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しっちょいどんの世界史勉強ノート

世界史の勉強をまとめていきます。

イブン・バットゥータのマリ訪問

2014-02-23 00:29:49 | 書評
『(イブン・バットゥータの世界大旅行~14世紀イスラームの時空を生きる』家島彦一著 平凡社新書 2003)のP252にマリ王国の話がのっていたので紹介したい。
要約する。
「イブン・バットゥータは現在のモロッコにあったマリーン朝の出身。1304年にモロッコのタンジール生まれ。1368年か翌年1369年に亡くなるが、21歳から50歳まで30年間、世界を旅したベルベル系のイスラーム教徒である。
当時マリーン朝のスルタンは、北はアンダルスのカスティリア王国との聖戦、南東には、サハラ砂漠のオアシス都市やニジェール河畔のブラック・アフリカとの外交および経済関係を保つことに腐心していた。
1352年、もう50近いイブン・バットゥータは、最期の旅にでるが、出発の時にスルタンのアブー・イナーンに挨拶をしていること、帰りもスルタンの使者が首都ファース(フェス)にもどるよう指令を受けたりしているので、スルタンの命を受けての情報収集を行ったと推測される。 イブン・バットゥータは南に進み、マーッリー(マリ)王国の都(マーッリー(マリ)、またビーティー、もしくはニーニーと呼ばれた)に着く。都は特定されていないが、J・O・ フンウィク氏の説では、マリ共和国の首都バマコの北東、ニジェール川の左岸であるという。そこには、黄金王として有名なスルタンのマンサー・ムーサー(マンサ・ムーサ)の弟スライマーン(スレイマン)がいて、何度も会見したそうだが、先王よりもケチくさく、イスラーム教の信仰に敬虔であったということだ。会見は通訳を介して行われ、王と直接話すことは許されなかったが、通訳は王の前では着物を脱ぎ、古ぼけた服に着替え、ターバンの代わりに汚い球帽をつけ、着物とズボンを膝半分までたくしあげると、両肘を地面に打ち付け、はいつくばるような状態で王の言葉に耳を傾ける。そして、王からの返答があると、その者は着ているものをすっぽり脱ぎ捨て、泥を自分の頭や背にぶっかけたという。
当時イスラーム地理学ではニジェール川はナイル川の支流と思われていた。イブン・バットゥータは、そこで16頭の巨大な図体をしたカバを見て驚嘆している。彼はトンブクトゥからカウカウ(現在のガウ)を通り、モロッコの祖国に戻った。
彼の旅した世界は、現在のほぼ50カ国にまたがっており、その全行程は11万7千キロにも達する。そして彼の数奇な旅の記録をもとに、グラナダ出身の文学者イブン・ジュザイイは、1355年12月に『大旅行記』の編纂を完了した。」


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坂井榮八郎『ドイツ史10講』アーヘン

2014-02-11 22:36:54 | 書評
坂井榮八郎『ドイツ史10講』より、面白かったところ、第2回目です。
本書P19に、「当時国王はまさに「旅する王」として、国内各地にある王宮を巡りつつ国の統治を行っていた。カールが晩年好んで滞在し、墓所もそこの大聖堂にあるアーヘンも、首都ではなく、数ある王宮所在他のうちの一つである。各地で開かれる「王国会議」には俗人の大貴族と並んで司教や修道院長など高位聖職者も参加し、王の立法・施政に参加した。「王国会議」はそれ自体が「教会会議」の性格をもち、教会関係の事項をも決定したのだった。」
P21には、「中世史家山田欣吾氏は、私たちが「フランク帝国」と呼ぶ「国家」が、同時代の人々には「エクレシア(教会)」として理解されていた、という大変興味深い指摘をされている。「教会」が「国家」を補強しているのではなく、「教会」がそのまま「国家」なのである。「エクレシア」とはまことに「神の御国」(先学三浦新七氏の名訳)であった。だからこそアルクィンはカールを「全キリスト教徒の支配者にして父、国王にして祭司」と呼んだのであった。」


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坂井榮八郎『ドイツ史10講』トイトブルクの森の戦い

2014-02-10 18:16:24 | 書評
「坂井榮八郎著『ドイツ史10講』岩波書店発行 2003年」で勉強したこと、第1回。
山川詳説世界史P45の地図に記載されているトイトブルクの森の戦いの場所が特定されたのはつい最近である。『ドイツ史10講』P6には、場所は、ウェストファリア条約調印の地として知られる北西ドイツ、オスナブリック市の北約20キロの現地名「カルクリーゼ」という山村地帯であり、「トイトブルクの森」(オスナブリック近郊を北端とする帯状山地)からは少し外れているが、山と沼地にはさまれた土地であるのはタキトゥスの記述通りである、とある。また、いまは「ウァールスの戦い」という方が普通になっているが、現地には記念の博物館と歴史自然公園が建設され、2001年に開設されている、ともある。日本はこれからも「トイトブルクの森」でいくのでしょうか。



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山口修『中国史55話』 諡号と廟号

2014-02-06 18:47:23 | 書評
山口修『中国史55話』 山川出版社 1996
諡号と廟号 P36より

高祖とか太宗などというのは,廟号である。身分の高い人は亡くなると廟を建て,尊像や位牌などを安置して,礼拝する。その場合に,追尊しておくる名が廟号である。(日本で神社をつくり神号をおくるところがわずかに似ているか。) 諡号(しごう)は“おくり名”であって,生前の行跡により,死後におくる名である。(これは日本では天皇のおくり名に似ている。)また中国では父か師でない限り,他人の「名」を呼ぶことはできない。そこで「字(あざな)」をつける。亡くなった人の名前は「諱(き)」(いみな)と称して,呼ぶことを忌みはばかる。まして天子の「名」ともなれば,その通りに記すことも避け,避諱の法といって,別の字を用いるのである。唐の李世民の時の遣日使の裴世清は『隋書』で裴清と記された。前漢の武帝は,諱は徹。諡号は孝武皇帝(略して武帝)。廟号は世宗。漢代は儒教が重んじられ皇帝の諡号は「孝」の字が冠せられた。我々が景帝,元帝などと呼んでいるのも孝景皇帝,孝元皇帝なのである。清の宣統帝は,「満州国」の執政,ついで皇帝に就任したが,日本では一貫してその「名」の溥儀で読んでいる。名を忌むという中国の習慣からしたら,いやしくも皇帝として奉った人に対して「名」を読んだということは,当人にとっても大きな屈辱であったにちがいない。当時日本に抵抗していた蒋氏に対してさえ,「介石」という字で呼び,名の「中正」では呼ばなかったのである。一方において日本との和平を推進した汪氏に対しては「兆銘」という名で呼んだ。当然のことながら抗議を受け,それからは「精衛」という字で呼ぶようになった。

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A・V・バナジー&E・デュフロ『貧乏人の経済学』

2014-01-25 23:27:30 | 書評
A・V・バナジー&E・デュフロ『貧乏人の経済学』(みすず書房)

最後のまとめの書き出しが「経済学者(および他の専門家たち)は、なぜある国が成長して他が成長しないのかについて、ほとんど有益なことが言えないようです。」ではじまる。そのため貧困を劇的に減らすことも不可能である、という。しかし、その様な魔法の銃弾は無くとも、貧乏な人の生活を改善する方法については、いろいろ分かってきている。

またピント外れの支援や援助を先進国がしてしまうことなど、貧乏な人の考え方、行動様式などの知識が足りないだけで空回りしてしまうのだ。そう考えると、やはり自分も裕福な先進国の人間で何も知らない。この本は、そんな人の考え方や制度などを、細かく調査している。

訳が山形浩生氏で、読みやすい。経済本の訳といえばこの人、というくらい多い。エスター・デュフロの本は初めて読んだが、何か初めて会った気がしないと思ったら、訳者さんが何度も読んだことのある人というオチだった。

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