まだ、休養中ですが、、暫定的な記事を挙げて置きます。近況です...。読んで見て下さいね。。。どんな事でも良いですから、コメントの書き込みして頂けたら幸いです。励みになりますから.....。
マンガ好きにガチでおすすめの雑誌ガロ入門
私が今までの日本の1970年代ポップス(ニューミュージックでは無い...。)で印象に残る曲を、3曲冒頭に挙げて置きます。もう一曲は1980年代の曲です....。是非、聴いて観て下さいね。知らない人も此処で聴いて観て下さいね。。。
「別れの朝」ペドロ&カプリシャス(前野曜子歌唱版)
尾崎紀世彦 また逢う日まで【CD音源】
浅川マキ「夜」(1982年)"Night" Maki Asakawa
ハチのムサシは死んだのさ 平田隆夫とセルスターズ 1972
此処の処、もう暑いですよね〜〜。私はエアコン所有して居ますが、エアコンは余程の暑い時では無いと掛けると電気代が高くなるので。丁度、お金も入った事だし、前から欲しかった、扇風機を買いに、近所のヤマダ電機まで行った。
そして扇風機を購入した。安い物は5千円ぐらいで有ったが、、私は1万円ぐらいの物にした。1万円出せば性能もいいと思ったのです。そしてボディが木製で出来て居たもので、ファンヒーター。要するに。モーターの音が静かな物があったので、それをほぼ、一眼で気に入り、店員が来たので、その店員に、「これ下さい。」と言ったら、『?』、、だから、もう一度、「これ下さい。」と言ったら。「現品?」と言うのですよ。よく意味が分からなくて「えっ?」と言うとまた「現品?在庫?」と言う。私は咄嗟に「これ現品の飾ってあるのしか無いのですか?」と聞くと。その店員はおもむろに、タブレットを表示させて調べて居る。そして黙って、飾ってある棚の下の在庫を知らべ始めて、要約、品物を見つけると「これです?」と言って指を示す。私は「なんか変だな?、、」と思って、その店員を観て見ると。日本人では無いのです。身長はチビの私よりデカい....。176cmぐらいか?最近はなんだか、どこに行っても働いて居るのは中国人。韓国人。ベトナム人。ネパール人。だとかの東南アジアの人が多い。
今日は、古着ファッションで出掛けた。ブロークン・デニム・シャツとミュージシャン・プリントTシャツ。そしてバッジ・デニムジーンズ。別々に売って居るものを購入して組み合わせて来て居る。これにブロークン・バッジ・ハットを持って居るが、今日は被らなかった。合計で結構掛かったが、新品では無いのでどれも半額ぐらいの値段です。古着は狙い目ですよ.....。
私はなんだか、、まともな日本人の店員さんに有った事が無い。私は外国人の店員さんでも構わないが、、矢張り雑なんですよね。前に、セブン・イレブンで、外国人の店員さんが居なくて、日本人の店員さんだったら、客を下にも置かなかった。それにしてもまた、中華系の店員であろうか、その店員は私を若く観て居る....。まあ、着るものが若作りだから。仕方が無いとも言えると思うけど。ヤマダ電機の店員は黙って扇風機の入った箱を両手で掴むと、それ持って突然歩き出したので。私は着いて行ったら、会計の処に来て、計算をして、1万1千4百18円と言うのですよ。店頭には1万3百80円となって居たので、一瞬「あれ?」と思ったが、「ああ、消費税は換算されて居ない値段だったのか....。」と思い。1万2千円を渡すと、お釣りを渡して領収書とメーカー保証書送付用のレシートを渡して、やや怒り気味にこう言った。「これ!!しっかりしろよ。無くすなよ!!」私は笑いそうになった。「君は歳幾つだ、、まだ20代だろ。俺は61歳だよ....。」と言いたくなったが。最近は若く見られるのに。慣れて仕舞った。私ははっきり言って電化製品はAmazonから何時も購入して居る。今回も「Amazonから購入しようかな、、」と思ったが、、Amazonを覗いて観ても欲しい扇風機が無かったのだ。だから散歩も兼ねて近所にあるヤマダ電機に買いに行ったのです。しかし「客だぞ!」と毎回思うが、どの店員も接客態度がなって居ないのですねぇ、、最近の店員は皆んな、なんだかねぇ〜〜。
そしてアパートに帰って、箱を開けると、扇風機は組み立て式だったので、自分で組み立てました。ちょっと分かり辛くて難儀したが、40分ぐらい掛けて組み立てた。でも最近の家具やら家電商品は、組立て式が多いですね。これ、少し、不器用な人は分からなくて組み立て出来無いと思う。老人とか・・・・。バブル以前は日本で売って居るものは全て完成品だったが、、バブル以降。組み立て式が多くなった。組み立て式の方が、コストも抑えられるし。大体が運賃が完成品より安く抑えられるとの事です。だから最近の物は全て組み建式で出来て居るのです。私は以前の1970年代から1990年代までの。ちゃんとメーカーが組み立てて居た商品の方がいいと思うのですが。今はなんでも手抜きだ。店員の質は下がる一方、、商品の質も落ちる一方では、嫌になる....。
そして古着屋で、T・シャツを購入した。ジミーぺイジ。プリントT・シャツ。そして早速、今来て居る。サニーボーイ・ウイリアムソンのプリントT・シャツ。そして政府からマスクが届いた。
虹色の湖 / 中村晃子とザ・ジャガーズ フルサイズ
わが青春のグループサウンズ
「レジス・ドゥブレ」に付いて書いて見ました。彼の「メディオロジー宣言」と言う、書物はもう書かれてから10数年ぐらい経ちますが、その思想。考え方は、また此処の処、今の混沌としたネットの現状に照らし合わせて観て、有効では無いかなと思って此処に記します。まあ、暇つぶしに、こう言う考え方が或ると言う事を、読んで見て下さい。難しいのは嫌だと思うのは分かりますが。割と簡単に纏めて解説して居ますので。この掲載文だけでも読めば、「メディオロジー」とはどう言う事かが解ると思います....。(この文は、「バンド放浪記とアングラ」にて収録した物の再収録です。)。
ドゥブレーは1941年、パリに生まれる。高等師範学校を経て哲学の教員資格を取得する。1967年に「革命の中の革命(Révolution dans la révolution)」を著し、 チェ・ゲバラなど南米のゲリラ活動を煽ったとして、ボリビアで30年の刑を受ける。しかし1970年に釈放され、後に、ミッテラン大統領の任期中には大統領府(エリゼ宮)官房長官を務めた(1981-85、1987-88)。また、1977年には小説「雪が燃える(La neige brule)」でフェミナ賞を受賞するなど、作家としても活躍。政治論文など著書多数。94年にはメディオロジー関連著作を業績として博士号、大学教授 資格を取得して居る。
メディオロジー構想の源泉が投獄にあった事は明らかだ。自著「一般メディオロジー講義(Cours de médiologie générale, 1991)」で述べて居る様に、「普遍的な革命の図式は無い(「革命の中の革命」)」とのメッセージが、南米でのゲリラ活動の組織化につながり、ひいては自らの獄中生活を招いた(同書、p.179)ことに、 ドゥブレーはメッセージと組織との間の「ブラックボックス」を見たのだろう。そのブラックボックスの分析が、やがて79年の「フランスの知的権力(Le pouvoir1intellectuel en France)」を経て、90年代前半の一連のメディオロジー関連著作へと結実する。
メディオロジーは今風のマスメディア論などではない
「ある思想が運動として展開されるためには、必ずや媒体の助けを借りなくてはならず、そうした媒体が思想を取り込み組織化していく様を記述するのがメディオロジーなのである。したがってその論は、キリスト教神学における偶像、フランス革命 における印刷技術、社会主義運動における雑誌や宣伝ビラ、近代国家におけるラジオやテレビなど、唯物史観による歴史の再考という様相を呈する。これは、媒体技術と文化が相互に降りなすダイナミズムを再検討しようと言う、野心的な試みでもあると言えるだろう。 」
フランスではドゥブレーのほか、グルノーブルのスタンダール大学教授ダニエル・ブーニュー(Daniel Bougnoux)らを中心に、96年より機関誌「Les Cahiers de Médiologie」(年2回刊、 http://www.mediologie.org/ でも閲覧可)を刊行し、
一つのムーブメントを形成している。メディオロジー的実践と言う事なのだろうか。
日本での紹介文としては、 青土社『現代思想』誌1996年4月号(特集:インター ネット) に、ドゥブレーの講演(「メディオロジー宣言」(石田英敬訳))とシュティ・グレール(Bernard Stiegler)の論文(「レジス・ドゥブレの信」(廣瀬浩司訳))、さらに 解説(石田英敬「『メディオロジー的転回』の条件」)が掲載されて居る。ま た、NTT出版『InterCommunication』誌第12号(95年4月) には、上野俊哉「レジス・ドブレの『メディオロジック宣言』を読む」が掲載されて居る。
2. レジス・ドゥブレの関連著作
メディオロジー関連著作Le pouvoir intellectuel en France (フランスの知的権力), Ramsay, 1979 Le scribe (書記), Grasset, 1980Cours de mediologie generale (一般メディオロジー講義), Gallimard, 1991 Vie et mort de l'image (イメージの生と死), Gallimard, 1992L'Etat seducteur (誘惑する国家), Gallimard, 1993。Manifeste mediologique (メディオロジー宣言), Gallimard, 1994 Transmettre (伝達), Odile Jacob, 1997Cours de médiologie générale (一般メディオロジー講義), Gallimard, 1991メディオロジーの総論。390ページにおよぶ大著。コミュニケーションとは無垢なものではありえないとし、コミュニケーションに代わる概念として媒体を介した 「トランスミッション」を導入する。それを軸に、メッセージが制度化する過程を扱う学問としてメディオロジーを提唱。具体的な分析モデルとしてキリスト教神学の発展過程を取り上げ、手書きから印刷物への変化とフランス革命との関わりについて論じ、媒体が思想を規定するという論を検証する。次に「象徴の生態学(エコロジー)」という観点から、社会主義運動が展開し失敗に至る過程を描き、続いて政治における媒体の機能を検討し、権力による検閲の諸相についても述べている。最後に、今の時代が、媒体の変化という点で16世紀とアナロジカルな関係にあると論じ、現代のリアルタイム性がもたらす身体性、直接性、無時間性(歴史の欠如)を 浮き彫りにする。
Vie et mort de l'image (イメージの生と死), Gallimard, 1992
広い意味での「イメージ」を通じて、西欧の歴史を検証する一種の文明論。先史時代の洞窟絵画などに付された死の意味から出発し、イメージが記号を生み、集団を構成して行く様を概論的に検討して行く。キリスト教神学が偶像を許し、それを自ら利用していく過程を描いて見せ、さらに、カントに始まる唯心論的な芸術論を唯物論的に批判しながら、メディオロジーの立場を明確にする。続いて 「芸術」の概念が近代の所産である事、ギリシア時代から中世にかけて、「芸術」が独立して存在してた訳では無い事を指摘し、風景画と肖像画が近代になって現れる様に言及。偶像から芸術、次いでビジュアルへと変化する歴史の流れを概観し、「見かた(視線)」には普遍性はなく、イメージは集団、地域などによって規定されて居ると論じる。さらに、写真や映画、テレビなどによる視覚芸術の再編を取り上げ、現実を支えとして居た従来のイメージが、ビジュアル時代において現実そのものになっていることの社会的影響を検討しながら、現代における新たな「指標」(記号以前)を浮き彫りにする。
Manifeste médiologique (メディオロジー宣言), Gallimard, 1994
メディオロジー関連著作を業績として、大学教授資格、および博士号を取得するために書かれた審査論文二編を収録。これまでのメディオロジー関連著作のエッセンスをまとめている。メディオロジーが、従来の記号学、社会学、歴史学を補完し得る可能性を示す。同時に、象徴の生態学として、種の多様性のように「媒体の多様性」保護についても検討する。
Transmettre - éléments de médiologie (伝達 - メディオロジーの諸要素), Odile Jacob, 1997
本書は、いわばドゥブレーによる「メディオロジーのススメ」。これまでの著書で述べて来た「伝達」の諸相として、此処では組織化される物質(matière organisée - MO)と物質的組織化(organisation matérielle - OM)の2つの要素を基に、メディオロジーの周囲で交わされて居る議論を検証して居る。本書には特に、 スティングレールの著作の影響が色濃く出ており、文化と技術が相互に対立すると言う従来の構図を批判し、それらが相互に作用しあうものである事を改めて説き、「身振りと言葉」 などの ルロア-グーラン (André Leroi-Gourhan)の著作をとりわけ高く評価して居る(98年2月で、邦訳が絶版となって居るのが残念)。また、文化的事象をすべて脳や再生として位置づける生物学的視座を、技術との関わりが考慮されない点から批判する一方、人間中心主義的な視点に立つ社会学についても、外部として現れる自然との関わりを考慮しないと批判し、孤高の学としてメディオロジーを位置付けて居る。その厳粛な姿勢は、ある種の感動すら与える程だ。
機関誌「LES CAHIERS DE MEDIOLOGIE」から
創刊号「『見世物』の危機」
96年4月、『カイエ・ド・メディオロジー』誌が創刊された。その初のテーマは 「見世物(スペクタクル)である。進行する「イメージ産業の世界化」(ハリウッド映画、ディズニーの欧州進出など)によって、フランスでは自国の文化産業の危機が説かれ、それはヨーロッパ(特にフランス)の「文化例外」議論に火をつけて居た。 だが、すでにドゥブレは『イメージの生と死』の中で、イメージ全般のもつ広範な伝播力を示唆して居たのではなかったか。「アメリカのイメージ戦略は、イメージの持つそうした世俗的伝播の力を最大限に活用していたのだと言えるだろう。ヨー ロッパは遅れを取らざるを得ず、かくして、それは「危機」として認識されていた。『カイエ』の創刊号が見世物をテーマに掲げた背景には、そうしたせめぎ合い の力学を取り上げ様と言う意図があったに違いない。だがメディオロジーはすでにして一枚岩ではありえない。かくして実に多様な論点がそこには投入されて居る。」
ドゥブレやブーニューの立脚点は、上演としての演劇が記号学的断絶、つまり記号と指示対象との分断とパラレルなものであると捉える事にある。「意味とは反響に他ならない」のであり、生きた体験は「距離を置かれて初めて響鳴する」(ドゥブレ)。演劇は「死と生との狭間にある不確定な距離」として実現する(ブーニュー)。 テレビの隆盛はそうした断絶を薄め(指標としてのテレビ)、結果として演劇に対する関心も薄らいで行くと言う訳だ。だが、ピエール・レヴィは、そうした記号学的断絶と見世物とを同一視する事は出来ないと批判する。此処で言う記号と指示対象との分離は、いわば役者の身体の二重性と言う事になるだろう。だが、ブーニューに於いてはむしろ、舞台と観客との分離にその二重性の支えを見て居る。そこからテレビがそうした垣根を曖昧にして居る(つまり参加型にして居る)と言う批判が出て来る訳だが、するとテレビドラマに於いても役者の身体の二重性が維持されて居る事の説明がつかないのではないだろうか。それゆえ、むしろ演劇やテレビのそうした二重性は、それぞれを機構あるいは装置として見る視点から考察されなければならない事になる。こうしてレヴィは、テレビは指標として距離を無効にすると言うよりも、むしろ現実をそのものとして立ち現れさせ様とする装置なのだと論じる。「誰からも知覚される存在」となったテレビ映像に於いては、人は参加するのではなく、逆にそのまなざしが誰か他者のまなざしによって制御され、自分の参照の枠組が崩壊して仕舞う。いずれにせよ、装置をとりまく「メタテクスト的」なものは詳細に再考する必要があるだろう。
映画はどうか。シミュラークルそのものは太古の昔からあった(ジャック・ペリオ ー)。幻灯機はその昔、行商人と共に各地を巡り、それは口伝えで民衆の間に広まり、「市」が開かれればその地で上映がなされて居た。サーカスに取り込まれ上映される事もあった(モニク・シカール)。此処までは演劇の上演形態とさほど違いはない様に思われる。宗教改革の後に禁厄の対象となったりしながら、演劇もまた上層・下層に二分化して居た。民衆の演劇はやはり幻灯機の上映と同じような空間で上演されて居た。だが、映画に於いてそうした連続性には断絶が導かれる。もちろん世俗的には見世物として流布するにせよ、リュミエール兄弟がもたらした映画は、動体写真法に端を発する科学の欲望を担って居た。だが一方で、映画館には世俗的な聖性が付与される。それはプロテスタント教会などが演劇を「ディアボリック」なものと見なした事とパラレルだ。アメリカ映画やテレビの影響によって、そうした聖性は降格させられて居る。映画の説話性そのものも変容する。ジャン=ミシェル・フロンドンはそうした見世物の画一化をきわめて政治的な問題だと述べ警鐘を鳴らす。
見世物にはさらに儀礼やスポーツの類も含まれる。フランソワ=ベルナール・ユイーグは、カール・ポパーの言葉(「知性は虚偽から始まるのではないか」)を引き、 見世物が観客にとって言語活動としての意味をなす事を示す。儀礼化はまさにその典型だ。聖アウグスティヌスにとって、言葉そのものがプシケーを基礎づける行為の確立する事に他ならなかった様に(ジャン=イヴ・アムリーヌ)、儀礼化によって、主体は感情の中に没せぬよう、客観化を図る事が出来るのだ。たとえば 、それがトラウマを真に消失させるものではないにせよ、それに結びついた感情、感覚は解放されうる。それがカタルシスの機能である(セルジュ・ティスロン)。 ジャック・アトランが小コラムで示す様に、マーシャル・アーツなどに見られる段位は、ヒエラルキーを強調したものでありながら所属する者には受け入れられて居る。あるいはそこに、暴政に結び付かない位階の新しいモデルが見出せるかも知れないと言う指摘は、検討して見る必要があるかも知れない。この号には、アントワーヌ・エニオンとブリュノ・ラトゥールによるベンヤミンについての考察が再録されて居る。ベンヤミンは複製が本物の持つ信憑性を失わせるとしてこれを批判するが、その信憑性こそが宗教的な人工物でしかないのだと、この論者たちは指摘する。オリジナル概念は歴史的に構築されたものでしかなく、近代以前に於いてはそもそも存在さえしなかった。だとすれば、複製化はオリジナルの弱小化ではありえないと言う事になる。歴史的には、むしろコピーの中からこそオリジナルは生まれた。たとえば1750年頃まで、オペラには「これぞ定番」と いうバージョンはなく、繰り返しその都度作り変えられていた。安定した「バー ジョン」が出来上がるのは、実は20世紀になり、レコード産業がそれを要請した頃からだったと言う。絵画もまた、レンブラント以降に、全仕事の「作者」が誕生する。われわれはこうした視座を忘れる訳には如何ないだろう。柳田国男がかつて 日本の伝統とされるものの多くが、たかだか1世紀程度の歴史しかない事を指摘して居た様に、様々な伝統(文化)が形成される過程、その混然とした「前史」を堀 り起こす作業が課せられて居る。
「『路』とは何か」
「人の後に路は出来る」と言う句を、ドゥブレは「人の前に路はある」と言い替えて見せる(『伝達作用』)。人間が作る路はいわゆる獣道ではないからだ。路はあくまで社会的な産物であり、そして社会を規定する産物でもある。それは物資の輸送ばかりか文化の輸送をも担って居る。ゆえに路はメディオロジーの考察対象とされなければならないのだ。かくして『カイエ・ド・メディオロジー』第2号(97年秋) は「路とは何か」の表題のもとに、道路に関する様々な論考を集めて居る。同号で特に目を惹くのはフランソワ・ダゴニェ(Francois Dagognet)の参加 だ。「路、反路、メタ-路」と題された論考では、形而上学が木をモデルとして居ると言われる事について、それ以上に道路がモデルになって居るのではないかと、 論じて居る。また、路のエッセンス(情報の流通)は高速道路に於いてよりよく体現されるとし、高速道路がメタ-道路であるとしてこれを讃えている。中心を重視し都市部と農村部とを対立構図に置く鉄道に対して、両者を接近させその脱中心化をはかるものとして道路が対置されて居る。
「古きネーション、新しきネットワーク」
国家は様々なネットワークから成り立っている。それは目に見える設備であったり (鉄道、水道など)、誰もが理解していながらも、なかなか見えにくい制度であったり(郵政、電信、テレビ、コンピュータネットワークなど)と様々だ。言語もまた、 国家にとっては重要なファクターである。「カイエ・ド・メディオロジー」の第3 号(97年4月)は、ドゥブレー自身の編簒により、国(民)とネットワークについての論考を幅広く取り上げて居る。だが、取り上げた問題の領域が広すぎたせいか、個々の論考の内容には堀下げがやや不十分ではないかと言う印象が残ると言う。その意味では、本号は必ずしも成功してはいないのではないだろうか。だが微細な、遅々たる 、歩みを積み上げて行こうとするメディオロジーにとっては、こう言う広い範囲の問題の列挙も、それはそれで興味深い論集を成して居るのかも知れない。雑多なものの列挙。必ずしも方法論的に吟味されて居る訳ではないが、そう言う寄り合いの様な雰囲気は悪くはないかも知れない。
アンドレ・ギエルム(Andre Guillerme)によれば、フランス語で「網」を指す reseauは、ルネサンス期には女性が下着として着用していた網(reseuil)に由来 し、17世紀に織物師や篭編職人らが編目を示すものとして使われる様になる。さらに土木作業に転用され、19世紀には国土の補強、水道のシステム、道路など空間の整備にも用いられる様になる。また18世紀には天文分野でも使われる様になり、18世紀後半には測量術においても見られる様になる。網はこうして、自然に対する人間の側からの政治的な力の介入手段と見なされて居た。だが自然ばかりでなく、制度としてのネットワークもある。カトリーヌ・ベルト-ラ ヴニール(Cathrine Bertho-Lavenir)はフランスの郵便制度の小史を記して居るが、 それによると、郵便制度は常に(古くはファラオの時代やローマ帝国の伝令など)政治権力と結び付いて生じて居る。革命を経て18世紀の終りには、早くも民主主義と郵政とを結び付ける議論がもてはやされて居た。民主主義と結び付き、市場に支えられる事によって、郵便事業は欧州内、そしてすぐに世界的なネットワークを作る事になる。だがやはり政治との結び付きは今に至るまでくずれる事がない。
ネットワークが政治に結び付いて居るとは言っても、かならずしもそれは中央集権的なモデルに依って居るとは限らない。トゥニエール-ビュショ(Teniere-Buchot) とバラケ(Barraque)は、それぞれ水道についての小論を寄せている。前者は、水道網は本来的に水源と密接に結び付いたローカルなものである事、したがってそれは本質的に一つの中心に収斂するものではなく、中心はいたる処に存在する事、水系は始まりも終りもない循環構造になって居て、それを管理する政策も(フランスの場合)、同じく循環的である事を指摘して居る。水系の論理は、地方分権、 あるいは民主政治のモデルになる可能性があると言う示唆だろうか。後者においては、水の管理が自然の地形への人為的介入である事を再確認し、需要の伸び(産 業、飲料水)が突き付ける技術の問題を問い直して居る。それは時に狂気にすら至るのではないか、と。では、政治から逃れたネットワークの有り様と言うものはありえないのか。今の処、どうやらそれは「ありえない」と言うのが妥当な様だそうだ。こうして私たちが遊んで居る(良い意味において)インターネットも、様々な場面で有形無形の政治と関わって居る。サイバーデモクラシーの幻想なども含めて狭い視野に向かって閉ざされるのではなく、より雑然とした健全なる多様性に向かって開かれて行くにはどうしたら良いのか。水系の論理は、他のネットワークについてもモデルとする事が出来るのだろうか。そもそも水系の論理は、本当にトゥニエール-ビュショが言う様な散逸と循環の構造になって居るのか(なりうるのか)。これは検討に値する問題だろう。
〜〜「Waltz」カセットテープと角田太郎〜〜(以前収録したものの再録です)
TOKYO VINYL #1 NAKAMEGURO × Vinyl People
Peapod by Peatix ゲスト - 角田太郎 「#5: オンリーワン!角田太郎がカセットテープ専門店waltzを立ち上げるまで」
カセットテープが売れるのは「懐かしさ」からではない――有名アーティストも注目する魅力とは
いまカセットテープが売れて居ます。そう聞くと、30代以上の人は「なぜいまさら?」、「もう終わった音楽メディアでは?」と感じるかも知れません。
単なる懐古趣味かと思いきや、若者たちも巻き込み、盛り上がりを見せるカセットテープ。近年は新譜をカセットでリリースするアーティストも増えてい居るとか。
カセットテープが再び注目を浴びるのには、どんな背景があるのか? 中目黒のカセットテープ専門店「waltz(ワルツ)」店主、角田太郎さんにお聞きしました。
カセットテープの再評価は、すでに5年前から始まっていた
——カセットテープ専門店って、珍しいですよね。どういったきっかけでお店を始めたのでしょうか?
僕は90年代前半にCDショップを運営するWAVEで働いて居ました。その後、この店を始める直前までAmazonで事業部長を務めて居たんです。インターネットのビジネスを約14年間やって来て、そろそろ違うことにチャレンジしたいな、と。
次に何をやるべきか考えたときに、世界で誰もやって居ない、かつ自分にしか出来ない事をやりたいと思ったんです。そのとき自分の中に落ちて来たのが、カセットテープ。ずっと趣味で収集して居て、当時は1万本以上持って居ました。ただ、実際に入手するのはすごく難しくて。
Amazonにいた頃は海外への出張も多かったんですが、レコードショップへ行ってもカセットテープを扱っている店はほとんどない。「カセットテープのビジネスを始めたら、面白い事になるんじゃないか」と言う発想から、カセットテープ専門店を作ろうと考えました。
——カセットテープに興味を持ったきっかけは?
カセットテープは、僕のなかで一度終わって居るんです。処が、2004年に『mix tape』(※)と言う本に出合って、カセットテープに対する興味にもう一度火がついた。そこから集める様になりましたね。
(※)アメリカのバンド「ソニック・ユース」のサーストン・ムーアが、さまざまなアーティストにより録音されたカセットテープを選集し紹介したアートブック
——ビジネスとしての勝算はあったのでしょうか?
勝算とまではいきませんが、話題になる確信はありましたね。僕が構想を練りはじめたのは2014年ですが、すでにカセットテープの再評価が世界レベルで始まって居るのを感じて居ました。カセットテープをリリースするアーティストが増えて来て居たんですよ。
カセットテープは単なる懐古趣味ではない
——お店にはどう言ったお客さんが来られるのでしょうか?
幅広いですよ。上はおじいちゃんから、下はカセットテープを聴いた事がないであろう若い人まで来ます。女性の来店もすごく多い。最近は海外メディアの取材も多くて、外国人のお客さんも増えて居ます。
あと、アーティストの方が来る事も多いですね。「こんな店は見たことがない」と、皆さん驚かれます。
——現在、各方面で「カセットテープの人気が再来して居る」と話題になって居ますが、その実感はありますか?
店をオープンしてまもなく5年ですが、すでに何百件という取材を受けています。そう考えると、カセットテープに注目して居る方はすごく多いのではないでしょうか。
——メディアの取り上げ方として、「昔買っていたシニア層が再び戻って来た」と言う懐古的な観点は少なからずあります。一方で、店には若い層が来店して居ると聞きました。もともとカセットテープで音楽を聞いた事がなかった若者が、何をきっかけにして知るのでしょうか?
入口を想像すると、おそらく影響力のあるアーティストのSNSや、雑誌からではないでしょうか。
たとえば奥田民生さん、甲本ヒロトさん、銀杏BOYZの峯田和伸さんなどが楽しんでいるんですよね。アーティストが発信することで、「カセットテープって面白いんだ」と認識するのかなと。
——アーティストの方々は、カセットテープのどう言う部分に魅力を感じているのでしょうか?
カセット特有の音質と、モノとしての面白さ。その2つの要素がアーティストにとって新鮮に映っているようです。加えて、デジタルと違ってスキップもシャッフルも出来ないので、リスナーは音楽と対峙する事になります。曲順や曲間の秒数までこだわる作り手の立場からすると、カセットは理想的な聴き方を実現するメディアの様です。
また、うちの店はファッション誌やアパレルブランドの撮影場所として使われる事が非常に多いんですよ。撮影に来たモデルさんがSNSにアップして、「カセットテープってかわいい」と広げてくれる。中には、「カセットテープ=デジタルの次に来ている新しい音楽の聴き方」と捉えて居る人も居ますよ。
——なるほど。懐古趣味ではないんですね。
いまのカセットテープカルチャーって多面的で、いろんな年代の人たちが面白がって居るので、一言で語るのはすごく難しい。たしかに、メディアによっては「昭和が復活した」と言う打ち出し方をします。ただ僕自身は、懐かしんでもらいたいと言う感覚がまったくない。むしろ逆なんですよ。
ソフトの盛り上がりに対して、ハードが追いついていない
——カセットテープに注目が集まって居るのは、世界的な流れなのでしょうか?
日本より海外のほうが盛り上がって居ますよ。カニエ・ウェストやテイラー・スウィフト、ニール・ヤングなど、みんな新譜をカセットテープで出して居ます。コーネリアスも、日本では出して居ませんが、アメリカで発売して居ますね。最近では、ビョークの過去作9タイトルがカセットで出ました。
▲店内にはニルヴァーナやオアシス、ジャミロクワイなど、日本未発売のテープも並ぶ
——そもそもカセットテープ人気が再来した流れは、どこから生まれたのでしょうか?
もともとは2010年代前半頃から、アメリカ西海岸のインディーシーンで盛り上がって来ました。それも、ノスタルジーの文脈ではなく「カセットってかわいい」、「クールだよね」と軽いノリで作り始めた様です。作るコストが安いので、お金がないインディーレーベルからすると、カセットでリリースするのは理にかなって居るんですよ。
——なるほど。しかし日本では、カセットテープで新譜を出すアーティストは少ないですよね。
日本は他の国に比べて、珍しいくらいにCDを売って居るんです。海外でのCDの衰退ぶりは顕著ですよ。日本のアーティストと話すと、皆さん「カセットを出したい」と言って居ます。ただ、なかなか本人の意向だけでは難しい様ですね。
——なぜ日本ではカセットテープの販売が難しいのでしょうか?
「もし出したとして、どれくらい売れるの?」と言う問題があります。いくら盛り上がって居るとは言え、カセットテープを聴ける機材を持って居る人はまだまだ少ないですから。
現在、3,000~4,000円くらいの中国製のラジカセが販売されて居ますが、びっくりするくらい音が悪いんです。僕も試しに1個買いましたけど、再生ボタン押したら戻って来なくなった。そこそこの価格で、かつ良い音で聴けるプレイヤーがないんですよ。
ソフトの盛り上がりに対して、クオリティの高いハードが追いついて居ない。それがいまのカセットカルチャーの課題ですね。
▲店内では80~90年代のヴィンテージラジカセやウォークマンも販売している
音楽が好きな人ほど、アナログに回帰している
——商品はどうやって仕入れて居るのでしょうか?
オープン当初は旧譜がメインで、僕のコレクションの一部を販売して居ました。いまは世界中のレーベルやアーティストから直接、「扱ってほしい」という問い合わせがバンバン入って来るんです。それを僕が全部聴いて、店のテイストに合うものを厳選して仕入れて居ます。
これだけ新譜が増えた事も、カセットテープが現在進行形のポップカルチャーだと言う事を象徴して居ると思いますね。
——どう言うジャンルが多いのでしょうか?
ロック、ポップス、ヒップホップ、ワールドミュージック、アンビエント、ノイズ、フリージャズ、電子音楽……いろいろありますよ。それぞれのジャンルで、カセットテープシーンが起こって居るんです。
——少ないとは言え、日本のアーティストのカセットもありますね。これらは再録して居るのでしょうか?
たとえば、「はっぴいえんど」は1972年に解散しましたが、その頃はまだテープの時代じゃありません。正確に言うと、「はっぴいえんど」は80年代半ばに一度カセット化されて居ます。ただ70年代前半のフォークは、リアルタイムではレコードでしか発売されて居ない。最近になって初めてカセット化された作品もいくつかありますよ。
——そんな作品もあるんですね。ちなみに売れ筋はあるのでしょうか?
若い子たちは、新譜を買って行く子がすごく多いですね。新譜はほとんど誰も知らないようなアーティストが並んで居るので、僕が1つずつ解説を付けて居ます。
——まったく知らないアーティストでも、この解説を見て買って行くと言う事ですか?
僕は、いまの時代に重要なのはキュレーションだと思って居るんです。僕が選んだと言うフィルターを通す事によって、「うちの感性に合ったものが並んで居ますよ、だから安心して買って下さい」というスタンスなんですね。
▲新譜のカセットテープを紹介しているwaltzのInstagramアカウント(@waltz_tokyo_japan )。フォロワーは1万3000人超で、海外のファンも多い。
いま音楽雑誌って、どんどん発行部数が落ちて居ますよね。中にはレーベルがお金払って記事を書いてもらって居るものもあり、批評性が薄い。インターネットも「○月○日に××が発売、試聴はこちら」と言った情報しかない。何を信頼していいか、分からない訳です。
一方でApple MusicやSpotifyの様な、「月々1,000円で何千万曲も聴き放題」と言ったサービスが出て来て居る。ますます何を聴いていいか分からない状況が生まれて居ます。
——たしかに、定額ストリーミングサービスが浸透しつつありますよね。そんな中で、カセットテープの魅力はどこにあるのでしょうか?
傾向として、生活の中で音楽のプライオリティーが高い人ほど、アナログに回帰して居るのではないでしょうか。「やっぱりデジタルじゃないよね」と気づき始めた人が、レコードやカセットテープに戻って居る。
デジタルの音楽を否定するつもりはありません。もし僕がいま中高生だったら、ストリーミングで音楽を聴いて居たはずです。音楽を聴くのは、ある程度お金が掛かる。あまりお金のない学生が、安い方法で音楽を聴くのは全然アリだと思います。
一方で、若い子の中には、いきなりカセットテープに入って来る人も居ます。ハードを1台買ってしまえば、ソフトの値段はレコードよりも圧倒的に安い。新譜のレコードだと3,000~4,000円だけど、うちのカセットテープは新譜で1,280~1,680円。聴く環境が整えば、わりとハードルが下がります。
「テープって、こんなに良い音だったのか」と衝撃を受ける人も
——「CDよりもカセットテープのほうが、音が心地よい」という意見がある一方、カセットテープには音が悪いイメージもあります。実際の処、音質的にどうなのでしょうか?
良い音の定義って、すごく難しいんです。レコードだって、安価なプレイヤーで聴いたらショボい音にしかならないですし。メディアだけの比較はあまり意味がないと思います。
ただ一般論として、アナログメディアは音が柔らかいし、丸みがありますよね。デジタルメディアってキンキンして居るんですよ。
アナログメディアには、耳に聴こえる心地よさが宿って居ると思います。レコードのパチパチという音とか、「ヒスノイズ」と呼ばれるカセットテープのサーっというノイズとか、それも含めて音の雰囲気が好きって言う人たちは多いでしょう。
——なるほど。では、「カセットテープは音が悪い」というイメージはどこから来て居るのでしょうか?
僕も中高生の頃、ラジオを録音したり、レンタルショップで借りてきたレコードやCDをコピーしたりして居ました。お金がないから安いテープを買って、小さなラジカセで一生懸命録音して、それをダブルデッキで編集する。
安いテープ同士でコピーするから、どんどんマスターから遠ざかって行く。しかもそれを安いラジカセで聴いて居たから、当然、良い音にはならないですよね。「カセットテープ=音が悪い」という固定観念は、そう言う理由から生まれて居るのではないでしょうか。
でも大人になって、最初から録音されたミュージックテープを良いオーディオで聴くと、「え、テープってこんなに音が良かったんだ!」とビックリする訳です。僕もその衝撃は大きかったですよ。
デジタルになって、音楽の楽しみ方がバサっと切り捨てられた
——CDの売上が落ちる一方、定額ストリーミングサービスが増えるなど、音楽業界がどんどん変化して居ます。今後、音楽の聴き方はどうなって行くと予想されて居ますか?
僕は、カセットテープが音楽の聴き方の主流になるとは思って居ないんです。ストリーミングがどんどん広がって行くのは明らかでしょう。でも一方で、アナログメディアの再評価もどんどん進んで行くだろうな、と。
——それは何故でしょう?
店を始めてすごく意外だったのは、クルマ雑誌の取材がしょっちゅう来るんです。なぜ取材されるかと言うと、昔のカーステレオがカセットテープだから。ヴィンテージカーに乗って居る人が「クルマで音楽を聴ける様になった」と喜んで、カセットテープを買って行きます。
その流れでクルマを例として挙げると、いま自動運転車の開発が盛んになって居ますよね。でもクルマの運転が好きな人たちは、それで楽しめるのでしょうか? そう言う人たちはむしろ、ヴィンテージカーやマニュアル車に戻って行く可能性がありますよね。
世の中が進化すればするほど、カウンターカルチャーが脈々と育って行くのではないでしょうか。
——たしかにアナログメディアの再評価は、そういった側面があるのかも知れませんね。
私も最近はYouTubeやSpotifyなどで音楽を聴く事が多く、CDショップへ行く機会が減って居たんですが、久しぶりにカセットテープに触れて、すごく新鮮に感じました。
カセットテープを手にすると、「これ、かわいいな」とか「聴いてみたいな」と思う。聴いたら、今度は集めたいと思う。モノには所有したり収集したりする楽しみがあります。つまり「音楽には形がある」と言う事なんです。
しかし音楽がデジタルになって無形化した事で、もともとあった「音楽の楽しみ方」がバサっと切り捨てられた。そこに違和感をもって居る人は多いのではないでしょうか。
——「カセットテープは新しい音楽体験」、「音楽には形がある」など、感銘を受けるキーワードが沢山ありました。本日はありがとうございました!
今回、角田さんに話を聞いて、音楽が好きだったはずなのに「音楽の楽しさ」の本質的な部分を見失っていたかも? と改めて気づかされました。懐古趣味でもマニア向けでもないカセットテープの魅力を感じ、話を聞いた後に1本購入。
<取材協力>
waltz(ワルツ)
住所:東京都目黒区中目黒4-15-5
電話:03-5734-1017
営業時間:13:00-20:00
定休日:月曜日
kiyasume所有のラジカセです。。。。
此処まで読んでくれて有難う御座います。コメント宜しくお願い致しますね。。。。