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日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

よんどころない事情

2012年11月13日 | インポート
よんどころない(拠ろ無い)事情により、7日間ほどブログが書けなかった。

どのようなよんどころない事情かは、知っている人は知っている。

書けなかったというよりは使えなかったという方が正確かもしれない。

今朝の新聞記事で、気になるものがあった。

大村市で過日、一般家庭にガラスを割って侵入し、たまたま帰宅したその家の住人を脅して、現金500円入りの財布(財布の値段は3000円だったそうだ)を奪って逃走していた犯人が、諫早市内で捕まったという記事。

何が気になったかというと、その犯人を現行犯逮捕した時の罪名が、「特殊開錠用具所持禁止法違反容疑」ということになっていた。

その「特殊開錠用具」というのは、普通のネジを締めたりする時に使うドライバーの事を警察用語では言うらしい。

もちろん、強盗をはたらいた者が一番悪いのではあるが、ドライバーを1本持ち歩いていたということで、「特殊開錠用具所持禁止法違反容疑」で現行犯逮捕されて、取調べを受けたということに驚愕した。

警察官のお手柄といえばその通りではあるが、このような事が私たちのような一般庶民に対して適用されたならばと考えると、公権力に対する恐怖を感じずにはいられない。

要するに、権力に対して従順でない者に対しては、どのような些細なことからも罪人に仕立て上げる事が出来る可能性があるということを認識しなければならないのだということ。

警察官の職務質問に対して、反抗的な態度でもとろうものならば、「公務執行妨害」というようなことにもなりかねない。

戦前、戦中に行なわれていたような反権力に対する弾圧が、現在においても起こりうることだということを考えておかなければならない。

公権力というものは、無ければならないものではあるが、その使い方を間違えると、おかしな世の中になってしまう事もあるということを、私たちは過去の自国の歴史から学習しているはずではある。

よんどころない事情で、色々な道具などを持ち歩くこともあるが、「特殊開錠用具所持禁止法違反容疑」などという罪名を付けられて逮捕されないように、ドライバーなどは持ち歩かないように気をつけなければならないと思う。


よんどころない事情といえば、本日の大村市竹松遺跡発掘のアルバイト作業は、雨のために3時までで切り上げて、早帰りになった。

午前中には、大村市福重小学校の生徒さんたちが、遺跡発掘の体験学習に来ていた。

聞くとはなしに聞こえてきたが、何かを掘り出した小学生の一人が、調査員の方に向って、「おじちゃん、何か出てきたよ」と言って、うれしそうに見せに行っていた。

「おじちゃん」と呼ばれた調査員の方も、にこやかに応えておられた。

和やかで、とてもよい情景だった。



豊田一喜















変わり行く風景

2012年11月04日 | インポート
以前は自宅の西側の方に見えていた、隣町である諫早市森山町の山際の集落等が見えなくなった。

雲仙市愛野町と諫早市森山町を通過する自動車専用道路の建設工事の進捗により、家の周りの風景が変わりつつある。

用地買収の容易さから選定された道路線形だろうが、優良な水田だった区域にそれは建設されている。

子どもの頃から慣れ親しんできた、のどかな水田と山際の集落などを臨むことが出来る近隣の風景だったが、今は威圧感のある建設構造物が視野を遮断しつつある。

まるで、大きな堤防が築造されたようにさえ感じる。

先人の方々が、主食である米の増産のために、潟浜を干拓する事によって耕作地を増やして形成されてきた平坦な水田地帯を、分断するような配置で建設工事が進められている。

一度、土木構造物によって遮断された風景は、それを撤去しない限り元に戻すことは出来ないから、子どもの頃から見慣れた自宅周りの風景は、もう見ることはできない。

周辺の風景の変化の要因は、その道路建設によるものばかりではなく、生活道路の改修や住宅の建て替え、新設、河川の改修、水田の圃場整備などたくさんある。

雨が降るとぬかるんでいた道路は舗装されてきれいになり、町内会30戸余りの住宅のうちの20戸以上は新しく建て直され、石垣の護岸だった千鳥川の岸辺はコンクリートで固められて、40年以上前の場景は、かすかな記憶の中にしか存在しない。

子どもの頃は水田や畑だった場所に、住宅が建てられ、そのことによって、以前は見渡す事が出来ていた風景が遮断されて、窮屈に感じるような方角もあるようになった。

地域の発展の象徴と思えばそのようにも解釈できるが、子どもの頃には当たり前に見ていた自然環境も消滅しつつある。

泥底の小さな用水路の岸辺にはセリが繁茂し、その用水路に水が流される季節には水底に青色の鮮やかな水中花が咲き、ドジョウや小鮒やハヤの子などが泳いでいた。

コンクリートのU字溝に変わってしまった用水路には、セリの繁茂は無いし、青色の水中花もほとんど見ないようになった。

子どもの頃に住んでいた家の裏を流れている千鳥川も、諫早湾干拓の潮受け堤防の築造によって、潮汐による潮の遡上もなくなった。

梅雨時などの大雨による洪水被害の危険性は軽減されたが、それと引き換えに無くしてしまった環境もある。

潮汐によって維持されてきていた有明海の干潟の多くを消滅させ、その有明海の子宮とも呼ばれていた海域における、魚類の産卵・生育場所を無くしてしまった。

そして、人工的に造られた閉鎖性水域により、その中の水質が悪化して、アオコやユスリカの異常発生などが起きている。

自然の恵みとして当たり前に誰にでも採取できていたアゲマキやシシ貝も、潮受け堤防の締め切りによる調整池内の干潟の消滅とともに姿を消した。

日本の国内でも有明海周辺の干潟にしか生息していないムツゴロウも同様に、調整池内においてはその淡水化によって死滅してしまった。

秋から冬にかけての、旧干拓堤防からのハゼ釣りの人たちの姿も、潮汐によるハゼの遡上がなくなったことにより、見かけることはなくなった。

有明海の潮汐の遡上圏であった、千鳥川の左岸脇にあった家で育ったので、川の下流からの潮の遡上と川の上流からの大雨により増水する流下によって、物心ついてからも2回は洪水被害にあっているが、今は潮受け堤防により潮汐の遡上が遮断されているので、そのような洪水被害に遭う可能性はほとんど無くなった。

そして、旧干拓堤防にある排水樋門には、大量の排水能力を有する強制排水ポンプの設置が進められている。

排水不良を改善して、旧干拓地内においての畑作物の生産につなげるという大義名分を掲げてはいる。

しかし、実は洗面器の底のような地形である干拓堤防に囲まれた区域において、その排水不良を無くすには、大雨により流下水が増えた状況下においては、潮受け堤防の機能上、従来の排水樋門を締め切っての強制排水による方法しか低平地における排水不良を克服する方法は無いということは当たり前の常識として分かっていたことでもある。

中学生レベルの理科の実験でも容易に理解できるような事柄を無視して、潮受け堤防の完成以降にも、排水不良による冠水が度々起きたことにより、苦肉の策として「畑作物の生産につなげる」という大義名分を掲げているだけのことである。

繰り返すが、低平地における増水時の排水対策としては、強力な排水ポンプによる強制排水しか方法は無い。

行政がやっと、当たり前の事を当たり前に対処しようとしているだけのことである。

潮受け堤防内に溜まった水は、外海との潮汐の関係で、常時排水できるわけではなく、外海の引き潮により外海の潮位が調整池内の水位よりも低くなった時間帯にしか排水できない。

そのような条件が整うまでは、調整池の中の水位は上流からの流下水により増え続ける事になる。

調整池の水位が上昇すれば、旧堤防で囲まれている耕作地内に、排水樋門を通じて調整池内の水が逆流する。

だから、そのような逆流を防ぐには、従来の排水樋門を締め切って、その排水樋門の通水断面以上の排水能力を有する強制排水ポンプを設置し、強制的に排水するしか方法は無い。

調整池に面している排水樋門の全てを自動的に締め切る事ができるようにして、それらの全てに強制排水用の強力な能力を有する排水ポンプを設置し、水位の自動監視システムにより制御可能なようにすれば、低平地における排水対策は万全になる。

低平地における排水対策は、何も農業だけの問題ではない。

地域全体の問題であるから、強制排水ポンプの稼動による電気代等の負担は、地域の行政がすればよい。

強制排水ポンプの稼動のために使う電力は、調整池の水門の開閉による水流のエネルギーを利用すれば充分に賄えるはずだ。

要するに潮流発電(潮汐発電)のシステムを導入すれば、自然のエネルギーによる発電が可能になる。

今、諫早湾干拓の調整池の水門の常時開門調査を国がやろうとしているが、地元の一部農業団体は強行に反対している。

私は常時開門ということには反対ではあるが、軸足を少しだけ動かして、条件付の開門調査の話し合いのテーブルにはつくべきだと思う。

裁判の判決によって、国家が進めようとしていることであるし、国は再三地元に対して説明の機会を作っている。

地域に暮らしている人は農業者だけではない。

諫早湾干拓の調整池の水門の開門調査に伴って発生するであろう公共事業費は、およそ700億円という説もある。

県内の建設関連業の活性化のためにも、条件付開門調査には応じた方が地元にとっては得策だと私は思う。

地元の建設関連業が元気になれば、それに連動して資材等の販売から夜の歓楽街まで元気になることができる。

言うなれば、国家が行なっている諫早湾の干拓事業は国家の責任において継続中であり、それに必要な経費は国家が負担してくれるということであれば、何も強行に反対することもないのではないだろうか。

国家は財政的な執行権を握っている最も上級の権限を有している組織でもあるということを認識した方が良い。

気象予測の技術も進歩しているのだから、大雨が予測される前には調整池の水門を閉めて、外海からの潮汐を遮断すれば、洪水被害に遭うことも無い。

水門を開門すれば、潮汐により、人工的に作られた閉鎖性水域の悪化した水質も改善される。

物の見方を少しだけ変える事によって、物事は良い方向に進むこともある。

変わり行く風景とともに、思考の経路も少しずつ変えて行った方が良いのかもしれない。


豊田一喜






















大学新設の不許可

2012年11月03日 | インポート
田中真紀子文部科学大臣が、来春の開学準備をしていた3大学に対して、突然、不許可の決定をしたそうだ。

以下は、そのことに関する本日の毎日新聞記事の転写。


大学新設不許可

時間と予算 無駄に?

「寝耳に水」憤る関係者

 来春の開学準備を進めていた3大学が、突然、不許可を突きつけられた。

田中真紀子文部科学相の2日の決定は、時間と予算をつぎ込んできた大学にとって、まさに「寝耳に水」。

これまでの開校に向けた広報活動や校舎新築などの準備が無に帰しかねず、現場には混乱が広がった。

3大学は来週にも田中文科相に面会を求め、撤回を要求する。

 「大臣の考え方一つで方針が変えられるのは行政の継続性を逸脱している。到底承服できない」。

秋田市の穂積志市長は2日、緊急記者会見を開き、田中文科相への憤りをあらわにした。

 09年の市長選で初当選時、穂積市長は現在の秋田公立美術工芸短大を4年制化して秋田公立美術大にする構想をマニフェストに掲げた。

背景には短大生の就職率の低迷などがあった。

今年度予算では校舎の新設費として約5億1912万円を計上し、工事は10月末現在で36%が完了。

新大学の3年次に編入(定員10人)を希望している短大生32人の進路も白紙となる。

穂積市長は「出はなをくじかれた思いだ」と険しい表情を見せた。


 看護科の単科大・札幌保健医療大(札幌市東区)を開設予定だった学校法人「吉田学園」。

大学設置準備室の鈴木隆室長は「教員の数など大学設置基準を超える手厚い態勢で開校準備に当たってきたのに「今ごろなぜ」という気持ちだ」と憤りを隠さない。

 同学園は札幌市で専門学校9校を運営しており、このうち看護専門学校の「北海道保健看護大学校」の大学化を目指し、約4年前から準備を進めてきた。

既に校舎の改築工事を済ませ、約30人の専任教員や数十ヶ所の実習病院も確保。

3日には学生募集のためのオープンキャンパスを開き、募集要項を配布する予定だった。

しかし「不許可」で急きょ中止せざるを得なくなり、職員が参加希望者一人一人に手分けして連絡するなど対応に追われた。


以上は本日の毎日新聞記事より転写。


以下はインターネット記事より転写。


田中文科相>3大学新設認めず 審議会答申を覆す

2012年11月2日(金)18:00
 田中真紀子文部科学相は2日、閣議後の記者会見で「大学設置認可の在り方を抜本的に見直す」と述べ、認可を厳格化する方針を示した。また、大学設置・学校法人審議会が1日に来春の開学認可を答申していた秋田公立美術大、札幌保健医療大、岡崎女子大(愛知県)の3件の4年制大学を不認可とした。文科相が審議会答申を覆したのは、省内に資料が残る30年間で初めてで、極めて異例の判断。

 学校法人が大学を開校したり学部を新増設したりする場合、文科相は審議会にその可否を諮問し、答申を受けて決定する。田中文科相は全国に4年制大学が780(国公立181、私立599)校あることに触れ「大学教育の質が低下している。そのために就職できないことにもつながっている」とし、当面は新設を認めない方針を示した。今後、検討会を設け、メンバーの多くが大学の学長や教授で占められている審議会の在り方を見直す。

 1日に答申された学部の開設(16件)、大学院の開設(13件)は答申通り認可した。【石丸整】


以上はインターネット記事より転写。


以下は、以上の記事に対する私の雑感。


田中真紀子文部科学大臣は、不許可にした理由を明示する必要がある。

大学の新設を審議した審議会の答申を覆しての決定であるから、その覆した理由を明確にするべきだ。

申請をした組織は、約束事に則って準備をしての申請であろうから、おそらく現行の決まりごとの内容はきちんとふまえた上での申請であろうと思われる。

教育産業の組織が利するような事業を認める必要はないとは思うが、今回の件は新聞記事等の内容を読む限りにおいては、不許可にした決定の方がおかしいように感じる。

短期大学としての長い期間の教育実績があり、より質の高い教育を目指して4年生の大学に移行しようとしている組織に対して、その申請を不許可にするというならば、その明確な理由を示さなければならないはずだ。

長崎県内にも、短期大学から4年制大学に移行した学校がある。

申請の時期が、去年までの場合には許可されて、今年の場合には不許可になった組織があるということは腑に落ちない。

権力を握った人の横暴のように思えてしまう。

内閣の改造などという、大臣を入れ変えただけでは、すでに死に体と化している民主党の根本的な本質が変わるはずも無い。

現在の庶民の民意をきちんと反映した政治家の集団に、政権を掌握してもらうしかない。


豊田一喜
















日本人のヒトとしての起源

2012年11月02日 | インポート
「アイヌと琉球人は近縁?」という、今朝の毎日新聞の見出しに興味を持った。

以下は本日の毎日新聞の記事の転写。


アイヌと琉球人は近縁?

DNA配列解析、遺伝的に類似

総合研究大学院大チーム

 日本列島に住むヒトの集団の中では、北海道のアイヌは本土日本人よりも沖縄(琉球)人と近縁性が高いことを、総合研究大学院大学の斎藤成也教授らのチームがDNA配列の個人差を大規模解析して突き止めたと発表した。

チームは最初に日本列島に移住していた縄文人と弥生時代に来た渡来人が混血を繰り返して現在の本土日本人が生まれ、北海道と沖縄の集団は渡来人の影響をほとんど受けなかったとする学説を裏付ける成果と主張している。

 日本に招かれたドイツの病理学者ベルツが1911年、アイヌと琉球人には身体的な共通点があることを指摘し、現在も議論が続いている。

 チームは東京大学のグループが80年代に北海道平取町のアイヌから提供を受けていた血液36人分や、沖縄で採取された琉球人の血液35人分に含まれるDNAを分析。

すでに公開されている本土日本人243人のDNAデータと合わせ、配列の個人差を1人あたり60万ヶ所程度比較した。

その結果、アイヌと遺伝的に最も近いのは琉球人で、本土日本人はアイヌより琉球人や韓国人と近いことが分かったという。

 斎藤教授は「縄文人の骨や歯に含まれるDNAを解析し、日本人の成り立ちを明らかにしていきたい」と話している。


以上は、毎日新聞記事より転写。



先日、眉毛の濃い知人に、ご先祖様は沖縄の方ですかと問うたら、山形県の方でその前は北海道の出だと答えられた。

以前から、アイヌの人と沖縄の人の眉毛に、共通性があるように思ってはいたが、そのように思っていたことが外れてはいなかったようだ。

DNA解析という科学技術の進歩によって、日本人のヒトとしての起源が解き明かされつつあるようだ。

果たして、聖書の記述にあるように、ヒトの起源はアダムさんとイブさんに行き着くのだろうか。

ヒトも生物だから、同時発生的に、数多くのヒトの起源の御先祖様が存在するという考え方の方が私には理解しやすい。




豊田一喜








寒い

2012年10月31日 | インポート
寒いと思うような日だった。

上の方の服を着る枚数が、2枚から急に4枚に増えた。

石列の計測で、ピンポールに取り付けた反射プリズムを持って、その円形気泡管を中心に合わせてピンポールを鉛直に立てて固定し、器械の観測が終了するまでじっとしているのが本日の仕事だった。

移動する距離がほとんど無いので、体を動かして作業をしている人達に比べると、寒さをより感じやすいのだと思う。

だんだんと、朝起きるのが億劫になるような季節が近付いて来ている。

風邪などで休む人もぼちぼち出始めるのかもしれない。

6月4日に、大村市竹松遺跡の発掘アルバイト作業員として採用してもらってから、2回雇用契約の更新をしてもらったが、今まで休むことなく皆勤できている。

勤務に関する取り扱いの自由度が、かなり認めてもらえているようなので、家庭の主婦の方や、どうしても平日にしか済ます事が出来ないような用事が出来た人などにとっては、勤めやすい職場なのかも知れない。

そろそろ、靴下を2枚履いて、上着のポケットにホッカイロを2個入れなければならないような気候になりつつあるようだ。



豊田一喜




誕生日

2012年10月30日 | インポート
本日はA氏の51歳の誕生日だったそうで、おめでたいことだと思う。

自分と同じぐらいの年齢かと思っていた。

大きな組織の中で熟成されてきた責任感などが、その風貌からにじみ出て、落ち着いた感じを受けるからなのだろうと思う。

自分はほとんど大きな組織に所属した事がなく、自分の思うように勝手に生きてきたような部類の人間だから。

51歳の頃は、ただひたすら納期に追われ、土曜日曜の休みもなく、夜中でも事務所の中で、液晶シャッターメガネをかけて、デジタルステレオ図化機の中の立体摸像を視認しながら、数値地図のデータを取得する毎日だったように思う。

そのような事を経験しているので、今やらせてもらっている仕事が非常に楽しく感じられる。

あと3ヶ月過ぎると59歳になる。



豊田一喜


調印式

2012年10月28日 | インポート
小浜町の旅館の一室で、調印式のような事をした。

初対面の人二人と、以前に二度会った事があるその息子さんと、私と妻と娘の6人での食事会前のセレモニーだった。

調印する用紙の該当欄に、自署して押印するだけのことだったが、生まれて初めてその欄に署名した。

ありがたくて、嬉しい日だった。



豊田一喜


昼飯のおかず

2012年10月27日 | インポート
朝の6時に起きて仕度をしてから、有喜漁港にボラ釣りに出かけた。

歯を磨いたり、顔を洗ったり、クーラーボックスに入れる氷を準備したりしていたら、出発は6時半ごろになってしまった。

仕事のある平日には、3時半頃には起きているが、休日にはゆっくり目に起きる事にしている。

魚釣りといえば、私の場合、釣れてくれる小魚なら何でもいいので、あえて○○釣りという言い方はしないで、海釣りの時には、単に「魚釣り」に行くというのが最近の傾向だった。

しかし、先週の日曜日の午後からは、「ボラ釣り」という目的を明確にして魚釣りにでかけるようになった。

有喜漁港に流入する河川の河口付近の突堤の一部区域において、干潮時間帯にボラの群れが回遊して、サビキ仕掛けでボラがたくさん釣れるということを学習したので、「ボラ釣り」という魚釣りに行くと言えるようになった。

7時少し前に有喜漁港に到着した。

ボラ釣りに、私から誘って、同行する事を約束していた知人とその友人は、まだ到着していなかったが、しばらくしてから合流できた。

潮加減は、丁度、満潮から引き潮に転ずるところだった。

サビキ仕掛けを投入したが、ボラの回遊は見られないので、いつものように渓流仕掛けの青イソメの餌釣りの竿も出した。

程なくしてベラの子が釣れてくれた。

その後もぼちぼちとベラの子が釣れたが、ボラの群れの回遊は見られない。

河口の流れの中央付近では、ボラが頻繁に飛び跳ねているのが目撃できる。

知人の竿に、河口の中央付近で、一度だけボラがかかったがすぐに外れてしまった。

9時半を過ぎて、潮位が大分低くなった頃から、ボラの群れの回遊が、突堤のすぐ近くで確認できるようになった。

時合いが到来した。

サビキ仕掛けの錘カゴにアミを詰めて投入し、その投入した仕掛けの浮きの付近にさらにアミを手で投げ入れる。

すると、そのアミが拡散する範囲に、ボラの群れがうじゃうじゃと集まってくる。

そして浮きが動いたので、すかさず合わせると、残念ながらサビキ仕掛けが途中で切れてしまった。

急いで予備のサビキ仕掛けをセットして、投げ入れる。

すぐにボラが喰らいついてくれた。

竿を立てて、突堤の上まで抜き上げる。

次は、2匹かかっていた。

かなり重かったが、慎重に抜き上げた。

ボラをはずす時に、仕掛けがからまった。

予備の仕掛けは残っていなかったので、その絡まった仕掛けを元に戻す作業にかかる。

その頃から、知人の竿にもボラがかかるようになった。

うじゃうじゃとしたぼらの群れが回遊して、次々と知人はボラを釣り上げていた。

私も仕掛けを元に戻してから、何匹かはボラを釣り上げた。

友人が、コーヒーとバナナの差し入れを3人分持って、様子伺いに来てくれた。

10時20分頃に、撒き餌のアミがなくなったので、私は納竿したが、知人とその友人は釣りを続けていた。

知人は見ていた時だけでも、20匹程度はボラを釣り上げていたようだ。

その後に何匹釣り上げたかは分からないが、かなりの匹数を釣り上げたものと思う。

ボラ釣りに誘ってよかった。

私の本日の釣果は、ボラ9匹、ベラ6匹だった。

家に帰って魚を捌いた。

ボラ2匹は刺身にした。

残りのボラは塩焼きにした。

ベラと刺身にしたボラのアラは、煮付けにした。

それらを昼飯のおかずにした。

今の季節、諫早市の有喜漁港の一部での干潮の時間帯には、ボラがよく釣れる。



豊田一喜
















お疲れ様でした

2012年10月26日 | インポート
Tさん、お疲れ様でした。

大村市竹松遺跡のアルバイト発掘作業員として働かせてもらうようになってから5ヶ月になる。

その間、たくさんの作業員の方々と話をさせていただき、それぞれの方がいろいろな職歴を持っておられる事が分かった。

花屋さんに勤めていた人、看護士だった人、料理人だった人、建設関連業で働いていた人、団体職員だった人、公務員だった人など多様な職業経験者の方々が働いておられる。

その中でもTさんは、昼間のアルバイト作業が終わった後に、将来の目標に向って、夜間の専門学校に通っておられる。

まじめで寡黙な人だと思っていたが、最近ではよく話もするようになっていた。

アルバイト仲間数人で、休日に魚釣りに行ったと、とても楽しそうに話をされていた。

来月から、その将来の目標としている関連の職場でのパートの仕事で働く事が決まったのだそうだ。

喜ばしいことだと思う。

毎日お会いしていた人の顔が見られなくなる事は寂しいことだが、Tさんの将来の目標に向ってまじめに努力されている姿が光り輝いているように思えて、老齢に近付きつつある身としてはうらやましくも感じる。

近い将来、目標の仕事に就かれたTさんのお世話になる事が、もしかしたらあるかもしれない。

将来の目標に向って、今自分に出来る新しい知識と実務の修得をする努力を、昼間に働いた後で継続するということは、並みの意志ではなかなか出来ないことだろうと思う。

妻は、高校を卒業してから紡績工場で働きながら、夜間の短期大学に通って保母の資格を取得している。

その3年間の夜学は、仕事の疲れによる睡魔との闘いの日々だったそうだ。

しかし、その時に取得した資格のおかげで、今も保育園で働かせてもらう事が出来ている。

努力は、何等かの形で将来に繋がる可能性がある。

Tさん、頑張ってください。

そして、お疲れ様でした。



豊田一喜











時間の速度

2012年10月25日 | インポート
最近特に、時間の経過が速く感じられる。

朝、目が覚めてから出勤までの時間は、あわただしく過ぎる。

出勤途上の車の中でも、3人で色々な話をしながらの楽しい時間なので、およそ1時間半の時間もすぐに過ぎてしまう。

ラジオ体操をしてから、朝礼の後に、9時から荷物を持って現場に移動し、仕事を始めて測量作業の準備をしてから少しだけ計測作業をしていると10時の休憩の号令がかかる。

休憩明けに仕事を再開し、集中してピンポールを静止させて立てる動作を繰り返していると、11時の小休止の号令がかかる。

その後の昼休憩までの時間の経過も、とても速く感じる。

指示された作業を、なるべく早く終わらせて、次の作業に移りたいと思いながらの今週の作業内容だったので、特にそのように感じたのかもしれない。

石列の中の石の形状を、ひとつひとつ計測するための作業が主だった。

途中で、出土遺物の位置を特定して記録するための「点上げ」という作業も何点かはあった。

トータルステーションで、石の正射影形状を、なるべく実物に近く計測して記録するためには、スムージングという多角形を曲線化して表示する概念の理解と認識が必要になってくる。

コンピュータは、計測している点列の結線状況を認識し、その流れに従った曲線化をして出力する。

計測する点列の数と位置次第で、最終的に出力される図形の形状が異なってくる。

例えば、四角形の場合には、その角の4点だけを抑えると、スムージング機能によって、円や楕円のような図形として出力されてしまう。

そのようにならないような計測点列の配置が必要になってくる。

そのような概念の理解と認識をして、ピンポールを鉛直に立てて計測点を移動させているつもりではいるが、作業を指示している人達から見れば、計測点の取りすぎという風に見られているのかもしれない。

となると、当然の事ながら作業の進捗度が遅いという評価になってしまうのだろう。

現場で、計測対象物の正射影形状を、実物に近い形状でデータ取得しておれば、後は編集作業にて陰線処理と個別の石の稜線などを描きいれるだけで石列の図面は完成する。

という認識で作業をやらせてもらってはいるが、理解して頂いているのかどうかは分からない。

昼休みに昼食を摂り、午後1時より10分ほど前から測量器械を持って現場に移動して器械の設置をしていると、すぐに1時を回り、ベルとコンベアーが動き出す。

集中してピンポールを立てて作業をしていると、程なくして2時の小休止の号令がかかる。

小休止明けから3時の休憩までも、もう3時かという感覚で過ぎてしまう。

3時の休憩から、4時半頃のブルーシートかけまでの時間も、作業の進捗度から考えて、もう少し時間が欲しいと思うぐらいの感覚で過ぎ去ってしまう。

5時少し前の終礼を終えて帰路につき、自宅までの1時間半も、朝の通勤時と同じように楽しく過ぎる。

本日は、中央小学校の郷土誌クラブの生徒さん9名と、引率の先生方が、3時から3時半の間に、大村市竹松遺跡の発掘現場の見学にみえていた。

真夏の頃よりも日が沈むのが大分早くなって、家に帰り着く頃には暗くなっている。

楽しかったり、集中している時の時間の速度は、とても速く感じる。


豊田一喜












学者の責任

2012年10月24日 | インポート
イタリアの裁判で、地震予知に失敗した責任を、関係した学者等に科す判決が言い渡されたそうだ。

以下は、本日の毎日新聞記事の転写。


地震予知失敗 禁固6年

イタリア防災庁付属委の7人  過失致死傷の罪

 多数の犠牲者が出た09年のイタリア中部地震で、大地震の兆候がないと判断し被害拡大につながったとして、過失致死傷罪に問われた同国防災庁付属委員会メンバーの学者ら7人の判決公判が22日、最大被災地ラクイラの地裁で開かれ、同地裁は全員に求刑の禁固4年を上回る禁固6年の実刑判決を言い渡した。

 地震予知の失敗で刑事責任が争われる世界的にも異例の事件。
同地震では309人が死亡、6万人以上が被災した。

 イタリアの刑事裁判では判決理由は後日開示されるため、裁判所の判断の詳細は不明。
被告側は控訴する方針を明らかにした。

 防災庁幹部だったベルナルド・デベルナルディニス被告(64)は閉廷後「私は自分の務めを果たしただけで間違いはおかしていない」と無実を主張した。

 大学教授や地震学の専門家らで構成される同委員会は、数ヶ月にわたり群発地震が続いていた中部の状況について、09年3月31日にラクイラで開いた会議で大地震に結びつく可能性は低いと報告。
多くの住民が6日後の4月6日に起きた中部地震で死傷したとして、7人が11年5月に起訴された。


以上は、毎日新聞記事より転写。



画期的な判決だと私は思う。

当然そうであるべき事を、今まではそのようにしてこなかっただけの話で、公費から報酬を貰って行なっている仕事であれば、その事に対する責任を負うべきは当たり前のことであろう。

公務員等の職務の結果に対する責任の取り方が、余りにもゆるすぎると常々思っていた。

人命に関わるような、地震予知という重要な職務なのだから、結果責任を負うということは当たり前だと私は思う。

控訴の結果はどうなるのかは分からないが、ラクイラの地方裁判所の判断は妥当だ。

人命に関わるような研究はしておりますがその分析結果に対する責任は負いかねますというのであれば、誰でも研究者になれる。

学者等の知識人と呼ばれる人たちの間からは、この裁判結果に対する反発の声が多いだろうが、それぐらいの覚悟で研究には臨んでもらいたいと末端で生活している者としては思わずにはいられない。

日本においてはそのような判決は出にくいだろうし、まずそのように学者を訴えるということをしない民族性の様には思う。

しかし、我が国においても、地震予知などに関する学者の方々の責任意識を変えていった方が良いと私は思う。



豊田一喜






ボーっとしていた話

2012年10月23日 | インポート
仕事帰りに友人と二人で、諫早市長野町のドラッグストアーコスモスに、かなりの頻度で立ち寄っている。

たいていの場合、1丁で18円の豆腐を3丁とペプシコーラの1.5リットル入りペットボトルを1本購入する。

合計で172円になる。

1丁で18円の豆腐は、かなりの大きさで、私の貧相な味覚ではおいしく感じる。

生来、粗食で育ってきたので、ほとんどの市販の食糧品をおいしくないと思う事はまず無い。

なぜコカコーラではなくてペプシコーラかというと、ペットボトルのパッケージの違いかもしれない。

私はペプシコーラのパッケージの方が好きだという理由で、そちらを選ぶことの方が多い。

コカコーラとの味の違いはあまり分からない。

で、いつものように駐車場に車を止めて友人と二人で店内に入る。

カゴを持って、豆腐とペプシコーラの所へ向い、1丁18円の豆腐を3丁とペプシコーラ1本をカゴに入れてレジに並ぶ。

500円玉で支払い、328円のお釣を貰いレジを離れる。

そしてどういうわけか、レジ袋に購入品を入れる工程を飛ばして、無意識のうちにカゴに購入品を入れたままで店を出た。

友人は同じレジで、私の後ろに並んでいたが、その様子は見ていなかった。

車に戻って、いつものように左手にレジ袋を移して右手でズボンのポケットに入れている車の鍵を出そうと思った時に、何か変だと思った。

右手には、店のカゴを下げていた。

慌てて店に戻ると、出口付近で買い物を終えて店から出て来る友人に遭ってしまった。

右手に下げている店のカゴを見せて笑顔を見せるしかなかった。

車の鍵を友人に渡して、慌てて店の中に入り、レジ袋に購入品を入れ替えてから店を出て車に戻った。

当然の事ながら、車の中で待っている友人に笑われた。

ボーっとしていた話。




豊田一喜












検証と1匹20円のボラ

2012年10月21日 | インポート
本日は、昨日の釣りで得た仮説を検証するために、釣りに出かけた。

というような理由を付けたが、何の事は無い、釣りに行きたかっただけ。

しかし、検証をしてみたいと思ったのは事実。

何をかというと、ボラは、突堤の陰になる時間帯の干潮時に、ある一定の区域を回遊していて、サビキ仕掛けがボラの目からすれば見えにくくなり、ボラがたくさん釣れる、という事を検証したかった。

昨日、友人が帰った後で、ボラが面白いように釣れた事の要因を確認したかった。

そのために、午後3時半ごろに家を出て有喜漁港に向かい、午後4時より少し前ぐらいから釣り始めた。

諫早市森山町の「渋谷釣具店」で、170円の撒き餌用冷凍アミを買ってから出掛けた。

突堤の先端付近では、4人ほどが釣っていたが、昨日ボラが釣れた場所には誰もいなかった。

海は少し濁っていて、昨日のような透明度ではなかった。

ボラの回遊は見られない。

仕掛けを入れて、撒き餌をしてから3分ぐらいしたら、表層近くをボラの群れが回遊してきた。

やはり、その付近で溜まって回遊しているのだということは確認できた。

後は、突堤の影により暗めになっている時間帯においては、ボラの目からはサビキ仕掛けのハリスが見えにくくなっていて、ボラが釣れやすいということの確認が必要になるが、そのためにはボラがサビキの擬餌針に喰いついてくれなければならない。

例の如く、投入している仕掛けの直近に、ひとつまみのアミを撒き餌として投げ入れる。

その周りをボラの群れがうじゃうじゃと回遊して、アミを食べているのが見える。

その直後に、浮きが動いた。

サビキ仕掛けの部分の長さのすぐ上で浮きを固定している。

すぐに合わせると、心地良い重さが竿に伝わってくる。

慎重に竿を立てて、突堤の上まで抜き上げる。

興奮して、体の血流が早くなっているのがわかり、自分でもおかしく思える。

そのような事が間断なく続いた。

途中で、針がかりはしたが釣り上げる事はできなかったのが何尾かはいたが、ほとんどは興奮とともに釣り上げた。

かくして、昨日考えた仮説は、見事に検証できた。

午後5時10分ごろには、撒き餌のアミを使い切ったので納竿したが、クーラーボックスが重たかった。

帰宅してから数えてみたら、20cm未満も3匹ほど混じってはいたが、残りは20cmオーバーで、全部で15匹釣れていた。

170円の餌と、70円ぐらいのサビキ仕掛けと、60円の錘カゴで、合計300円。
15匹釣れたから、1匹当たりおよそ20円のボラということになろうか。

うろこを落とし、えらと内臓を取り出して塩水に漬けておいてから、きれいに水洗いして、大き目の鍋で煮付けにした。

水、料理酒、味醂、砂糖、薄口醤油などで作った煮汁を沸騰させてからボラを入れ、落し蓋をして30分間ほど煮付けた。

昨日の釣果で薄く塩をして冷蔵庫にしまっておいたボラは、塩焼きにして食べた。

適度な塩味で、おいしかった。

趣味に没頭できた連休だった。

本日の釣果(さばいた後。画像をクリックすると拡大する。)
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豊田一喜











無風状態

2012年10月20日 | インポート
2ヶ月に一度の病院通いの日だった。

2か月分の薬を貰うために、その都度診察を受けなければならない。

待ち時間5分。体重・血圧を測定してもらって、医者の先生の診察は2分程度。

それから会計の窓口に診察代のお金を払うまでが10分以上待たされる。

会計で診察代を支払ってから、別の所にある薬局で医者から出してもらった処方箋通りの薬を出してもらう事になる。

その薬局でも通常はかなり待たされるが、本日は私が行った時刻には薬局の利用者が比較的少なくて、5分程度で名前を呼ばれた。

11時20分頃に薬を受け取ってから、友人に電話を入れてみた。

「釣れてますか?」

「ボラばっかりです。」

「どこですか?」

「この前の有喜です。」

「今病院が終わったので、これから私も行きます。」

ということで、家を出る時から魚釣りの諸道具は車に積んでいたので、途中でサビキ仕掛け用の餌のアミを買って、有喜漁港に向う。

餌釣り用の青イソメは、昨日の仕事帰りに購入していた。

この前釣った有喜漁港の河川右岸側の突堤では、友人も含めて4人が釣竿を出していた。

私も友人の近くで竿を出す。

サビキ仕掛けの錘カゴにアミを詰めて投入する。

ボラが群れを成して回遊しているが喰いついてはくれない。

友人は時々、サビキ仕掛けでボラを釣り上げている。

仕掛けは昨日の仕事帰りに同じ物を買ったので、仕掛けのせいではない。

ということは「ウデ」の違いしか考えられない。

私の場合は、海釣りは好きではあるが上手ではない。

友人との釣果の比較で、それが歴然としている。

サビキ仕掛けを置き竿にしたままで、渓流仕掛けの竿を出し、青イソメの餌釣りを始める。

渓流仕掛けの餌釣りの方には、ぼちぼちとカワハギやベラなどの小魚たちが喰いついてくれる。

本日釣れてくれた小魚の中に、18cmぐらいのアラカブが1匹混じっている。

0.4号のハリスで、かなり引き込んで楽しませてくれた。

友人以外の3人の釣り人は、午後3時ごろまでには納竿して帰ってしまった。

夕方の4時ごろに友人は用事が出来たので、先に帰る事になった。

その際に、私にボラを4匹分けてくれた。

友人は全部で10匹以上のボラを釣っていた。

心優しい友人である。

ありがたくいただいた。

友人が帰った後で、友人が釣っていた場所に釣り座を移して、サビキ仕掛けで挑戦してみる。

アミ餌はほとんど使っていなかったので、ひとつまみずつ撒き餌のようにして、仕掛けのところに投げ入れる。

回遊しているボラがうじゃうじゃと寄って来る。

そのうちに浮きが動いた。

素早く合わせて引き上げる。

25cmぐらいのボラが上がった。

その後も同様にして、短い時間の間に立て続けてボラが釣れてくれた。

小さなクーラーボックスにぎゅうぎゅう詰でも入らなくなったので、5時少し前には納竿した。

帰ってから数えてみたら、ボラの総数は13匹だったので、友人から分けてもらった4匹を差し引けば、9匹は自分で釣った事になる。

その他にも、カワハギ4匹、ベラ1匹、アラカブ1匹、メゴチ1匹、海タナゴの子1匹、名前を知らない小さな魚の子3匹の釣果だった。

なぜボラが釣れたかということは、だいたい理由が分かる。

お日様の位置が傾き、釣っていた場所が、突堤の陰になって暗めになり、ボラの目からはサビキ仕掛けの擬餌針が、アミと判別しにくくなったのではなかろうかという事が考えられる。

本日は無風状態の絶好の釣り日和だった。

先日来、心の中に吹き荒れていた怒りの強風も、ボラが釣れた興奮ですっかり治まって無風状態に落ち着いてしまった。

単細胞の典型みたいな自分に気付く。

心の中の思いは、吐露してしまえば楽になる。

最近書いた日記のテーマで、「備忘録」と「新聞配達」というのにコメントが寄せられた形跡があるが、私が読む前に削除されていたので内容が分からない。

少し気にはなるが、まーいいか。

心の中は無風状態に戻ったので、月曜日からは、また楽しく働かせてもらおう。

趣味の魚釣りは、心をリフレッシュしてくれる。



豊田一喜