヴァイヴァルの文脈の中で」そう言うものとして作られたものと捉えるべきものであろう。1973年に日本語のブルース専門誌『ザ・ブルース(現 BMR)』を創刊し、1975年東京・下北沢で有限会 社ブルース・インターアクションズを設立した日暮泰文は、自らの回顧録の中で、60年代半ばブルースと出会った経緯を生き生きと描いて居る。注目すべきなのは、日暮が当時、輸入レコードや米軍放送(FEN)のほかに、1963年に創刊された英『Blues Unlimited』誌や、続いて 69年に創刊された米『Living Blues』誌など、まさにフォーク・リヴァイヴァルのイデオロギーの中でブルースを紹介して行く事になる雑誌を情報源として挙げて居る事である。日暮らはまた、すでに 1968 年頃から東京・渋谷などで、「[ブルー スの]オリジナル形態、本来の力をあらためて世に知らせ様という意図」から愛好者を募り、レコード・コンサート等の活動を行なって居た。
もう一つの水脈は、英米におけるブルース再評価の動きの中で、ブルースに影響を受け、 それを参照する形で生まれた、(白人の)ロックンロールやロックであった。ブルースに投影された素朴でプリミティブな表現力は、大和田の指摘する通り、ブルースの中に素朴でプリミティブな音楽を見出そうとする「黒人と白人双方の欲望」の中で形作られたものである。大和田によれば、その欲望は、1960年代に誕生するロック・ミュージックの基礎となり、やがて世界中の若者―その中に、キース・リチャーズ(ローリング・ストーンズ)やエリック・クラプ トンが居た事は言うまでもない――がブルースに魅了されるのである。当時の日本の音楽好きの若者の大部分にとって、ブルースとの接点はむしろ、此方側であった。白人のロックンロールやロックのルーツを探すなかでブルースに辿り着くと言う、いわばブルースからロックンロールやロックに発展すると言う英米での時系列とは逆向き の展開が日本では主流だった訳だ。こうしたリスナー層の台頭に対して、日暮は「拒否反応」を起こすと同時に、「ブルースのコアなマー ケットを囲む様に、時によってはブルースのマーケットになり得るグレーゾーン」が 形成される様になった事が、日本におけるブルースビジネスを可能にしたと分析して居る。
要するに、60年代末の日本において、ブルースの火種は、ともすれば相克するものとして描かれがちな(アングラ)フォークと(ニュー)ロックの両方でくすぶって居たと言う事である。それは、アングラ・フォークの中心的な人物であったでは高石ともや、や、岡林信康がブルー スと言う名のつく楽曲(「受験生ブルース」(高石 1968)、「山谷ブルース」(岡林 1968)を発表するのと並行するような形で、グループサウンズからロックへの脱皮を図るザ・ゴールデン・ カップスがアルバム『ブルース・メッセージ』(1969)をリリースした事からも明らかであろう。そして当時の京都は、いわばこの両方がせめぎ合う場所であった。一方で、学生を主な担い手としたヴェトナム反戦運動や反体制運動の激化を背景に、政治的なメッセージを日本語で歌うフォーク音楽に注目が集まった。その先駆者的存在であるザ・フォーク・クルセダーズ をはじめ、高石ともやや岡林信康、京都に活動の中心を移した高田渡や遠藤賢司を中心に関西フォークの流れが生まれ、1967年 7月に京都で第一回が開催された関西フォークキャンプ(1969 年以降、全日本フォークジャンボリー(中津川フォークジャンボリー)に引き継がれてゆく) がその受け皿となって居た。他方では、1969年 8月にアメリカで開かれたウッドストック・フェ スティヴァルの影響を受け、1969年から TOO MUCH、FUCK ’70、MOJO WEST、幻野祭 などのロックイベントが、学生運動の拠点の一つであった京都大学西部講堂等を利用して開催されて居る。これらのロックイベントを通して「裸のラリーズ」、「トゥーマッチ」、「村八分」など、日本のロックのパイオニアとも言われる、先鋭的な京都のロックバンドが頭角をあらわす様になる。
京都とブルースはどう結びついているか ─文化のグローバル化とせめぎあう空間性
1970年代
上述したような当時の音楽的状況に「黒人のブルース」が最初に具体的に持ち込まれたのは、 1971年 2月の B・B・キングの初来日である。先に引いた日暮によれば、同じ 1971年にリリースされた 3枚組 LP『RCA ブルースクラシック』辺りから国内でもアメリカのブルースのレコードが売れる様になったと言う。また、1971年 9月に NHKで全国放送され た『黒人の魂・ブルース』と言う、シカゴの黒人街のドキュメンタリー番組が、「黒人のブルー ス」への注目の直接のきっかけとなった様だ。もとより当時の日本では、特に68年 4月のキング牧師暗殺から 72年 11月の米大統領選前後に掛けて、ヴェトナム戦争や公民権運動の動向など合州国の政治情勢への関心は高かった。『黒人の魂・ブルース』はハーレー・コクリス が同年に監督したドキュメンタリー映画であり、シカゴのサウスサイドの貧民街で生活にもがく黒人たち(北部に夢を託してやって来た南部出身の黒人たち)の姿と共に、黒人街の小さな クラブで(B・B・キングの流麗な洗練されたブルースとは違い荒削りな)演奏をする「マディー・ ウォーターズ」や「バディ・ガイ」、「ジュニア・ウェルズ」などを記録した佳作である。私も見たし、直接・間接にこの映画を見た、あるいは話に聞いたと言う当時の関係者は多いが、放映時期や内容を含め、証言には食い違う部分も多い。まだ家庭用 VTR も無い時代、逆にそれがこの映画にある種の特権的な神格性を与えて来た様だ。先に引いた西野やすしは、「あのドキュメンタリーをたまたま見てて、偶然見てて、ブルースにはまっ て仕舞ったと言う人が無茶苦茶居るんですよ。ウェスト・ロード・ブルース・バンドの塩次伸二さんもその一人やし」と振り返る。この塩次伸二をリードギターに配するウェスト・ ロード・ブルース・バンドこそ京都ブルースブームの中心的な役割を果たして行くグループである(「ウェスト・ロード」とは、京都の「西大路」を英語読みしたものだと言う)。そのウェスト・ロード・ブルース・バンドの存在を決定的に印象付けたのが、1972年 9月に二度目の 来日を果たした B・B・キングの大阪公演であろう。当時まだ無名のウェスト・ロード・ブルー ス・バンドはこの公演の前座に大抜擢され、アンコールでは B・B・キングと即興共演したのだ。 日本のブルース・バンドの草分け的存在、ウェスト・ロード・ブルース・バンドは、1972年、 この様にして始動した。
一方、1972 年は日本の若者文化、対抗文化にとっては大きな転換期でもあった。それを象徴するのが連合赤軍の浅間山荘事件である。警察が強行突入し、犯人が逮捕され人質が保護される様子はテレビで全国に生中継された。京都や大阪で展開されて居たアングラ・フォークの祭 典・関西フォーク・キャンプは 69年の第四回を最後に岐阜の中津川の全日本フォークジャンボ リーに舞台を移し(それ自体も 1971年の第三回でレコード会社の介入を訝る聴衆の収拾がつかず断絶)、京大西部講堂を中心にしたアート・ロック系のイベントも、1972年の幻野祭以降下火に向かう。1973年には村八分がその西部講堂でライブを行い、その模様を記録した唯一の オリジナルアルバム『ライブ』(1973)を残して解散して仕舞う。当時同志社大学の学生で、 同じ同志社大学のウェスト・ロード・ブルース・バンドのギタリスト塩次伸二と交流のあった 多田タカシは、「ムラハチが無くなって、その隙間にブルースが入って来た。...[中略] ...ロックバンドからブルース・バンドに入れ替わった事は、絶対、村八分の解散とリンクしてると思うんですよ」と語る。1971年には大阪で春一番コンサートが始まるが、中津川のフォーク・ジャンボリーが紛糾した翌年の 1972年の第二回以降はキングレコード傘下のベルウッドが ライブ盤製作に乗り出し、1973 年からはヤマハ主催の勝ち抜きバンドコンテスト 8・8 ロック デイが始まり、レコードデビューへの登竜門となってい。「ウェスト・ロード・ブルース・バ ンド」は幻野祭でも演奏して居るが、ウェスト・ロードを始め「上田正樹とサウス・トゥ・サウス 」や「憂歌団」、ウェスト・ロードの塩次伸二の「愛弟子」とされるギタリスト田中晴之らの「ファッ ツ・ボトル・ブルース・バンド」など、同期あるいは後続のブルース・バンドの全国的な認知に繋がる活動の中心はむしろ 8・8 ロックデイであった。
1973年、京都ではコーヒーショップ拾得が開店した。今でこそ「日本最古のライヴハウスのひとつ」と称される「拾得」であるが、当時は(そして今でも)、コーヒーショップを名乗って居る。フォークシンガーのアーロ・ガスリーが主演した映画『アリスのレストラン』(Penn 1967)にインスパイアされ、友人たちと酒蔵を改装して作り上げたこの店は、ライブよりもむしろ「玄米定食で有名な店」であったと言う。もともとビート文学やフォーク音楽、そしてヒッピー主義を嗜好し、そう言う仲間が居つける場所として作られた店内には、それゆえ今でもギターの弾き語りに丁度いい程度の大きさのステージしかない。「テリーさん」として親しまれ、 今も店を切り盛りする店主の寺田国敏によれば、ウェスト・ロード・ブルース・バンドが最初に演奏させて欲しいと話に来たときは、「ブルースだからアンプは通さない」と言うので了承したのだと言う。しかし、回数を重ねるうちに何時の間にかドラムスやマイクやアンプが持ち込まれる様になり、ついにはステージが狭すぎて一部のメンバーはステージ下にはみ出して演奏する様になった。翌 1974 年には拾得と並び京都の老舗ライヴハウスと称される「磔磔」も開店し、京都とブルースを結ぶ受け皿となって行く。
同じ 1973 年には東京で、前述の日暮泰文らがブルースの専門誌『ザ・ブルース』を創刊して居る。同誌は黒人ブルースの歌詞の内容や文化的・社会的背景だけでなく、技術や機材、演奏法や器楽法を紹介し、中村とうようが 1969年に創刊した『ニューミュージック・マガジン(現 ミュージックマガジン)』と共に、「本場」の視線を持ち込んで日本のブルース・バンドにお墨付きを与えるメディアとなって行く。例えば 1975 年にリリースされた「ウェスト・ロード・ブルー ス・バンド」のデビューアルバム『ブルースパワー』(1975年発売)では、「日本を代表するブルース・バンドがとうとうレコードを作った」と言うタイトルのライナーノーツを『ニューミュージッ ク・マガジン』の中村が担当し、『ザ・ブルース』はシカゴのブルース・ミュージシャン、ジミー・ ドーキンスによる好意的な(10 点満点で 7 点という評価であった)レコード評を掲載してい る(Dawkins 1975:62)。同じ 1975年にリリースされた憂歌団のデビューアルバム『憂歌団』では、『ザ・ブルース』誌上に掲載されたアルバムの広告自体に「ブルース・ファンにも聴くことを勧められる初めての日本人のレコード」と言うタイトルで日暮が 手描きの推薦文を寄せているほか、高地明によるレコード評が掲載されて居る。 高地はこの記事のなかで、矢張り関西のブルースを取り巻く雰囲気は独特のもので、私が見た限りでは東京のそれとは余りに違って居た。ブルース・ファン気質をそのまま表して居ると言ってもいいその雰囲気は、東京の連中は、言葉は悪いかも知れないが、ディスク・マニアを中心として 理論先行型で冷静なファンが作って居るのに対して、関西、特に京都ではバンドをやって居る連中を中心とした生のブルースにより愛着を覚えると言った人が作り出している様だ。と京都のブルースシーンの特性を観察して居る。 『ニューミュージック・マガジン』と『ザ・ブルース』は、アメリカの黒人音楽の最新情報を提供し、それを通じて日本のブルース・ミュージシャンにお墨付きを与えるメディエーターになるばかりでなく、アメリカのブルース・ミュージシャンと日本のオーディエンスのあいだの橋渡しにも積極的であった。それも、時にはそれを通してアメリカのブルース・ミュージシャンの 人生そのものまでをも変えて仕舞う様な、積極的な役回りを果たして居た様だ。その一例 として興味深いのが、スリーピー・ジョン・エスティスである。エスティスは 1920年代から多くの録音を残しつつも 40年代以降「行方不明」になり、60年代初頭に「極貧、全盲状態で」再発見された。
日暮の働きかけで 1973年にリリースされたエスティスの LP『スリーピー・ジョン・エスティスの伝説』(Estes 1962=1973)は、日本ではオリコンのアルバムチャートに入るヒットとなった(日暮 前掲書:54-5)。そればかりか、エスティスは翌 1974年、『ニューミュージック・マガジン』が主催した第一回ブルース・フェスティヴァルに 呼ばれ来日を果たし、1976年の二度目の来日時には、憂歌団と共に全国をツアーする事になる。来日した事でその後のキャリアを大きく変えたブルース・ミュージシャンとしては、他 にオーティス・ラッシュを揚げる事が出来よう。初来日となった 1975 年の第三回ブルース・ フェスティヴァルでのラッシュの演奏の出来栄えには意見が割れた様だが、才能の割にレコード会社に恵まれて来なかったラッシュは、この来日の際に後に夫人となる日本人女性と知り合った。日暮は、このことが「オーティスという希代のブルースマンを再生に導いたのだ」と書いて居る。
〜〜〜日本のブルースハーピストたち〜〜
はもにか道場 LIVE 2 Days _1/7_道場のテーマ(Theme for Harmonica DOWJOW)
KOTEZ&YANCY/Don't Go No Further (short edit ver.)
Takeshi Fukazawa-demo2-spain 深沢剛DEMO
HERO NISIMURA & HOMETOWN BLUES BAND take.2 - Everything's Gonna Be Alright
HERO NISIMURA & HOMETOWN BLUES BAND take.6 - Stormy Monday Blues
Mr.OH YEAH!@ 荻窪ルースター ノースサイド2
Georgia On My Mind * Harmonica by Fukazawa Takesh-深沢 剛
80年代以降
かくして京都を中心として起こった 70年代の関西ブルースだが、実際にはそれほど長く続居た訳では無く、70年代末には下火になって仕舞う。先述した「ファッツ・ボトル・ブルース・ バンド」のギタリストで、ブーム後も京都で活動を続ける田中晴之は「、80年くらいになったら、もう京都には誰も居なくなって仕舞った。皆んな東京に行って仕舞ったし......」、と当時の状況を語る。「ブルー・ブラッド・ブルース・バンド」のギタリストで同じく京都に残った多田タカシは、ブルースブームが終息した一番の原因として、結局担い手の多くが大学生であった事を挙げた。
「当たり前やけど、もう皆んな卒業するんですよ、大学を。同志社系も。ウェスト・ロード も卒業したし、服田さんも卒業したし、入道も卒業したし......。そしたら、京都じゃ仕事 無い訳ですよ、音楽の仕事......。卒業して数年したら、皆んな東京行っちゃったんです よ......。80年代の終りに、京都にブルース・バンドが無い、これではあかんなぁと思って。 1989年に「京都ブルース連盟」言うのを作って、塩次さんとか入道さんとか東京から呼んで、イベントしてたんです。」
この「京都ブルース連盟」と言うのは、多田が「会長」を名乗って拾得や磔磔で毎月行なって居た、若手ブルースミュージシャンを育てるためのイベントの名前である。しかしながら、多田からその構想について相談を受けた塩次伸二は、半分冗談交じりながら、口うるさいファン を納得させる為「名誉顧問」として自分の名前を使う事を提案したと言う。大御所のバンドこそ離散したものの、80年代以降も京都のブルース審美眼は鋭い侭だった様だ。それは、 京都では「お盆と正月になると[当時京都で学生だった人たちが京都に里帰りする為]レコー ド屋さんのブルース・コーナーの売り上げが上がる」と言う程、息の長いブルース・ ファンが存在し続けて事からも判る。 70年代の京都でブルースと共に学生時代を過ごし、地方でライヴハウスを経営して居る人達も多い。若手バンドが地方ツアーを組む時に「京都でブルースやってます」と言うと「おお、本場ですね」と話が早く進むと言う。
田中晴之はその後、ブルースでの仕事の口が減ってゆく京都の現実を前に、やりたく無い音楽をやって無理して演奏家として生計を立てる事に疑問を感じ、昼間は市バスの運転手として働く事を選んだと言う。その後も幾つかの仕事を転々とした後、大きな病気をした事をきっかけに、田中は改めてブルースだけで生きて行く事を選んだ。5 ~ 6 年前 の事だと言う。強面で知られた塩次伸二に素質を認められ、それゆえに厳しくブルースギター を教え込まれたと言う田中は、2008年 10月 19日、塩次がツアー先の栃木県で急逝した後も、 塩次のブルースギター教室の生徒を引き継ぎ、後継の育成に励んで居る。西野やすしは塩次が亡くなった当時の事をこう語って居る。
「伸ちゃんのギターを引き継いでいるのは晴ちゃん。彼しか引き継げる人がおらんかった。伸ちゃんが死んだ時に、晴ちゃんと話した事があるんですけど。係を決めよう、って事になって。晴ちゃんはブルースの伝統を京都で守って行く係。僕は逆に、ブルースを輸出する係。だから今も僕はそのつもりでやってます。」
田中氏からは以前、メールで話した事があるが。その中で田中氏は、ニューヨーク在住の友人のブルース・ギタリストから聞いた話として、アメリカ全土でブルースを聴かせるクラブの数がすでに 50店未満に激減して居ると言う現状を示し、もはや日本・アメリカの区別なく皆んなでブルースのパワーアップを図る事の重要性を力説した。70年代のブームから数十年を経て「脱世代化」して来たブルースの賭け金が、正統性をめぐる激しい競い合いから(そのなかでは当然アメリカ のブルース・ミュージシャンは有利であり、またその有利さを維持しようとする)、内外のアー ティストやファンのネットワーク自体の維持と存続をめぐる協調態勢(その中ではミュージ シャンの国籍や人種と言ったものは乗り越えられるべきものとして意識される)に移行して行く過程を、あるいはそこに見出す事がて出来るのかも知れない。
「空間性」概念の再検討
西野やすしは、70年代初頭の京都で「ウェスト・ロード・ブルース・バンド」の演奏を初めて 聴いた時の印象を、以下の様に語って居る。
「関東の米軍基地でバンドやって居る時に、色々噂を聞いたんですわ。京都でブルー スのムーブメントたいなんが起こりつつあると言う様な。で、その当時は、バカにしてた言うたら言い方悪いですけど、日本人にブルースなんかて出来るか、と。黒人音楽やから、何を言うとんにゃと。せやけど、そこまで言うんならって言うんで一度見たんです よ、円山野音か京大西部講堂で。ウェスト・ロードを。ほいたら本当に凄くて、「日本人でこんだけ出来んのか」、と。「と言うか下手したら黒人よりこっちのが上やって。」
西野はまた、自分が夜間高校に 7 年間在籍して居たものの殆んど通わず、「実際には中学中退くらい」である事と、京都ブルースの担い手の殆んどが大学生であった事について「最初はものすごぉコンプレックスを感じました」と語って居る。
「夜間高校なんて、全日制の高校生に対してさえコンプレックスがあって、大学生なんてもう、道で会うたらどついたってもええな、ぐらいの(笑)。だから大学生で音楽して居る人とか、「どこのボンボンやねぇ?」見たいな。結構毛嫌いしてた処あったんですけどね。でもねぇ、一度目の前で「ウェスト・ロード・ブルース・バンドの」演奏を聴いた時に、そんな気持ちは吹っ飛びました。本当に巧かったし。音ですよね、音で圧倒されたし、音で繋がりたいと思った。」
ブルースは、時に黒人・日本人と言う様な人種的距離や学歴などの社会階層上の距離でさえ縮めて仕舞う様だ。前章の概史から浮かび上がって来たのも、輪郭の決まった不変の結節点としてのブルースと言うよりもむしろ、アメリカと日本、関西と関東、黒人と日本人、フォー クとロックと言う様な単純な二元論に回収されず、むしろそうしたものを架橋する流動的な結線としてのブルースである。もちろんブルースとしての真正性をめぐる熾烈な差異化・差別化競争はある。しかし一方で、ブルースとしての良さ、強さ、楽しさを通して結びつき、一体化すると言う意識も強く働いて居た事になる。最後に、特に「空間」という概念の理論的な検証を通して、このような距離感の変容や文化的(地理的)アイデンティティの有り様について考えたい。
人文地理学者のデヴィッド・ハーヴェイ(2005)は「空間」という言葉を「、絶対空間(Absolute Space)」、「相対空間(Relative Space)」、「関係的空間(Relational Space)」の三つに分けて理 解した方が良いと論じる。絶対空間とは、普遍的かつ超時間的な空間である。これはニュートンやデカルトの想定した物理科学的空間であり、幾何学的にはユークリッド空間の事であり、時間と場所を超越して居る(あらゆる事象の位置や面積、体積を計測・把握する 普遍的な原器となる)と言う意味で、ギデンズの言う「空白化された空間」に相同 する。絶対空間は、標準化された計測方法により普遍的に(場所や時間に影響を受ける事なく)測量・数値化が可能な世界(地図、設計図、云々)として表象され、「社会的には此れは 私的所有物や、その他、境界を持つ領域的な呼称(国家、行政区、都市計画、都市交通網など) の空間である」。
京都とブルースはどう結びついているか ─文化のグローバル化とせめぎあう空間性
象を取りうる。例えばある特定の地点 A から、5 分間で移動できる空間を描こうとする時、その空間のあり様は、徒歩で移動する人と、自転車で移動する人と、自家用車で移動する人と、公共の交通機関で移動する人とで大きく異なるはずだ。これは、絶対空間が超時間的なものと仮定されるのに対し、相対空間は具体的な誰かが具体的な時間に計測する事によって初めて生まれる為だ。つまり相対空間とは、時間と切り離しては考えられないものであり、この点においてギデンズの空白化された空間とは性質を異にする。また、計測する人の価値観や関心事項によっても、空間把握のあり方は変わって来る。なぜ自家用車では無く自転車を使うのか、と言う選択の背景には一連の価値判断を読み取る事が出来るはずだ。
此れに対し関係的空間と言うのは、空間は、空間の中では定義し得ず、空間を定義するプ ロセスそのものに内在する、というライプニッツの考え方と関連して居る。つまり空間は、それを把握する主体(の内面に蓄積された関係性の記憶)の中にある。それゆえ、ある地点で今起こって居る現象は、それだけで理解する事は出来ず、それに関連して起こって居る他の全ての現象との関係の中でのみ理解可能なのだ。
以上、足早にブルースに付いて書いて来ましたが。今回は此処までにしときます。皆さん如何でしたでしょうか?「ブルースって言葉は聞いた事あったけど、日本のブルースの拠点って京都と大阪なんだ?」「私もブルース聴いて見ようかな...。」もしそう思われたら、今回こうやって書いた甲斐がありました。それから何でもいいですから、コメントを頂けると嬉しいです。
此処まで読んでくれてどうも有難う御座いました。
ーーkiyasumeーー