大文字屋の憲ちゃん (当面は 石巻 地震) 

RIP 親父 けんちゃん 石巻 地震

石巻往還記 エピローグ to 石巻 地震がありましたが、大文字系は無事です。(95)

2011-05-17 00:05:40 | 日記
これは2011年4月16日にupした「石巻往還記」のエピローグである。


仙台駅に8時ごろ到着。23時30分発の夜行バスには3時間以上時間がある。歩きながらコンビニを探したがなかなか見つからず、名掛丁近くに節電のため照明を7割がた落としたローソンを見つけ煙草を買った。日本製がないのでマルボロ・ライト・メンソールという喫ったことのない煙草を買った。

仙台に寄る時はオトミさんに連絡すると話していたが、家庭の主婦が外出する時間でもないので、メールで再会は次回以降と伝えてとりあえず一息つける場所をさがした。

名掛丁の商店街を歩くが、入りたくなるような店は見つからない。軽く食事ができて長居ができそうなところがない。一人で居酒屋に入る気分でもない。マックは営業しておらず、ドトールは店の前に立った瞬間に閉店。

仙台とくれば牛タンだが、はたしてこの時節に店がやっているだろうかと思いつつ探してみると、アーケード街の入り口近くに「ベゴ政宗」という店を見つけた。入ってみると、他にやっている店が少ないこともあってか盛況である。ここで串焼きと牛トロ(刺身)をビール、日本酒とともに食した。牛タンの味自体は特段のものではなかった(肉の熟成が足りないように感じられた)。日本酒はなかなか品を揃えていたが、牛タンと日本酒の取り合わせにはもう少し工夫が必要と思った。牛タンのような獣肉と合わせた場合、日本酒は味が弱い。合わせる日本酒を純米大吟醸のような味も香りも強いものにするか、山廃純米原酒のような濃醇なものにしないとどちらも引き立たない。純米大吟がないので、墨廼江(特別純米)と一ノ蔵(大和伝、特別純米)を飲んでみたが、牛タンの肉に旨味がのっていなかったので、ちょっとお酒がもったいない感じがした。

2時間ほどして店を出て、東口の代々木ゼミナール前のバス乗場に向かう。駅周辺は夜も更けて人影まばらだが、バス乗場付近はバス待ちの人がけっこういた。

数社のバス会社の係員が、行先や発車時刻を連呼している。トイレがないので、用を足すには駅まで戻らなければならない。

バスは定刻に発車。往路のバスとちがって、座席がやや前後に広く、オープンカーの蛇腹式の幌のような円形の顔覆いが上部についていた。座り心地も少しよかった。

お酒が入っていた割には目が冴えていた。佐野のパーキングエリアで「佐野 生ラーメン」と「宇都宮餃子」と「ふる里のあけび」(饅頭、栃木県日光市)と「檸檬の月」(SAのオリジナル商品)と「だだちゃ豆 福餅」(山形銘菓)を買った。帰宅後に食す。佐野ラーメンは美味かった。檸檬の月もなかなかよかった。だだちゃ豆福餅はずんだ餅の周りのずんだが粒状ではなく裏ごしされた餡になっているもの。

土産

5時半に新宿駅西口に到着。小田急線で自宅まで写真に撮りながら帰る。7時半過ぎ自宅到着。


*   *   *   *


まず、書き忘れていたことを書いておく。

大文字屋のキクちゃんと兄夫婦は、地震・津波後、電気・水道・ガスなしの配給生活を送っていた。アイトピア商店街の空き店舗(星薬局さんの向かい)を会場にして毎朝8時にミーティングが行われ、食糧や煮炊き道具などの日用品や新聞の配給、今後の対応等の情報交換がなされた。そこにはキクちゃんが出かけていたようだ。2週間ほどして、ガビガビになった髪の毛や顔面に、さすがに3人共「これはいかん」ということで、燃料が多少手に入ったこともあり、丸森の恵美ちゃんの実家に車で風呂をもらいに行ったのである。やっと一息ついたというところか。おそらく3月25日頃であろう。私が行った4月1日に思いのほかさっぱりした顔をしていたのは、そういうこともあったからだろう。

今回の帰省でわかったことは、地震と津波で町は大きな被害を受けていたが、私の実家の人間は元気であったということだ。

しかし私が訪れたのは地震からすでに3週間ほど経過していた時期である。道も車が通れるようになっていたし配給の食糧も余るほどあった。(新潟や石川などあちこちで作られたおにぎりがあった。「おかか」や「さけ」と表示されていても具はすべて梅であった。)

3月11日以降の生活が、キクちゃんや兄夫婦にとってどんなものであったかは、そこにいなかった私にはわからない。それはずっとわからないのかもしれない。そもそもそれは現在進行中のものである以上、振り返るのには早過ぎるかもしれない。

とりあえず私としては、私にとっての3月11日以降の生活を忘れないでおきたいと思う。


*    *    *    *


石巻から自宅に戻り、撮ってきた写真を見ていて、憲ちゃんの一周忌の時の写真や今年の正月帰省の写真、あるいはネット上の石巻の写真と自然と比べていた。



●住吉公園近くの遊歩道

震災前

震災後


●住吉公園の雄島

・震災前

震災後


憲ちゃんが逝ってから正月だけでなく三月に一遍は帰るようになり、一周忌の帰省(2010年8月)からは石巻の様子をカメラに収めるようになった。それが震災前の石巻の姿の記録になるとは思いもしなかった。マコちゃんには「よかったじゃない、撮っといて!!」と言われたが、またたしかにどちらかと言えば喜ぶべきことなのかもしれないが、正直なところ、何かとても複雑な気持ちだった。喜ぶことも悲しむこともできない、とても奇妙な感じだった。

お正月(2011年1月)に帰省した際に称法寺の本堂内を撮影した時には、自然光での撮影ではシャター速度が遅くなり手ブレが激しいので三脚が必要だなと感じ、次回の帰省では用意しようと思っていた。因みに、次回の帰省に考えていたのは春のお彼岸であり、まさにその直前に今回の地震が襲ったのである。



●称法寺本堂(外観)

震災前

震災後


●称法寺の本堂内(すべて被災前)











称法寺もかなり傷ついたが、住職様は無事。墓はもうどこに何があるやらわからない状態だったが、いずれ片付けが進むことであろう。

石巻小学校近くの中央公民館で石巻かほくの紙面を写真に収めたが、やはり地元紙は地域の情報を生々しくそして力強く伝えていた。これは全国紙にはできないことであろう。(3月11日~4月3日、3月12,13日付はなかった。おそらく発行されなかったのであろう。)

3月11日


3月14日


4月3日



今年の正月に帰省して、門脇の川べりを歩いていた時、こんなに水が近くにあっただろうかと、少し驚きと戸惑いを覚えた。


●門脇の川べり(湊を望む)

震災前

震災後


●門脇の川べり(中瀬を望む)

震災前

震災後



●門脇の川べり(日和大橋を望む)

震災前

震災後


子供のころから川は近くにあり、見慣れたものであった。しばらく見ないでいるうちに川の水の近さというものを忘れてしまったようである。

川の水と言っても、私にとって北上川の水はそこで泳いだり遊んだりするような水ではなかった。遊ぶにはあまりに深く大きいのである。

しかし、あの川、あの水を、こわいと思ったことはないように思う。

いや、おそらく子供心に、落ちたらこわいとは思っていたであろう。しかし、川や水を嫌うような、そういうおそれる気持ちは持たなかったように思う。

岐阜県に郡上八幡という水の楽園がある。そこは川の上流で、子供たちは橋から川に飛び込んで遊び、家の傍を流れる小川で勝手口から体を乗り出し米を研げるようなところである。

しかし、それとは別に北上川の広さ大きさは、石巻に育った私にとっては、とても親しいものである。

今回の津波で、石巻の人の水に対する気持ちに変化があるのかどうかはわからない。おそらく人それぞれであろう。

ただ、新しい街づくりを構想するにあたって、「水害に強い」ということは否応なしに考えざるをえないであろう。その時に、あの水の近さをどのように考えることになるのか。

今は住んでいない私は、それについて意見を言う立場にはない。

もしかしたら、いや、おそらく、かなり多くの人が、川べり海べりに住み続けることを諦めざるをえないだろう。そしてそれはもうすでにそうなっていると言ってもいい。そしてそれによって街の様子はまた変わっていくのであろう。

おそらく私が久しぶりに石巻の水に驚いたのは、それに満ち満ちた力、おそらく自分を育んでくれた豊かな力を感じたからなのだと思う。

今はただそうとしか言いようがない。

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2 コメント

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よくまとめたね! (まこちゃん)
2011-05-17 02:30:32
ブログを拝見して「写真とっといてよかったじゃない!」ブログにもまとめられたし…。よく出来ているよ。

お寺の本堂があんなになっていたとは、想像以上。

河北の14日の女川役場からの画像にうちのビルの半分が映っていたよ。気がついた?
私はそれすらも嬉しい!だって何にも残っていないから。
よっぴがこうして記録してくれてありがたい!

よっぴがいっている通り、もう少ししたら瓦礫が片付いてお墓も探すことが出来るかも知れないね。もう少し待ってみよう。

先日、父と会った時、
「石巻の大文字屋のあだりの老舗がみな、
ねぐなっていぐな。
むがしは開北社も従業員いっぺで、夜食がでっからよく手伝いにいったな。ラーメンだのでで、それ目当てで行くんだ。」。

現アイトピア、旧大町の商店会はそうやって助け合って代々、商売をして来た。

小糸ばっぱの指示で、
女川に分店を開く事になった父は、
大町で学んだことを女川でも実践した。
お陰で私は商店会の中で育ち、
可愛がられ豊かなコミュニティの中で18年を女川で過ごすことができた。

今回の災害で両親は思わぬ形で、
女川を離れることになったが、
そのコミュニティのお陰で早い段階に
両親の無事を知ることが出来た。

屋号とはありがたいもの。
本名は知らなくても「ああ、大文字屋さんね」と話を進めることができる。

今、ツイッタで女川出身者、
在住の方々と出会うが「海岸の大文字屋」と
言っただけで解っていただける。

先祖達に感謝し、
大文字屋の次女であることにも感謝している

去年の夏、女川の古いアルバムを発掘し、
コピーをしてよっぴにも送ったが、
あの大文字屋の家族会のコピーを取っておいて
本当によかったと思う。

小糸さんの映っている写真の類は
我が家にはそれしかない…。

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マコちゃんどうもです。 (マコちゃんどうも(佐藤慶広(管理人)))
2011-05-17 14:34:19
「写真とっといてよかったじゃない!」ってのは、けっこう励みになってたりします。その意味で感謝。

もとはと言えば、憲ちゃんことをもっと残しておきたくて始めたこのブログ。

一周忌の時もこれだけみんなが集まるんだし残しておこうと思いました。その延長線上に石巻を撮るということがあった。

街が変わっていくことにいろいろ思いはあるけれど、考えなければならないのはこれからのこと。

岩手県の大船渡市の小学生が未来の街の絵を描いたものが貼り出されているという記事が今日の朝日新聞に載りました。現実の街づくりがそう甘いものではないにしても、こういう感性は大事にしてほしいと思う。

それにしても大文字屋の家族会の写真をコピーしたマコちゃんのタイミングはすごいね(笑
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