「弥陀の橋は」 津本 陽著 読売新聞社刊 より少し引用させていただきます。
「苦は私を苦しめている外部の事情ではない。自己中心の我執、煩悩がつくりだしているのである。我執、煩悩は、自分(我所)にとって、欲しいものに貪欲を燃やし、きらいなものを排する瞋恚を生みだす。
私に迎合する意見をうけいれ、私を批判する意見を排する、道理をあきらかにしない愚痴によって動く人間どうしが、勝手ないいぶんを通そうとして、さまざまな争いをつくりだす。
こうして考えてみれば、われわれが苦を考えているものの実体はない。我執、煩悩がつくりだした悪夢のなかであいあらそうている。
しかし、煩悩をおさえつけ、食欲、性欲などの本能を抹消すれば、人間は生きてゆけない。本能が煩悩となり、苦をみちびきだすのは、無知<無明>のためである。
人間はさまざまな要素がたがいにつながりあった複雑な現象のなかで暮らしている。ひとつの要素だけでは存在できず、多数のものがたがいに関連して生きている。
それが縁起である。これあるゆえにかれあり、これなきゆえにかれなし、というように、地上のすべてのものはえんぎによって存在している。
そのため、永久に変わることのない自分というようなものはなく、それを無我といい、その状態を無常という。
そのような人間の実態を覚れば我執は消えうせ、我執をとりのぞき、物事を判断できる能力が般若(智慧)で、仏は般若を得たものである。」
津本さんは、多くの仏教学者や僧侶の方よりも、現在の大乗仏教の教義をコンパクトに分かりやすくまとめられています。般若心経を趣味にしておられる方々以外の人にも分かりやすくまとめるのは専門家には難しいでしょう。
しかし、そうであっても、この考えは釈迦の理法(理論)ではありません。ここで津本さんの文章を引用させていただいたのは(失礼ながら)対比させていただき、釈迦の理法をお話ししようと思ったからです。
「私が苦しむのは外部の事情によるものではない。苦しみを作り出しているのは煩悩であり、そこから生まれた執着である。気に入ったものを欲しがり、気に入らぬものを排除しようとする。話の合う人間を身近に置き、批判する者を遠ざけようとする。自分勝手な我を通そうとして諍いを起こす。これが苦しみの元である。ここまで分かると、苦しみの元は自分の心の中に有る事が分かる。」
ここまではいいのです。ただ釈迦はそれをもっと深く潜在意識にまで遡って研究し、それを五蘊という縁起にまとめました。釈迦の言った「縁起」とはある人の心の移り変わりを解説したものです。
従って、この世のすべてのものが多くの因と縁とによって縁起しており、それゆえ全ての存在は恒常の本質を持った物など存在しないのだ、などと言ったのでは有りません。
人の苦しむ元が心の中に有るのなら、苦しみを無くすには人の心をどうするか?に迫らねばなりません。そうでは無くて「この世のものは全て縁起を繰り返しているのだから実態を持たない。その事を覚れば苦しみは無くなるのだ。」と考えるのは論理矛盾です。意味をなしません。
もう一つ釈迦が説いた理法の中心、それは貴方の自我についてです。貴方は自分を意識して生きていますね。心理学や哲学では、その「自我」を外界と区別して存在している自己、と云う様な表現をします。つまり、自我と外界のものとは別なのだと。
しかし貴方が自分を感じている時その内容をじっと考えてみてください。物心ついてから経験した事、知った人、知識、好み等、それらが総合されて貴方の意識を作っていると思いませんか。
釈迦はここに気付き「貴方の自我(の意識)は外界を5感によって取り入れた思いと純粋に考えた事によって構築されているのだ」と説いたのです。これが自他一如です。
貴方が自我をいう時その内容は経験した事、知識、知り合い、好みなどによって構築されているのです。この自我は実在しません。何故なら意識を失ったり全身麻酔を懸けられたら消えてなくなるからです。
この事を釈迦は涅槃の無我の境地に入って確認しました。無我の境地の事を空と言い涅槃とも言います。空に於いて自我(の意識)は無くなる。この事を無我と言い、その教えを諸法無我と言います。従来の仏教はこれを捻じ曲げ、「諸法無我とは、全ての存在が自我をもたないことである」としています。これこそ間違いなのです。
さて、貴方は魂というものをどう感じますか?人間死んだらそれで終わり。何にもなくなる。そう考えていますか。それとも死後の世界は有る、と思いますか?
日本人が魂という時、先に述べた「自我」とは少し違った、死後も残って存在するものを言いましょう?ではそれはどんなものでしょうか。釈迦はこの自我を体得して、その行法を弟子達に教えました。これを4禅と言いますが、弟子達はこれが出来なかったようです。ただ、その行法はヨーガに残りました。現在世界各地で行われているヨガとは全く違うもので、坐禅の基になったものです。
4禅の第3禅で真実の自我、魂を感じ取れます。これを般若と言います。般若が得られなかった弟子達は「般若という智慧が得られれば阿羅漢になれる」と考え、後には「完成された智慧、即ち般若波羅蜜多を覚ればいいのだ」「いや、アーノクターラサンミャクサンボデイーを得ればいいのだ」などと無茶苦茶な理屈を積み重ねてゆきました。
第4禅で得られるのが「空」・「涅槃」です。
では魂、真実の自我とは何か、どのようなものなのかですが、これは第3禅を体験しないと本当には分からないものです。
人間の意識には顕在意識と潜在意識とが有ると言われますが、潜在意識の下にもう一つ「無の意識」があります。これが本当の貴方です。という事は、先に言った自我(の意識)と、真実の自我とはつながっており一体のものであるともいえるのです。
所謂幽霊とは真実の自我に恨みや憎しみがこびりついて存在しているものです。
生きている人の思いが飛ぶことが有ります。これが生霊とよばれるものです。
これらはテレパシーです。だから、見える人と見えない人がいるのです。テレパシーなどは無我の境地を繰り返していると身に付くものです。
「苦は私を苦しめている外部の事情ではない。自己中心の我執、煩悩がつくりだしているのである。我執、煩悩は、自分(我所)にとって、欲しいものに貪欲を燃やし、きらいなものを排する瞋恚を生みだす。
私に迎合する意見をうけいれ、私を批判する意見を排する、道理をあきらかにしない愚痴によって動く人間どうしが、勝手ないいぶんを通そうとして、さまざまな争いをつくりだす。
こうして考えてみれば、われわれが苦を考えているものの実体はない。我執、煩悩がつくりだした悪夢のなかであいあらそうている。
しかし、煩悩をおさえつけ、食欲、性欲などの本能を抹消すれば、人間は生きてゆけない。本能が煩悩となり、苦をみちびきだすのは、無知<無明>のためである。
人間はさまざまな要素がたがいにつながりあった複雑な現象のなかで暮らしている。ひとつの要素だけでは存在できず、多数のものがたがいに関連して生きている。
それが縁起である。これあるゆえにかれあり、これなきゆえにかれなし、というように、地上のすべてのものはえんぎによって存在している。
そのため、永久に変わることのない自分というようなものはなく、それを無我といい、その状態を無常という。
そのような人間の実態を覚れば我執は消えうせ、我執をとりのぞき、物事を判断できる能力が般若(智慧)で、仏は般若を得たものである。」
津本さんは、多くの仏教学者や僧侶の方よりも、現在の大乗仏教の教義をコンパクトに分かりやすくまとめられています。般若心経を趣味にしておられる方々以外の人にも分かりやすくまとめるのは専門家には難しいでしょう。
しかし、そうであっても、この考えは釈迦の理法(理論)ではありません。ここで津本さんの文章を引用させていただいたのは(失礼ながら)対比させていただき、釈迦の理法をお話ししようと思ったからです。
「私が苦しむのは外部の事情によるものではない。苦しみを作り出しているのは煩悩であり、そこから生まれた執着である。気に入ったものを欲しがり、気に入らぬものを排除しようとする。話の合う人間を身近に置き、批判する者を遠ざけようとする。自分勝手な我を通そうとして諍いを起こす。これが苦しみの元である。ここまで分かると、苦しみの元は自分の心の中に有る事が分かる。」
ここまではいいのです。ただ釈迦はそれをもっと深く潜在意識にまで遡って研究し、それを五蘊という縁起にまとめました。釈迦の言った「縁起」とはある人の心の移り変わりを解説したものです。
従って、この世のすべてのものが多くの因と縁とによって縁起しており、それゆえ全ての存在は恒常の本質を持った物など存在しないのだ、などと言ったのでは有りません。
人の苦しむ元が心の中に有るのなら、苦しみを無くすには人の心をどうするか?に迫らねばなりません。そうでは無くて「この世のものは全て縁起を繰り返しているのだから実態を持たない。その事を覚れば苦しみは無くなるのだ。」と考えるのは論理矛盾です。意味をなしません。
もう一つ釈迦が説いた理法の中心、それは貴方の自我についてです。貴方は自分を意識して生きていますね。心理学や哲学では、その「自我」を外界と区別して存在している自己、と云う様な表現をします。つまり、自我と外界のものとは別なのだと。
しかし貴方が自分を感じている時その内容をじっと考えてみてください。物心ついてから経験した事、知った人、知識、好み等、それらが総合されて貴方の意識を作っていると思いませんか。
釈迦はここに気付き「貴方の自我(の意識)は外界を5感によって取り入れた思いと純粋に考えた事によって構築されているのだ」と説いたのです。これが自他一如です。
貴方が自我をいう時その内容は経験した事、知識、知り合い、好みなどによって構築されているのです。この自我は実在しません。何故なら意識を失ったり全身麻酔を懸けられたら消えてなくなるからです。
この事を釈迦は涅槃の無我の境地に入って確認しました。無我の境地の事を空と言い涅槃とも言います。空に於いて自我(の意識)は無くなる。この事を無我と言い、その教えを諸法無我と言います。従来の仏教はこれを捻じ曲げ、「諸法無我とは、全ての存在が自我をもたないことである」としています。これこそ間違いなのです。
さて、貴方は魂というものをどう感じますか?人間死んだらそれで終わり。何にもなくなる。そう考えていますか。それとも死後の世界は有る、と思いますか?
日本人が魂という時、先に述べた「自我」とは少し違った、死後も残って存在するものを言いましょう?ではそれはどんなものでしょうか。釈迦はこの自我を体得して、その行法を弟子達に教えました。これを4禅と言いますが、弟子達はこれが出来なかったようです。ただ、その行法はヨーガに残りました。現在世界各地で行われているヨガとは全く違うもので、坐禅の基になったものです。
4禅の第3禅で真実の自我、魂を感じ取れます。これを般若と言います。般若が得られなかった弟子達は「般若という智慧が得られれば阿羅漢になれる」と考え、後には「完成された智慧、即ち般若波羅蜜多を覚ればいいのだ」「いや、アーノクターラサンミャクサンボデイーを得ればいいのだ」などと無茶苦茶な理屈を積み重ねてゆきました。
第4禅で得られるのが「空」・「涅槃」です。
では魂、真実の自我とは何か、どのようなものなのかですが、これは第3禅を体験しないと本当には分からないものです。
人間の意識には顕在意識と潜在意識とが有ると言われますが、潜在意識の下にもう一つ「無の意識」があります。これが本当の貴方です。という事は、先に言った自我(の意識)と、真実の自我とはつながっており一体のものであるともいえるのです。
所謂幽霊とは真実の自我に恨みや憎しみがこびりついて存在しているものです。
生きている人の思いが飛ぶことが有ります。これが生霊とよばれるものです。
これらはテレパシーです。だから、見える人と見えない人がいるのです。テレパシーなどは無我の境地を繰り返していると身に付くものです。