本当のヨーガを体得しましたので皆さんにご紹介したいと思い、これからいろいろと活動していきます。

 私の体験したヨーガの創始者はゴータマブッダ、即ちお釈迦さんで、日本には大正時代に中村天風によってもたらされました。

鳩摩羅什訳般若心経読み下し

2015-08-27 10:28:54 | 日記
 般若心経と言えば玄奘訳のものがよく知られれていますが、鳩摩羅什訳もいいものです。因みに般若心経のサンスクリット語原点は日本に有る事をご存知ですか?

 それはともかく今日は鳩摩羅什訳の般若心経を読み下してみます。漢訳文は漢字変換が面倒なのでご勘弁下さい。



 観世音菩薩が般若波羅蜜の三昧を深く行じていた時の事を振り返ってみたら五蔭(=五蘊)は空であった(=知覚されなかった)と分かり<一切の苦厄を無くしたのだ>。

注:<一切の苦厄を無くしたのだ>はサンスクリット原典には存在しません。鳩摩羅什や玄奘が付け加えたものですが、これは彼らが般若波羅蜜(多)のなんたるかを知らなかったためです。
 鳩摩羅什は般若波羅蜜と漢訳し、玄奘は般若波羅蜜多と訳しています。何でこうなるのでしょうか?パーリ語ではパンニャパーラミと言いそれを鳩摩羅什は般若波羅蜜と訳しました。
 サンスクリット語に堪能だった玄奘は梵語の「パンニャパーラミータ」を般若波羅蜜多と音訳しました。
 玄奘は観音菩薩を「観自在菩薩」と訳し、鳩摩羅什は「観世音菩薩」としました。
 観世音(=観自在)菩薩、元はヒンズー教のシバ神にあると言われており(仏教者の信仰を否定するつもりはありませんが)、釈迦とは関係ないものです。

 舎利弗よ。(般若波羅蜜の三昧中)色は空であるから崩壊すると苦悩することが無い。受も空だから(快・不快を)感受することが無い。想も空だから(声香味触法を)表彰することが無い。行も空だから(色声香味触法を)欲求することが無い。識が空だから(顕在意識に於いて)知覚・分別することが無い。
注:色受想行識の五蘊については先の文章をご参照下さい。

 それは何故だろうか?

 舎利弗よ。色は空と別の物ではなく、空も色と別のものではないからだ。つまり色が空であり、空が色なのだ。受想行識も同じだよ。

 舎利弗よ。何故なら(般若波羅蜜に於いて)諸法の相(姿・概念)が空(=知覚されない)であるからだ。だから(彼にとっては)何も生じないし消滅しない。汚いものも浄いものも無く、増えたり減ったりするものが無い(つまり何も無い)のだ。これが空の真理だ。(空には)過去が無く、未来が無く、現在も無いのだ。

 (このように)菩薩は一切知覚せず、想いはかることもなかったので、般若波羅蜜(の三昧)に安住している間、妨げになるものの全く無い境地に有ったのだ。
注:ヨーガは「安住」と言う言葉を「心に何も存在しない状態と定義しており、私もそのように使っています)

 妨げになるものの全く無い境地に有った菩薩には恐怖感が無く、物事を逆様に考えて夢想(=妄想)することも無かった。これが本当の涅槃だよ。

 過去・未来・現在の仏達も般若波羅蜜に安住して阿耨多羅三藐三菩提(=無常にして完全なさとり)にいたったのだ。

 だから般若波羅蜜は大明呪であり、無上明呪であり、無等等呪であると知りなさい。

 一切の苦悩を完全に取り除いてくれるのだ。これは真実であって嘘ではない。

 では般若波羅蜜の呪文を教えよう。さあ言うよ。ギャーテイギャーテイ ハラギャーテイ ハラソーギャーテイ 涅槃が分かったね。

   摩訶般若波羅蜜大明呪経
 
 以前にも言いましたが、般若心経の後半「(過去、現在、未来の)三世の仏達も~」以降の文章は要らないものです。

 また鳩摩羅什、玄奘共に般若波羅蜜(多)とは無我の境地の三昧(ヨーガで言う無想三昧)の事であるとは知りませんでした。
 その上二人とも五蘊(=五蔭)とは何か?を分かっておらず、竜樹の嘘八百の理論を信じてしまったのです。
 だから分かったようでわからない訳をし、それをもとに次代の仏教者、仏教学者達が釈迦の仏教を根本的に否定する論理を積み重ねてきたのです。

 もう釈迦の作り上げた仏教とは正反対の教説を説く仏教(らしき)ものに惑わされるのは止める時です。
 
 

8正道とヨーガ8則

2015-08-24 17:29:30 | 日記
 「ヨーガ学派の開祖とされるパタンジャリは、当時存在していた種々の行体系を統合しようと、根本経典『ヨーガ・スートラ』(2~4世紀頃)を編纂した。」(ブリタニカ国際百科事典)とされます。

 また、世界大百科事典(平凡社)はヨーガ・スートラについて「この経典は古くからさまざまな形態で存在していたヨーガを、仏教の影響のもとに、サーンキャ学派の学説を借用して体系化したものである」と言っています。

 ヨーガには3種類(古典ヨーガ、ハタヨーガ、現在のヨガ)ありますが、ヨーガスートラのいうヨーガは古典ヨーガです。

 ヨーガ・スートラは「無想三昧を(古典)ヨーガである」と規定しますが、スートラ自体が仏教の影響の基にまとめられた、という点が需要です。釈迦在世時の仏教者はヨーガ行者とも評されていました。

 釈迦が生まれた当時はバラモン教の時代でした。

 釈迦は出家後(2大)仙人のもとで修行しましたが彼等のレベルの低さに失望し、次に苦行に打ち込みます。
 それでも何も得られなかったので苦行を捨て菩提樹の根元に坐り悟り(無想三昧)を会得しました。
 その悟り(無想三昧=無我の境地)を得た行法を4禅にまとめ、仏教理論を四諦にまとめて元の仲間に説法しました。これを初転法輪と言います。

 ヨーガは釈迦が出る以前から存在し釈迦もそれによって修行をしたのです。彼は誰も無し得なかった無想三昧を体系化し教えました。だから何の実績も名もない彼の元に沙門達が集まったのです。

 ところが彼が死ぬと不出来の弟子達は急速にバラモン教化して行きました。この点は原始経典にも多々見られます。
 彼等は釈迦の4禅、四諦が分からず、4禅の一部にバラモン教の考えを取り入れて8正道を作りました。

 仏教の影響を受けてまとめられたヨーガにはヨーガ8則と言う修行法が有ります。この二つを比較してみましょう。

 仏教の8正道            ヨーガ8則
①正見(正しい見解)         ①制戒 五戒(不殺生、真実語、不盗、不婬、無所有)
②正思惟(正しい思惟)       ②内制(内外の清浄、満足、苦行、学習、専念) 
③正語(正しい言葉)        ③坐法
④正業(正しい行ない)       ④呼吸
⑤正命(正しい心の落着き)     ⑤制感(感覚の抑制)
⑥正精進(正しい努力)       ⑥総持dharana
⑦正念(正しい心の落着き)     ⑦浄慮dhyana
⑧正定(正しい精神統一)      ⑧三昧samadhi
 (岩波仏教辞典)           (ヨーガとサーンキャ思想 中村元著 春秋社刊)

 いかがですか?これだけではなんのこっちゃ?となりますか。ところが⑤以降の絞ってみると分かるのです。
 ⑤はじっと座って心が落ち着き(仏教)、五官が静まってきた状態(ヨーガ)です。
 ⑥、精進とは心を何かから遊離させるための行。総持とは、その為に鼻の先や指先などに精神を集中し余計な事を考えない精神状態に入ることです。
 ⑦はdhyanaとあるように「本当の自己を知得しようとする」行法です。
 ⑧はsamadhiとあるように本来は無想三昧を会得する行法です。しかし仏教はヨーガで言う無想三昧を喪失してしまいました。そこで本来⑦の禅定(dhyana)に入るべき有想三昧4をここに入れてしまいました。

 これらの事はヨーガ・スートラと仏教とを見比べて考えて分かる事です。

 他方、ヨーガ8則の①~④はバラモン教そのものでしょう。
 
 仏教の8正道のそれ(①~④)はバラモン教とは関係ないようです。恐らく「われわれはバラモン教のとは違うのだ!」と主張するために考え出したものでしょう。だから何の事やら分からぬものになったのです。

 それなのに現在の仏教理論は
 四諦ー苦
    集  
    滅
    道 ー 正見
        正思惟
        正語
        正業
        正命
        正精進
        正念
        正定 ー 4禅
などと解説しています。是では釈迦の仏教は分かりません。

 ところで仏教には六波羅蜜多が有ります。
①布施(dana-paramita)
②持戒 (sila-paramita)
③忍辱 (ksanti-paramita)
④精進 (virya-paramita)
⑤禅定 (dhyana-paramita)
⑥智慧 (prajna-paramita)

 これをヨーガ8則と見比べてみるとまた違う事が分かります。ヨーガ8則の①制戒は不殺生、真実語、不盗、不婬、無所有ですが、仏教の持戒には無所有が無く代わりに不飲酒(酒を呑むな)と有ります。無所有は布施として一番に入っています。

 因みに布施(ダーナ・dana)が日本語で言う檀那(ダンナ)です。檀那とは出家(沙門)に食物を無償で提供する人の事を言います。

 六波羅蜜の④精進が精神を一点に集中した後、一切の思いを捨て去る行法。⑤禅定が「真実の自己を知得する行」。本来はこの事を(⑥の)智慧と言います。
 智慧の意味を「この世の真実を知る事」などと考えたのは、仏教が無想三昧(=無我の行=涅槃=空)を喪失した事を表しています。

 このようにあれもこれも総合的にみて行く事が重要です。

 ところで、南方上座部仏教は十派羅蜜多です。①布施 ②戒 ③出家 ④智慧 ⑤精進 ⑥忍 ⑦真実語 ⑧決意 ⑨慈 ⑩捨
 本当は⑩の捨とは⑤の精進のことです。

 さて皆様は六波羅蜜と六波羅蜜多どう違うのか分かりますか?中味は同じです。パーリー語ではパーラミーと言いますがそれを漢訳して波羅蜜、サンスクリット語ではパーラミータ、それを漢訳して波羅蜜多です。


 本日は是にて失礼します。

ヨーガと釈迦の4禅

2015-08-10 11:17:14 | 日記
 ヨーガとは無想三昧の事。それを解説したのが前回紹介しましたヨーガスートラに有る三昧(サマーディ)です。
 広義の禅定(デイヤーナ)=有想三昧(1~4)、
 狭義の禅定=有想三昧(4)
 広義の三昧(サマーディ)=有想三昧(1~4)+無想三昧、
 狭義の三昧=無想三昧(=仏教における無我の境地の三昧=空の境地=涅槃)

 つまり、無想三昧を除いた、有想三昧(1~4)に於いては禅定(デヤーナ)=三昧(サマーディ)です。

 このことは仏教に於いても同じです。今回はヨーガ・スートラに有る有想三昧・無想三昧と釈迦の4禅とが同じものであるという事について書いてみました。

 さて釈迦の死後仏教は無想三昧(=涅槃)を喪失し、禅定=三昧だけが残る事になりました。竜樹はそれを大智度論に「禅定と三昧とは同じである」と書き残したのです。
 
 その後の大乗仏教者、大乗仏教学者は「大智度論に書いて有れば全てOK」と、大智度論に対する検証をせず自論を正当化してきました。
 総て仏教学者がそうだったのですから、その中に居れば安全だったのです。逆に言えば大智度論を批判したり否定したりすれば学会に居られなくなったのでしょう。

 
 仏教の4禅とは何か?「仏教とは何か その思想を考える」大正大学仏教学科[編] 大法輪閣刊 には次のように書いて有ります。

「釈迦が菩提樹下で静かに行った瞑想は『四禅』と呼ばれる。瞑想の深まる段階を四つにまとめたもので、これも悟りの内容とされる。
 初禅は、対象を粗く考えたり(尋)、細かく考えたりし(伺)、『喜』『楽』を伴いながら、心を一つに集中(心一境性)する段階。
 第二禅は、『喜』『楽』『心一境性』のほかに、心の清澄さ(内等浄)、
 第三禅では、『喜』が滅して『捨<平静>』、『念(憶念)』、『慧』、『楽』、『定』、
 第四禅では、『楽』が滅して『不苦不楽』『捨』『定』が現れることをいう。」

 これだけでは何の事なのかさっぱり分からないでしょう。だから仏教僧や仏教学者達は後に(原始仏教典に)書き加えられた8正道等に眼を向けたのです。
 
 しかしそれでも何も得られなかったので経文を捨てた禅宗だ出た。それでも満足出来なかったので浄土宗や日蓮宗が出来たのです。

 ここで、前回紹介しましたヨーガ・スートラに有る有想、無想三昧と天風さんのヨーガ体験を当てはめて4禅を考えてみると分かってきます。

 有想三昧ー①心のよりどころ(対象)を粗雑に経験することーーーこれは4禅の初禅にある「対象を粗く考えたり」に当たります。②対象を微細に経験することーーーこれは初禅の「(対象を)細かく考えたり」に当たります。そして心を何かに集中して行く段階です。即ち4禅の初禅は有想三昧の①,②を合わせたものなのです。

 第2禅は「喜び」が発生し「楽」になります。心が外部の世界に集中していながら一切の不安や憎しみの気分が存在しません。これはヨーガ有想三昧③「歓喜を有しているもの」に相当します。

 第3禅は喜びの気持ちが消滅して捨、念、智慧、楽、定となります。
 先ず「捨」ですがこれは「精進」の事です。ヨーガ・スートラには「心の働きを止滅させる為には実修と離欲が必要である」「実修とは止滅の状態に安住する為の努力をいう」「精進(virya)=貪欲、嫌悪、迷いを止滅させると三昧が起こる。この努力をいう」と有るからです。
*ヨーガでは精進についてこのように書いていますが(原語が同じなのに)、この文章を訳した中村元博士は何故か仏教にこの文章を当てはめていません。
 また五蘊の<行>についてもヨーガでは明確な解釈を書いています。それなのに、その文章を訳した中村博士は無視しています。この当たりが学者の限界なのでしょう。

 さて第3禅の「念(憶念)」とは何か?これは私しか解説できません。仏典には「憶念とは根本的な記憶」などと書いて有ったように思いますが、間違いです。
 第3禅に於いて眉間の前に太陽のようなものが浮かんできますがこの時の精神状態が憶念です。
 次の慧(智慧)とは何か?これは真実の自己を知り得た時の精神状態を表します。智慧(プラジュナー)とはヨーガで言う有想三昧④「我ありという意識=真実の自己」を知得した状態と同じです。
 「楽」は2禅と同じ。
 「定」とは禅定(ディヤーナ)の事。心が統一され、外界を一切感じていない三昧です。これが狭義のデイヤーナです。

 次の第4禅。ここでは苦も楽も無い、精進と定のみの三昧です。心に何も浮かんでいないから苦も楽も無い(感じない)。
 精進とは先に述べた通り。
 ここで言う「定」は3禅とは少し違います。3禅では思考能力が有ります。ただ外界を感じません。
 4禅の「定」は思考能力が有りません。心に<移りかわるもの>が何も無いのです。これが空であり釈迦はこの境地を涅槃と言いました。
 ヨーガにはヴィヤーサの注解が有りますが、無想三昧について次のように書いています。「対象に関する意識を有さない三昧とは、心の全てのはたらきの寄りどころ(対象)が消滅したときに心の止滅することであり、潜在的印象(潜勢力)のみの残余である」
 *潜勢力の原語はsamskara つまり仏教の「行」、複数形は諸行です。

 この注解を意訳してみますと「無想三昧とは心が活動する基のもの(=心に浮かんだ一切のもの)が消滅している。その結果、心の働きが止まってしまった状態を言うのであるが。(ただし、それは意識を失ってしまったような状態では無くて)その状態に入る直前の記憶のまゝで意識が止まっている状態なのだ」という事です。

 かえって分かりにくくなりましたか?誰でも偶然体験した事が有るんですよ。ただ4禅やヨーガはそれを意図して出来るようになろうとするものです。

 例えば、誰かの事をぼ~と考えていたら、いきなり肩を叩かれて我に返った。すると周りで友達が騒いでいた。「あんたまた○○クン(さん)のこと考えてたやろう」と。その間、時間がどれだけ過ぎていたか、全く記憶がない。でも気を失っていた訳ではない。

 朝目覚めて、ボ~としていたら30~40分過ぎていて、慌てて飛び起きた!なんて経験あるでしょう?その眠っていた訳ではないのに記憶がない時間を無我の境地=無想三昧=空=涅槃と申します。
 

  





ヨーガについて 2

2015-08-06 10:49:03 | 日記
 ヨーガとは何か? ヨーガスートラをもとに考えてみます。文献は「ヨーガとサーンキャ思想 中村元著 春秋社刊 中村元選集決定版」です。

 さてヨーガとは何か?ですが、ヨーガスートラは「ヨーガとは心の働きをの止滅した状態のことであり、三昧と言う」と言っています。

 この三昧について次のように解説しています。
 心の4段階
(1)動揺した状態
(2)ぼうっとした状態
     この二つはヨーガとは無関係
(3)散乱した状態(日常の心の状態)---ヨーガの三昧には入らない。
(4)集中統一した状態<有想三昧><有種子三昧> 対象の意識を有しているヨーガ(三昧)
 ①粗雑な対象に関する思考作用を有しているもの・心のよりどころ(対象)を粗雑に経験すること
 ②微細な対象に関する考察作用を有しているもの・対象を微細に経験すること
 ③歓喜(喜悦)を有しているもの
 ④自我意識を有しているもの(我ありと言う意識=真実の自己)
(5)心の働きが抑止され、止滅した状態<無想三昧><無種子三昧> 対象に関する意識を有さないヨーガ(三昧)


 では(4)有想三昧)と(5)無想三昧について解説します。これは天風サンの体験を当てはめてみて初めて分かるものです。
(4)有想三昧
 ①心のよりどころ・対象を粗雑に経験する事とは何か?これは坐禅の様にじっと坐って風の音とか水の流れる音などに心を委ねる(なんとなく聞いている)状態を指しています。
 天風サンが大きな滝壺の近くに坐ってゴーゴーととどろく水の音に聞き入っていた状態の事です。

 ②対象を微細に経験する事。これは例えばオーケストラの音楽を聴いている時(=対象を粗雑に経験する)に、或る楽器の音に集中して聞き分ける事などを指しています。天風サンは轟く滝の轟音の中で川面を行き交うカワセミの鳴き声や、裏山で吠える豹の声を聞き分けたと云います。カリアッパ師は是を「地の声を聞く行」と云いました。

 ③歓喜を有しているもの。これは三昧の②を続けていると、周りの音をはっきりと、遠くに聞いていながら何の不安もない、非常に強い喜びの気持ちが湧いてきます。この状態の三昧を言います。天風サンの体験には書いてないようです。

 ④我有り(=真実の自己)を感じ取った時を指しています。この感覚を智慧(プラジュナー)と言います。仏教ではこの三昧さえも失われ「智慧=この世の真実をさとる智慧」などと曲解されてしまいました。
 天風サンは真実の自己を覚ったカリアッパ師はタッタッタと駆け寄ってきて「おまえ悟ったな!そうだ!それが本当のお前だ!」と喜んでくれたそうです。
 この三昧における私自身の体験は拙書に詳しく書いていますが、この時、額の前に太陽の様なものが浮かんでしばらく消えませんでした。
 仏教ではこの時「憶念」と言う概念も教えています。しかし仏教者達はこの三昧を経験していないので、智慧と共に憶念もいい加減な解釈を書き残し、それを信じた坊さんや学者が「?」と思いながら研究しませんでした。

(5)無想三昧とは心の中に何ものも無い状態の三昧で、仏教では無我の境地と言います。この無我とは意味が有ります。釈迦の仏教理論は「自我(の意識)とはその人が体験、経験している全てのものによって構築されているが、真実の自己はプラジュナー(智慧)を得て初めて知る事ができるの。この智慧さえも消し去った精神状態=三昧を無我と言い、また涅槃と言う」というものです。



 ヨーガはこのように人間の心の在り様を5段階に分けて解説していますが、ヨーガと言えるのは(4)、(5)です。

 ヨーガスートラは仏教の影響を受けてヨーガをまとめ直したものとされますが、本当は仏教から派生したヨーガの行法をまとめ直してのがヨーガスートラです。

 このヨーガ(三昧)(4)(5)の基が仏教の4禅です。(4禅については別の機会に詳述します)

 ヨーガ(三昧)の行法を後世まとめ直したのがヨーガ8則(8階梯)で、その元は仏教の8正道ですが、共に(4)のプラジュナーと(5)の無想三昧を喪失しています。従って現在の仏教は釈迦の仏教では無いのです

 さてヴィヤーサという人が後年出て来てヨーガスートラに注解を書いています。彼は(5)の無想三昧について次のように解説しています。
「対象に関する意識を有さない三昧とは、心の全てのはたらきをの寄よりどころ(対象)が消滅したときに心の止滅することであり、潜在的印象(潜勢力)のみの残余である。

 ここで注意しなければならない点が2つ有ります。
 1)は「心の全てのはたらきの寄りどころ(対象)」とは何か?という事です。これは「心の中に有るもの全て」と言う意味です。外界の存在と考えてはなりません。ここが分からないとヨーガ(三昧)と釈迦の仏教は分かりません。
 2)は潜在的印象(潜勢力)と言う言葉です。この言語はsamskaraです。この事を忘れないでください。この語は仏教に出てくる五蘊(色受想行識)の行を表しています。諸行とはこの語の複数形でサンスカーラ―と言います。

 注)仏教学者は五蘊の色と6境の色の意味内容を微妙に使い分け、また行(サンスカーラ)と諸行(サンスカーラ―)とを別のものとして恥じません。
 何故そのようになるのでしょうか?それは彼らの考えが根本に於いて間違っているからです。その事に目を背け屁理屈を積み重ね机上の楼閣を作って来たのが現在の仏教理論です。

 さて(5)の無想三昧についてヴイヤーサの注解は次のようにも言っています。
「ところで、この三昧は対象を欠いている。実にその(対象の無いことの)反復実修にもとづいて、よりどころをもたず、無に達したかようになる。それゆえに、この<対象に関する意識を有さない三昧>は<無種子(nibija)三昧>とも言われる」
 注)これに続いて「実にこの三昧(無種子三昧)は二種類ある。~」と有りますが、これらの文章は無想三昧をやった事の無い人が理屈のみで書いたののであり要らないものです。

「ヨーガが三昧による知慧(プラジュアナー)を獲得した時には、知慧によって形成された潜勢力が次々と新たに生じる。さらにまたそのヨーガ行者によってー 一,五一 その「潜勢力」もまた止滅したときにすべてのものが止滅する無種子三昧にいたる。」-----ヴィヤーサ
 この文章はとても大事です。これは(4)の有想三昧④によって「われ有りと言う意識=智慧(プラジュナー)が得られるが、その智慧さえも無くした時に(5)の無想三昧に至るのだと言っているのです。


  長くなりましたので今回はここまでとします。お読みくださってありがとうございます!