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月華抄 北園俊治

こゝまでわかってきた、邪馬臺国と卑弥呼、そして空白の四世紀

 日本古代史と東洋古代史、及びそれらを裏付ける考古学の進展はすごいな。
 
 古墳の形式を、いわば連合の象徴とする説には、僕はまた民俗学的に別の関心を抱くが、さておき、歴史学としては、前方後円墳を、卑弥呼(「ひめみこ」のあて字であろう)の治める邪馬臺(「やまと」のあて字であろう)国を盟主とする連合の象徴と考える。
 一方、謎であった、宿敵の狗奴国の実体も画期的にみえてきた。なんと、前方後方墳を象徴とする東海から東日本の連合の盟主ではないかと考える。
 つまり、東日本に、邪馬臺国と対抗する強大な勢力があったことになる。このことは、古代の関東に、意外にも大勢力の神社が存在した可能性と合致すると、僕はふと考える。
 この紛争に決着をつけるべく、卑弥呼は、魏と呉との緊張関係を巧みに利用し、魏と制海権の提携をすることで、支援を引き出したと、中国史の方では考えている。則ち、「親魏倭王」の金印を拝受して、邪馬臺国の権威とした。
 そして、4世紀にかけて、陸奥まで前方後円墳に置き換わっていく。つまり、邪馬臺国勢力の東征であろう。このあたりは記紀神話から想像がなされてくる。
 かくして、邪馬臺国は、そのまゝ、前方後円墳を継承する大和王権となり、東国に至るまで倭国の統一が成る。
 断片的であった日本の古代史が、ようやく繋がってきた。

 僕は、近畿の人間でありながら、長らく、邪馬臺国の母体は北九州であると考え、大和への移動説をとっていた。しかし、これだけ考古学的な証拠を挙げられてくると、たしかに、巻向遺跡はいわゆる卑弥呼の宮殿で、箸墓古墳を彼女の墓と考えたい説に賛同せざるを得ない。
 箸墓古墳の高度な土木技術は、卑弥呼の外交戦略により、魏から供与されたものであろう。

NHKオンデマンド 

追記 4月28日

 大和史観からすると、東日本というのは、蛮夷の未開の地と見えがちながら、何の基盤もなく、平安末期に鎌倉に武家政権の俄に出現すべうもあらず。そもそも、縄文期は、東日本の方が人口は圧倒的に多かったらしい。
 春秋戦国期の大陸から、許多の渡来人が難民のようにやってきた弥生期、西日本に稲作農耕による新たな「くに」、つまり勢力圏があちらこちらに発生した。戦という行動様式と共に。後の三国志の時代にも渡来してきた。
 「狗奴国」を、東日本旧勢力とする説は面白い。今の中部地方あたりが拠点であったか。僕は、伊那など、「那」のつく地名との関連を推測している。前方後方墳を象徴としたとの説あり。
 やがて、いわゆる倭の五王の古墳時代に、大陸の権威を利用した大和王権の巧みな東征によって、前方後円墳を象徴とする大和の体制に東国は制圧されていく。たしかに、記紀神話の解釈と適うところが多い。
 その後、東国に潜在的に軍事基盤の形成された背景として、一つには新兵器の馬の飼育が大きかったのではと、僕も推測する。古墳時代に朝鮮から伝わったとされる。温暖な古代にあって、大陸伝来の馬の飼育は、寒冷な東日本の高地が適した。東国に騎馬武者が発達していく端緒は、すでに大和王権の黎明期から、大和王権の政策によって、起こされていたのかもしれない。やがて、古代の終わりに、かくして東国武者が大和に反旗を翻すのであるが。

NHKオンデマンド
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