『(イブン・バットゥータの世界大旅行~14世紀イスラームの時空を生きる』家島彦一著 平凡社新書 2003)のP252にマリ王国の話がのっていたので紹介したい。
要約する。
「イブン・バットゥータは現在のモロッコにあったマリーン朝の出身。1304年にモロッコのタンジール生まれ。1368年か翌年1369年に亡くなるが、21歳から50歳まで30年間、世界を旅したベルベル系のイスラーム教徒である。
当時マリーン朝のスルタンは、北はアンダルスのカスティリア王国との聖戦、南東には、サハラ砂漠のオアシス都市やニジェール河畔のブラック・アフリカとの外交および経済関係を保つことに腐心していた。
1352年、もう50近いイブン・バットゥータは、最期の旅にでるが、出発の時にスルタンのアブー・イナーンに挨拶をしていること、帰りもスルタンの使者が首都ファース(フェス)にもどるよう指令を受けたりしているので、スルタンの命を受けての情報収集を行ったと推測される。 イブン・バットゥータは南に進み、マーッリー(マリ)王国の都(マーッリー(マリ)、またビーティー、もしくはニーニーと呼ばれた)に着く。都は特定されていないが、J・O・ フンウィク氏の説では、マリ共和国の首都バマコの北東、ニジェール川の左岸であるという。そこには、黄金王として有名なスルタンのマンサー・ムーサー(マンサ・ムーサ)の弟スライマーン(スレイマン)がいて、何度も会見したそうだが、先王よりもケチくさく、イスラーム教の信仰に敬虔であったということだ。会見は通訳を介して行われ、王と直接話すことは許されなかったが、通訳は王の前では着物を脱ぎ、古ぼけた服に着替え、ターバンの代わりに汚い球帽をつけ、着物とズボンを膝半分までたくしあげると、両肘を地面に打ち付け、はいつくばるような状態で王の言葉に耳を傾ける。そして、王からの返答があると、その者は着ているものをすっぽり脱ぎ捨て、泥を自分の頭や背にぶっかけたという。
当時イスラーム地理学ではニジェール川はナイル川の支流と思われていた。イブン・バットゥータは、そこで16頭の巨大な図体をしたカバを見て驚嘆している。彼はトンブクトゥからカウカウ(現在のガウ)を通り、モロッコの祖国に戻った。
彼の旅した世界は、現在のほぼ50カ国にまたがっており、その全行程は11万7千キロにも達する。そして彼の数奇な旅の記録をもとに、グラナダ出身の文学者イブン・ジュザイイは、1355年12月に『大旅行記』の編纂を完了した。」

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要約する。
「イブン・バットゥータは現在のモロッコにあったマリーン朝の出身。1304年にモロッコのタンジール生まれ。1368年か翌年1369年に亡くなるが、21歳から50歳まで30年間、世界を旅したベルベル系のイスラーム教徒である。
当時マリーン朝のスルタンは、北はアンダルスのカスティリア王国との聖戦、南東には、サハラ砂漠のオアシス都市やニジェール河畔のブラック・アフリカとの外交および経済関係を保つことに腐心していた。
1352年、もう50近いイブン・バットゥータは、最期の旅にでるが、出発の時にスルタンのアブー・イナーンに挨拶をしていること、帰りもスルタンの使者が首都ファース(フェス)にもどるよう指令を受けたりしているので、スルタンの命を受けての情報収集を行ったと推測される。 イブン・バットゥータは南に進み、マーッリー(マリ)王国の都(マーッリー(マリ)、またビーティー、もしくはニーニーと呼ばれた)に着く。都は特定されていないが、J・O・ フンウィク氏の説では、マリ共和国の首都バマコの北東、ニジェール川の左岸であるという。そこには、黄金王として有名なスルタンのマンサー・ムーサー(マンサ・ムーサ)の弟スライマーン(スレイマン)がいて、何度も会見したそうだが、先王よりもケチくさく、イスラーム教の信仰に敬虔であったということだ。会見は通訳を介して行われ、王と直接話すことは許されなかったが、通訳は王の前では着物を脱ぎ、古ぼけた服に着替え、ターバンの代わりに汚い球帽をつけ、着物とズボンを膝半分までたくしあげると、両肘を地面に打ち付け、はいつくばるような状態で王の言葉に耳を傾ける。そして、王からの返答があると、その者は着ているものをすっぽり脱ぎ捨て、泥を自分の頭や背にぶっかけたという。
当時イスラーム地理学ではニジェール川はナイル川の支流と思われていた。イブン・バットゥータは、そこで16頭の巨大な図体をしたカバを見て驚嘆している。彼はトンブクトゥからカウカウ(現在のガウ)を通り、モロッコの祖国に戻った。
彼の旅した世界は、現在のほぼ50カ国にまたがっており、その全行程は11万7千キロにも達する。そして彼の数奇な旅の記録をもとに、グラナダ出身の文学者イブン・ジュザイイは、1355年12月に『大旅行記』の編纂を完了した。」

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