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青梅の剣道 夢☆剣士

青梅のちびっ子剣士がすくすくと成長して行く過程を記録するブログです!

戦国時代の青梅

2014年02月10日 | 歴史オタク
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以前より「行ってみたいなあ~」と思っていた所に行くことが出来ました。

「青梅の歴史」私達が住む町の歴史について興味があり、中学校では「歴史クラブ」に入り、尊敬する先生に青梅の史跡を色々連れて行ってもらった事が心に残っています。 将来は「社会の先生」か「考古学者」を志したのは本当の話です。

今はそんな少年の純粋な心を忘れていましたが、ある日、とある史跡を訪ねた事をきっかけに再燃致しました。

「歴史は奥深い」 何の変哲のない山を見て、石垣を見て、町並みを見て時代時代の人々はどのような営みをして来たのか? 書物を読んで、人に聞いて自分なりに纏める、纏めた事を人と照らし合わせる、違った見方で見る人や情報を聞いたりして、初めて「はあ~!」っと視野が広がる事がとても好きであります。


今回見学した「戦国時代の青梅」
内容は言いませんが、歴史を知らない人にもわかりやすく展示してあります。
戦国時代において関東で代表的な武将である「北条氏」と「上杉氏」との狭間で立ち回った青梅の武士団の誕生から滅亡までを是非ご覧ください! 青梅市郷土博物館で3月23日まで展示してあります。

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柴田家は続いていた・・・(調布市勝淵神社)

2013年09月04日 | 歴史オタク

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東京都調布市にございます。 なんちゃって歴史家の私が今まで生きてきて最高の驚きを味わったと言うか、勉強不足を感じた瞬間でした!題して「驚きの一瞬!」 

あと一歩で天下統一を成し遂げるはずであった戦国武将織田信長の重臣「柴田勝家」を祀っております。 この東京で何かの縁があったのだろう・・と読んでいて段々体の振るえが止まらなくなりました。 「柴田勝家」と言えば、賎ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に滅ぼされ、信長の妹のお市と共に亡くなった印象が強かったが、実は家系は絶えていなかった・・・孫の「権六郎」が親族のいる群馬に逃れやがて元服。徳川家康に取り入られ、関が原にて初陣、大阪の陣の功績により、現在の調布市を治める。とともにこの神社に祖父「勝家公」の黄金の鎧を納めたのが始まりと言われる。神社南の大地に「島屋敷」と言われる屋敷を構え代々この土地を治めたとの事でした。 現在「島屋敷」のある広大な台地には公団の住宅が何棟も立ち並んでおり、屋敷の案内文を探しに探しやっと見つけたのが夜でした・・・この話を我が錬心舘の本物歴史家に話した所「怪しいなあ~」っと軽くあしらわれ、ちょっと「プイッ!」っとしてしまいましたが・・・(笑)


歴史オタク⑤  勝沼城(青梅市)

2013年06月27日 | 歴史オタク

20130626_145114 写真は勝沼城本丸跡

なんちゃって歴史家の私が一番足を運んだ城跡であり、なんちゃって歴史研究の原点になった城跡です。 私は中学生の時に似合わず歴史研究会にも所属し、社会の先生によく連れて行ってもらいました。「城!」っと言えば大阪城のような重厚な石垣に天守閣!なんてイメージで行った所が「???ただの公園じゃん!」なんて思っていたところを「ここに建物の跡があった!」とか「これが石垣の代わりの土塁だ!」っとか調べれば調べるほど城跡の全容が理解でき、「ここで人が何をしてたんだろうか?」っと言った好奇心が芽生えた場所でもあります。 

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歴史的には中世に青梅を治めていた「三田氏」の城 平山城です。 三田氏にはその他、盾の城と辛垣城も居城としていたが、三田弾正綱秀の代に小田原の北条家と対立、八王子滝山城にいる北条氏照に攻められ三田氏は滅び、付近は北条家臣の師岡氏が治める。 別名「師岡城」とも言う。

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二の丸裏手より谷を下ると道はないが、「青梅市吹上しょうぶ園」が見えてきます!


武蔵御嶽神社の旅~2013

2013年05月02日 | 歴史オタク

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武蔵御嶽神社の大会前にお参りに行き、身と心を清め大会に望みます。

Img_1013 国宝「紅糸縅大鎧」でおなじみの畠山重忠の像 かっこよすぎる~

Img_1017 宝物殿 徳川家康寄贈の刀もあるImg_1020 神社の守り神である「大口真神」・・どこかで見たことある犬だなあ・・・・

Img_0691 ガブっ!


歴史オタク④ 猛暑の萩城

2012年08月21日 | 歴史オタク

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「性格の不一致」っと言うことで、「松蔭神社」へお参りした後に、萩の城下町を探索いたしました。 カメラを「バシバシ!」撮りたかったのですが、またしても猛暑による携帯カメラの「高温異常」・・・ ふざけんな!寒ソン!

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萩城とは、慶長の時代に「関が原の戦い」で敗れた西軍大将「毛利輝元」が広島城から「萩」の地に移封されました。 その後倒幕運動までの260年間、長州藩の政治の中心として繁栄いたしました。 本丸の背後に日本海に突き出た指月山を詰めの丸としています。 気のせいか?岩国城と似ている様な気がします。 

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デルタ地帯を利用して町を作り、二の丸、三の丸と江戸時代の古地図がそのまま使える程、町筋がそのまま残っている所がスゴイ!(写真は北の総門通り)20120815_143007

旧萩藩校の「明論館」、武士の子供達がここで学んだ、中では 木戸孝允、伊藤博文、井上馨等、偉人を多々輩出した。 先に紹介した「吉田松陰」はここで講師として教壇に立ったが、やがて武士の子だけでなく、町民、農民の子も等しく学ぶ事ができる「松下村塾」を作るきっかけとなった。

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この町は、1週間かけても足りない・・・・まだまだ見たい所が沢山ありますが、「性格の不一致」の嫁がそろそろ日本海から這い上がる時間となりましたので、捕獲に行かなければ・・・・


歴史オタク③  松下村塾(山口県萩市 松蔭神社)

2012年08月19日 | 歴史オタク

山口県に行くと、絶対 「萩」、「津和野」 に行きたくなってしまいますので、「性格の不一致」との理由により、家族とは別行動になります。

「萩」と言えば、崇拝する「松蔭先生」の所に必ずお参りいたします。 

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「吉田松陰」と言えば「松下村塾」 叔父の玉木文之進が立ち上げ、松蔭が引き継いだ。

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八畳一間の粗末な建物で松蔭先生の教えに影響を受けた多くの子供達が立ち上がり、江戸幕府を倒し、明治政府を立ち上げ、最高指揮権を掌握いたしました。

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高杉晋作、久坂玄瑞をはじめとした兄弟子が倒幕で立ち上がり、末弟子の伊藤博文や山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義らが明治政府で活躍した。

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「松陰先生」が教育した間は意外と短く、幽閉室時代を含め二年半のみである、その後「安政の大獄」にて刑死した師の志を継いで、子供達は立ち上がり尊攘倒幕運動に挺身し多くの門下生が命を落とし、 生き残った者は明治政府の中枢に立ち、新しい日本を指導する事となった。

歴史に「たられば」はタブーと聞いたことがあるが、「松蔭先生」が明治時代まで生きていたら、日本の歴史はもっと変化していたのではないだろうか? 江戸幕府がそんな「松蔭」を危険視していた意味が分からなくもない 。

時間の関係上、もっと見たい気持ちを抑え、萩の城下町へ向いました。


歴史オタク② 秀吉も落とせなかった城(埼玉県行田市)

2012年05月15日 | 歴史オタク

前回紹介致しました備中高松の「水攻め」のお話を「ちらり」と致しましたが、あるお方が脳裏をよぎり、「載せろ!」とのテレパシーを感じましたのでご紹介させて頂きます。

天下を統一した「豊臣秀吉」は、関東地方でも大規模な水攻めを行っております。 埼玉県は行田市にあった「忍城の包囲戦」であります。 秀吉は北条家征伐の為関東へ進軍、圧倒的な数と兵力で関東の城を次々と陥落させ、残る小田原城と「忍城」を包囲した。

備中高松城包囲戦に味をしめた秀吉の家臣である石田光成が30キロに及ぶ「石田堤」を造り利根川の水を引き瞬く間に湖と化したが、当主成田家の家臣や有名な「甲斐姫」の活躍により持ちこたえ、「小田原城が降伏」した後に開城した。

大きさ的には小規模の平城が大規模の軍勢でも落とすことが出来なかった事が「行田」の人達の誇りなんです!っとW尾さんは何度も熱く語ってくれます。

以前お借りした本の記憶では、「石田堤」は篭城側の間者により破られ、石田側は大損害を被ったという話でありますが・・・

W尾さんからもう一つ教えてもらいましたが、不思議なことにその行田と青梅とは深い関係があるようで・・・・「忍城」を開城し行田を追われた武士達は青梅に移民し、田畑を開墾した、これが新町であるそうなんです。 あまり紹介しすぎると激怒られそうなんで、話はここまでにさせて頂きます。

  


歴史オタクその一 「岩国錦帯橋」

2012年04月27日 | 歴史オタク

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我が錬心舘には「歴史オタク」なる方がいらっしゃいますので、また一つ「カテゴリー」を増やし「歴史オタク」コーナーを作りました。

第一弾は、我が家にも馴染み深い山口県岩国の城に架かる橋であります。 築城した武将は「吉川広家」 広家の時代はまだ錦帯橋はございません。

 「関が原の戦い」において西軍大将毛利家の親族「吉川家」が戦う前から西軍の敗戦を予知し徳川家康に内通、本家である毛利軍を動かさない様に働きかけた功績により、徳川家康から与えられる。 当初は毛利家を取り潰し代わりに、防長2カ国を吉川家に与えようとしたが「広家」は固辞。 毛利家存続の為に働いた。 逆に毛利家では「吉川が結果的に毛利の領土を奪った」と幕末まで代々遺恨を残す。

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やがて幕末になり、「毛利家」に再び滅亡の危機が起こる。 それを救ったのが、「吉川家」であります。  

偶然であったのかもしれませんが、私的に「毛利三兄弟」の硬い結束が世代を超え時代を超え生き続けていた事を思うと胸が熱くなるような気がしてなりません。

 毛利の戦いで有名な「備中高松城の水攻め」で秀吉と和睦する条件として「切腹」をした清水家も末裔が毛利幕末の危機にて再び「切腹」し毛利家を救ったという話もございます。

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錦帯橋の架かる錦川では「鵜飼」を屋形船で楽しむことができます。 私の好きな風景の一つ「錦帯橋」であります。  あっ!黒田先生も岩国に良く行かれるそうなので鵜飼は先生と一緒に行きたいです・・