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日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

備忘録

2012年10月17日 | インポート
最近忘れてしまうことが多い。

毎日、何をしたかを記録しておかないと、2日ぐらい前に何をしたかすら明確には思い出せない。

そのための備忘録としてこのブログを続けている。

現在は、大村市竹松遺跡のアルバイト作業員として使っていただいているので、記録する内容もそこで見聞した事柄が多くを占めることになる。

仕事場が遺跡の発掘現場なので、発掘の進捗状況をリアルタイムで見聞きできる。

ということは、今まで土中で埋もれていた過去の遺構や遺物との対面が自由に出来る。

発掘作業アルバイト作業員としての特権と言えるのかもしれない。

社会科の歴史の教科書の写真でしか見た事が無いような遺物の実物をみる機会にも恵まれている。

小学校の高学年の頃、石器時代の事を教わる授業の時に、同級生が自分の家の畑から出た物だと言って、刃先がきれいに整形されている石斧を持って来てみんなに見せたことがある。

彼の家の周辺には、「火箱遺跡」と呼ばれている区域がある。

現況は、山すその一面の畑となっている。

石器時代がいつ頃の年代かは知らないが、そのような時代にも彼の家の周辺では、石器を使う人たちが住んでいたのだろうか。

ずいぶん以前に、旧石器時代の遺物をあらかじめ埋めておいてから、自分が掘り出して、教科書の記載内容まで変えてしまったような「神の手」事件があった。

そしてその当時の考古学会も、彼の「神の手」による発掘成果を容認していた。

文献にも残す事が出来なかったような時代の事柄は、埋まっている遺物などから類推するしか無いのだろうから、そこから該当する時代の遺物などが出土したとなると、その遺跡周辺では、人々がそのような時代に生活をしていたのだということになってしまうのだろう。

現在は、そのような事件があったころよりも科学技術が進歩しているだろうから、様々な科学的な方法にて遺物等の年代を検証することも可能とはなっているのだろうが、まずは、専門知識を持った調査員の方々の蓄積された知識と経験によって判断されるものと思われる。

調査員の方々は、出土した土器や陶器・磁器などを見て、何々時代の中国製品などと即断される。

常々思っていることだが、本当にそのような焼き物は、その時代には中国製しかなかったのだろうかという疑問を持っている。

もしかしたら、いにしえの日本人の中の誰かが、中国の製品と同じ様な製法を、試行錯誤の末に完成して、同じような時期に製造していたのかもしれないと空想する。

学問や技術は、同時発生的に別々の場所で発想されているような事例もある。

恣意的に埋めて掘り出した石器によって、教科書の記載内容までも変わってしまうような学問の世界だから、現行の定説が、何等かの発見で覆される可能性を多く秘めているのではなかろうか。




豊田一喜











新聞配達

2012年10月15日 | インポート
我が家への朝刊は、いつも4時半ごろまでには事務所の郵便受けに配達される。

その時間帯にはほとんど起きていて、事務所の中にいるので、朝刊が配達された事がすぐに分かる。

新聞の休刊日以外には、雨の日も風の日も関係なく、必ず配達される。

我が家に新聞を届けてくれている人は、顔も見たこともないが、おそらく昼間は他の仕事をしている人ではなかろうかと思う。

バイクではなく車で配達をされている。

早朝の4時半頃だから、道路に車を止めていても交通の妨げにはならないだろう。

その新聞配達の人が我が家に新聞を届ける時刻と同じぐらいに、隣りのご主人は仕事に出かけている事が、車のエンジン音で分かる。

隣のご主人といっても、小さいころから一緒に遊びながら育った間柄だ。

諫早市内の勤め先まで、4時半までの時間帯の中で出勤しているようだ。

中学生のころ、自分も新聞配達をしていた。

自転車での配達だが、冬の寒い季節には、耳たぶにしもやけが出来て痛かったし、雨の日には母親のカスリ模様の雨合羽を着ての配達だったので、恥ずかしかった思い出がある。

男の子が女物の雨合羽を着ているということが、とても恥ずかしく思えて、なるべく同級生などに目撃されないようにと願っていた。

それでも、当然の事ながら、一日も休まずに配達を続けた。

田舎のことゆえ、配達する家の一軒一軒の距離が離れていて、40部ぐらいを配達するのに、およそ一時間半ぐらいはかかっていたように記憶している。

1部に付き配達代が35円ぐらいだったから、1ヶ月でもらえるお金は、1500円程度だったと思う。

45年ぐらい前の事だが、中学生だったその当時の自分にとっては、自分で自由に使える貴重なお金だった。


今の新聞代は、1ヵ月3007円だが、その中のいくらかが新聞配達の人の配達代になっているのだと考えると、1日当たり100円という金額は妥当だと思う。

新聞配達の人のおかげで、1日当たりジュース1本分のお金で、最新の情報を紙に印刷された活字で読み取る事が出来る。

ただし、その中の情報の真偽については、各人でよく判断して、情報操作により騙される事が無いようにしなければならない。



豊田一喜




おかしいんじゃない?

2012年10月14日 | インポート
福岡市が現業職員の数を将来的にゼロにして、それらの業務を民間に委託する検討に入ったという記事をインターネットで見た。

以下は、その転写。



「高給」現業職員ゼロ目指し、検討始めた政令市

2012年10月14日(日)10:58

 福岡市は、警備員や学校用務員といった現業職員約950人について、今後は退職者が出た後の補充を行わず、段階的に民間委託を進め将来的にゼロを目指す方向で検討に入った。

 2013~16年度の4年間で約850億円の財源不足が見込まれる厳しい財政下で、民間の2倍前後の給与を払い続けるのは市民の理解が得られないと判断した。現業削減は全国的な流れだが、ゼロを打ち出すのは異例。ただ組合側の反発も予想され、曲折もあり得る。

 現業職員の内訳(5月現在)は、調理業務員332人、学校用務員250人、清掃職員111人、自動車運転手80人、船舶職員33人、警備員31人――など。年齢構成は20~30歳代が約3割、40~50歳代が約6割、60歳代が約1割となっている。

 市によると、昨年4月現在の現業職員の平均月給は約38万7000円で、人件費の年間総額は約56億円。民間の類似職種と比べると、警備員が約47万8000円で民間の2・48倍、用務員が約39万2000円で1・87倍などとなっており、市議会でも削減の必要性がたびたび指摘されてきた。

以上は、転写記事。


この記事を読んで、「おかしいんじゃない?」と思った。

現業職員の内訳(5月現在)は、調理業務員332人、学校用務員250人、清掃職員111人、自動車運転手80人、船舶職員33人、警備員31人――など。年齢構成は20~30歳代が約3割、40~50歳代が約6割、60歳代が約1割となっているそうだ。

しかし、それらの人たちが就いている職種は、役所の仕事の中でも、内容的に一番濃く働いておられる仕事の様に客観的には思える。

なぜ現業職員だけに焦点を合わせるのだろうか。

現業職員以外の職員たちは、自分たちは別のランクの職種だという、間違って勘違いした、上から目線でしか物事を考えられないからに他ならない。

記事にもあるように、民間の同業種の2倍近い給料だという指摘であるが、それを言うならば、現業職種以外の市役所職員も同様である。

要するに、公務に就いている人たちの給料は、一般の民間企業の給料の2倍近い額である事を認めているようなものである。

しかし、彼らはそのような認識を持ってはいない。

持ちたくないと表現した方が良いのかもしれない。

自分たちの既得権益だけは、適当に言いつくろって維持し、一部分のトカゲの尻尾切りの様なことで自分たちに累が及ばないように画策してしまう。

民間の平均的な給料を提示する場合においても、自分たちにとって都合のいいような、従業員数50名以上の企業の給料の平均値を示す。

そして、そのような金額を基準にして役所職員の給料は決められているのですよと説明する。

本当の民間企業の全体の平均給与は、公務員と呼ばれる役所の職員が貰っている金額のおそらく半分以下であろう。

従業員数50名以上の企業の平均値を採用するという客観的な根拠が無い。

狡猾である。

従業員数50名以上を維持し続けている企業は、民間企業の中でも優良企業の部類に入る。

役所は民間人から見れば、優良企業などではなく、最も費用対効果の低い不良企業のような存在であるように私には思える。

いにしえより、役所といわれる所で働く人たちの給料は、民から集めた税によって賄われてきた。

自分たちの自治体の財政事情などお構い無しに、組合やお手盛りの人事院勧告などという御旗の元に、特別職公務員である議会議員と結託して、、自分たちの取り分だけは中央の公務員の給料を基準にして確実に上昇させてきた。

そして、このままでは自治体の財政運営が立ち居かなくなるという洗脳を進めて、強引に近隣自治体との合併を推し進めた。

公務員と呼ばれる人たちの給料を3割程度減額すれば、その人たちの総数は維持したままで自治体は維持できて公務は遂行できるのに。

その事によって、各自治体で培われてきたものが消滅して行っているような事例もある。

入ってくるものが少ないのに、自分たちの給料などは減額せずに運営し続ければ、一般の民間企業であれば倒産してしまう。

しかし、役所はなかなか倒産しない。

北海道の夕張市は倒産したが、それによってやっと役所職員の給料が民間レベルに近付いた。

従来の給料より3割程度少なくなったそうだが、それでもその地域の民間企業の本当の平均額と比べれば多いのではなかろうか。

そして、そのような給料レベルでも、その地域においては充分に生活が可能であるはずである。

もしもそのような給料で生活ができないのであれば、夕張市の職員数はゼロになるはずであろう。

そのようにはなっていないということが、そのような給料体系でも、その地域で生活するには順当だということを証明していると言えるのではなかろうか。

他の、あらゆる役所や自治体においても、まず職員全体の給料を削減する事が急務であろう。

職員の総数を減らす必要は無い。

公務員という職業は、たとえ現状の給料の3割減の金額になったとしても、働き口の少ない地方にとっては、最も安定した職場であると言える。

若い人たちがふるさとに戻ってくる時の受け入れ先として、そのような公務員の総数は維持しておかなければ、地域は衰退してしまう。

全国規模でそれが実施できたならば、月々に膨大な支出金額を抑えることが出来る。

雲仙市においても、現行の給料を1割減額しただけでも、年間で2億5千万円が捻出できる。

表向きの金額だけでもそれだけの金額になるのだから、詳細な金額としてはもっと多い金額になるはずである。

消費税など上げなくとも、財源は確保できるはずだ。

などとひとりで思っても、偏差値の高い、おりこうさん官僚に牛耳られている日本においては無理な話かな。

福岡市の話に戻す。

今後は退職者が出た後の補充を行わず、段階的に民間委託を進め将来的にゼロを目指す方向で検討に入ったという。

ということは、現行の現業職正職員が、全て定年退職してしまうまでの今後およそ40年間近くは、同じような仕事をしていても、民間委託された同業種の人との間に、その給料の格差が2倍近くある人たちが、同じ職場で働くということになるのだろうか。

役所職員の考えることは、いかなる時においても、自分たちを基準に考えており、公僕という言葉は死語になってしまった。

おかしいんじゃない?



豊田一喜



緩和のための小魚釣り

2012年10月13日 | インポート
休日の過ごし方。

・前日の夜に、発泡酒を時間を気にせずにゆっくりと飲むこと。

・時刻を気にせずにゆっくりと眠ること。

・休みの日にしか出来ない家庭内の事柄を処理すること。

・平日の緊張を緩和するための趣味に没頭すること。

などとパターン化している。

本日は、休みの日にしか出来ない家庭内の事柄を処理することの一環として、小屋の一部を片付けた。

そろそろ稲刈りも始まり、耕作してもらっている田んぼの上げ米を持って来てもらえる時期が近付いてきているので、その保管場所となるスペースを小屋の中に確保しておかなければならない。

そのために、小屋の中の一部を片付けて、米袋を置くためのスペースを作った。

次は、平日の緊張を緩和するための趣味に没頭することという順番になる。

趣味といえば、魚釣りと家の中でゴロンとしてテレビを見ることぐらいしかない。

家の中でゴロンとしてテレビを見ていると、一日なんかあっという間に過ぎ去ってしまうのでもったいない。

で、当然の事ながら魚釣りに出かけることになる。

出かける少し前に友人から電話があっていた。

飯盛町の江の浦で釣ったが全然釣れない、結の浜でも釣れないという内容。

それでは、有喜漁港に行ってみればと答えておいた。

というわけで、午後には自分も諫早市の有喜漁港に向かう。

河口右岸側の突堤の先端で、友人がひとりで釣っていた。

釣果はと尋ねると、「へへー」とにんまりとして言う。

何か釣れているのだと思って、クーラーボックスを見せてもらう。

ボラとカワハギとアイゴ(バリ)が釣れていた。

潮は、干潮を過ぎて満ち潮に転じている。

渓流仕掛けに青イソメの餌をつけて投げ入れて、目印を注視していると当たりがあり、小さなキスが釣れてくれた。

友人は、30cmぐらいのボラを、サビキ仕掛けで釣り上げた。

その後も二人ともに、ぼちぼちといろいろな小魚が釣れてくれた。

夕方の5時にお寺の鐘がなったので納竿した。

小魚しか釣る事は出来なかったが、程よい緩和になった。

残念ながら、大村市竹松遺跡の週明けの朝礼で、ハンドマイクを渡されて報告できるような釣果ではなかった。


本日、私に釣れてくれた小魚たち(画像をクリックすると拡大する)
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豊田一喜










動く衛星画像

2012年10月12日 | インポート
いろいろな動く衛星画像を見る事が出来るサイトがある。

東京大学生産技術研究所の、リモートセンシング(遠隔探査)を専門に研究している教授氏が、早朝のラジオ放送で紹介しておられた。

「気象衛星センター」で検索し、そのトップページの中の「画像活用」>「画像ギャラリー」とたどると、興味深い動画やコマ送り動画を見る事が出来る。

それぞれの画像の上方の中央にある「start/stop」ボタンを押すことによって、コマ送り画像になる。

以下のような内容の動画を見る事が出来る。



・渦巻く台風:2008年9月27日(台風15号)

・白夜:2009年12月23日

・台風の生涯:2009年9月29日~10月9日

・オーストラリア大陸東部を横断した「レッド・ダスト」:2009年9月23日

・寒冷前線と活発な積乱雲域:2009年8月28日

・日食:2009年7月22日

・サリチェフ火山の噴煙:2009年6月14~15日

・黄砂の飛来:2009年3月15日~16日

・浅間山の噴火:2009年2月1日

・火山灰:2010年10月28日

・台風の生涯:2010年10月24日~30日

・発達する積乱雲:2010年8月22日

・波状雲:2010年5月10日

・航跡雲:2010年5月10日

・オホーツク海の海氷:2010年3月21日

・濃霧:2010年2月12日

・冷気の波紋:2010年2月12日

・カルマン渦:2010年1月7日

・ガストフロント:2011年7月26日

・大気重力波:2011年4月26日

・霧島山(新燃岳)の噴煙:2011年1月26日

・大雪をもたらした帯状対流雲:2011年1月1日


地球の外側から、人工衛星に搭載された様々なセンサーによって得られた情報を処理して、私たちの視覚で確認できる画像データに加工したものだ。

航空写真測量も、広義にはリモートセンシング(遠隔探査)技術の一分野なので、その初歩的なリモートセンシングに関する事柄は、遠い昔の若かりし頃に、写真測量のA課程の講習会にて学んだ事はある。

ラジオ放送の東京大学生産技術研究所(通称:東大生研)の教授氏によれば、日本は世界に先駆けて、二酸化炭素の排出分布量を把握できるセンサーを搭載した人工衛星の打ち上げに成功したというような事を言っておられた。

パソコンでデータの整理をしながらぼんやりと聞いていたので、明確な記憶ではないが、そのような人工衛星の打ち上げに関しては、アメリカは一度失敗しているということのようだった。

自称、技術立国日本としては、面目躍如たるものがあると研究者の方々は思っておられるだろう。

私たちは、そのような研究者の方々の、地道な研鑽によって得る事が出来るようになった成果の一部を、自宅のパソコンの中で自由に見せてもらえるような時代に生きている。

ここをクリックすると「気象衛星センター」のトップページが開く。



豊田一喜





殿様バッタ

2012年10月11日 | インポート
大村市竹松遺跡の駐車スペースの周辺には、殿様バッタが多く飛び交っている。

殿様バッタの生息環境としての条件が整っているのだろう。

発掘現場周辺の、耕作されていない元農地に、雑草が生い茂っていることも関係しているのかもしれない。

イナゴの佃煮を食する地域があるそうだが、昼休みに駐車スペースの周辺で飛び交っている殿様バッタを見て、佃煮やから揚げにして食べたらおいしいのかもしれないと思ってしまった。

友人の1人に、トラックで輸送されている豚を見て、ハムに見えてしまうという人もいる。

戦中、戦後の食糧不足の頃であれば、飛び交っている殿様バッタでもご馳走に見えた人が多かったのかもしれない。

今の様に、満ち足りた食糧事情が永遠に続くという保障は無い。

食糧自給率が40パーセント以下であるという現状の国策で良いわけがない。

原発先進国のフランスでは、食糧自給率が110パーセント程度だそうだ。

原発の保有に関してはいかがなものかと思うが、農業政策に関しては、独立国家として正しい選択をしている国家だと思う。

我が国は、一戸当たりの農家の耕作面積を大規模化し、効率的な農業形態を目指して、国内で生産される農産物価格の国際競争力を向上させようとしているそうな。

要するに安い価格の農産物を、大量生産させようとしている。

間違っている。

日本の国家の耕作地の現状を正しく認識していれば、それがいかに荒唐無稽なことかわかるはずだ。

大型機械の導入や、飛行機などによる播種や施肥、農薬散布などが出来るような広大な農地は、日本の農地の中のほんの一部分でしかない。

多くの中山間地に分布する棚田などを、小規模で勤勉な兼業農家が耕作している事によって、日本の農業は成り立っているといっても外れてはいないと思う。

そのような農業形態によって、水環境などの国土の保全の維持に繋がっているとも言える。

小さな農家の集合体的な日本の現状の農業を、一部の大規模農家だけが存続できるように画策しているような国策はおかしい。

たとえ耕作が放棄されていて荒地になっている農地であっても、他の用途には転用しないで、そのまま維持し続けるべきだと私は思う。

食糧危機になれば、否応無く農地として復活させなければならないのだから。

いずれ来るであろう食糧危機に際して、殿様バッタがおいしいと思うような時代が来るのかもしれない。



豊田一喜













庭木の剪定(伐採)

2012年10月08日 | インポート
そろそろ灯油の消費量が増える季節になってきた。

我が家の風呂は、太陽熱にて水を温めてそれを流下させる方式だが、灯油のボイラーも付いている。

その灯油ボイラーを使用する頻度が増えてきたので、午前中に吾妻町の「コメリ」に灯油を買いに行った。

妻も同行していて、常々「金柑の木」を庭のどこかに植えたいと言っていたので、その苗木を選んだ。

798円と庶民の私たちにとっては手ごろの値段だったので、思い切って1本購入した。

灯油は1リットル99円で、56リットル買ったので5544円、金柑の木の798円と合わせると6342円になり、おおむね竹松遺跡のアルバイトの日当分を消費したことになる。

これで、今の季節なら2週間程度は灯油はもってくれるだろうし、金柑の実も来年ぐらいには生ってくれるだろう。

午後には、おえ被っている庭木の剪定をした。

我が家の周辺の田んぼでは、そろそろ稲刈りが始まった。

庭の脇の道路に面している所のゆずり葉の木の枝が、道路側にせり出して生い茂っていたので、収穫作業をされる近隣の農家の人たちの作業車の通行に支障を来たす可能性があると思い、その剪定をした。

脇の田んぼで稲刈りをしていた農家の人から、「正月にあげんばでけんせん残しときなんせど(正月にあげなければいけないので、残しておいた方がよいですよ)」と言われた。

ゆずり葉は、正月に仏壇や神棚やお墓などにあげる植物だが、自宅側にも栄えているので正月の分は間に合う。

それから、今年は1個も実が熟することなく、実が全て落ちてしまった柿の木の枝が、電話線につかえそうになるほど上のほうに伸びていたので、その上に伸びている枝を伐採した。

季節的には庭木の剪定の時期ではないのかもしれないが、伸びたら切るということにしている。

そのようにしても、植物がいじけて生長が止まるということはない。

切られても、必ず芽を出し葉を茂らすということを繰り返す。

藤の木などは、伸びた新芽を切るごとに、何回かは一部に花を咲かす。

種(しゅ)の保存のための生態なのかもしれない。

人の心もそのように、打たれ強くあれば良いのだが。

生かしてもらって、普通に食べられて、平凡に生活が出来ているだけで幸せと皆が思えるようになれば、何のいさかいも無く平和な世の中になるはずだろうが、さまざまな人間の煩悩が渦巻いており、なかなかそのようにはならない。

普段はあまり使わないような筋肉を使った、3連休の最終日。


豊田一喜



モッテコイ

2012年10月07日 | インポート
本日の午後も、3時間ほど諫早市の有喜(うき)ビーチ周辺での小魚釣りにいそしんだが、釣果はいまいちで、カワハギの子、メバルの子、イサキの子など合わせて10匹だった。

昨日釣った突堤の場所には先行者がいたので、別の場所を転々としながら、落ち着かずに釣ったのが良くなかったのかもしれない。

だけれども、人工的な構造物と大自然の海と風とお日様に抱かれながら没頭できて、餌代とガソリン代で500円玉1個でお釣が来るような趣味は、本物の庶民である私にとってはもってこいの遊びではある。

長崎くんちの出し物である「龍踊り(じゃおどり)」が、午前中にテレビで実況放送されていた。

龍踊りが一幕終わって石段を下り始めると、「持って来ーい」の掛け声が観客からかかり、そのたびに石段を駆け上って、勇壮で繊細な「龍踊り」が何回も披露されていた。

テレビの実況放送で見ていても、「持って来ーい」と、おめき(叫び)たくなるような雰囲気をかもし出すような、すばらしい芸能だと思う。

40年前の高校3年生の時に、体育祭の出し物で、農業土木科は「龍踊り(じゃおどり)」を披露する事になった。

体育祭の1ヶ月ほど前から、「龍(じゃ)」の製作を始めた。

龍の頭を作る者、目玉を作る者、牙を作る者、うろこを作る者、胴体の中に入れる竹の輪を作る者、竹で尻尾を作る者、布で胴体部分を作る者などに手分けして、放課後に製作をした。

特にうろこの製作には時間がかかった。

厚紙をうろこの形に切り抜き、ペンキで緑色に塗って乾かしてから、金色のテープを貼って縁取りをしたように記憶している。

踊り手が持つ棒は、測量用のポールで代用し、実家がお寺さんだった副担任の秀山先生の家のお寺のシンバルのような鐘を借りて、テープレコーダーに録音された「龍踊り」の伴奏音を聞きながら、体育祭本番に向けて、1週間前から踊りの練習をした。

練習の甲斐あって、本番ではつつがなく披露できてとても好評だった。

卒業アルバムの中のひとこまに、その時の記念写真が小さく載っている。

玉持ちをやってくださった、当時は農業土木科の実習助手をされていた小森先生、龍(じゃ)の持ち手は、先頭から樋口君、草原君、豊田(私)、田淵君、山口(義)君、柄本君、吉次君の7名。

龍(じゃ)の胴体部分の中央部分が低くなるような検討の結果の配列になっている。

先導役は戸井君、伴奏係が矢ヶ部君、谷口君、平山君、宇野君。

古い校舎を背景にして、セピア色の小さな写真は、40年前の私たちを記録しているが、その中のひとり、ウエイトリフティングの全国大会で好成績を挙げた、クラス一頑健だった樋口君は既に御浄土に旅立ってしまっている。

40年前の諫早農業高等学校体育祭での記録写真(画像をクリックすると拡大する)
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(学生服の上着を裏返して着ている衣装)

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この写真に笑顔で写っておられる、測量学を教えてくださった若松安正先生は、先月85歳でご逝去された。


夕飯を食べてから、昨日の釣果で軽く塩をして冷蔵庫にしまっていた分と、本日の釣果の10匹をさばいた分をまとめて素揚げにした。

経験的に思うことは、素揚げにした魚は、ウナギのようにうろこが無くて体表面がぬるぬるしているようなもののほうが味が良いということ。

渓流釣りでのアブラハヤや、海釣りでのメゴチやアナゴなどがそれに該当する。

渓流釣りでのアブラハヤなどは、捨てる人が多いのかもしれないが、食べてみるとヤマメよりもおいしいように私には思える。

せっかく釣った小魚だから、食糧として胃袋に収めさせていただいて成仏してもらうことを心がけている。

キャッチアンドリリースなどという偽善的な行為を私は好まない。

魚の保護や釣った魚がかわいそうなどと思うのであれば、最初から魚を釣らなければよいだけの話であると私は思う。

などという思いをめぐらしながら、30匹あまりの小魚を素揚げにした。

かすかな塩味のする、素揚げにした小魚は、発泡酒のツマミにはもってこいの一品になる。

連休中の秋の夜は、明朝の出勤のことなど考えることも無く、素揚げの小魚をツマミにして、ゆったりと発泡酒を飲みながら、様々なことに思いをめぐらすにはもってこいの時をすごす事が出来る。



豊田一喜




有喜(うき)ビーチ脇での小魚釣り

2012年10月06日 | インポート
諫早市の有喜(うき)ビーチに初めて行ってみた。

人工的に作られた海水浴場で、防波堤のような構造物で囲ってある中に砂浜が作られている。

その防波堤のような構造物の一部が開いていて、そこから海水が出入りするようになっており、その海水の出入り口には網が張ってある。

関連施設の建物もきれいに整備してある。

ずいぶん前に、有喜(うき)漁港の防波堤には魚釣りに行った事があるが、その時には「有喜ビーチ」は無かったように思う。

有喜漁港に隣接した場所にあり、駐車スペースもゆったりととってある。

午前中は、旧諫早干拓の苦役(無報酬の共同作業)での除草作業と、自分の田んぼの除草作業でつぶれた。

午後2時ごろから、諫早市飯盛町の結の浜漁港に小魚釣りに行こうと思い、例の如く370円分の釣り餌を買って国道251号を走っていたら、左手前方下側の海にきれいな漁港が見えた。

そこの漁港の方が結の浜より近いので、そちらの方へ行ってみる事にした。

自宅から、車で20分のところにある。

有喜ビーチの駐車場に車を止めて、そのすぐ脇にある有喜漁港の突堤で釣ってみる。

魚がいれば何かは釣れてくれるはず。

さびき仕掛けのオモリカゴに撒き餌のアミをつめて投入する。

小魚は集まってくるが釣れない。

再度、オモリカゴに撒き餌のアミをつめて投入すると、キラリと光る魚体が見えて浮きを引き込む。

上げてみるとバリの子がかかっていた。

その後にはヒラアジの子が1匹釣れてくれたが、それからは浮きが動いてはくれない。

しばらくそのような状況が続いたので、渓流仕掛けの餌釣りに変えてみた。

目印がすぐに動いたので、合わせて上げてみたが途中でバレてしまった。

餌のアオイソメに喰らい付いて遊んでくれる小魚がいることは分かった。

少し大き目のカワハギの子が、大げさに引き込んでぼちぼち釣れてくれる。

テトラポットの脇の、底が砂地の所なので、メゴチも混じる。

午後5時にお寺の鐘がなったが、その少し前ぐらいから細長い魚影が回遊して来たので、急いでさびき釣り仕掛けに変えてみた。

ボラの子が釣れてくれた。

ほんのしばらくの興奮。

合計で、20cm前後のボラの子が5匹釣れてくれた。

餌は大分余ったが、5時10分ごろには納竿した。

帰宅してから、カワハギの皮を剥ぎ、ボラの子のうろこを落として内臓とエラを取り除き、メゴチの内臓とエラをとり除いてから水洗いして、軽く塩をして冷蔵庫にしまった。

残った餌は、ビニール袋で三重に包んで、事務所の冷蔵庫にしまって、明日の小魚釣りのための準備とした。

2時間半ほど、久し振りに楽しく小魚たちに遊ばせてもらった3連休の初日。

本日の釣果(画像をクリックすれば拡大する)
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豊田一喜


















1298点

2012年10月05日 | インポート
クイズ番組での得点や電子ゲームでの得点ではない。

1298点。

大村市竹松遺跡の発掘現場におけるトータルステーションを使った測量作業で、本日求めた地点の数である。

ひとつの地点に対して、X,Y,Zの3個の情報を持つ三次元座標値を取得しているので、情報量で表現すれば、3894個の地上座標に関する情報を得た事になる。

主として、溝(川)とおぼしき遺構で、列状に配置されている自然石の配置と正射影形状を記録するために、石の測量をした結果の数字になる。

本日測量した石の数は106個だった。

石の測量をする合間に、遺物の点上げという遺物の出土地点の三次元座標値を求めるための測量をしたり、掘り出されたピットの略測をしたり、断面図などを測定する際の基準点となるセクションポイントの測量をしたりという割り込み測量作業も少しだけあったが、本日のほとんどの作業時間中は、石の測量だった。

器械観測マンは、ピンポールに取り付けた反射プリズムの中央位置を、少なくとも1298回以上視準して照準を合わせて観測し、1点ごとの観測終了時に発する「ハイ」という声を、少なくとも1298回は発したことになる。

1日の賃金が6300円だから、1回の「ハイ」を言うごとに、金額に換算すると、およそ5円ずつカウントされている事になる。

ピンポールに取り付けた反射プリズムを持って、測量地点に立てる役目のポールマンは、少なくとも1298回は、反射プリズムに取り付けてある円形気泡管の気泡を、円形の線の中の中央に合わせて、ピンポールを鉛直に立てて静止しておく動作を繰り返して、「チェンジ」という言葉を少なくとも106回は発した事になる。

測量作業といっても、現在私たちがやらせてもらっている作業は、ものすごく単調で地味な仕事ではある。

掘削作業の作業員の方々が発掘された後を追いかけながらの作業となる。

遺跡発掘調査の記録保存の作業の中の、ほんの一部分をやらせてもらっているが、仕事が単調であるので、ストレスなど全く感じない。

休憩時間も長めに取らせて頂いており、楽しくやらせてもらっているので、時間が過ぎるのをものすごく早く感じる。

週末後の3連休は、100回以上の動作を繰り返す小魚釣りにでも出かけてみようと思っている。



豊田一喜













石を測る

2012年10月04日 | インポート
列状に固まった配置の、石の正射影形状を把握するための測量作業が本日の主な作業だった。

溝の遺構と推定されている所に集積している、1個ずつの石の外形線を計測する。

ただひたすら、視準用のピンポールに取り付けた反射プリズムの円形気泡管の気泡が中央に来るようにして、ピンポールを1個ずつの石の正射影位置とおぼしき外形に沿わせるように鉛直に立てて、器械観測者の「ハイ」の声を確認しながら石を一回りする。

だから、常に目は下向きで、耳は器械観測者の声を聞き逃さないように集中している。

時折、JR大村線の列車が通るので、その通過時には器械観測者の声が遮断されることもある。

単調な作業ではあるが、石の形が1個1個異なっているので、飽きることは無い。

過去において、航空写真測量方式では、遺跡に分布している石の図化は数多くこなしてきたが、現地実測による石の形状の計測は、この現場が初めてとなる。

写真測量方式で実施すれば、もっと簡単で迅速に、実測と遜色の無い精度で、正射影データの取得ができるのになどと思いながら、作業をやらせてもらっている。

CADソフトに計測データを流した場合におけるスムージング(計測した多角形の頂点を連ねて、自動的に曲線化すること)を考慮しながら、ピンポールを立てる位置を移動させている。

そのような作業に集中していると、時間の過ぎるのが非常に早く感じる。

単調な仕事でも、それが生活の糧を得るための賃金の元になっている。



豊田一喜


作業服のいろいろ

2012年10月03日 | インポート
大村市竹松遺跡の発掘現場では、200名近くの人が働いておられるので、それぞれがいろいろないでたちで作業に臨まれている。

昨日は、地歴研究会という会に所属しているという十数人の学校の先生方が、遺跡発掘の体験に来ておられた。

思い思いの服装で、発掘体験の作業に臨まれていたが、普通に私たちが着用しているような作業服姿の先生はおられなかった。

ジャージ姿の先生が多かったようだ。

それらの先生方の中には、一輪車を生まれて初めて押した人や、ホゲを生まれて初めて使ったという人も、もしかしたらいらしたのかもしれない。

農家などで育っていれば日常的に使う道具なので、そのようなことも無いのだろうが、そうではない家庭においてはほとんど使う事が無いような道具だろうと思われる。

遺跡発掘の体験をされ、出土物などに関する説明を受けられたことによって、学校でのお話にも幅が出てくるのではなかろうか。

きょうは、作業服の上下がよく似合っておられる若い美人の女性と、すれ違う時に会話を交わした。

セキをされていたので、「風邪を引かれたのですか」と問うと、「2歳の娘からうつされました」という返事。

他の作業員の方々から伝わってきた話によれば、新婚さんらしいということになっていたので、「新婚さんだと聞いていましたが」と言うと、「4年になります」と言われた。

子供さんがいらっしゃるお母さんには見えなかったが、子育てをしながら働いておられる人だということがわかった。

子育てをしながら外で働いておられる女性の方々は、いろいろと大変だろうと思う。

朝は早めに起きて朝食の仕度や弁当作りなどをし、始業時刻に遅れないように家を出て、昼間は職場で人間関係等に気を使いながら働き、帰宅すれば急いで夕飯の仕度をしてというような、せわしい毎日を過ごされているのだろう。

自分の場合には、作業の出来る服装をすると、その時点から作業モードに入る事が出来る。

それぞれの人たちが、思い思いの作業服姿をしておられる。

作業服ア・ラ・カルトの展示場のような発掘作業現場で働かせてもらっている。



豊田一喜







靴の底の穴

2012年10月02日 | インポート
左足の靴の底の親指の下辺りに違和感を感じた。

見てみると、靴の底がすり減って、小さな穴が開いていた。

そこから砂や泥が入って、靴下が汚れていた。

大村市竹松遺跡の発掘アルバイト作業員になってから購入した、900円ぐらいの安物の運動靴だが、靴の底に穴が開くまで靴を履いたのは初めてだった。

6月ごろには長靴で作業をしていたが、7月の途中からその運動靴を履き始めた。

賞味3ヶ月足らずで、靴底がすり減って穴が開いてしまった。

安物の靴だから仕方が無いのかもしれないが、その靴を履いて、結構な距離を歩いていると思う。

測量する地点を指示して、反射プリズムを鉛直に立てる係りなので、おのずとかなりの距離を歩いているのだと思う。

底に穴が開いている靴を履いていれば、地面がぬれていると靴の中までぬれるので、新しい運動靴を買った。

昨日の帰途に、大村市のトライアルという店に、同乗者3人で寄って、899円の靴を購入した。

友人のK君から、靴の底を靴の側面に縫いつけてあるから丈夫そうだというアドバイスを受けて、その靴を購入することにした。

きょうから履いているが、なかなか履き心地が良い。

来年の2月末までもってくれれば、1ヵ月当たり180円の投資ということになる。

歩く事は、健康維持のためには効果的だそうだから、仕事の一環で健康維持に良い事をやらせてもらっていることになる。

楽しみながら仕事をやらせてもらっているので、通り過ぎて行く1日をとても速く感じる。


豊田一喜








鉄砲の弾の出土

2012年10月01日 | インポート
大村市竹松遺跡の発掘現場で、鉄砲の弾とおぼしき鉄球が出土したという。

私たちが歴史の授業で教えられている、日本への鉄砲の伝来といえば、1543年に種子島に漂着した船に乗っていたポルトガル人によって、火縄銃が伝えられたというのが最初だということになっている。

しかし、鉄砲伝来をウィキペディアで調べてみると諸説がある。

以下は、ウィキペディアによる鉄砲伝来の記述。



鉄砲伝来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鉄砲伝来(てっぽうでんらい)とは、16世紀にヨーロッパから東アジアへ火縄銃型の鉄砲が伝わったこと、狭義には日本の種子島に伝来した事件を指す。鉄砲現物のほか、その製造技術や射撃法なども伝わった。

「鉄砲」とは日本においてはじめは火縄銃をさす言葉として使われ、後に小銃から大砲まで火器一般を意味する名称となった。


種子島以前
天文以前東アジア式火器伝来説
種子島以前の鉄砲伝来については長沼賢海の鉄砲研究をはじめ、諸説ある。長沼は『日本文化史之研究』(教育研究会、1937年)をはじめとする重要な研究を残したが、現在九州大学に保存される蒐集史料(写本)「神器秘訣」「菅流大蜂窼」「鳥銃記」「異艟舩法火攻泉之巻」といった砲術書の研究は今後の課題である。

長沼は海外文化の「消化」「征服」を「国民性」「民族性」とする日本人が積極的に鉄砲を導入しなかったはずがないという前提のもとに、火薬の爆発力で何らかの物体をとばす器械をすべて「鉄砲」とみなしたうえで(鉄砲=小銃とする一般的理解とは異なる)、「天文以前」(1543年以前)に中国―琉球ルートおよび朝鮮ルートで中国式銃・朝鮮式銃が伝来したことを主張した。また、「鉄砲記」の記述の信頼性を批判し、西洋式小銃の伝来経路が種子島だけではないことを主張した。長沼のこうした見解には批判もあったが、「天文以前東アジア式火器伝来説」には支持者もいる。

東アジアから東南アジアにおいて、15世紀には中国の明が海禁政策を行い、また日本の室町幕府との日明貿易(勘合貿易)が途絶した事などにより倭寇(後期倭寇)による私貿易、密貿易が活発になっていた。日本や琉球王国においても原始的な火器は使用されていて、火器は倭寇勢力等により日本へも持ち込まれていた可能性を指摘するむきも多い。

ほかにも、鉄砲の伝来は、初期の火縄銃の形式が東南アジアの加圧式火鋏を持った鳥銃に似ている事や東南アジアにおいても先行して火縄銃が使われていた事などから、種子島への鉄砲伝来に代表されるようなヨーロッパからの直接経由でなく倭寇などの密貿易によって東南アジア方面から持ち込まれたとする宇田川武久らの説がある[3]。しかし欧米や日本の研究者の中には、欧州の瞬発式メカが日本に伝えられて改良発展したものが、オランダによって日本から買い付けられて東南アジアに輸出され、それらが手本となって日本式の機構が東南アジアに広まったとする説をとる者も少なくなく、宇田川説を否定的にみる意見も多い。

多重伝播説
また、荒木和憲は、「鉄砲伝来の「第一波」が1542年または1543年の種子島へのマラッカ銃(アルケブス銃)の伝来であることはたしかであるが、そのあとに「第二波」「第三波」・・・がそのほかの地域(とくに九州地方)におしよせたのではないか。たしかに種子島へのマラッカ銃の伝来とその国産化があたえた歴史的なインパクトとはくらべるべくもないのであるが、さまざまな種類の銃がたんなる商品の輸入というかたちで伝来していた可能性はある」との見解を提出している。

東アジアにおける「火器の時代」説
カリフォリニア州立大学のLaichen Sun は、およそ1390年から-1683年にかけて、東アジアで「火器の時代」があったことを論じている。火器の時代が始まったとされる1390年には、中国の火器技術はすでに朝鮮や、東南アジア北部に伝播し、また鄭和の遠征により、東南アジア海域部にも拡散したという。アジアにおける中国による最初の火器技術の波は、改良されたヨーロッパの火器技術がアジアに広がり、ヨーロッパによる第二の技術波及が始まった、16世紀初頭まで続いた。この時代には、中国由来の火器がアジア史において重要な役割をはたし、全般的な趨勢としては、大陸アジア(中国・朝鮮・東南アジア北部)が、海洋アジア(日本・台湾・チャンパ・東南アジア海域部)を押さえ込んでいた。

 16世紀の第二の波において、ヨーロッパ人(ポルトガル人・オランダ人・スペイン人)の到来によって、先進的な火器技術が普及、この時期には、海域アジア(低地ビルマ・アユタヤ・コーチシナ・南ヴェトナム・台湾・日本)が、大陸アジア(アッサム・東南アジア北部・明清中国・朝鮮)に挑戦し、第一の時期の趨勢を逆転させていたとする。

種子島への鉄砲伝来
『鉄炮記』によれば、種子島への鉄砲伝来は天文12年8月25日 (旧暦)(1543年9月23日)の出来事で、大隅国(鹿児島県)種子島西之浦湾に漂着した中国船に乗っていた「五峰」と名乗る明の儒生が西村織部と筆談で通訳を行う。同乗していたポルトガル人(「牟良叔舎」(フランシスコ)、「喜利志多佗孟太」(キリシタダモッタ))の2人が鉄砲を所持しており、鉄砲の実演を行い種子島島主である種子島恵時・時尭親子がそのうち2挺を購入して研究を重ね、刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製を研究させる。形状についてはうまく複製できたものの、発射の衝撃に耐えるには強度が足りず、異人たちに娘若狭を嫁がせることで、「銃床をネジでふさぐ」という方法を教えてもらうことができた[6]。その頃種子島に在島していた堺の橘屋又三郎と、紀州根来寺の僧津田算長が本土へ持ち帰り、さらには足利将軍家にも献上されたことなどから、鉄砲製造技術は短期間のうちに複数のルートで本土に伝えられた。(ただし、アントニオ=ガルバンの『諸国新旧発見記』(1563年)によれば「1542年、アントニオ・ダ・モッタ、フランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ペイショットの3人がシャム(タイ)から寧波または双嶼へ向かう途中で嵐に遭遇し、種子島に漂着したという。)

やがて鉄砲鍛冶が成立し、戦場における新兵器として火器が導入され、日本の天下統一を左右することになる。後に徳川家康による覇権の成立後、日本は武器輸出を禁止した。

伝来当初は猟銃としてであったがすぐに戦場で用いられ、当時の鉄砲はマッチロック式であり、火縄銃と呼ばれた。やがて早合と呼ばれる弾と火薬を一体化させる工夫がなされ、すぐに装填できるよう改良された。実戦での最初の使用は、薩摩国の島津氏家臣の伊集院忠朗による大隅国の加治木城攻めであるとされる。九州や中国地方の戦国大名から、やがて天下統一事業を推進していた尾張国の織田信長が1575年(天正3年)に甲斐武田氏との長篠の戦いをはじめとする戦で、鉄砲を有効活用したとされ、鉄砲が戦争における主力兵器として活用される軍事革命が起こる。

『鉄炮記』について・その他
『鉄炮記』は鉄砲伝来を記す日本側唯一の資料であるが、江戸時代の慶長年間(1606年)に種子島氏が鉄砲伝来を顕彰させたもので、歴史学においては、その記述を無条件に信用するわけにはいかない。

『鉄炮記』には「天文癸卯」(1543年)と記されているが、一方でポルトガル側の史料には鉄砲の伝来を記さないものや、イエズス会の『日本教会史』には1542年(天文11年)の出来事、フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』には1545年(天文14年)の出来事であると記されているなど年代には諸説が存在する。また、『鉄炮記』に「五峰」と記されている人物は、日本の平戸や五島列島を拠点に活動していた倭寇の頭領である王直の号と同じであり、またポルトガル史料にはジャンク船であったと記されていることなどから同一人物であるとも考えられている。

種子島氏に伝わる記録には、ポルトガル人により持ち込まれた鉄砲は明治の西南戦争の際に消失したとされる。また、国産第1号と伝わる鉄砲が存在している。

鉄砲の記述
『北条五代記』に、関八州に鉄炮はじまる事、という記述がある。ここでは、1510年(永正7年)に唐(中国)から渡来したという。
見しは昔、相州小田原に玉瀧坊と云て年よりたる山伏有。愚老若き頃、其山臥物 語せられしは、我関東より毎年大峯へのぼる。享禄はじまる年、和泉の堺へ下りしに、あらけなく鳴物の声する、是は何事ぞやととへば、鉄炮と云物、唐国より永正七年に初て渡りたると云て、目当てと うつ。我是を見、扨も不思議奇特 成物かなとおもひ、此鉄炮を一挺買て、関東へ持て下り、屋形氏綱公へ進上す。(中略)氏康時代、堺より国康といふ鉄炮張りの名人をよび下し給ひぬ。扨又根来法師に、杉房・二王坊・岸和田などといふ者下りて、関東をかけまはつて鉄炮ををしへしが、今見れば人毎に持し、と申されし

大久保忠教の『三河物語』では、松平清康が、熊谷実長が城へ押し寄せた際に、四方鉄砲を打ち込むと記載されている。1530年(享禄3年)のこととされる。また、今川殿の名代として、北条早雲が松平方の西三河の岩津城を攻撃した際に、四方鉄砲を放つとある、出版社の欄外の解説には、この役は、1506年(永正3年)のことで、鉄砲はこのときないとして、『鉄炮記』の記述を支持している。

鉄砲伝来諸説
ヨーロッパでは、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で「黄金の国ジパング」という名で日本国の存在を伝えて以降、その未知の島は旧来のヨーロッパに伝わる宝島伝説と結び付けられ、多くの人の関心を惹きつけた。しかし、この東洋の未知の島はその後約250年に渡って未知の島であり続け、天文年間にポルトガル人によってその発見が成されるまで、ヨーロッパで発行される世界地図や地球儀の太平洋上をあちらこちらへと浮動しながら描かれた。

日本史上においては、鉄砲伝来は日本列島の発見とともに1543年という説が採られており、有力であるが決定的な史料が見つかっておらず、特定できていない。伝来に関して言及が見られる代表的な史料としては以下のものがある。

著者 国 著書 言及年 発行年
アントニオ・ガルヴァン ポルトガル 『発見記』 1541年 1563年
フェルナン・メンデス・ピント ポルトガル 『遍歴物語』 1543年 - 1544年 1614年
ジョアン・ロドリゲス ポルトガル 『日本教会史』 1542年 1634年
ディエゴ・ド・コウト ポルトガル 『アジア誌』 1542年 1612年
ガルシア・デ・エスカランテ・アルバラード ポルトガル 『ビーリャロボス艦隊報告』 1542年 1548年
南浦文之 日本 『鉄炮記』 1542年(天文11年)8月25日 1606年

上記の他にも鄭瞬功が記した『日本一鑑』(1565年)や、ジャン・ピエトロ・マッフェイが記した『中国情報』(1582年)など、複数の史料に、鉄砲伝来及び日本列島に関する言及が見られ、その年代は1541年から1544年の間とされている。これらの史料はいずれも発見の当事者ではなく、伝聞によって間接的に得た情報を元に後年になって記されたものであり、確定し得るものではないが、後年の歴史家によってさまざまな検証・考証がなされ、坪井九馬三やゲオルグ・シュールハーメルらが『鉄炮記』の説を採用し、今日の1543年に落ち着いた。

現代において、この年代を見直す動きはあるものの、当時の欧州人の東アジア進出の速度を鑑みた場合、この時代に日本列島がヨーロッパ人によって発見されるのは必然であり、今後新しい史料によりその年代に差異が生じたとしても、それが近代史に与えた画期的意義に差異は生じないことなどから、大きな論争には至っていない。


以上は、ウィキペディアによる鉄砲伝来の解説。


日本への鉄砲伝来に関しての歴史的解釈は諸説あるようだが、今回の大村市竹松遺跡で出土した、鉄砲の弾とおぼしき鉄球の、製造年代の分析はできないのだろうか。

仮に、その出土した鉄球が、鉄砲の弾であると鑑定され、製造年代の分析ができたとして、1543年より以前に製造されたものであるという結果が出たとすれば、私たちが教えられている日本への鉄砲伝来の説は変わるかもしれないなどと考えると興味も膨らむ。

錆びた鉄球から、その製造年代を特定できるような技術があるのかどうかは分からないが。

大村市竹松遺跡からは、いろいろな物が出土している。



豊田一喜






5ヶ月間の潜伏期間に突入

2012年09月30日 | インポート
眠たかった。

体が睡眠を欲しているということだろうから眠った。

取り立てて何もしない休養日になった。

今シーズン最後のヤマメ釣りに出かけようと思っていたが、眠たかったので行かなかった。

諫早市高来町の境川では、明日の10月1日から来年の2月末日までの間はヤマメ釣りは禁漁となる。

ヤマメが産卵期に入るために、保護をする目的で禁漁期間が設けられている。

私のヤマメ釣りの趣味は、明日から5ヶ月間の潜伏期間に突入する。

大村市竹松遺跡の発掘アルバイト作業員として働かせてもらえる期間が、予定では来年の2月末日ぐらいまでなので、その仕事が終わるぐらいまでの間は、ヤマメ釣りの潜伏期間となる。

趣味が実行出来ない期間に、解禁の日を待ちわびるという、抑圧されている状況を楽しむことも、広い意味では私の趣味でもある。

故山本素石氏の著書「西日本の山釣り」という、渓流釣りに関する学術書的な内容も盛り込まれている釣りの本を、じっくりと読み直す期間でもある。

竹松遺跡のアルバイト作業員としての仕事を、つつがなく満期除隊する事が出来れば、楽しみのヤマメ釣りの解禁日が訪れてくれる。

渓流魚のヤマメ釣りの潜伏期間中の趣味は、海の防波堤での魚釣りもあるし、余暇の過ごし方に困る事は無い。

今シーズンのヤマメ釣りの釣果は、あまり芳しくはなかったが、健康維持と心のリフレッシュのためには、おおいに寄与した。

自分の家に住む事が出来て、仕事にもありつけていて、健康で、三度三度の食事が食べられて、余暇には趣味の事をすることが出来るという生活が出来ているというだけで、自分は贅沢なシアワセ者だと思えている。

本物の庶民で良かったと、つくずく思える。

ヤマメ釣りの記録写真(今シーズンの主な釣果)
(赤い側線のある魚はニジマス)
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画像をクリックすれば拡大できる。

豊田一喜