ヨーガとは無想三昧の事。それを解説したのが前回紹介しましたヨーガスートラに有る三昧(サマーディ)です。
広義の禅定(デイヤーナ)=有想三昧(1~4)、
狭義の禅定=有想三昧(4)
広義の三昧(サマーディ)=有想三昧(1~4)+無想三昧、
狭義の三昧=無想三昧(=仏教における無我の境地の三昧=空の境地=涅槃)
つまり、無想三昧を除いた、有想三昧(1~4)に於いては禅定(デヤーナ)=三昧(サマーディ)です。
このことは仏教に於いても同じです。今回はヨーガ・スートラに有る有想三昧・無想三昧と釈迦の4禅とが同じものであるという事について書いてみました。
さて釈迦の死後仏教は無想三昧(=涅槃)を喪失し、禅定=三昧だけが残る事になりました。竜樹はそれを大智度論に「禅定と三昧とは同じである」と書き残したのです。
その後の大乗仏教者、大乗仏教学者は「大智度論に書いて有れば全てOK」と、大智度論に対する検証をせず自論を正当化してきました。
総て仏教学者がそうだったのですから、その中に居れば安全だったのです。逆に言えば大智度論を批判したり否定したりすれば学会に居られなくなったのでしょう。
仏教の4禅とは何か?「仏教とは何か その思想を考える」大正大学仏教学科[編] 大法輪閣刊 には次のように書いて有ります。
「釈迦が菩提樹下で静かに行った瞑想は『四禅』と呼ばれる。瞑想の深まる段階を四つにまとめたもので、これも悟りの内容とされる。
初禅は、対象を粗く考えたり(尋)、細かく考えたりし(伺)、『喜』『楽』を伴いながら、心を一つに集中(心一境性)する段階。
第二禅は、『喜』『楽』『心一境性』のほかに、心の清澄さ(内等浄)、
第三禅では、『喜』が滅して『捨<平静>』、『念(憶念)』、『慧』、『楽』、『定』、
第四禅では、『楽』が滅して『不苦不楽』『捨』『定』が現れることをいう。」
これだけでは何の事なのかさっぱり分からないでしょう。だから仏教僧や仏教学者達は後に(原始仏教典に)書き加えられた8正道等に眼を向けたのです。
しかしそれでも何も得られなかったので経文を捨てた禅宗だ出た。それでも満足出来なかったので浄土宗や日蓮宗が出来たのです。
ここで、前回紹介しましたヨーガ・スートラに有る有想、無想三昧と天風さんのヨーガ体験を当てはめて4禅を考えてみると分かってきます。
有想三昧ー①心のよりどころ(対象)を粗雑に経験することーーーこれは4禅の初禅にある「対象を粗く考えたり」に当たります。②対象を微細に経験することーーーこれは初禅の「(対象を)細かく考えたり」に当たります。そして心を何かに集中して行く段階です。即ち4禅の初禅は有想三昧の①,②を合わせたものなのです。
第2禅は「喜び」が発生し「楽」になります。心が外部の世界に集中していながら一切の不安や憎しみの気分が存在しません。これはヨーガ有想三昧③「歓喜を有しているもの」に相当します。
第3禅は喜びの気持ちが消滅して捨、念、智慧、楽、定となります。
先ず「捨」ですがこれは「精進」の事です。ヨーガ・スートラには「心の働きを止滅させる為には実修と離欲が必要である」「実修とは止滅の状態に安住する為の努力をいう」「精進(virya)=貪欲、嫌悪、迷いを止滅させると三昧が起こる。この努力をいう」と有るからです。
*ヨーガでは精進についてこのように書いていますが(原語が同じなのに)、この文章を訳した中村元博士は何故か仏教にこの文章を当てはめていません。
また五蘊の<行>についてもヨーガでは明確な解釈を書いています。それなのに、その文章を訳した中村博士は無視しています。この当たりが学者の限界なのでしょう。
さて第3禅の「念(憶念)」とは何か?これは私しか解説できません。仏典には「憶念とは根本的な記憶」などと書いて有ったように思いますが、間違いです。
第3禅に於いて眉間の前に太陽のようなものが浮かんできますがこの時の精神状態が憶念です。
次の慧(智慧)とは何か?これは真実の自己を知り得た時の精神状態を表します。智慧(プラジュナー)とはヨーガで言う有想三昧④「我ありという意識=真実の自己」を知得した状態と同じです。
「楽」は2禅と同じ。
「定」とは禅定(ディヤーナ)の事。心が統一され、外界を一切感じていない三昧です。これが狭義のデイヤーナです。
次の第4禅。ここでは苦も楽も無い、精進と定のみの三昧です。心に何も浮かんでいないから苦も楽も無い(感じない)。
精進とは先に述べた通り。
ここで言う「定」は3禅とは少し違います。3禅では思考能力が有ります。ただ外界を感じません。
4禅の「定」は思考能力が有りません。心に<移りかわるもの>が何も無いのです。これが空であり釈迦はこの境地を涅槃と言いました。
ヨーガにはヴィヤーサの注解が有りますが、無想三昧について次のように書いています。「対象に関する意識を有さない三昧とは、心の全てのはたらきの寄りどころ(対象)が消滅したときに心の止滅することであり、潜在的印象(潜勢力)のみの残余である」
*潜勢力の原語はsamskara つまり仏教の「行」、複数形は諸行です。
この注解を意訳してみますと「無想三昧とは心が活動する基のもの(=心に浮かんだ一切のもの)が消滅している。その結果、心の働きが止まってしまった状態を言うのであるが。(ただし、それは意識を失ってしまったような状態では無くて)その状態に入る直前の記憶のまゝで意識が止まっている状態なのだ」という事です。
かえって分かりにくくなりましたか?誰でも偶然体験した事が有るんですよ。ただ4禅やヨーガはそれを意図して出来るようになろうとするものです。
例えば、誰かの事をぼ~と考えていたら、いきなり肩を叩かれて我に返った。すると周りで友達が騒いでいた。「あんたまた○○クン(さん)のこと考えてたやろう」と。その間、時間がどれだけ過ぎていたか、全く記憶がない。でも気を失っていた訳ではない。
朝目覚めて、ボ~としていたら30~40分過ぎていて、慌てて飛び起きた!なんて経験あるでしょう?その眠っていた訳ではないのに記憶がない時間を無我の境地=無想三昧=空=涅槃と申します。
広義の禅定(デイヤーナ)=有想三昧(1~4)、
狭義の禅定=有想三昧(4)
広義の三昧(サマーディ)=有想三昧(1~4)+無想三昧、
狭義の三昧=無想三昧(=仏教における無我の境地の三昧=空の境地=涅槃)
つまり、無想三昧を除いた、有想三昧(1~4)に於いては禅定(デヤーナ)=三昧(サマーディ)です。
このことは仏教に於いても同じです。今回はヨーガ・スートラに有る有想三昧・無想三昧と釈迦の4禅とが同じものであるという事について書いてみました。
さて釈迦の死後仏教は無想三昧(=涅槃)を喪失し、禅定=三昧だけが残る事になりました。竜樹はそれを大智度論に「禅定と三昧とは同じである」と書き残したのです。
その後の大乗仏教者、大乗仏教学者は「大智度論に書いて有れば全てOK」と、大智度論に対する検証をせず自論を正当化してきました。
総て仏教学者がそうだったのですから、その中に居れば安全だったのです。逆に言えば大智度論を批判したり否定したりすれば学会に居られなくなったのでしょう。
仏教の4禅とは何か?「仏教とは何か その思想を考える」大正大学仏教学科[編] 大法輪閣刊 には次のように書いて有ります。
「釈迦が菩提樹下で静かに行った瞑想は『四禅』と呼ばれる。瞑想の深まる段階を四つにまとめたもので、これも悟りの内容とされる。
初禅は、対象を粗く考えたり(尋)、細かく考えたりし(伺)、『喜』『楽』を伴いながら、心を一つに集中(心一境性)する段階。
第二禅は、『喜』『楽』『心一境性』のほかに、心の清澄さ(内等浄)、
第三禅では、『喜』が滅して『捨<平静>』、『念(憶念)』、『慧』、『楽』、『定』、
第四禅では、『楽』が滅して『不苦不楽』『捨』『定』が現れることをいう。」
これだけでは何の事なのかさっぱり分からないでしょう。だから仏教僧や仏教学者達は後に(原始仏教典に)書き加えられた8正道等に眼を向けたのです。
しかしそれでも何も得られなかったので経文を捨てた禅宗だ出た。それでも満足出来なかったので浄土宗や日蓮宗が出来たのです。
ここで、前回紹介しましたヨーガ・スートラに有る有想、無想三昧と天風さんのヨーガ体験を当てはめて4禅を考えてみると分かってきます。
有想三昧ー①心のよりどころ(対象)を粗雑に経験することーーーこれは4禅の初禅にある「対象を粗く考えたり」に当たります。②対象を微細に経験することーーーこれは初禅の「(対象を)細かく考えたり」に当たります。そして心を何かに集中して行く段階です。即ち4禅の初禅は有想三昧の①,②を合わせたものなのです。
第2禅は「喜び」が発生し「楽」になります。心が外部の世界に集中していながら一切の不安や憎しみの気分が存在しません。これはヨーガ有想三昧③「歓喜を有しているもの」に相当します。
第3禅は喜びの気持ちが消滅して捨、念、智慧、楽、定となります。
先ず「捨」ですがこれは「精進」の事です。ヨーガ・スートラには「心の働きを止滅させる為には実修と離欲が必要である」「実修とは止滅の状態に安住する為の努力をいう」「精進(virya)=貪欲、嫌悪、迷いを止滅させると三昧が起こる。この努力をいう」と有るからです。
*ヨーガでは精進についてこのように書いていますが(原語が同じなのに)、この文章を訳した中村元博士は何故か仏教にこの文章を当てはめていません。
また五蘊の<行>についてもヨーガでは明確な解釈を書いています。それなのに、その文章を訳した中村博士は無視しています。この当たりが学者の限界なのでしょう。
さて第3禅の「念(憶念)」とは何か?これは私しか解説できません。仏典には「憶念とは根本的な記憶」などと書いて有ったように思いますが、間違いです。
第3禅に於いて眉間の前に太陽のようなものが浮かんできますがこの時の精神状態が憶念です。
次の慧(智慧)とは何か?これは真実の自己を知り得た時の精神状態を表します。智慧(プラジュナー)とはヨーガで言う有想三昧④「我ありという意識=真実の自己」を知得した状態と同じです。
「楽」は2禅と同じ。
「定」とは禅定(ディヤーナ)の事。心が統一され、外界を一切感じていない三昧です。これが狭義のデイヤーナです。
次の第4禅。ここでは苦も楽も無い、精進と定のみの三昧です。心に何も浮かんでいないから苦も楽も無い(感じない)。
精進とは先に述べた通り。
ここで言う「定」は3禅とは少し違います。3禅では思考能力が有ります。ただ外界を感じません。
4禅の「定」は思考能力が有りません。心に<移りかわるもの>が何も無いのです。これが空であり釈迦はこの境地を涅槃と言いました。
ヨーガにはヴィヤーサの注解が有りますが、無想三昧について次のように書いています。「対象に関する意識を有さない三昧とは、心の全てのはたらきの寄りどころ(対象)が消滅したときに心の止滅することであり、潜在的印象(潜勢力)のみの残余である」
*潜勢力の原語はsamskara つまり仏教の「行」、複数形は諸行です。
この注解を意訳してみますと「無想三昧とは心が活動する基のもの(=心に浮かんだ一切のもの)が消滅している。その結果、心の働きが止まってしまった状態を言うのであるが。(ただし、それは意識を失ってしまったような状態では無くて)その状態に入る直前の記憶のまゝで意識が止まっている状態なのだ」という事です。
かえって分かりにくくなりましたか?誰でも偶然体験した事が有るんですよ。ただ4禅やヨーガはそれを意図して出来るようになろうとするものです。
例えば、誰かの事をぼ~と考えていたら、いきなり肩を叩かれて我に返った。すると周りで友達が騒いでいた。「あんたまた○○クン(さん)のこと考えてたやろう」と。その間、時間がどれだけ過ぎていたか、全く記憶がない。でも気を失っていた訳ではない。
朝目覚めて、ボ~としていたら30~40分過ぎていて、慌てて飛び起きた!なんて経験あるでしょう?その眠っていた訳ではないのに記憶がない時間を無我の境地=無想三昧=空=涅槃と申します。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます