私は、最近、カセットテープに凝って居る。昔は高校の頃は、カセットテープのケースに自分で写真でコラージュしたものを、表紙にして居た。結構うまく出来て、市販のテープみたいに見えるので、高校の同級生たちに見せると、たちまち賛否両論が起こった。ある人は「よく出来て居て自分も欲しいからケースの表紙の作り方を教えてくれ。」またある人は「お前が作ったテープを俺にくれ。」また反対に「カセットテープの表紙にアーティストの写真なんかコラージュしやがって気に喰わない。」または「幼稚だ。バカらしい。」人は千様万別だ。1970年代から1980年代に掛けては手作りのものを結構皆んな作って所有して居た。私はブルース・ギタリストでシンガーだった「フレディ・キング」のレコードを録音して、当時音は悪かったが、ロック・ミュージシャンやらブルース・ミュージシャンのライブ音源がAMラジオで放送して居たが。私はもれなく毎週放送される音源を楽しみに聴いて、それらのライブ音源をラジカセで録音してコレクションにして居た。
サンスイステレオラジカセと録音したカセットテープを紹介!
FM東京やNHK-FMで放送されるライブ音源。唯一、日本でブルースのレコードを掛けて放送した、音楽評論家の中村とうようさんがディスク・ジョッキーを務めた「ブルース・アワー」。テレビの音楽番組、確かフジテレビだったか、夕方5時に放映される「ザ・ロック」「ミュージック・アワー」などは私が愛してやまない貴重な音楽の音源を流してくれた。高校当時は、学生の身分であるから、金は持っては居ない。私はカセットテープを買い込み、ラジカセで音楽を録音して、それを大切に所有して楽しんだ。そして私はそれだけでは物足りずに高円寺にあるブルース喫茶に足繁く通った。そしてそこで日がな一日、ブルースを聴いて居た。マスターとも友達になった。また、音楽通の人たちとも交流が出来た。私は乏しいお金でレコードを月に2枚ぐらいずつ購入して居た、殆どがブルースのレコードだった。高校と大学の数年間は、今思うとバンドをやって居た事もあり。意固地だがブルース一筋だった。勿論ロックも聴いては居たが、私にはブルースの方が魅力があったのだ。矢張りブルース喫茶と言うだけはあって、ブルースに造詣が深いミュージシャンやら、大学生らが大勢来て居た。ある日、そのブルース喫茶で知り合った同じ高校生の友人が、自分の高校の担任の先生の家に行こうと言って私を誘って連れて行った。その教師の住んで居る家は平家の一軒家だった。友人に促されて、その家に入ると間取りが結構広く。8畳と10畳が2部屋の畳敷の3部屋が連なって居た。その8畳間に高級ステレオが置いてあり、その先生はヘッドフォンを掛けて、身体をクネらせ、大音響でブルースとロックを聴いて居た。知識も半端ではなく「カーター・ブラザーズのレコードは聴いた?」と聞いて来た。1950年代後半から1970年代に活躍して居た黒人のブルースバンドで長男のアル・カーターがギター、次男のジェリー・カーターがピアノ、三男のロマン・カーターが歌とベースを担当して居る。1949年にカリフォルニア州サン・ファーナンド・ヴァリーに移住し、1954年にバンドを結成し活動して居た。60年代はジェリーとロマンが兵役に就き活動を一時中断したが。1964年にアール・コールマンがプロデュースし、彼の持つレーベルに「Consider Yourself 」、「Southern Country Boy」を吹き込んだ。後者はJowelに買い取られて再発売され、65年に南部でヒットしました。その後もJowelにシングル盤を5枚程度吹き込んだ。思えば、今よりも当時の方が私はブルースを本格的に聴いて居た様です。そして私が「余りカーター・ブラザーズは聞いて居ない」と言うと「「Jowel盤」は聴かなきゃ駄目だよ。」と教えてくれた。
Carter Brothers Southern Country Boy
またアイルランドの白人のブルース・ロック・ギタリストが作った「taste」も聴いてご覧と教えてくれた。その高校教師は可也な音楽通でした。8畳間と2間の10畳間にはぎっしりとレコードが置いてあり。そのレコードは壁沿いに天井まで渦高くラックに収まって居た。他にも4畳半程の部屋がありそこが寝室の様だった、ベットは置いて居なかったが、和室で押し入れがあったから多分布団が積んであったのだろう。そしてその人が座って居るオーディオ・コーナーには、当時進歩的なインテリが読んで居た、漫画月刊誌「ガロ」の1964年からのものが積み上げて置いてあった。私は凄い人だと思った。その人は30歳で独身だ。そしてレコードは1万枚を超す枚数だったので一軒家の平家を借りて居ると言う事だった。私は圧倒された。他に本棚があって哲学書、「デゥールズ・ガタリ」「ラカン」やら、「キネマ旬報」が置いてあった。私の父親は本を全く読まなかった人だ。母は児童文学書の文庫本を訪問販売で売りに来たものを買って小学生の頃に家の居間に置いてあったが。自宅にあったのはその本16冊だけだった。私は自分もこう言う人の様になりたいと思った。
Taste - What's Going On (Live At The Isle Of Wight)
私は今現在、その目標は3分の1ぐらいは達成して居る。そしてそれで最後だろう。レコードは720枚。CDは460枚ぐらい所有して居る。他にビデオテープがいまだに60本。DVDは2,640枚、書籍が760冊ぐらいはある。これでもレーザーディスク・プレイヤーとレーザーディスク400枚ぐらいは処分したのですが。お陰でやっ噛まれる事もある。物を溜めない人は贅沢だと怒る人も居る。人は色々な事を言う。いいでは無いか、私に取ってはささやかな楽しみだ。私の歳になれば自宅を持って、自家用車は2台あり子供が2人は居て。奥さんがガーディニングをして居て。部屋には4kテレビとオーディオ類。パソコンがあるだろう。私にはそんな幸せな家庭は無いのだ。勿論、私も4Kテレビとパソコン。それにステレオ。ビデオデッキ。カセットデッキ。ブルーレイ・レコーダー。ラジカセがある。それにハーモニカ・アンプが2台とハーモニカ12本入りのケースが7個ある。あとハーモニカ用のマイクが6本ある。これは趣味の問題だ。他人がとやかく言う事では無いはずだ。しかし私のアパートに来た人は、やっ噛むのだ。皮肉を良く言われる。そして生活保護を受ける様な身分のくせに贅沢な生活だと罵られる。そう言う人は月30万はする旅行に行って居る。高級レストラン、料亭で4万円ぐらいのコースの食事をする。そして自宅には4Kテレビと豪勢な家具類が置いてある。自分は何なのだ。要するに人を頭からバカにして居るから贅沢だと言うのだ。「生活保護を受けようとなど考えて居る障害者の貧乏人は貧乏生活をしていろ」と言いたいのだろう。人は醜い。お陰で私は他人が嫌いに成った....ああ、また愚痴になって居る。話を戻そう。若い頃に影響を受けた事はその後の人生を左右する。おそらく生涯その事からは離れられないのだ。反対に言えば若い頃に何に興味を持ち、何を目指そうとしたのかでその後の人生は決まる。
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歳を取っては最初から全く興味がなくて新しい事に興味を持つと言う事は無い。例え、自分は歳を取ってからこんな事に興味が出て来た、これは初めての体験だと思っても、その核になって居るものは本人には解らないであろうが。若い頃に影響を受けた事がベースになって居るのだ。また、若い頃の事をいったん拒絶しても、歳を取ってから、その事をまた再度興味を持ってやりだすと言う事がある。それだけ10代後半から20代の始めに身につけた事、考えて居た事は消えてはなくならない。私は一旦ロックはもういいと思って聴いて居なかった。しかし最近になってまた聞き始めて居る。聴いて見るとどれもこれも新しい発見がある。若い頃に気が付かなかった点やら、十分に聴いて居なかったミュージシャンが気に掛かる。私は最近、「頭脳警察」などに嵌まって居る。1970年代の初頭から80年代に掛けて音楽シーンを直走ったバンドだ。私はファースト・アルバムしか聞いて居なかった。TSUTAYAから最近、セカンド、サードとCDを借りてカセットテープに録音して聞いて居る。今聴くと当時は過激だった歌詞も、これは硬派だけどアリだな。と頷けるのだ。彼らの音楽は全共闘の連中やら当時の世相に感化された人たちの鎮魂歌だった。ファースト・アルバムはいきなりライブだ。そして放送禁止用語もあってセカンド・アルバムは当時1週間ぐらいで発売禁止になった。しかしギターと歌のパンタは神聖化されて居る。彼らも、もう今や70歳を超える。しかし頭脳警察は最近若手のミュージシャンをメンバーに添えて復活した。彼らの歌にはアナーキーな香りが漂う。昔は時代もあり問題視されたが、今は今風の体制批判などの歌が聞ける。
頭脳警察 / 銃を取れ Live
もう一つのバンドが居る。「外道」だ。彼らも1970年代にミッキー・カーティスらに見出されたバンドだ。加納のギターはブギを多用して居た。しかし今はリードギターとしてブルージーなフレーズを聞かせる。バンド名の「外道」とはライブ演奏で問題を起こした時に警官から昔言われた言葉だ。それをバンド名とした。彼らもまた最新のCDをリリースして居る。あと昔のバンドで今気になって居るバンドが居る。日本で初めてシカゴ・ブルースの雰囲気の曲を演奏して居た「村八分」だ。彼らは確か京大の西部講堂でのバンド・ラストのライブ盤が正式なレコードとなった様に記憶して居る。ギタリストのチャー がパンク・ロックの「セックス・ピストルズ」を聞いて。「これって「村八分」じゃない?」と言った事が伝説になって居る。パンク・バンドとしても影響力があった。こう聞いて行くと、昔のロックバンドは毒気があった。いや、強烈な個性があった。そしてどのバンドも反体制でアナーキーだ。
外道ライヴ!! 約40年前の日本に、こんな素晴らしい音楽が!!
くたびれて / 村八分(from "1979")2019 Remaster
80年代から90年代に掛けて有名だったパンク・ロックバンド「スターリン」は吉本隆明の対幻想に感化されて居た。哲学者・吉本隆明も「スターリン」を気に入り。よくメンバーと雑誌やテレビで対談をして居た。私はパンクは余り詳しく無い。パンクを語るには歳を取りすぎた様だ。ただ今挙げたバンドはよく聴いては居た。私はこれでもブルース・ハーピストの端くれだ。どうしてもブルースからは逃れられない。ブルースは有りと凡ゆる音楽に影響を及ぼして居る。クラシックを除いてだが。ただ中国ではブルースは受け入られては居ない。ブルース・ハーピスト平松悟はハーモニカ1本持って中国大陸を横断したそうだ。彼は至る所でブルースを演奏したが中国人はちっとも感激しなかったそうだ。中国にもロックバンドは居る。以前、テレビで見た事があるが、はっきり言ってお粗末なものだった。ブルーノート・スケールが解らないのだ。中国で文化大革命の後に上映された「君よ憤怒の川を渡れ」での劇中に流れるブルージーで居て尚且つジャージーなメロディーを聴いた観衆は戸惑ったそうだ。初めて聴く旋律だったからだ。この映画は中国で大ヒットし。国民的な映画として人気が高い。反対に台湾。香港などはブルースが僅かながらだが浸透して居る。「クリエイション」と言うバンドで「マウンテン」のベーシストで音楽プロディーサーのフィリックス・パッパラルディーとアメリカ・ツアーもした事がある日本のブルース・ロックギタリスト、竹田和夫は香港のクラブで演奏して居るブルース・ギタリストを見出した。「Tommy Chun」と言う。私は彼のCDを持って居る。
自らの言葉で立つ~思想家 吉本隆明~第5回 戦後史証言プロジェクト 知の巨人たち(字幕付き)
THE STALIN 【仰げば尊し】
Tommy Chung HK blues legend
何故なら確かセカンド・アルバムだったと思うが、私のブルースハープの師匠である、ウイーピング・ハープ・セノウこと、妹尾隆一郎さんがハープで共演して居るからだ。彼のギターは黒人というよりの白人のブルース・ロック・ギタリスト、ジョニー・ウインターやらエリック・クラプトンを可也研究したフレーズを弾く。歌声はまるでジョニー・ウインターそっくりだ。聴く処に寄ると台湾やら香港のブルース・シーンは最近になって要約1950年代のシカゴ・ブルースなどを聴く人が増えたらしい、そう言った意味では、日本のブルース・シーンは本場アメリカに次ぐと思う。ヨーロッパでのブルース・シーンもデンマークでのブルース・ミュージシャンは聴くべきものがあるが、大体がヨーロッパはクラシックの土壌だ。フランスではそれでもある程度のブルース・シーンは開けて居る。矢張り日本がアメリカの次だろうと思う。
Bensonhurst Blues - Oscar Benton перевод на русский
The Twelve Bar Bluesband - I 'm a Bluesman - live at bluesmoose Café
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自撮りです。。。顔が歪んでいる。Σ(゚д゚lll)
寺山修司の短歌。。。
歌人としての寺山修司は、塚本邦雄や岡井隆と並んで、革新的な前衛短歌運動を組織した事で知られている。
「寺山修司・全短歌集」より
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(27ページ)
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり(162ページ)
草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の愛とは何ぞ(164ページ)
いずれも彼の代表作として広く暗誦されている歌である。どれも響いては来る。それでも、これらの歌にある新しさ、と言う点については、正直ピンと来なかったのだ。「前衛は滅びやすい」と言う言葉のとおり、新しいものと言うのはすぐにその新しさを失って仕舞う。寺山修司が発表した当時に新しかったものが今の私に取って新奇なものとは映らないのも、仕方のない事なのかも知れなかった。そもそも、寺山修司が新しいかどうかなんて、文学史を書く様な人だけが気にするべき事で、個人には何の関わりもない些末な事柄に違いない。いつもどおり、好きだった歌をだらだら引用していけばいいじゃない、とも思っていた。でも、最初に書いたとおり、違和感があったのだ。現代の立場から見ても、「この歌人はちょっと違うぞ」という感覚があった。それなのにこの違和感に与える言葉が見つからずに居たのである。
永田和宏の「現代秀歌」がヒントとして与えてくれて居たのは「フィクショナルな私」という抽象的な言葉で、どう言う事なのか、頭の弱い私にはやはりピンと来ない。ところが、先日気晴らしに映画を見て居た時に、ああ、寺山修司の短歌って映画なんだ、と、ふいに思い付いたのだ。私は「フィクショナルな私」と言うのを、「私」すなわち一人称の置き換え程度にしか考えておらず、だから「フィクショナルな私」と言われても、それだったら『源氏物語』で作中人物の立場で歌を詠みまくった紫式部だって、「フィクショナルな私」を書いて居たはずだ、などと言う的外れな事を考えて仕舞って居たのだが、此処での話題はじつは一人称にあるのではない。寺山修司の短歌は、映画なのである。つまり、誤解を恐れずに言うと、寺山修司は三人称で短歌を書いたのだ。
以下。寺山修司・短歌大全から抜粋。。。
鉄屑をつらぬき芽ぐむポプラの木歌よ女工のなかにも生れよ(10ページ)
だれも見ては黙って過ぎきさむき田に抜きのこされし杭一本を(12ページ)
めつむりていても濁流はやかりき食えざる詩すらまとまらざれば(13ページ)
にんじんの種子庭に蒔くそれのみの牧師のしあわせ見てしまいたる(16ページ)
かわきたる田旋蹴とばしゆく人たち愚痴を主張になし得ぬままに(17ページ)
轢かれたる犬よりとびだせる蚤にコンクリートの冬ひろがれり(18ページ)
広場さむしクリスマスツリーで浮浪児とその姉が背をくらべていたり(19ページ)
枯れながら向日葵立てり声のなき凱歌を遠き日がかえらしむ(22ページ)
群衆のなかに昨日を失いし青年が夜の蟻を見ており(28ページ)
意図的に、「私」が登場して来ない歌ばかりを選んで見た。すべて第一歌集『空には本』より。映画という考え方を持って見てみると、寺山修司の目がカメラの向こう側にあるような気がして来る。「女工」や「牧師」、「浮浪児」といった語句は、此処では「私」の目に映って居る人びとと言うよりも、三人称で語られている文学の登場人物として現れて居る様に思えるのだ。しかも、これは歌のなかに「私」が出て来る時も同様なのである。
向日葵は枯れつつ花を捧げおり父の墓標はわれより低し(7ページ)
銃声をききたくてきし寒林のその一本に尿まりて帰る(12ページ)
鶏屠りきしジャンパーを吊したる壁に足向けひとり眠れり(13ページ)
父葬りてひとり帰れりびしょ濡れのわれの帽子と雨の雲雀と(13ページ)
冬の欅勝利のごとく立ちていん酔いて歌いてわが去りしのち(14ページ)
朝の渚より拾いきし流木を削りておりぬ愛に渇けば(15ページ)
胸の上這わしむ蟹のざわざわに目をつむりおり愛に渇けば(17ページ)
わが野性たとえば木椅子きしませて牧師の一句たやすく奪う(17ページ)
われの神なるやもしれぬ冬の鳩を撃ちて硝煙あげつつ帰る(18ページ)
夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず(21ページ)
歌の中の「われ」までもが、三人称で語られる文学の登場人物の様に思えはしないだろうか。たとえば岩田正の「郷心婦」が見せて居た様な日常感、現実味と言うものが、此処にはぜんぜん存在しない。ただ、これも誤解を招きそうなので書いて置きたいのだが、寺山修司の「われ」から現実味が感じられないと言うのは、けっして悪い事ではない。良いとか悪いとか、そう言う事ではないのだ。小説作品で一人称と三人称のどちらが優れて居るか、と言う様な議論がぜんぜん意味のないものであるのと、事情はまったく同じである。「われ」の存在から現実味が感じられないからと言って、その「われ」の言葉が美しくない訳はないのだ。
下向きの髭もつ農夫通るたび「神」と思えりかかわりもなし(22ページ)
「雲の幅に暮れ行く土地よ誰のためわれに不毛の詩は生るるや」(23ページ)
目つむりて春の雪崩をききいしがやがてふたたび墓掘りはじむ(23ページ)
寝にもどるのみのわが部屋生くる蠅つけて蠅取紙ぶらさがる(28ページ)
コンクリートの歩道に破裂せる鼠見て過ぐさむく何か急ぎて(28ページ)
一本の骨をかくしにゆく犬のうしろよりわれ枯草をゆく(29ページ)
わが影を出てゆくパンの蠅一匹すぐに冬木の影にかこまる(30ページ)
蠅叩き舐めいる冬の蠅一匹なぐさめられて酔いて帰れば(30ページ)
以上はすべて第一歌集『空には本』に収められた歌で、この歌集に寄せられた「あとがき」的な文章も掲載されていた。
「新しいものがありすぎる以上、捨てられた瓦石がありすぎる以上、僕もまた「今少しばかりのこっているものを」粗末にすることができなかった。のびすぎた僕の身長がシャツのなかへかくれたがるように、若さが僕に様式という枷を必要とした。
定径詩はこうして僕のなかのドアをノックしたのである。
縄目なしには自由の恩恵はわかりがたいように、定型という枷が僕の言語に自由をもたらした」(「僕のノオト」『空には本』より、32~33ページ)
枷が自由をもたらす、というのは非常にウリポ的な考えかたで、個人的にはかなりテンションが上がってしまうのだが、この「僕のノオト」にはこれまで述べてきた事に関連する非常に重要なことが書かれているので、立ち止まることはせずにそちらを見る。
「僕はどんなイデオロギーのためにも「役立つ短歌」は作るまいと思った。われわれに興味があるのは思想ではなくて思想をもった人間なのであるから」 (「僕のノオト」『空には本』より、33ページ)
「ただ冗漫に自己を語りたがる事への激しいさげすみが、僕に意固地な位に告白癖を戒めさせた。
「私」性文学の短歌にとっては無私に近づくほど多くの読者の自発性になりうるからである」(「僕のノオト」『空には本』より、34ページ)
そう、言うまでもなく短歌というのは「「私」性文学」なのだ。「無私に近づく」というのは、内容を一般化しようと言うのではない。そうではなく、寺山修司は、三人称の立場から歌を詠む術を編み出した。これは、ただ「私」という語の代わりに登場人物の名が充てられた様なヘミングウエイ的な三人称ではない。それはむしろラディゲ、「肉体の悪魔」を一人称で書いたのち、殆ど同じ話である「ドルジェル博の舞踏会」を、今度は達観した三人称で語りなおしたラディゲに近い。ラディゲがこの二作品のあいだに体験したのと同じ思考の転換、つまりは革命が、十代の寺山修司にも起こったのかも知れない。第二歌集『血と麦』の「あとがき」にはこんな文章もあった。
「私はコンフェッション、と言う事を考えて見た事もなかった。だが、私個人が不在であることによってより大きな「私」が感じられるというのではなしに、私の体験があって尚私を越えるもの、個人体験を越える一つの力が望ましいのだ。私は近頃Soul という言葉が好きである」(「私のノオト」『血と麦』より、83ページ)
空を詠んだ歌は驚く程沢山あって、どれも言葉としての「鳥」と同様に、特別な意味が与えられている。寺山修司に取っての「空」、と言うテーマで論文が書けそうな程だ。そんなもの、あっても私は絶対に読まないだろうけれど。正直に告白すると、私がこんなふうに共通する語句が登場する歌を並列して居るのは、引きたい歌が多すぎて収拾がつかなくなったからである。自分が気に入った歌をちょっと整理してみようと言う以上の意味はない。
無名にて死なば星らにまぎれんか輝く空の生贄として(50ページ)
歌ひとつ覚えるたびに星ひとつ熟れて灯れるわが空をもつ(55ページ)
けたたましくピアノ鳴るなり滅びゆく邸の玻璃戸に空澄みながら(59ページ)
高度4メートルの空にぶらさがり背広着しゆゑ星ともなれず(98ページ)
大いなる欅にわれは質問す空のもつとも青からむ場所(99ページ)
呼ぶたびにひろがる雲をおそれゐき人生以前の日の屋根裏に(124ページ)
漂いてゆくときにみなわれを呼ぶ空の魚と言葉と風と(174ページ)
夜にいりし他人の空にいくつかの星の歌かきわれら眠らん(176ページ)
青空に谺の上にわれら書かんすべての明日に否と書かんと(177ページ)
滅びつつ秋の地平に照る雲よ涙は愛のためにのみあり(177ページ)
青空より破片あつめてきしごとき愛語を言えりわれに抱かれて(180ページ)
理科室に蝶とじこめてきて眠る空を世界の恋人として(180ページ)
空を大きな甕のごとくに乗せてくる父よ何もて充たさんつもり(181ページ)
青空はわがアルコールあおむけにわが選ぶ日日わが捨てる夢(182ページ)
たそがれの空は希望のいれものぞ外套とビスケットを投げあげて(183ページ)
海を詠んだ歌も数多く、最初にあげた有名な一首〈海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり〉以外にも、素晴らしいものが沢山あった。
まっくらな海に電球うかびおりわが欲望の時充ちがたき(41ページ)
死ぬならば真夏の波止場あおむけにわが血怒濤となりゆく空に(44ページ)
うたのことば字にかくことももどかしく波消し去れりわが祝婚歌(47ページ)
許されて一日海を想うことも不貞ならんや食卓の前(56ページ)
壜詰の蝶を流してやりし川さむざむとして海に注げり(101ページ)
灯台に風吹き雲は時追えりあこがれきしはこの海ならず(167ページ)
少年のわが夏逝けりあこがれしゆえに恐れし海を見ぬまに(169ページ)
遠き帆とわれとつなぎて吹く風に孤りを誇りいし少年時(170ページ)
やがて海へ出る夏の川あかるくてわれは映されながら沿いゆく(171ページ)
海よその青さのかぎりなきなかになにか失くせしままわれ育つ(175ページ)
海のない帆掛船ありわが内にわれの不在の銅羅鳴りつづく(182ページ)
寺山修司にとっての故郷、つまりは青森県を詠んだいわゆる望郷歌も数多くあり、それに関連して父や母が登場して来る事もあった。だが、これら語彙としての「父」も「母」も、やはり文学作品のなかの登場人物という雰囲気を強くまとって居て、寺山修司の現実の父母とはぜんぜん関係がないと思わずには居られない。
つきささる寒の三日月わが詩もて慰む母を一人持つのみ(49ページ)
冬海に横向きにあるオートバイ母よりちかき人ふいに欲し(52ページ)
母売りてかへりみちなる少年が溜息橋で月を吐きをり(107ページ)
言葉葬けむりもあげずをはるなり紙虫(しみ)のなかなる望郷の冬(109ページ)
ひとの故郷買ひそこねたる男来て古着屋の前通りすぎたり(125ページ)
老父ひとり泳ぎをはりし秋の海にわれの家系の脂泛きしや(126ページ)
吸ひさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず(127ページ)
わが息もて花粉どこまでとばすとも青森県を越ゆる由なし(137ページ)
ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし(165ページ)
ふるさとにわれを拒まんものなきはむしろさみしく桜の実照る(166ページ)
初めに引用した『空には本』からの数首に見られるとおり、寺山修司の短歌では「父」はすでに亡きものとして登場して来る事が多いのだが、同様に「叔父」も、死に取りつかれた存在として描かれて居る事が多い。死というのは一般的には非日常の極みだが、寺山修司が死を詠むときには、ほかの歌が余りにもにも非日常的な印象を与えて来る為か、反対にとても自然な、ごくごく日常的な事の様に見えてくる。人間は誰でもいつかは死ぬ、と言う当たり前の事を、人は普段忘れて生きて居る、そうでなければ生きられないものだが、寺山修司の死は日常と目に見えて連続して居て、だからこの非日常に溢れた歌集の中では奇妙な現実味を帯びて居るのかも知れない。それは寺山修司の歌集に収められて居ると言う事の文脈がもたらす効果なのかも知れないので、一首をぜんぜん別の形で目にしたら状況は違って来るのかも知れないけれども。
冬井戸にわれの死霊を映してみん投げこむものを何も持たねば(52ページ)
町裏で一番さきに灯ともすはダンス教室わが叔父は 癌(86ページ)
酔ひどれし叔父が帽子にかざりしは葬儀の花輪の中の一輪(87ページ)
幾百キロ歩き終りし松葉杖捨てられてある 老人ハウス(89ページ)
ジュークボックスにジャズがかかればいつも来るポマード臭ききみの悪霊(91ページ)
花好きの葬儀屋ふたり去りしあとわが家の庭の菊 首無し(106ページ)
いまだ首吊らざりし縄たばねられ背後の壁に古びつつあり(117ページ)
川に逆らひ咲く万寿沙華赤ければせつに地獄へ行きたし今日も(117ページ)
鋸の熱き歯をもてわが挽きし夜のひまはりつひに 首無し(121ページ)
また、以下は「初期歌篇」に収められた一連、「夏美の歌」より。この一連に収められた作品はすでに上にもいくつか引いて居るのだが、この作風のぶれなさには驚いてしまう。若書き、と言う様な概念は、寺山修司には存在しない。
君のため一つの声とわれならん失いし日を歌わんために(176ページ)
空にまく種子選ばんと抱きつつ夏美のなかにわが入りゆく(176ページ)
木や草の言葉でわれら愛すときズボンに木洩れ日がたまりおり(177ページ)
木がうたう木の歌みちし夜の野に夏美が蒔きし種子を見にゆく(178ページ)
藁の匂いのする黒髪に頬よせてわれら眠らん山羊寝しあとに(178ページ)
帆やランプなどが生かしむやわらかき日ざしのなかの夏美との朝(179ページ)
青空のどこの港へ着くとなく声は夏美を呼ぶ歌となる(179ページ)
どのように窓ひらくともわが内に空を失くせし夏美が眠る(179ページ)
空を呼ぶ夏美のこだまわが胸を過ぎゆくときの生を記憶す(180ページ)
わがカヌーさみしからずや幾たびも他人の夢を川ぎしとして(180ページ)
わが埋めし種子一粒も眠りいん遠き内部にけむる夕焼(183ページ)
水草の息づくなかにわが捨てし言葉は少年が見出ださむ(184ページ)
わが内に獣の眠り落ちしあとも太陽はあり頭蓋をぬけて(185ページ)
以下、自分が読んで居て「これは!」と思った歌を、もう手当たり次第に挙げていく。収録歌数が多すぎ、気に入った歌も多すぎるのだ。なにせ歌集五冊分である。
地下水道をいま通りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり(36ページ)
大声で叫ぶ名が欲し地下鉄の壁に触れきしシャツ汚れつつ(42ページ)
地下鉄の汚れし壁に書かれ古り傷のごとくに忘られ、自由(42ページ)
砂糖きびの殻焼くことも欲望のなかに数えんさびしき朝は(43ページ)
ドラム罐に顎のせて見るわが町の地平はいつも塵芥吹くぞ(46ページ)
電線はみなわが胸をつらぬきて冬田へゆけり祈りのあとを(51ページ)
寝台の上にやさしき沈黙と眠いレモンを置く夜ながし(53ページ)
きみが歌うクロッカスの歌も新しき家具の一つに数えんとする(54ページ)
悲しみは一つの果実てのひらの上に熟れつつ手渡しもせず(56ページ)
愛されているうなじ見せ薔薇を剪るこの安らぎをふいに蔑む(64ページ)
地下鉄の入口ふかく入りゆきし蝶よ薄暮のわれ脱けゆきて(68ページ)
胸の上に灼けたる遮断機が下りぬ正午はだれも愛持たざらん(70ページ)
壁となる前のセメント練り箱にさかさにわれの影埋めらる(79ページ)
田園の痛みは捨てて帰らんか大学ノートまで陽灼けして(80ページ)
思い出すたびに大きくなる船のごとき論理をもつ村の書記(81ページ)
ただ、ちょっと矛盾して居る様に見えるかも知れないが、寺山修司の短歌については、どの一首が特別に好き、と言うような、作品ごとの個別の愛着と言うのが余り湧いて来ない。そういう意味では、この歌集の読後感は長篇小説によく似ている。長篇小説を読んでいる最中、とびきり気の利いた一行に出会う事が小説全体の印象を変えて仕舞う様に、この歌集のなかでの一首は、「寺山修司の短歌」と言うひとつの大きな作品のなかの細部として映るのだ。
だから、寺山修司の短歌と向き合って居ても、これは好きだけどあれは嫌い、と言う様な感情は働いて来ない。どれか一首を、と言う様な愛し方は出来ないと思うのだ。「寺山修司の短歌」が好きか嫌いか、と言う二者択一しか存在しない様にさえ思える。つまりは、「寺山修司の短歌」が好き、となった途端に、彼の短歌すべてが気に入った歌になってしまう。
失いし言葉がみんな生きるとき夕焼けており種子も破片も(173ページ)
駈けてきてふいにとまればわれをこえてゆく風たちの時を呼ぶこえ(175ページ)
「今日までの私は大変「反生活的」であったと思う。そしてそれはそれでよかったと思う。だが今日からの私は「反人生的」であろうと思っているのである」(「私のノオト」『血と麦』より、83ページ)
「地球儀を見ながら私は「偉大な思想などにはならなくともいいから、偉大な質問になりたい」と思っていたのである」(「跋」『田園に死す』より、158〜159ページ)
処で、実に今更ながら、この歌集には純粋な短歌以外の作品も収められて居る。いや、まるきり短歌と縁のない作品と言うのではなく、『テーブルの上の荒野』や『田園に死す』に収められた「新・病草紙」や「新・餓鬼草紙」といった、歌物語的な散文が収録されて居るのだ。その語り口が非常に面白い。
「まことに今宵は書斎の里のざこ寝とて定型七五 花鳥風月 雅辞古語雑俳用語、漢字ひらがな、形容詩詞にかぎらず新旧かなづかひのわかちもなく みだりがはしくうちふして 一夜は何事も許すとかや。いざ、是より、と朧なる暗闇に、さくら紙もちてもぐりこめば、筆はりんりんと勃起をなし、その穂先したたるばかり。言葉之介、一首まとめむと花鳥風月をまさぐれば、まだいはけなき姿にて逃げまはるもあり。そのなかをやはらかく こきあげられて絶句せるは、老いたる句読点ならむか」(108〜109ページ)
以下の「新・病草紙」は、ぞっとするほど愉快で、ちょっと稲垣足穂の「一千一秒」を思わせる。
「ちかごろ男ありけり、風病によりて、さはるものにみな、毛生ゆるなれば、おのれを恥ぢて何ごとにも、あたらず、さはらず。ただ、おのがアパートにこもりて、妻と酒とにのみかかはりあひて暮しゐたり」(138ページ)
「ちかごろ、自殺はかりたる男、わけを訊きたれば時計おそろしと云ふ。古き柱時計に首縊りたる老母の屍の、風に吹かるる振子におのが日日を刻まるるは、ただ、おぼつかなし。されば、ひとの決めたる「時」にて、おのが日日を裁断さるるはゆるしがたく、みづから時計にならむとはかりぬ」(143ページ)
「ちか頃、縊りの病といふあり。細紐と見たれば縊りたきこころ、おさへがたきものなり。
水仙の花あれば木にそを縊り、花嫁人形あれば、そを縊る。その患者ゆくところ、縊られざるものはなし。みな、患者のふかきふかき情のあらはれゆゑ、ひとかれを詩人と呼ぶこともあり」(147ページ)
歌物語、と書いたとおり、これらの散文には短歌が登場して来るのだが、それらの作中歌が寺山修司の普段の作品とぜんぜん変わらないと言う事にも注目したい。じつは此処に登場する歌も、上の膨大な引用のなかに含ませて居るのだが、どれが作中歌かなんて、言われなければ絶対に解らないだろうと思う。
「花食ひたし、という老人の会あり。槐、棕櫚、牡丹、浦島草、茨、昼顔などもちよりて思案にくれてゐたり。一の老、鍋に煮て食はむと言へども鍋なし。さればと地球儀を二つに割りて鍋がはりに水をたたえて花を煮たれど、花の色褪めて美食のたのしびうすし。また二の老、焼き花にせむと火の上に串刺しの花をならべて調理するも、花燃えてすぐにかたちなし。されば三の老、蒸し花、煎り花料理をこころみしが、これも趣きなし。花は芍薬、罌粟、紫蘭、金魚草などみな鮮度よければ、なまのまま食はむと四の老言ひて盛りつけたれど、老、口ひらくことせまく、花を頬ばり、咀嚼すること難し」(151〜152ページ)
「無才なるおにあり、名づくる名なし、かたちみにくく大いなる耳と剝きだしの目をもちたり。このおに、ひとの詩あまた食らひて、くちのなか歯くそ、のんどにつまるものみな言葉、言葉、言葉―ひとの詩句の咀嚼かなはぬものばかりなり」(154ページ)
そう考えて見ると、やはり寺山修司の短歌は三人称文学なのだ、と、最初に書いた事を改めて強く思う。。
「いったい、十六年という歳月は、長いのか短いのか、どちらだろう。むろん作者にとっても、それはどうとも言えないはずだが、変貌という点ではめざましく、出現の当時が十八歳、早稲田の教育学部の学生だったのが、現在は劇団天井桟敷の主宰者で前衛演劇の中心人物となり、その成果を世界の各国に問うているのを見ても肯けよう。一方、千年の歴史を持つ短歌の中においてみると、その年月は、あたかも掌から海へ届くまでの、雫の一たらしほどにもはかない時間といえる。だがこの雫は、決してただの水滴ではなく、もっとも香り高い美酒であり香油でもあって、その一滴がしたたり落ちるが早いか、海はたちまち薔薇いろにけぶり立ち、波は酩酊し、きらめき砕けながら「いと深きものの姿」を現前させたのだった」(中井英夫「解説」より、186~187ページ)
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Cassette tapes Resurgence | Waltz Nakameguro
TOKYO VINYL #1 NAKAMEGURO × Vinyl People
〜〜お買い得、ラジカセを2台紹介〜〜
ラジカセ/TLS-8800/昭和の想いでラジカセ
あの懐かしい青春時代を想い出させるラジカセです。
青春時代に欲しくてたまらなかった、トランジスタラジオ&
テープレコーダー、1970年代の懐かしい青春時代の想い出
がよみがえる、憧れのラジカセで深夜ラジオ番組を録音しょう!!
【商品特徴】
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•昔、懐かしいヴィンテージモデル。
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•持運びに便利な2電源、DC100V+単一乾電池×4本併用タイプ。
【録音機能】
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【商品仕様】
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※短波放送は時間帯や季節、環境により受信が困難な場合がありますが本体の故障ではありません。
電離層の変化で反射される電波の強さが変わったり、異なる経路で干渉しあったりして起こるものです。
サンスイ
SCR-B2
実売価格例:5770円
![画像: ’80年代に大流行した横長コンパクトラジカセを模した、デジタルオーディオ対応のラジカセ。ラジオ(ワイドFM対応)、カセットテープのほか、USBメモリーとSDカードに保存したMP3ファイルの再生が可能。ブルートゥースにも対応しており、スマホの音楽などを本機で聴ける。 ●受信周波数/AM、FM●ブルートゥース/Ver.4.2(BLE)とVer.2.1+EDRに対応、対応プロファイル:A2DP、AVRCP、対応コーデック:SBC●USB・SD再生可能フォーマット/MP3●電源/AC 100V、単1電池×6●サイズ/幅317㎜×高さ115㎜×奥行き95㎜●重量/約1.2㎏](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783321/rc/2018/10/16/cce886b0a9d758d1786024318669e0455692bfb7_xlarge.jpg)
’80年代に大流行した横長コンパクトラジカセを模した、デジタルオーディオ対応のラジカセ。ラジオ(ワイドFM対応)、カセットテープのほか、USBメモリーとSDカードに保存したMP3ファイルの再生が可能。ブルートゥースにも対応しており、スマホの音楽などを本機で聴ける。
●受信周波数/AM、FM●ブルートゥース/Ver.4.2(BLE)とVer.2.1+EDRに対応、対応プロファイル:A2DP、AVRCP、対応コーデック:SBC●USB・SD再生可能フォーマット/MP3●電源/AC
100V、単1電池×6●サイズ/幅317㎜×高さ115㎜×奥行き95㎜●重量/約1.2㎏
単1電池でも駆動するので災害時にも役立ちそう
カセット部分はシンプルな仕様で再生も録音もノーマルテープのみに対応。本体上面に配置されるカセットの操作ボタンも、’80年代当時と同じ仕様なので、ある程度の世代以上は説明書なしで使えるはず。
内蔵ソースとしてはラジオと、USB、SDカードのデジタルオーディオ再生に対応しており、これらをカセットテープで録音することができる。ラジカセ全盛時代のように、深夜ラジオのカセット録音が、今また楽しめる。ソースを指定しないで録音ボタンを押した場合には、内蔵マイクでの録音が開始されるのも、当時のラジカセと同じだ。
カセットを再生した場合の音質も’80年代テイストで、このサイズのラジカセとしては十分という感じ。まじめに音質を追うというより、手軽にカセットやデジタルオーディオを楽しむための機器である。
ブルートゥースを搭載しており、スマホなどから音楽データを受け取って、本機で鳴らすことが可能。通常はAC電源駆動だが、単1電池4本でも作動する。その場合、ラジオなら90時間の再生ができるので、災害への備えにもなりそうである。
●’80年代テイストの操作系
![画像: 本体上面のカセットの操作系は、当時と同じ「ガシャン」と押すタイプ。録音を押すと再生も下がるなど、昔懐かしいスタイルである。](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783321/rc/2018/10/16/6aaca1ba07653d54648f20db80a8a81662d65f2c_xlarge.jpg)
本体上面のカセットの操作系は、当時と同じ「ガシャン」と押すタイプ。録音を押すと再生も下がるなど、昔懐かしいスタイルである。
●USB、SDカードに対応
![画像: 本体天面にUSB端子とSDカードスロットを装備。USBメモリーやSDカードに保存したMP3音声を再生することができる。](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783321/rc/2018/10/16/adab8740f8b1a4c35c5ed77ebea8f9b96259cc92_xlarge.jpg)
本体天面にUSB端子とSDカードスロットを装備。USBメモリーやSDカードに保存したMP3音声を再生することができる。
●ブルートゥース受信が可能
![画像: ブルートゥースを搭載しており、スマホなどと連係可能。セレクターを「BT/USB/SD」にし、スマホで本機を見つけてペアリング完了となる。](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783321/rc/2018/10/16/bb8b97c24fc3f25e52e714479966ad19228576ca_xlarge.jpg)
ブルートゥースを搭載しており、スマホなどと連係可能。セレクターを「BT/USB/SD」にし、スマホで本機を見つけてペアリング完了となる。
●機動性のいい乾電池駆動
![画像: 往年のラジカセと同様に、単1電池4本でワイヤレス駆動が可能。カセットの再生なら約50時間、ラジオの再生なら約90時間駆動できる。](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783321/rc/2018/10/16/67166ab6a47ed402245b439bc706df1d3ad5a35f_xlarge.jpg)
往年のラジカセと同様に、単1電池4本でワイヤレス駆動が可能。カセットの再生なら約50時間、ラジオの再生なら約90時間駆動出来る。皆さん、ラジカセでカセットテープで音楽を聴きませんか?アナログはデジタルに比べていいものですよ。今回は此処までです。此処まで読んでくれて有難う御座いました。